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現代に生きる武士道集団
西郷派大東流シンボル

 生死を超越するとは、己の心に勝つ、苦しい修行のことであり、これを乗り越えた時に、達人への道が開ける。
 則ち達人とは、敵の心気わずかの間断も気を通じて、その隙をすかさず打って勝つもの也。
 更に達人に至ると、隙を作らず、敵の刃に触れないで、「斬る伏せる」妙技を見せる。 (『兵法心気体覚書』より)
 西郷派大東流の「剣」は竹刀競技の剣道や、型の居合道の剣ではない。わが流の剣は「剱(けん)の道」の剣である。また、「巌(いわお)の身」を動かす剣である。
 武術修行は、精神修行を積み重ねた結果、この時機、会得したものを「奥儀」と呼んで、昔から重視してきた。

 この奥儀は、修行を積まない者に伝えても、理解できないから、古人は免許を与える際に奥儀を口伝として伝えた。
 しかし徳川中期頃になって、旦那芸が流行し、実力のない者に免許を与えたり、印可が濫発(らんぱつ)され、理解できないまま術名だけが今日に残されている型技法も少なくない。
 流祖が苦心して、会得した奥儀も、精神修行を欠いた竹刀剣道や剣道居合では、悲しいかな、理解できなかったのである。この類(たぐい)で、巻き藁(わら)も、竹も斬ることは出来まい。

 西郷派大東流の剣は「剱の道」である。「剱の道」が示すところは、「剣の実戦」である。
 剣を母体とし、それを背景として《武芸十八般》がある。ここが「体術だけ」の、他の大東流と、一線を画するところである。

 
 
西 郷 派 大 東 流 の 武 術
1.柔 術
2.合気柔術
3.合気之術
4.剣 術
5.居合術
6.居掛之術
7.腕節棍
8.杖 術
9.棒 術
10.槍術・銃剣術
11.薙刀術
12.合気拳法
13.白扇術
14.合気二刀剣
15.手裏剣術
16.馬 術
17.山稽古
18.据物斬
19.高齢者護身術
20.女子護身術
21.小刀術
22.飛礫術
23.弓術・半弓術
24.鉄鎖・縄術
25.毒 術

 上記の各項目名をクリックすれば、該当項目にジャンプします。(ただし、一部製作中です)

 【ご注意】

 わが流は、 武田惣角を明治期の流祖とする“大東流”とは関係ありません。また、「清和天皇第六皇子……云々」や「新羅三郎源義光や大東の館」ならびに「大東久之助」などとも、一切関係ありません。
 また、アメリカやカナダでDr.マーシャルとトップとする「西郷派大東流合気柔術」と名乗る団体や、韓国で、わが流のソウル総支部以外の、「西郷派」と名乗るの団体とは、一切関係ありません。

 さらに『秘伝』や、その他の武道雑誌などで「西郷四郎伝」や「大東流合気武道」などの表現で掲載されている書籍がありますが、これも間違いであり、こうした雑誌出版元には、ただいま訂正をお願いしているところです。

 わが流は「剱(けん)の道」を母体とする、《武芸十八般》を目指す団体であり、素手格闘の体術のみの格闘技とも異なります。また単に、殺伐とした武儀だけを実践するのではなく、「文武両道」や「友文尚武」の見地から、武士道思想も学ぶ集団であり、文武の面で少しでも社会にお役に立てればと考える、商業偏重主義とは無縁の公益団体です。

 

●西郷派大東流と、他と大東流との違い

 西郷派大東流は、かつて武門が脇差帯刀に、礼法を見出したことに重きをおいて、その中から、武門と士道、武門と武士道の関係を探求してきた。では、脇差帯刀に如何なる意味があるのか。
 それは生死を一瞬に決める
「剱(けん)の道」に回帰されるからである。この道では、一瞬の油断や、少しの隙が敗北を齎(もたら)すからである。この為にも、何ものにも動顛(どうてん)しない精神性が求められた。

 邪念を取り払い、心を平常心に保ち、“勝とう”と焦ってはならないことを本分とした。不正邪悪の本は、自分さえよければ他人はどうなっても構わないという、自他離別の心から発し、この心が“欲”に執着して、わが心身を顧みず、反省できない業(ごう)を作り上げるのである。業に陥った者は、敗れる以外ない。
 したがって、今日における「武の道」とか、「剱の道」は、心に驕
(おご)りなき、「人を敬(うやま)う」ことからはじめなければならない。これが「行(ぎょう)」を行うに当たり、心構えとしての精神構造になる。そして「行」と、それ裏付けを構築する「術」とは、あたかも両輪の輪の如しであった。
 それを要約すると、次のようになる。

西郷派大東流合気武術は、武術の「術」を探求するものである。したがって、武術の本質は『人殺し』である。
本来の「武の道」とは、生き死にを賭け、殺すか殺されるかと、真剣になって修行するることにより、はじめて大事の臨み、「死生を明らかにする」ことができる。生にあっては「生の道」を尽くし、死にあっては「死の道」を尽くす。これが誠の人間となる「武の道」であり、「剱(けん)の道」である。

西郷派大東流合気武術は、今日の歴史的事実を覆す「流祖伝説」の由来に固執しない。
盲目的な、清和天皇第六皇子……云々から始まる「新羅三郎源義光伝説」や、平安末期に戦死体を解剖したと称する「大東の館伝説」ならびに、甲斐武田家の重臣といわれた「大東久之助伝説」を支持しない。歴史的根拠がないからだ。
したがって、武田惣角を中興の祖とする大東流とは、技術面や精神面で全く関係がない。
西郷派大東流合気武術は、柔術一技にとどまらない。技法については剣術が基本であり、柔術も剣の裏技として成り立つ歴史がある。無刀捕りは、剣の裏技より始まった。単なる柔術だけではなく、無手格闘術でもなく、武術として必要な技術全般を研究している。
したがって、西郷派大東流は一般に言う格闘技ではなく、総合武術としての「剱(けん)の道」を母体にしたものである。
山下芳衛先師の「わが流は大東流という」言葉に根拠をおいている。
他派の大東流は、趣味として「骨董品の形」を反復・伝承しているだけで、人間的に、どうあるべきかを考えている者は少ないように思われる。武術は人間が遣(や)るものであり、人間を抜きにして武術は存在しないだろう。
わが流は「人間探求」に精神修行の原点を見出す。人間を観ずにして、武の真髄は見えてこない。
時代に応じて変化する「伝統武術」であり、技の保存に価値を置く他派の伝承武術的大東流とは根本的に異なっている。時代と倶(とも)に姿を変え、その主人公である「人間探求の道」が、西郷派大東流である。
したがって、「伝承」と称する骨董品に、その価値観を見出さないと考える。時代に即応しなければ、如何に奥儀であろうとも、伝承の為の「骨董品」に成り下がる。そうした「愚」を、わが流は冒していない。
古伝を伝えるのは「伝承」のレベルであり、時代に変応してこそ、そこには「伝統」としての価値が生まれる。

 西郷派大東流合気武術は、武術の本質は『人殺し』であるといえる。
 この点が、一般的な大東流のみならず、他の種目武道とも一線を画している部分である。その覚悟の上で、武士道思想や礼儀を重んじるのであり、あくまで『人殺し』を根底に置いて儀礼的な武術を目指し、スポーツ的な競技武道に甘んじていない点が、一番の違いではないかと思う次第である。

 当然、「人殺しの術」である以上、人間一人を拳で殴り殺したり、蹴り殺すという徒手格闘には固執せず、古人の伝えた《武芸十八般》の中から、出来るだけ存在を少なくして、大きな影響を与える「武器術」の研究が怠れず、その中心課題は「剱(けん)の道」である。剣を母体に考えずに、武術を体得することは不可能である。

 また戦時と平時は表裏一体である。人間の歴史で、「平和」と称される平時だけが永遠に続くことはありえない。人命を大切と思うなら、戦時の悲惨さを知り、そこからはじめて「平和とは何か」に辿り着かなければならない。人間は争い抜きに、平和を獲得できるほど、そこまでの進化は出来ていないのである。
 “臭いもの”に蓋(ふた)をし、逃げ回るだけの平和追求では、何も見えてこないのである。
 欲望の渦巻く現代社会にあって、「常時戦場」の意識こそ、吾と、わが身を守る心構えなのである。平和ボケした日本人は、この事をはっきりと認識するべきであろう。

戦闘思想としての“合気”とは何か。単に争うだけが合気なのか。 イラスト/曽川 彩

 さて、一般的な大東流は、「清和源氏が……」「新羅三郎義光が……」「大東の館が……」「甲斐武田家のお家芸が……」という点に固執し過ぎていて、伝承芸能に近い存在になってきているように思う。
 ゆえに、自分達の心の拠
(よ)り所として、数々の伝説に求めたり、「清和天皇伝説」を持ち出して、その天皇家皇胤(こういん)の由来を声高に叫ぶのではないだろうか。

 一方、西郷派大東流合気武術は、組討格闘の「柔術」にとどまらない。柔術は剣術の「裏技」であるからだ。
 柔術はそれ単体で存在するものではなく、剣術や杖術などを通して、武芸十八般と言われるそれらの術が密接に関係していることに気づかせてくれるのも、他の流派との大きな違いである。そしてその中心母体は
「剱の道」である。

合気柔術/多数捕り

 そして最も大きな違いは、門弟をつなぎとめているのは、大東流はシステム化された組織であるに対して、 西郷大東流合気武術は、精神修行の結果を、自らが会得した「奥儀」に置いているからである。
 奥儀は自らの体験によって得られるものである。

 古来より、精神修行の結果、会得したものを「奥儀」と称し、これを重んじてきた。特に「剱(けん)の道」においてはこの奥儀が最重要課題であり、剣を知ることは、奥儀に触れることであった。
 奥儀は会得した者だけの、理解できるものであり、精神修行を積まないものに奥儀の理解はありえなかった。

 つまり、技術だけに趨(はし)り、精神修行を積まない者に理解できないから、免許を与える際に「口伝」として伝えたのである。
 しかし、徳川中期になって、修行の足りない者に、「紙切れだけ」の免許や印可が濫発
(らんぱつ)された結果、「神妙剣」とか「絶妙剣」などの術名や型が伝えられた。しかし、多くは理解されないままに先人の会得した「術名」だけが今日に残されているに過ぎない。
 かつて古人が苦心して編み出した奥儀も、精神修行が欠如していたのでは、到底理解できるものでなく、ただ技術に趨った武技はテクニックに成り下がる以外なかった。


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