■ 大東流の歴史観には問題があり!■
●卓ぐれている事と歴史が古いことは違う
武儀が卓(す)ぐれていることと、歴史が古いということは、全くの別問題である。
現代、大東流を愛好する内外の、大東流合気武道、大東流合気柔術、また大東流の各々の各流派・会を主宰する指導者の大半は、大東流の流祖伝説を「清和天皇の第六皇子・貞純親王起源説」、「清和源氏の流統説」、「新羅三郎源義光流祖説」、「新羅三郎の『大東の館』説」、「武田国継の大東久之助改名説」などの古(いにしえ)の古人に求め、古き歴史を持つ事に優越を置く普及を行っている。
その虚言の最も広く流布されている伝説は、中でも新羅三郎源義光が創設したと信じられている「大東の館」である。
しかし以上の説は、歴史認識を疑いざるを得ない歴史を偽る伝説的流言に過ぎない。そして以上は、虚構であることは明らかだ。
「大東流」について、小佐野淳(浅山一伝流柔術十二代目継承、渋川流柔術十三代代目継承、穴澤流薙刀術皆伝)先生は、著書『日本柔術当身拳法』(愛隆堂、昭和63年12月25日発行)の中で武術史を述べ、「遠く奈良時代から伝承されるとい技法は、正当な武術史から除外されるべきである。激しい当身技で知られる盛岡の諸賞流和術も源流はなら時代に遡(さかのぼ)るというが、後世の仮託で、実伝は江戸初期の成立である。武術史を扱う場合は、仮託と実伝うぃ明確に区別する事が事が大切である。例えば、現在、罷(まか)り通っている説として、大東流合気柔術の源流は甲州武田家にあるなどというのは、とんでもない誤説である。第一、甲州武田家は軍馬弓槍を以て兵力にしているのに、平服で行う合気などという柔術の高級技法が戦国期に存在する余地はないのである。常識判断である」と述べている。
また、鶴山晃瑞(故人・日本伝合気柔術師範。武田惣角から免許皆伝を得たとする久琢磨師範の門人)先生は、『図解コーチ・護身杖道』(成美堂出版、昭和58年1月20日発行)の中で、「伝説的流言に『大東流は新羅三郎義光が伝えたもの』とする伝承経路を宣伝する者がいるが、これは虚言とも云うべき内容である。(中略)この大東流技法を分析すると、その母体になる《大東流柔術》の技法は、江戸中期以降のもので後世されていることが明らかである。これを見ても新羅三郎時代に作ったものと考える人たちの歴史的認識を疑わざるを得ないが、大東流が密教修行法と同じく、やたらに秘密、秘事、秘伝等の約束事が多かったことにも誤った歴史観が流布される一因であった。大東流は、徳川末期に公武合体時代における新教育武道の完成をめざして、東北諸藩の強力を得て、会津日新館内において研究開発した徳川時代における最も新しい総合武道であった」と述べている。
更に、奈良県にお住まいの柳生月神流第十七代家元の岡田了雲齊(りょううんさい)先生は、「大東流が武術史に登場したのは、明治末期か大正の初め頃で、非常に新しい流派である」と云っておられる。
柳生月神流は柳生十兵衛三厳(やぎゅう‐じゅうべい‐みつよし)以来の古い伝統を有する流派で、剣術・棒術・拳法・柔(やわら)を得意とする流派であり、明治三十六年、植芝盛平先生が、柳生流柔術の中井正勝師範に柳生流を学んだ柳生流とは、実は柳生月神流の「やわら」のことである。そしてこの流派の中には、左右同じ剣を持って行う「合気二刀剣」が存在するのである。
また、更に深く追求すると、綿谷雪・山田忠史共著の『武芸流派大事典』(東京コピイ出版部、昭和53年12月10日発行)の惣角流の項目には、武田惣角翁が惣角流の祖として挙げられ、「明治三年、小野派一刀流渋谷東馬に入門。明治九年免許。明治六年、直心影流の榊原鍵吉の内弟子になる。明治八年、旧会津藩家老西郷頼母(後名、保科近悳)に合気柔術を、明治三十一年五月十二日免許。以来保科の指令で大東流として一派を起こした」とある。
以上の事実を総合すれば、大東流は幕末の頃に技法が編纂(へんさん)され、明治末期から大正・昭和の初期にかけて、講習会という巡回指導方式によって、各地の地元有志を対象に教授された事が分かる。
歴史学に於いて、世界史は古代・中世・近代の三区分に分けられる。
また、日本史に於ては、これを直線上に並べれば、大和朝廷時代の「原始古代」、奈良から平安時代の「古代」、鎌倉から室町時代までの後期の「中世」、安土・桃山時代を含む江戸期より幕末までの「近世」、明治維新から太平洋戦争終結までの「近代」、昭和三十年の《五五年体制》以降を「現代」といい、六区分に歴史が区分されている。この歴史区分は歴史学者や、歴史を工学的に思考する歴史工学の常識である。
一般に武士が興(おこ)るのは平安中期以降の事であり、この頃の武士は、武芸を専業とする職能民ではなかった。つまり、武士は武芸をもって、自らを職能民と自負していたのである。
当時の武士層は半農半兵であり、農繁期には帰郷すると言うのが常であった。この事から考えれば、武士が職能民としての立場を全うしていることが分かるであろう。
平将門(たいら‐の‐まさかど/平安中期の武将で、天慶二年(939年)。居館を下総猿島(しもふさ‐さしま)に建て、文武百官を置き、自ら新皇と称し関東に威を振ったが、平貞盛・藤原秀郷に討たれた。生年不明
〜940)の時代、彼に付き随(したが)う武士団の兵士の主体は、農民であり、武芸を専門に行うと云った武芸集団ではなかった。閑暇期のみ、兵士として働く、半農半兵であった。平安中期から後期に至っても、こうした状況であった。
この事から察すれば、この時代、まだ武芸を専門に行う専業者としての武士は存在しなかった事になる。以上のことから、武術の「流名・流派」と言うものも、この時代には全く存在していない。つまり、武士は弓矢の術をもって職能民として自立はしていたが、自らの武芸に流派を名乗った痕跡(こんせき)はなかったのである。
更に歴史を振り返って追言すれば、清和天皇が生きた時代は、西暦850年から880年の三十年間であり、在位したのは、まだ七歳の幼帝の頃であった。ために藤原氏一族が摂政となる。
清和天皇の在位の期間は858年から876年までであり、将門の時代より、六十年も前の時代の天皇である。
その六十年後、平将門が武士集団らしきものを組織するが、その武士と云われた主体は「農民」であり、この時代、流派の名乗った武芸を専門的に行う武士は、まだ登場していない。
武士の興りは、十二世紀末鎌倉幕府の成立からであり、十六世紀末室町幕府の滅亡までを「中世」という。また近世は、古代と中世の後に続く時期を指し、日本史では江戸時代(【註】安土桃山時代を含む場合もある)を指す。封建社会の見事に開花した華々しき時代であり、武士階級を中心とした封建制度は、この時代に至って結実する。
しかし、幕末になると武士階級の消費階級化が促進され、一般の下級武士ばかりでなく、国持、国持並み、城持、城持並といった大名や上級武士の中からも、経済的に窮乏する武士が出始めた。
これにより立場が逆転を始め、農村に於ては、自作農と小作人という経済的格差によって、「持てる者」と「持たざる者」の明確な分離が起こり、農民の階層分解が起った。
江戸中期に至ると、町人の中からは豪商と云われる財を為(な)した者が出てき、また幕末になると、農民の中からも豪農と云われる大金持ちが出て来た。これは則(すなわ)ち、士・農・工・商と云う身分制度を逆転させる「階層分解」であった。
この階層分解によって、封建社会は崩れ、西洋の資本主義の波に押されて、日本は明治維新を迎え、以降、西洋を模倣した資本主義近代国家へと変貌する、日本の選択肢が行われた。これにより、武家社会は完全に崩壊する。
時代は明治に突入し、それ以降を「近代」といい、広義には、「近世」と同義で、一般には封建制社会の後を受けた資本主義社会について言うようだが、日本史では、明治維新から太平洋戦争の終結までとするのが通説である。そして、それ以降の昭和三十三年の《五五年体制》以降を「現代」という。
武術史を研究すると、武芸の興りは剣術であり、剣をもって運命を切り開いてきた歴史があり、刀法が諸流派を創り挙げていったと言えよう。
日本の剣術史に出て来る日本最古のものと断言できるのは、飯篠伊賀守家直(いいざさ‐いがのかみ‐いえなお)の天真正伝神道流である。
この流派は日本兵法の中興の祖的な存在であり、『本朝武芸小伝』が著されたのは、十五世紀の頃でなかったかと推測されている。そして歴史に残る剣術の流派で、これ以上に古い流派は存在しない。柔術が剣の裏技である以上、剣術より柔術が先に出て来ると云う事はあり得ない。剣が主であり、柔はあくまで従であった。
したがって、これ以前に柔術が存在したと言う武術史の記録はない。あれば、それは流派内で捏造(ねつぞう)された後世の仮託である。
また、合気の起源に、武田家の重臣であったと称する「大東久之助説」の「大東」や、合気が、武田家の重臣・馬場美濃守配下の「相木森之助」の「相木(あいき)」に由来する説等も、明らかに訝(おか)しい。
更に付け加えれば、新羅三郎源義光の「大東の館」伝説も明らかに訝(おか)しい。義光は平安後期の武将である。
源頼義の三男に生まれた義光は、後に新羅明神(しいら‐みょうじん)の社前で元服(げんぷく)した事から、またの名を新羅三郎といわれるようになる。
義光は知謀に富み、弓矢射術を能(よく)し、笙(しよう)に長じた人物として知られる。笙は、奈良時代に中国から伝来した雅楽の管楽器の一つである。神社等の神楽舞にもこの楽器が登場し、木製椀型の壺(つぼ)の周縁に、長短十七本の竹管を環状に立て、うち二本は無音、他の十五本それぞれの管の外側または内側に指孔、管の脚端に金属製の簧したがある。壺にある吹口から吹き、または吸って鳴らす古い伝統を有する和楽器である。
義光は後三年合戦に兄義家が出征すると、官を辞してその後を追い武功をたて、刑部少輔を授かり、佐竹氏・武田氏・小笠原氏などの祖である。
しかし義光の知謀に富んだ才は、弓矢射術や笙に長じたのであって、これが戦乱多きこの時代、平服で行う合気などという柔術の高級技法は、この時代の時代背景から考えても起る筈はあり得ない。したがって、この時代に合気が存在していたと云う事は明らかに捏造(ねつぞう)である。義光の「大東の館伝説」も、後世の仮託であることは明らかだ。
繰り返すが、源義光は平安後期の武将である。
この当時の武士団は、平将門の時代と同様、兵士は半農半兵である。農繁期には長期休暇をとって、国許(くにもと)に帰る人たちなのだ。
武士が、職能民として武芸を専門に行うようになったのは、領地制が確立された鎌倉時代以降のことで、それ以前に固有の流派を名乗り、武芸に専従したと言う記録は、日本史の中に出て来ない。
清和源氏の流れを汲むとする大東流合気柔術そのものの技法は、武道史上みても、非常に卓れた流派である。他の柔術に比べて、洗練されたものである。これは紛(まぎ)れもない事実だ。
しかし、技法が高度で卓れていると云う事と、平安古代からの伝承を有していると云う事と、これは、明らかに別問題である。
新羅三郎源義光の「大東の館」伝説は、何も日本だけに興ったものではない。
韓国の合気道団体の一部には、義光が新羅明神の社前で元服したことから、新羅明神の「しいら」は、古代朝鮮の国名の一つの「新羅」(「しらぎ」あるいは「しんら」/前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧国に始まり、四世紀、辰韓諸部を統一して新羅と号した。六世紀以降加羅諸国を滅ぼし、また唐と結んで、百済・高句麗を征服、668年朝鮮全土を統一して、更には唐の勢力を半島より駆逐したが935年、五十六代で、高麗の王建に滅ぼされた。356〜935)から来ているので、韓国の合気道が新羅明神へと流れ、合気道の発祥地はもともと韓国であり、新羅三郎の「大東の館」に伝わった「投げ技」や「抑え技」は、韓国から日本へ齎されたもので、その伝授をうてた新羅三郎がこの館で、戦死体を解剖実験(【註】この時代、果たして人間を解剖する技術があったかどうか、非常に疑わしい)などをしたのは、韓国が伝えた韓方医学(【註】韓国は中国から伝わった漢方医学を「韓方医学」と称するようだ)を基(もと)にした技であり、ここに、合気道が「日本へ伝わったという説」を掲げる合気道団体もある。
この団体は、合気道の興りは、もともとは中国の擒拿術(きんな‐じゅつ)であり、擒拿術が江戸時代に日本の柔術に影響を与えたという説をとっている。しかしこれも、日本の新羅三郎伝説を、近年に捏造(ねつぞう)した後世の仮託であることは明白である。
なんでもかんでも、歴史や武術史までが、最近の韓流ブームに乗って実(まこと)しやかに流言され、韓国の仕掛人にしてみれば、韓国が総ての文化や武芸の発信源でないと気が済まないらしい。
ちなみに韓国では、「合気道」を「ハッキドー/HATUKIDO」と云うそうである。
さて、日本人は、身分の上下や貧富の差に関わらず、封建時代の陰を引き摺(ず)って生きている。それは皇胤(こういん)を重んずる伝統であり、天皇の血筋に近い皇裔(こうえい)の人物を尊敬する国民気質がある。
また、皇裔に通ずるものとして、「清和源氏」や「桓武平氏」の末裔(まつえい)と自称する国民気質も、未(いま)だ根強い影響力を持っている。そして皇族と繋がっている事が、日本人が他を制して、一歩先んずる条件となるという考え方が、未だに根強く残る。
中世に興った武士団も例外ではなかった。天皇の血筋を系統から導いて、「われこそ皇胤の流れ」と称し、皇族の血筋に近い、清和源氏や桓武平氏を、自らがその末裔と名乗った。これは皇胤の血筋である事に重きを置く風潮があった為だ。
武芸は武士団の中から興った。その武芸の流派に箔(はく)を付ける為には、皇胤を系統立てるしかない。明らかに、「清和天皇の第六皇子・貞純親王起源説」「清和源氏の流れ説」「新羅三郎源義光流祖説」「武田国継の大東久之助改名説」などは、大東流に皇胤の流れを取り込み、それを系統立たという仮託に取れる。
日本人は「寄らば大樹の蔭」を好む国民気質を持ちながら、一方に於いて、小兵力をもって大敵を破る事に異常な情熱を持つ民族でもある。
その証拠に、日本人の最も好む戦績は、今日でも繰り返し芝居や舞台で上演され、その多くが「義経の鵯(ひよどり)越え」「正成の千早城」「信長の桶狭間(おけはざま)」である。そして忠義の代表格として「忠臣蔵」があり、これ等は総て「大が小を倒す」典型的な構図となっている事に相似性を見い出すのである。
また、これ等の共通点は、勝利は誰の眼から見ても、劣勢であり、その殆どは勝算がなく、既に戦う前から決着が着いたものと扱われ、それを客観的に見た場合、何(いず)れも無謀な戦いであったと分かる。しかし日本人の心情は、このような戦いを無謀な戦いと謂(い)わず、神風を期待し、逆転を期待して、むしろ勇将や知将に率いられて小兵力が大兵力に戦いを挑んで、大敵を破る事に日本人は異常な情熱を燃やし、これを支持するのである。
しかし、われわれ日本人は、冷静になって歴史を考えた場合、日本は今日まで、歴史的に見て、多くの武術の名人や達人を生み出して来たと考えられるが、日本人特有の「情緒的な考え方」から推察すると、「柔能(よ)く剛を制す」的な、小が大を倒す、奇襲戦法の好きな民族性が、そういう感性を育て上げたと言えるのではあるまいか。
今日、大東流が武道界から一目置いて注目を受け、「大東流合気」をかくも絶賛するのは、武田惣角や植芝盛平の、小柄な体躯から、「小が大を倒す」という痛快な格闘場面(喩えば惣角の白川郷での対決や、丸茂組相手の痛快武勇伝)のみに集中しているようである。この事は作家・津本陽氏の武田惣角を題材にした『鬼の冠』や、植芝盛平を題材にした『黄金の天馬』等からも窺(うかが)えるのである。
ここにも、「柔能く剛を制す」あるいは「小能く大を呑む」の痛快な勝利は、日本人の情緒的感覚の中で、最も好む心情の一つを顕わしている。
こうした一時の流行は何を齎したか。
誰もが大東流に飛びついたことだ。合気を標榜(ひょうぼう)し、合気を名称にしている武道や武術は、最近、驚くほど増えて来た。それ等はいつの間にか、大東流の系統図に名前が組み込まれたり、また「大東流○○会」の研究会形式を名乗る人間が出て来たことだ。その中の多くは、全く素人の自称武術研究家としょうする、大東流に縁もゆかりもない連中で、この連中がマイナーな武道誌などで一端(いっぱし)の武道談義を論じていることである。
このグループの多くは、直接、大東流合気武道の武田時宗先生や指導者から、一度も、一手も、手解きも、教わった事のない連中で、単に文献から、あるいは書籍やビデオから大東流の技を模倣し、グループ長を中心に練習を行い、武道雑誌等で仲間を集め、本質は同好会的な研究会であり、それが自ら、大東流と称しているようである。
こうした人の中には、武田惣角や植芝盛平の武勇伝に、あわよくば便乗しようとしている人達であり、これ等の人達が、自らの技法を実演して、大相撲の力士や柔道無差別級の巨漢選手を「触(ふれ)合気」や「重(かさね)合気」で倒したという話は、まだ一度も耳にした事がない。
総ては武田惣角や植芝盛平の武勇伝に、ちゃっかりと便乗しているのが、傍系大東流や傍系合気道の愛好者の実情である。しかし、武術を熱心に研究することは決して悪いことではない。
むしろ徹底的に研究し、優れたものも、もとは人間が作ったものであり、そこには長所ばかりでなく、短所も必ず存在するはずである。こうした短所を、補う研究も、これからの現代という時代には必要であるまいか。
特に骨董品に成り下がってしまっている、伝承武道は現代流に、早急に欠点を補い必要がある。
「油断すれば、達人といえども、素人に敗れる」とは、合気中興の祖・武田惣角の言葉である。伝承や体系や人脈が正しくても、その道統の正当性や、お墨付きだけに溺れれば、やがて「寝首を掻かれる」ということを忘れるべきでない。
浅山一伝流柔術十二代目継承、渋川流柔術十三代代目継承、穴澤流薙刀術皆伝の小佐野淳先生は、その著書『日本柔術当身拳法』(愛隆堂)の中で、「人間の内臓や骨は筋肉に保護されているため、筋肉トレーニングによって鍛えあげら肉体は、かなりの衝撃に堪えられるようになる。したがって、空手家も剛拳もプロボクサーのパンチも、毎日驚異的な練習プログラムをこなしている力士やプロレスラーの前にはほとんど通用しない」と述べられているが、これを大東流や合気道の愛好者に振り替えて用いるならば、「正対する相手が演武での約束において、精神的緊張を逸(いつ)した時のみに、大東流や合気道の技が使えるのであって、演武形式の約束の上に成り立った、これらの武術は、相手が驚異的な練習プログラムをしている力士やプロレスラー、筋トレで肉体表面を鎧(よろい)にしてしまったフルコン空手選手や、重量級の柔道選手の前には殆ど通用しない」と置き換える事が出来るのではないだろうか。
したがって「柔よく剛を制す」という言葉は、今日、完全に死語であると言う事が分かるであろう。
神話、伝説、武勇伝等は、おおよそ誇張があるのが常である。語る者が豪語した場合、筆記者がその儘(まま)受け止めて、真実として、如何にも現実に在(あ)ったかのように記録する事がある。したがって大東流は、「幻の武道」と大袈裟に持て囃(はや)されている要因をつくっているとも言えよう。
古人の痛快な武勇伝と、現実を混同する危険性は、われわれ日本人を迷走の坩堝(るつぼ)に閉じ込めて、同じ過ちを犯させ、再び冷たい雪の泥濘(ぬかるみ)を歩かねばならなくなる現実に、遭遇させるものではなかろうか。
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