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西郷派大東流と武士道

■ 《大東流蜘蛛之巣伝》と武士団戦闘構想■
(だいとうりゅくものすでんとぶしだんせんとうこうそう)

●武士道の死生観を超越した道徳理念と、士道の倫理の道

 我が国における武士道と云う言葉は、広くは武士の「心組み」と、その「生き方」を示唆した場合と、それを狭義に捕らえれば、生き方の一つとして、「士道」に対する「武士道」としての、武家の生活様式を、「武士道」と呼称する場合がある。
 つまり武士道には、「広義」として捕らえる武士道と、「狭義」として捕らえる武士道の二つがあるという事である。
 また「武士道」と「士道」は、区別されるべきものである。

 武士は発生以来、王朝貴族に対する自己の意識を確認し、武士独特の生き方があると自覚した時、「弓矢を取る身の習い」という言葉が生まれた。
 「弓矢を取る身の習い」とは、『保元物語』で見るように、「大将軍の前にては、親死に、子討たるけれども顧みず、弥(いや)が上に死に重なって、戦ふとぞ聞く」とある。
 これによれば、恩顧を受けた主君の馬前に討ち死することであった。要約すれば、君主への揺るぎない献身ということになるだろう。
 『保元物語』でいう、「弓矢を取る身の習い」は、武士社会にその伝統として受け継がれた。

 また一方に於いて、戦国時代にあっては、武士は単に君主に仕える戦闘員であるばかりでなく、為政者的な性格を持ち、下剋上の時代に、下剋上をも凌(しの)ぎ、然も下剋上に便乗して、主君にとって代わろうとした者でも、「弓矢を取る身の習い」を手本として、その徳性を求める傾向が生まれた。
 つまり、下位の者が上位の者の地位や権力を侵す世の中であっても、「士道」と称される道徳訓は、武士の本懐(ほんかい)と置いていたのである。この本懐こそが、唯一つ、「武士道」と「士道」の共通点を持つ。

 下剋上は、南北朝時代からの下層階級台頭の社会風潮をいい、室町中期から戦国時代にかけて、特に激しくなり、『太平記』にも、「臣君を殺し子父を殺す。力を以て争ふ可き時到る故に下剋上の一端にあり」と記されている。
 しかし、武士の踏むべき道徳訓は、為政者としての権力闘争とは別問題にして考えられ、政治的解釈と道徳的解釈は別問題であるとしているのである。

 江戸時代に至ると、戦国期の内乱と戦闘は絶え、下剋上は治まることになる。
 しかし天下泰平の世にあっても、武家社会には、先に挙げた主君に仕える戦闘員としての心組みと、為政者的道徳訓の徳性を重んずる伝統が維持されていた。その伝統は、儒教を母体にした、修身、斉家、治国、天下平を説いた儒教の伝統を受け継ぎ、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の「五倫」に於ける、人倫の道を自覚し、これを根本原理として、武士の行動律に充(あ)てたのである。
 人倫の道を天下に実現することこそ、武士の職分と解釈するようになり、これが次第に「武士道」と繋がる要因を含んで行った。

 この思想が強まると、武家社会では「士道」と呼ばれることになり、この「士道」は、公には近世の武士に思想を指導することになる。また、これに対し、近世の泰平な時代にあっては、依然として「死の潔(いさぎよ)さ」を重んずる伝統を中核として、「己のうちに、日々死を以て充(あ)てる」という思想が、「士道」とは異なる「武士道」の主体性を為(な)した。
 これは「士道」が、人倫の道を自覚することから始まる道徳訓を重視していたのに対し、「武士道」は死の覚悟をもって、「死の潔さ」を根本とする思想を所有しており、根本的に対峙(たいじ)するものであった。

 したがって、「武士道」と「士道」は、この点における異なりがあり、士道論の代表格に挙げられる人物としては山鹿素行(やまがそこう/江戸前期の軍略家兵学者で、儒学者。儒学を林羅山に、兵学を北条氏長らに学ぶ。著書に『武教要録』『配所残筆』『山鹿語類』『中朝事実』『武家事紀』などがある。1622〜1685)がおり、また、武士道論の代表格は『葉隠』(葉隠聞書、葉隠集、葉隠論語、鍋島論語とも)の口述者であった山本常朝(やまもとつねとも/元佐賀藩士で、全十一巻の『葉隠』の口述者。田代又左衛門陣基(つらもと)に筆録さす。藩内外の武士の言行の批評を通じて武士の道徳を説く)が挙げられる。

 そして両者の大きく異なる事は、「死に対する姿勢」が大きな隔たりをもって異なっており、山鹿素行は「死を心に充てて行動する行動律」を説き、山本常朝は「武士道というは、死ぬ事と見つけたり」の言葉に代表される通り、己の命を「爽やか」に、更には「すずやか」に、死生観を超越して、「死に態(ざま)を潔くする」という最終的な目的に向かって、努力するべきであると説いている点である。

 しかし素行に於ては、『素行語類』【註】『山鹿語類』とも)にある通り、「能(よ)く勤めて、命に案ずるは大丈夫の心なり。されば疋夫(ひっぷ)は死を常に心に充(あ)て物をつとめ、つとめて命を案ずるあり。(略)心をしに充てば、能く事物の内をつとめ守るべし。事物のうちをつとめ守りては、唯今死にのぞみても快くして、あきたらぬ処あるべからず」と記され、人はやがて死ぬと言う事実を踏まえて、だからこそ、「今」という一瞬一瞬を蔑(ないがし)ろにすることなく、真剣に、緊張して、人として恥じない「人倫の道」を進めと力説しているのである。

 この意味に於て、「心に死を充てて生きる」という点では、『葉隠』に、共通の思想を見い出す事が出来るが、『葉隠』の究極的な目的は、「死ぬ事と見つけたり」の言葉からも窺(うかが)えるように、「潔く死ぬ」を第一義とし、それに続く、「不慮(ふりょ)の場にあっては」と、但し書きがつくのである。

 では、「不慮の場」とは何か。
 不慮の場にあっては、間髪入れずに「死地に突入する」ことであり、また、「毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕課(おお)すべきなり」と説く。

 また、平時に於ては精神的に「死と一枚岩」の関係を、常に己の裡側(うちがわ)に作りつつ、「死人」となりて、如何にしたら、「よき死」を迎える事が出来るか、それを常に模索し続ける事であった。いわゆる、「死を以て、武士の名誉」と考える精神構造を、常に追い求める事であった。そして、その極致は、「死に狂い」であり、「死身(しにみ)」に徹する事であった。

 『葉隠』における武士の生き態(ざま)は、そのまま武士の「死に態」に通じ、如何にしたら、「よりよき死」を迎える事が出来るか、それを常に探究する事であった。そしてこの探究こそが、武士自体の心の裡側(うちがわ)に求められる「武士の道」と考えたのである。
 『葉隠』の力説とするところは、死と一枚岩になり、死に徹しきる時、そこに自(おの)ずから「忠」も、「孝」も備わると考えたのである。
 「死の潔さ」を重んずる武士道の伝統は、こうした死と一枚岩になることによって成就され、これが『葉隠』出現後に、大きな影響力を持ち、観念化される一方、「観念の修行法」として、武士の姿としての真理に迫るものであった。

 『葉隠』を論ずる時、よく『三河物語』が惹(ひき)き合いに出される。
 『三河物語』は、徳川家康の事績を中心に、著者の一族の武功を述べ、子孫を教戒した書である。
 大久保忠教(ただたか/江戸前期の旗本で、天下の御意見番として、通称、彦左衛門として世に知られる。徳川家康に仕えて戦功あり、秀忠・家光にも仕え、無欲恬淡、奇行で知られる。1560〜1639)の著によるもので、全三巻からなる。元和八年(1622年)草稿が完成し、寛永三年(1626年)補訂された。内容は素朴な文章で、覚書風(おぼえがきふう)に記されている。

 『三河物語』では、「弓矢を取る身の習い」の伝統を、素朴に受け継いだものであるが、主君である徳川秀忠や家光が、譜代の臣を顧みないことを不満に思いつつも、一方に於いて徳川本家を支えるのは、我々旗本以外居ないと云う強い自負があり、主君もこれについては重んずるであろうとしている。したがって、多少の不満は我慢し、子孫に、「弓矢を取る身の習い」の伝統を教訓として述べ、語り継がねばならないとしている。

 大久保忠教は「弓矢を取る身の習い」を準(なぞら)えて、「将来、戦いが必ず起こる」と云うことを想定し、だからこそ、こうした事態が勃発した時、旗本の子孫は戦場に於いて、我々の先祖がそうであったように、徳川将軍家に身命を捧げて、奉公に準ずるべきだとしているのである。

 しかし近世の江戸中期に至ると、大久保忠教が「予言した戦い」は遠のき、世の中は平穏な様相を極めると、武士の私生活や奉公としての在(あ)り方が乱れる一方にあり、武士が町家の豪商の真似をしたり、食生活に豪商の白米を取り入れたり、金品を身に纏い、贅(ぜい)を凝らして質素倹約を忘れ、武士としての生き態(ざま)が疑われるようになり、こうしたところに、突如、憂いの書『葉隠』が登場した。
 『三河物語』では、「戦場での潔さ」を説いているが、『葉隠』では「死の潔さ」が説かれ、君主の馬前での討ち死ではなく、平時における「奉公」への心組みを説いているのである。

 また『葉隠』の特徴は、『長崎喧華』にも窺(うかが)われるように、個人的な喧華が取り上げられ、「喧華による潔さ」が、結局は「死の潔さ」に通じると云うことを結論付けている。
 「死を潔くする」という事について、「喧華の潔さ」も武士の本分だとし、喧華を一種の戦闘と考え、これを強調しているのが特徴だ。

 士道論と、『葉隠』的な武士道論は、主従関係についての「奉公」の意味も違っている。
 両者がともに重んずる諌言は、有能な主君が居ない場合、士道論では「道」を現実化する可能性のない主君に対しては仕える必要もなく、またこうした主君の許(もと)は去るべきである説いている。この場合、仕える身の自分は主君を替え、諌言を受け入れる有能な、「道」を天下に現実する可能性のある主君に仕えることが正しい武士の在り方だとしている。

 しかし、これに対して『葉隠』では、諌言を聞き入れない主君であっても、また、主君の悪が発覚して、その責任追及が主君に迫った時、その罪を自分がひっかぶり、主君の悪が外部に漏れないようにし、しかるうえで、折を見て主君を諌め、主君を正しい道に引き戻すのが誠の武士の在り方だとしている。

 この意味で、士道論と武士道論は大きく食い違い、士道論では悪に染まった主君は永久に悪で、こうした主君の許(もと)からは立ち去れと述べているのに対し、武士道論では、主君が今は仮に悪に染まっていても、元々は善であるから、主君を諌め、悪から立ち直らせて、再び正しい道に引き戻せとしているのである。要するに前者は、主君の悪を性悪説で述べ、後者は性善説の述べているところに大きな隔たりがあるのである。

 これを裏から洞察すれば、『葉隠』の武士道論は、一見狭義的に映り、「主従関係」が宿命的に断ち難いとしているが、『三河物語』の士道論からすれば、「主従の契り」は絶対的なものでなく、一種の雇用関係であり、主君が善人でも悪人でも、これに従うのは「御家の犬」と一蹴(いっしゅう)している。

 要するに、「武士道」と「士道」は主君の解釈の、此処が異なる点である。
 そして、日本では武士道論や士道論が起った頃から、多くの日本人が、どちらを選択するかということを云えば、やはり士道論を選ぶ国民性であるという推測が成り立ち、今日の指向的なアンケート調査に、その比率を分析する事ができるであろう。
 つまり精神よりは肉体であり、明日の偉業より、今日の糧(かて)なのである。 この点は、精神性は低く物質主義に陥りやすい欧米人を度外視して、日本人こそ、欧米人に比べて、精神性は薄く、物欲主義に走るという、エコノミック・アニマル的な、欠陥的側面を抱えているという事が分かる。

 一般に、日本は「武士道の国」とか、そこに住む国民は「尚武の民」と信じられ、多くの国民も、また外国からもそのように信じられている。
 ところが、徳川時代に果たして、日本人が武士道を全うした事が、その歴史の中で何回あったであろうか。
 確かに数える事の出来るのは、「赤穂浪士」の討ち入りぐらいではなかったか。

 武士道が説かれ、武士としての踏むべき道が示唆された時代に於いて、数えれば、ほんの小数に過ぎないのである。これを考えれば、日本人には武士道が存在していない事になる。そして日本人が武士道を標榜(ひょうぼう)する場合、その多くは情緒的であり、感情的であり、新渡戸稲造(にとべいなぞう)が示す「衣川の戦い」にみれらるような、和歌を詠みあう「歌人の心得」を、また「武士道だ」と内外に誤解を与えているのである。

 また、「忠義無双」など、錯覚もいいところである。
 徳川時代は日本史でも珍しい、「非武装国家」を形成した典型的な時代であり、これが約二百五十年間続いた。したがって徳川時代に於いて、事実上は、軍隊が存在しなかった。
 確かに「武士」と云う身分の職業を持つ階層は居たが、この時代の武士は、戦国時代と異なり、軍人ではなく、ただの「官吏」であった。この時代の武力行使も、今日の警察行為の域を出るものではなく、決して軍隊とは云い難い存在であった。江戸時代の武士は、軍事機構に属する存在ではなく、行政機構に属する存在だった。

 十七世紀前半に起った徳川時代の初期の「島原の乱」以降は、武士の軍事行動はこれをもって終了し、それ以降、戦争らしい戦争は一度も起っていない。これによって徳川二百五十年間という時代を築き、極東で、長らく「泰平(たいへい)の眠り」をむさぼるのである。中世ヨーロッパの封建制度に比べれば、その天下泰平度は、その比ではなかった。
 おまけに島国ともなれば、容易に外国勢の侵略など起こる可能性も低く、時の権力者は国内問題だけに頭を悩ましていればよかった。そしてこの時代、日本史にも稀(まれ)な、非武装国家が成立したのである。

 確かに徳川時代の武士は、士・農・工・商のうち、幾分、他に勝る武装をして居た事は事実であろう。しかしその武装の水準は、戦国時代のものに比べれば、その絶対水準は大きく下回り、武士が保有した刀や槍は、この時代、事実上装飾品と化していた。同時に、武士の武装程度のものは、浪人や富農も所持していたし、はては無頼の博徒(ばくと)らも、これを所持していた。
 したがって武装を比較して、「武士の道」を全うしたか否かと言う事は論ずることは出来ない。むしろ、その内面的な裡側(うちがわ)に武士の生き態(ざま)と云うようなものを追い求めなければならなくなったのは事実だろう。そこで『葉隠』のような、武士道論が展開される事になるのである。

 しかし『葉隠』が、何故展開されるに至ったか、多くは士道論と武士道論の異なりから、徳川中期突如として『葉隠』が起ったと推測される。
 それは日本人に、本来「忠義の心は一体どこに存在するか?」と云う疑問から始まっている。この疑問がなければ、『葉隠』も存在しなかっただろう。

 我々日本人は、「忠誠心の厚い民族」だと信じられている。義理人情に弱く、人情の機微(きび)を知り、心は極めて情緒的で、淡い心の持ち主の民族だと信じられている。しかしこれは「情」から発するものではなく、「立場」から発したものだということが分かる。
 つまり、立場という「人の目」だ。日本人ほど、自己中心的な個人主義に走りながら、「人の目」を気にする人種もいない。「人の目」を気にするあまり、ノイローゼや精神障害も起こす者がいるくらいだ。

 これを「情」から発すると解釈するのは短見であり、一種の感情論に振り回されやすい人間性の持ち主が、つまり「日本人」ということだ。
 この感情論に振り回される階層は、大衆になればなるほど激しく、庶民を感情論の震源地としている。したがって「情緒」として思索するとき、その裏側には、「人の目」を含めて、これを「心」としたり、人情の機微からも窺(うかが)えるように、これを「情」としているに過ぎない。

 だが日本史を振り返ってみて、こうした日本人の心や情緒は、果たして存在したか。
 日本において、戦国時代の末期、豊臣政権が成立する頃まで、今日的な意味での、大衆に持て囃(はや)される義理や人情は一ト欠片(ひとかけら)もなかったかとが分かる。また、こうした観念もなかった。「心」も「情」も、この時代には、美徳として評価されていないのだ。

 これは当時の軍事的行政的組織が、各地に於いて、戦国大名を盟主とする自立性の強い豪族の連合で成立していた為である。つまり戦国時代の各軍団は、一種の誓約で結ばれた連合組合のようなものであったからだ。

 したがってこの時代の主従関係は、主従間の忠義も、雇用に対する従業員の忠義も育つはずがなかった。当時の家臣のとった忠誠心モドキのタテマエであり、表面的には、忠孝と云うポーズを取りながらも、実は時と場合に於いて、次々に主君を替えいったからだ。
 そして、この時代に、裏切者の多いのには驚かされる。その最たる武将が、関ヶ原の戦いで、西軍から東軍に寝返った小早川秀秋(こばやかわひであき)ではなかったか。


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