■ 《大東流蜘蛛之巣伝》と武士団戦闘構想■
(だいとうりゅくものすでんとぶしだんせんとうこうそう)
●民族の心を捨てた日本
幕臣旗本や御家人の中で、自らの命を賭(と)して徳川幕府に忠節を尽くした武士は少ない。
幕末には、士道も武士道もすっかり廃れてしまって居たのである。
慶応四年五月に蜂起した上野戦争において、幕臣旗本で組織された彰義隊(慶応四年(1868)二月、旧幕臣旗本が江戸で結成した戦闘部隊)が上野の山で、最後の組織的抵抗を明治新政府軍に試みるが、その組織抵抗も最盛期で僅かに二千人程度の集まりで、新政府軍に反抗的な態度をとったが、たった半日で蹴散らされ、この戦闘に決着が尽き、この戦闘に参加した旧幕臣旗本の武士達は無態(むざま)にも四散した。そして、掛け声だけは威勢がよかったこの旧幕臣武装集団は、その後再び編成される事はなかった。
こうした実際の歴史を目(ま)の当たりにしつつ、一体命賭けの忠義は、何処に吹き飛んでしまったのだろうか。あるいは非武装国家としての二百五十年間が、かくも武士を腑(ふ)抜けにしてしまったのだろうか。
繰り返すが、徳川二百五十年と言う時代は、まさしく非武装国家であった。しかし、非武装と云う現実は、武士の心も魂までもを腑抜けにし、「武士の潔さ」など何処にも見ることができない。それなのに、海外からは大きな誤解と過大評価が起り、武士道が歪(ゆが)められた形で、熱心に信奉されている。しかしこの熱の入れた信奉も、次ぎの結論に至れば、その熱も醒(さ)めてしまうであろう。
徳川中央政権は約二百五十年間に亘り、その権力を一挙に独占しながら、然もその配下には約二万五千名の正規の官吏群が控えており、またその幕府代表者が自ら明治新政府軍の侵入を受け易くして、江戸城開城に至り、これほど完全に裏切られて滅んだと言う徳川家の歴史は、世界史上から検(み)ても非常に珍しい事である。
その一方、幕府にたった数年契約で雇われたフランスの軍事顧問団の軍人達が、鳥羽伏見の戦に敗れ、江戸から奥州(陸奥(むつ)国の別称で、白河関以北を指し、今の福島・宮城・岩手・青森の四県と秋田県の一部に当る地域)に転戦すると、そこで義理堅く、明治新政府軍と戦い、幕府軍とともに戦ったと言う事実がある。
また、戊辰戦争最後の函館・五稜郭(ごりょうかく)戦争に至ると、そこでもフランス軍人達は幕府軍や新撰組(局長の近藤勇なき後は、土方歳三が再編成して甲陽鎮撫隊を名乗った)と共に戦い、この従軍した義理堅さは日本人の比ではない。何と云う忠義、何と云う忠節ぶりだろうか。不忠不義の、時代に応じて豹変(ひょうへん)する日本人とは、大きな違いである。
一方それに比べて、幕臣旗本や御家人達の不忠不義ぶりはどうだろうか。
会津藩や新撰組の残党、あるいは数年の短期契約で軍事顧問として働いているフランス軍人が、まだ東北地方や北海道地方で戊辰戦争を戦っている最中、旧幕臣旗本の中には、有利な就職先を求めて明治新政府に殺到したと言う。その中には上野の山で戦った、彰義隊の隊士も居たと言うから驚くばかりである。
しかしこの事は、何も幕末に限った事ではない。幕末ならびに明治維新を時代的に見て、特殊現象と検(み)るのは短見である。同じ現象は、日本が太平洋戦争に敗戦した時にも見られた。
敗戦の色濃いくなった頃、海軍の士官以上の、フリーメーソン・クラブの『水行社』に属した将官や佐官らは、積極的に日本を滅ぼす側に廻った。その最たる人物が、海軍大将だった米内光政(よないみつまさ/度々海軍大臣となり、1940年には首相となるが半年で辞任した。1880〜1948)であろう。
日本近代史には、米内は太平洋戦争の終結に努力したとあるが、要するに東条内閣を倒閣に追い込み、これに代わって連合艦隊司令長官や軍令部長を歴任した事のある鈴木貫太郎(海軍大将)を大戦末期に首相に押し上げ、ポツダム宣言の受諾を受け入れて、日本を敗戦に導いただけであった。この構図は、全く勝海舟と同じである。
また戦後の敗戦処理にあたっても、日本の官僚達は海軍の高級軍人や、一部の陸軍高級軍人(服部卓四郎、辻政信、瀬島龍三)らに見習って、変り身の早さを見せた。そのよき例が、内務省の解体であり、教育制度の改革であった。あるいは財閥解体に示された大企業の幹部や管理職に変身して行ったのである。伊藤忠商事や丸紅などを挙げれば切りがない。
G・H・Q(General Headquarters/占領軍総司令部)では、内務省の解体、財閥の解体、教育改革などは、非常に大きな抵抗があると踏んでいたからだ。
G・H・Q側は困難を既に予想し、抵抗や抗議が起る事を覚悟して居たのである。ところが実情は大きく違い、彼等は肩透かしを喰った感じだった。思いもよらぬ方向に進み、G・H・Qが拍子抜けするくらいに日本人は従順であり、然も日本国内では、かつてドイツ軍に占領されたフランスのパリのようにレジスタンス運動は全く起らなかったのである。ヨーロッパでは、こうした現実は考えられない事であった。
民族の誇りと民族精神の威信にかけて、外国の軍隊に国内が占領された時、総ての国民が外国の考え方や主義に同調するとは限らない。こうした現実化では、同調派も存在するし、レジスタンス派もいるであろう。その事は、イラク戦争後の、今日のイラクが如実に物語っている。
イラク人の大半はアメリカの持ち込む民主化に諸手を挙げて賛成しているとは言えず、未(いま)だに武力闘争が続いている事は、イラクのアメリカ化を阻止しようとする動きがあるからだ。
世界の国民の大半は、外国に占領されればそれは、気持ちの上では殆どの国民がレジスタンス派となる。しかし占領軍の権力と武力を恐れる余り、同調者の振りをするのが普通である。決して、諸手を挙げて喜びはしないものである。
やはりその実体は、レジスタンス派なのだ。
一時的には同調者の振りをするが、時機(とき)を見て、隙(すき)を窺いレジスタンスを決行すると言うのが正しい国民感情である。それは何も武力による抵抗とは限らない。せめて文書でもと考えるのが普通であり、こうした文書を発行すれば、即座に弾圧されて発禁となるが、その文書の筆者は「国民の英雄」となる。まさに今日のイラクの、アメリカ化の反対者がそれではないか。
ところが日本の敗戦当時を振り返れば、果たしてこうした気骨のある日本人は存在したか。
占領下の日本では、かつての陸海軍の軍人の中からも、この種のレジスタンス運動は起らなかった。表面すら出る事はなく、マスコミの話題に上ることはなかった。
しかし唯一つの例外をあげるならば、僅かに東京裁判において、弁論を確固として述べ続けるBC級の戦犯達(多くは捕虜虐待を働いたという容疑で逮捕された下級将校や、下士官・兵達だった)だった。彼等は毅然(きぜん)として自らの意見を述べ、弁論をし、そして一方的な連合国側の判決によって、絞首刑に処され、死んでいった。
当時の日本国民は、同じ敗戦国の国民であった西ドイツの国民とは大いに違っていた。
この時代の日本国民は、アメリカの前に平伏(ひれふし)し、全く「声なし」という感じであった。レジスタンスどころか、国会は連合軍最高司令官マッカーサー元帥に、感謝決議をするという不可解な行動に至り、多くの死んでいった戦没者を愚弄(ぐろう)するようなことをした。
この感謝決議は、今日から考えても実に不可解であり、幾らアメリカの工業力と国力が強大であったからと言って、アメリカにここまで懾伏(しようふく)する必要はなく、また事実として、アメリカ側はこれを一切強制していない。それなのに、アメリカを讃え、アメリカの無差別攻撃を賛美する態度を示したのである。
これは当時の無能な国会議員が、「デモクラシー屋」の言に撹乱(かくらん)され、あるいは日本国民の自発的な発案であったのだろうか。
それにしても解(げ)せない事は、日本人同胞がアメリカの手によって、広島と長崎で、男女の区別なく、また戦闘員や非戦闘員の区別もなく、三十万人以上が無差別に殺され、大量殺戮(さつりく)という無慙(むざん)な殺され方をされ、その後も、放射能の後障害として白血病、種々の悪性腫瘍、発育障害、胎内被爆による小頭症、諸種の健康障害などに苦しみながら、どうして原爆投下国のアメリカの将軍に対して、感謝決議が決定されるのであろうか。
また、終戦から五十年を経て、マッカーサーの銅像を立てて彼を記念している事は、何とも不可解な事ばかりである。今日の、アメリカとイラクの間で戦ったイラク戦争後に、イラクではブッシュ・アメリカ大統領の銅像をイラク国内に建てただろうか。
まさに日本人の不思議と云うべきところであるが、この伝統は、土豪や守護の農地支配の昔から受け継いだ日本人独特の『三河物語』で述べられたような、士道論では、無能な主君には仕える必要がない、あるいは時代に応じて変化すると言う日本人気質を顕わすものであろうか。あるいは時代の移り変わりを逸早く察知し、その反応の早さに豹変するのだろうか。
戦後民主主義は、G・H・Qによる強制と云う、おおよそ民主主義には相応しくない形で日本に齎された。そして多くの日本国民は、この尖鋭な矛盾が「民主主義」の実質の裏側に隠れている事を知らない。
国際政治学者などは、これを「虚妄の民主主義」と、こき下ろしているが、その実質は「虚妄」などと言う生易しいものではない。あるいは似非(えせ)民主主義と言うものでもない。
日本の強制された民主主義は、欧米のものとも異なる。それは少しも似ていないからだ。
近代社会での市民生活を営む上での民主主義の原則は、民主主義の理解から出発しなければならないが、日本の政治は民主政治ではなく、国民を騙す愚昧(ぐまい)政治である。そして多くの日本人は、今日の日本における民主政治が、既に衆愚政治に陥り、墜落している事に気付いていない。
それを如実に顕わすものが基本的人権の上に鎮座(ちんざ)する、個人主義であり、この個人主義は、今や「悪しき個人主義」に成り下がっている。その為に、「平等」や「自由」が誤解され、「人権」や「議会制」に至っても、政治家を役人の傀儡(かいらい)に仕立てている観すら感じられる。その元凶は、「デモクラシー屋」と揶揄(やゆ)された、シンパに加担する一部の進歩的文化人の学識層の仕業である。
デモクラシー屋は、何かにつけ、「デモクラシー」を振り翳(かざ)す。事とあるごとに、「民主的ではない」とか、「デモクラシーに反する」とか、喚(わめ)き立て、虚妄を虚妄と気付かないまま、英米のデモクラシーの部品の一部を解釈しながら、「自由」を掲げ、「平等」を掲げている。
また、「議会政治」などと言うのは、英米からすれば、一部の散乱した部品に過ぎない事が分かる。「議会政治」だけで国家方針は定める事が出来ないし、これを無理に押し通せば、「政治家の良心の不在」の儘(まま)、国民は搾取(さくしゅ)され続けなければならない。
日本のデモクラシーは、岩波書店などに属するシンパの権威筋の「進歩的文化人」と云う人種に煽(あお)り立てられている。したがって犯罪者に対しても、人権と云う立場から、救いの手を差し伸べ、擁護(ようご)を気取って、「人権」を口にする。最後には、どちらが被害者であるか分からなくなる。
こうしたデモクラシー屋が語るデモクラシーは、「人権」という実体に対しても、無知であり、人権(human
right)と特権(privilege)を考え違いしている事である。
デモクラシー屋が本当に民主主義を理解しているのならば、基本的人権以外の権利は、社会的要請に応じて決定すべき、「変更可能な法律」であると気付かねばならないが、これもどうした事か、これに手をつける事はタブーとなって、「日本民主主義」が一人歩きをしている。この一人歩きを、日本人は何びとも、勇気をもって阻止できないでいるのである。「民主主義」の前には、裁判官といえども、口を閉ざしてしまうのだ。
これは同じ敗戦国でありながら、教育改革も、財閥の解体も激しく、頑強に抵抗し、多くの犠牲者を出した西ドイツとは大違いであった。
敗戦後、日本にレジスタンス運動が起らなかった事も不思議と云わざるを得ないが、この、白人欧米人に対する従順な日本人の姿は、一体何処から派生しているのであろうか。
同じ敗戦国でも、日本と西ドイツでは大きく違ったのである。
西ドイツは、自らの主義でレジスタンス的な抗議をして、ドイツの教育制度は昔の儘(まま)で守られた。また、1811年に創設されたクルップ(Krupp/フリードリヒ=クルップ(Friedrich
K.1787〜1826)がエッセンに製鋼会社を創設し、その後、子孫相継いで事業を拡張。1903年クルップ株式会社と改称、両次の大戦に兵器製造並びに製鋼によって活躍。第二次大戦後連合軍の管理下に置かれ、西独再軍備で復活する。クルップ会社で製造した後装砲は世界的にも有名で、当時としては砲身を鋳鉄で製造した最初のものとされる)などの財閥も、日本と異なり解体されずに生き残ったのである。
憲法(基本法)においても、一方的な民主主義の押し付けではなく、「占領期間が終わる時に再検討する」という一条を付け加える事に成功しているのである。同じ敗戦国でありながら、日本とは此処まで違うのである。
事の善悪や、結果の損得を問題にしなくても、忠義心や忠誠心を見ただけでも、中世以降の欧州人と日本人とは、かくもこのように根本的に、その意識が異なり、これまで日本人が信じている、日本人は「忠誠心の強い民族だ」という説は、ここに至って大きく覆(くつがえ)されてしまうのである。そして日本には「尚武」も、「忠義」も、そんなものは、殆ど皆無である事が分かる。
その最大の元凶は、日本人が今日に至っても、まだ民族精神を持ち得ていないからだ。
つまり、「我々は日本人である」というアイデンティティが形成されていないからだ。この同一性と云う、意識の不形成は一体何処から発するのであろうか。
太平洋戦争の敗戦、あるいは明治維新以降に発生したものであろうか。否、違う。
その禍根(かこん)はもっと深い歴史の裡側(うちがわ)に刻み込まれている。それは江戸初期に『三河物語』が出て、中期に至ると武士の心の乱れと精神的な衰退が激しくなると、これを嘆いて『葉隠』が登場した頃に遡(さかのぼ)る事が出来るであろう。
士道論と武士道論は、互いに対峙(たいじ)する事はすでに述べた。しかし士道論も武士道論も、共に重んじられた強みは「威厳」であった。「威厳」の重要性を見逃すことができない。
日本人は歴史の中で「威厳」を見失い、それに代わって、心の拠(よ)り所を時代のよって変化する処世術に心を動かした事が、歴史の中で多々見受けられるのである。
黒船の砲艦外交然り、明治維新然り、太平洋戦争の敗戦然りである。外圧の軋轢(あつれき)に対し、速やかに変化すると言う変わり身の早さが、当時僅か7%しか存在しなかった武士階級とは事を異にして、一般日本人の精神構造を作り上げて行ったのである。
では、武士に必要とされた威厳とは何か。
戦国武将を振り返って、戦闘に及び、各々は一城に立て籠(こも)って互いに対峙したとしても、国持大名に限らず、一般の武士においても、更には味方や同輩においても、武士の対人関係は互いに対峙すると言う関係であった。一度(ひとたび)事があれば、城郭(じょうかく)に立て籠るが如きの姿勢を基本としたのである。
これは言い換えれば「勝負の構え」に酷似するものであり、その究極の目的は「勝つこと」であり、他の武士より一歩先ん出て、「さまること」であった。
武士の生き態(ざま)にとって、「負けること」や「他より遅れをとること」は許されず、「先んずれば人を制す」の格言から、「先んずる」ことが武士に求められ、これが「遅れる」ということは武士である事の失格を意味した。士道論も武士道論も、この点は同じ論理を持つ。
これは宮本武蔵が著した『五輪書』にも窺(うかが)える。
武蔵は『五輪書』の中で、「死を嗜(たしな)む事は武士だけの事ではない。武士が武士として心すべき事は、何事においても、人に卓(すぐ)るる事を本分とすべし」と記されている。
換言すれば「勝負にこだわれ」とも受け止められる。あるいは、何が何でも勝たねばならぬと受け止められる。
では、何故勝たねばならぬのか。
更には、江戸初期の軍学者の大道寺友山の著した『武道初心集』にも、「大身小身共に武士たらん者は、“勝”と云う文字の道理をよく心得べきもの也」と述べ、矜持(きんじ/自分の能力を信じていだく誇り)を武士は重んじたが、それは町人や百姓に対しても同様であり、武士同士が互いに競い合っても、一歩もひけをとってはならないと云う事を根本に置いたものだった。
では、武士の矜持へのこだわりの「勝つ」とは、一体どういう事を指すのか。
それは腕前とか、武力的に卓(す)ぐれていると言う事ばかりでなく、また他者を圧倒すると言う意味ばかりではなく、武士達の標榜(ひょうぼう)はその精神構造にあった。
つまり武士の精神構造は、「自分自身に勝つ事によって、他人をも負かす」という「勝ち」であり、ひいては「負けない境地」を悟ると言うものであった。敵は外になく、常に自分の心の裡側(うちがわ)に棲(す)み、自分自身を負かそうとしているのであると定義付けているのである。「自分の負ける」とは、こうした弱い精神構造を指すのである。
士道論者の一人・林羅山(はやしらいざん/江戸初期の幕府の儒官で、藤原惺窩(せいか)に朱子学を学び、家康以後四代の侍講となる。また、上野忍ヶ岡に学問所および先聖殿を建て、昌平黌(しようへいこう)の起源をなした人物。1583〜1657)は『三徳抄』の中で次のように語る。
「強は人に勝つといえども、まず自らが吾(われ)に勝ち、私に勝ち、欲に勝つを聖賢の強とす。吾(われ)が私に勝つ時は、其の上の人に勝つ事必定なるべし」と述べている。
また『葉隠』においても、「勝つといふは、味方に勝つ事なり。味方に勝つといふは、吾(われ)に勝と事なり」と述べている。
両者の共通点は常に、「勝つ」と言う次元を外にではなく、自己の裡側に向け、自分を厳しく律し、ややともすれば弱音を吐く自分の立ち向かって行く事を教えている。
両者が異なるのは、士道論に於ては「私欲に勝って道に生きる時」であり、『葉隠』の武士道論では、「死に徹する時に、他者に勝つ武士となりうる」と説かれているのである。
武士の強みとは、こうした自分に勝つ事を克服したものが武士の理想とされ、この「強み」は、「自分に勝ってはじめて形成される」と云う事を論ずるのである。他者を精神的に圧倒し、他者から一目を置かれると言うのが武士の精神構造であり、要約すれば疎(うと)んじられる事なく、侮(あなど)られる事なく、精神的な高さによって自己を表現する事が武士の本分であるとしているのである。
自己を表現する精神構造として、自他との関係において対峙する状態を出現させ、これに勝つ事を標榜した武士は、裡側から滲(にじ)み出て来る「強み」を武士の理想としたのである。それは何も、刃(やいば)を交えず、同時に刀は鞘(さや)の内に収めた儘(まま)、争わない理を探求し、これこそが最高の武士であるとしたのである。そして武士道論では、これを「閑(しず)かな強み」としたのである。
また、「百年兵を練る」という格言からも窺(うかが)えるように、人と争わない為に、日夜精進して武芸に励み、弱いと思われる隙(すき)を作らぬことだとしているのである。
一方、この「閑かな強み」は、容貌や言語、姿勢や起居振る舞いにおいて表現されるものとし、この「強み」に関連して、武士が礼儀を重んじる事を重視しているのである。これが毅然とした態度に通じるものがあったのである。
近世の社会に於いて、武士が礼儀を重んじた事は、封建的な階層秩序に随順するという考え方があるが、武士の主体は自分自身の全人格を表面に打ち出して、その毅然とした態度を示し、礼儀を糺(ただ)す事が武士に求められた「強み」であると言えた。これこそが、「強み」の表現であったのである。
山鹿素行の著した『素行語類』には、「容貌より言語に至るまで軽々しからず、甚(はなは)だおごそかにして、人を以て畏(おそるる)の形也」と述べ、『葉隠』では、「礼儀深きところに威あり、行儀重きところに威あり」と述べている。
また、幕末の陽明学者・佐藤一齋(さとういっさい)は、『言志四録』の中で、「甲冑(かっちゅう)ハ辱シム可カラザルノ色ナリ。人ハ礼譲ヲ服シテ以テ甲冑ト為サバ、誰カ敢テ之(これ)ヲ辱シメン」とある。これもまた、武士の礼儀尊重の精神構造を語るものである。
しかし、こうした精神構造も、武士階級全般には広まらず、一部の文武の研究者の識(し)る、細やかな研究発表に終わっている事が、一般人を礼儀から遠ざけ、求道(ぐどう)から遠ざけている現実が見られるのである。これを学んだ者と、学ばなかった者との差であろうが、この差は、日本人を遠く「尚武の民族」から遠ざけ、「忠義の民族」から遠ざけたものといえる。
そして「士道」における、「死を、己の心の裡側(うちがわ)に充てる」あるいは「武士道」の「死身になる」と言う、“死”の文字は、一般の人々から受け入れ難いものとして忌み嫌われ、更には先の大戦で誤解されて、両者は退けられる運命を辿ったものと思われる。
かくして日本人は、死を超剋(ちょうこく)する事が出来なくなり、死を恐れる対象にしてしまった観が否めない。
現代日本人は若者に限らず、高齢者にあっても、死生観に至り、「生き方」や「死に方」について明確な考え方を示せない人が多くなって来ている。死と聞けば逃げ回り、死を悉々(ことごと)く恐れる。これは自分の生きた人生の中で、死生観を解決する哲学を持っていないからだ。
そしてこうした弱さが、実は幕末当時の、幕臣旗本や御家人達の小賢(こざか)しい身の振り方と、我が身の保身と、金品の貯えや利殖に奔走する姿と酷似するのである。
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