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古人の叡智が集約する護身武術
「武士道とは何か……」これは西郷派が掲げるテーマである。
 ひとは生きながらにして、己の一身をかけ、自己のもてる全人格、全人間性を掲げて、その生き態(ざま)を世に問うている。
 己の損得を勘定に入れず、他人に奉仕することを第一義とする武士道精神は、この根本にこそ、「己を殺して仁を成す」崇高な精神があるのである。

宗家一親等門人ならびに一親等会員
(そうけいっしんとうもんじんならびにいっしんとうかいいん)

●西郷派大東流一親等の系統とは

【一親等門人・一親等会員の総合の定義】
 これに準ずる門人・会員は、人間の誇りを前面に打ち出す名誉を重んずる特別集団を指す。
 これは、羽柴(豊臣)秀吉が柴田勝家や佐久間盛政を破った戦いの、「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦」で勇名をはせた加藤清正・福島正則・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋武則・片桐且元の七人の、「賤ヶ岳の七本槍」の如き存在であり、また江戸時代、徳川家康の将軍直属の家臣のうち、知行高が1万石未満の直参で御目見おめみえ以上の格式のあった文武に優れた者を指し、歴史上の先人に習って、武士道を全うする名誉職である。

1.宗家一親等門人
 門人の中で、四段以上の有段者の有段者会費を払う者のうち、選ばれて、宗家と一親等の契約を交し、毎月謝儀(しゃぎ)を収める門人を「宗家一親等門人」という。

2.宗家一親等会員
 『志友会報』並びに『大東新報』を購読する会員で、夏季セミナー合宿や地方で開催される講習会に参加し、直伝を受けて、選ばれて、宗家と一親等の契約を交し、毎月謝儀を収める会員を「宗家一親等会員」という。

【宗家一親等の定義】
 宗家一親等は伝承系図において、直接宗家から儀法(ぎほう)を伝授したことを、系図上で証明・伝承するものであり、前者は総本部や地区本部あるいは各支部に所属する門人であり、後者は志友会員として、総本部・尚道館主催の夏季合宿セミナーや各地方の講習会に参加し、宗家から直伝を受けて、初伝以上を儀法を体得した者を言う。

 したがってその伝承は、選ばれて、宗家より直伝を授けたことを、系図上において示すことの出来る地位と身分を得る。
 また両者とも、謝儀(しゃぎ)として、月謝を支払う義務を追う。

3.宗家と一親等門人を結ぶ義務ある資格者
 わが流の准師範以上の資格者は「宗家一親等門人」であり、毎月定められた日に、月謝と有段者会費を支払う義務を負う。

 また、宗家自らが直伝する、資格者を対象にした有段者講習会ならびに夏季合宿セミナーについては、主催者側としての企画・創案ならびに「絶対出席」の義務を負う。年間行事の一番大事な必須場面に資格者が姿を現さないのは、既にそれだけで資格を失っていることになる。
 もし、仕事が忙しいとか、もっとこれ以上に大事な所用があるというのなら、そちらの方を優先させるべきで、宗家と一親等の契約を結ぶことはない。資格など、さっさと返上して降格に甘んじるべきであろう。

 更に資格者として、是非とも、正月年賀・盆・暮れの挨拶については、これを厳守し、礼儀正しく、後進者の手本となるよう、自ら進んで努力するべきである。またこれは、宗家の側近者として当然の義務であろう。

 

4.傍系門人ならびに傍系会員
 傍系とは、直系の宗家直伝の一親等門人以外の門人なだびに会員をいう。
 間接的に宗家以外の者から指導を受け、現在、支部活動並びに同好会活動をしている支部長ならびに世話人をいう。
 また両者とも、『西郷派大東流』の看板を使用しているので謝儀(しゃぎ)として、月謝を支払う義務を追う。
 

【拝師の礼としての側近者の義務】
 ただし、これは形式的な義務ではない。心より発しない限り、本物の「拝師の礼」とはならない。
 稽古事とは、本来、師が在(あ)り、学びたいと切望する学徒がいて、はじめて入門という行動が起る。「拝師の礼」は、この行動の中に集約される。
 わが西郷派は、「拝師の礼」を重んじる。学徒は自分の学ぶべき師匠を探し、その師に行き当たったら、生涯自分の師を崇め、また、師もその求道の学徒に、自らの膝元において学ぶことを許し、学徒が師に対して「学びたいという意思表示」が対座の上で行われるというのが、日本古来より伝わった「拝師の礼」である。この礼儀を履行(りこう)している間に限り、子弟関係が成り立つのである。

 また、こうした子弟関係において「薪水(しんすい)の労をとる」という、苦労を厭(いと)わない「誠心誠意」が起る。誠心誠意を失って師弟関係は成り立たない。したがって、正月年賀や盆や暮れの挨拶も、健全な師弟関係を保つ、一つの智慧である。

 しかし、昨今の現代人はこうした、日本古来よりの挨拶を形式的と侮蔑し、あるいは一蹴(いっしゅう)する。そのくせ、自分の物財や家電製品およびマイカー、あるいは自分の家族に対して、有形の形で、週に一度の家族揃ってのファミレスでの外食や、海外旅行や、その他の家族サービスに浪費の限りを尽くすのはどうしたことか。
 そんな核化された常識の中で、現代人は古人の智慧(ちえ)を忘れようとしている。

 正月年賀・盆・暮れの挨拶については、どういう形でこれをするか、それぞれに立場において異なるところであろう。これは自分の置かれた立場や地位や役職にもよろうが、身分においてそれに相応しい形で行うべきであり、師弟関係を健全に保つ上で、師の身近にいる者は、こうした挨拶を絶対に省略すべきではないであろう。

 一般門人よりも側近に居て、年間を通じ、大なり小なりの「宗家直伝」という形で教伝・教導を受け、それでいながら、年頭、中元、歳末の挨拶が出来ないようでは、健全な師弟関係など、保てるはずがない。
 それが師弟関係ではなく、商行為をする顧客意識や、友達づき合いならば話は変わるが、武術・武道という「道」を柱にした師と弟子の関係は、商行為や友達づき合いとは自ずから異なろう。
 ここには商売上の「対価の行為」が入らない、清々しさがなければならないのである。

 

●宗家一親等門人・会員の系統名簿

 平成26年5月現在の系統者として掲げる者は、次の通りである。

宗家一親等門人ならびに会員の系統名簿録 (傍系門人は含まず)
氏 名 段 位 資 格 役 職
岡本 邦介 八 段 皆伝師範 (故人)
進  龍一 八 段 皆伝師範 綱武館名誉館長
村上 勝利 六 段 皆伝師範 埼玉県在住
桑原 清治 六 段 ーーーーー 美浦道場長
岡谷 信彦 六 段 ーーーーー 習志野綱武館館長
呉  東善 六 段 正師範 韓国総支部長
西原 万記子 名誉六段 名誉師範 (故人)
金  明進 四 段 免許総目録 韓国大邱在住
山口 泰弘 四 段 准師範 中国杭州在住
中橋 雄介 四 段 准師範 習志野綱武館
田川 義弘 四 段 ーーーーー 東飾支部長
高垣 卓也 参 段 ーーーーー 習志野綱武館
曽川  彩 女子四段 女子部師範 総本部尚道館
井上 英哲 弐 段 ーーーーー 大阪分会長
ルイス・マニエル・ロペス 初 段 ーーーーー メキシコ在住
 
平成26年5月現在

 

●西郷派の一親等門人・会員が掲げるもの

 かつて武人の「天下を呑む心意気」は、武士道精神より発した。自己の視野の外に映るマクロ的な宇宙が大宇宙とするならば、自己はまさにミクロ的な小宇宙であり、このミクロコスモスの中に人間道のスペシャリストとしての働きがあるのではないか。

 人間道のスペシャリストとは、また礼儀のスペシャリストであり、礼儀を弁(わきま)えることにより、人間は真の「人」となることが出来る。
 世に無礼の輩(やから)は少なくない。礼儀を知っていると自称していても、それは単に自分の組織や団体にだけしか通用しない、一種の「お辞儀」でしかない。世間一般では、「お辞儀をする」ことを礼儀と解釈しているようだ。

 現代社会は個人の幸福を求め、個人のエゴイズムを追いかけて、利殖と保身と享楽に明け暮れる世界を「文明」と称している。しかし、この文明が掲げるものは、物質的な豊かさであり、この中からは、心の豊かさなど、何一つ出てこない。

 また、ひたすらに死を懼(おそ)れ、生に固執することが「科学という名の文明」のように思われているが、それは大自然を無視し、富を求め、飽食と放埓(ほいらつ)に明け暮れる快楽主義に他ならない。この快楽主義から、果たして心の豊かさは見えてくるだろうか。

 現代という時代は、一方、大自然の「無分別智」を忘れた時代である。誰もが分別知に固執し、世間の常識という物指しで推(お)し測(はか)り、この物指しが正しいか間違っているか、それを考え直すことはない。「公式がこうであるから」とか、「世間の常識がこうなっているから」とか言って、その矛盾点を吟味しない時代である。ここに文明と言う「落とし穴」がある。

 一般的に言って、分別は良いことのように思い、無分別は悪いことのように考える。しかし、分別が過ぎると、「我」が表出し、固定観念や先入観に囚(とら)われた発想しか出来なくなる。固定観念や先入観の概念に囚われれば、大自然から無尽蔵(むじんぞう)に湧き上がっている自由な発想が蹂躙(じゅうりん)されてしまうのである。そこに現代の、「柵(しがらみ)にこだわる」人間の醜さが浮き彫りになり、これが世の中全体を覆(おお)いつくしているのである。

 私たち現代人は、智慧(ちえ)と知識を同じように考え、混同してきた。しかし知識は外から教育によって入り込むものであり、一方、智慧は自(おの)ずと裡側(うちがわ)より湧き出るものである。したがって、この両者は根本的に違う。
 つまり、分別知は教育により学んだ常識であり、この常識は、無から有を生み出すことはない。一方、智慧は裡側より無尽蔵に湧き出るもので、そこには当然、無から有を生み出す発想がある。そして、現代という時代であるからこそ、自由性を以て、固執の概念を打ち捨て、無分別智に目覚める自己を確立しなければならない。

 人類はいつのまにか「こだわり」を善と考え、「こだわる」ことを正しい分別であると考え違いしてしまった。人間社会には、様々な分別知が横たわっている。分別知の物指しで誰もが物事を考える。
 この分別知の正体は、常に、自分の所属する国家や企業、組織や団体でしか通用しない、いわゆる「常識」である。この常識を振りかざして、人は自分の所属する国家や企業、組織や団体、あるいは自分の信じる宗教のみが、絶対に正しくて、他は総(すべ)て間違いと決めつける思考が固定化した。

 そして人類は、所属する国家の国民として、地球に生息する人類として、あるいは自分の信じる宗教の信仰を第一番に取り上げ、その狭義的な倫理と、規範に照らし合わせ、これを常識とし、あるいは分別とした。往々にして、専門分野の狭義的な思考で物事を見ている専門家は、専門バカになりやすい。
 このように狭義的な視野で判断する限り、何が正しいか、何が間違っているか、正確に判定することは出来なくなった。一方、この狭義的判定を以て、判断を下すことを「分別」という。

 そして、「分別」を以て厳格に判断し、この厳格さの度が過ぎれば、敵愾心(てきがいしん)が生まれ、「敵」「味方」の区別が生まれ、分裂し、いつのまにかそこには纏(まと)まりが失われる。
 地球上の人類は、太古以来、敵味方の表示がなかった。しかし分別という常識が生まれ、色分けされて村八分が起った。本来ひと纏まりであった人間集団は、分別によって、敵と見方に分かれ、争いを演じるようになった。

 二分化されて争うようになると、正義と平和のための分別が、やがて聖戦意識を生み、これが戦争へと繋(つな)がっていくのである。そして、これこそ自己矛盾の最たるものでなかったか。
 だからこそ、現代社会に横たわる分別の固執から解脱して、大自然が持っている「無分別智」に回帰する必要があるのではないか。
 そして、わが西郷派は「無分別智」を、武士道の第一義と定義しているのである。


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