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当時、同道場は北九州市八幡東区春の町の豊山八幡神社の敷地内から発祥したが、何ぶんにも曽川宗家個人に経済力は無く、以後、同東区の中央町に移転し、ここでは「合気武道館」を名乗ったが、ここも2年くらいで移転の破目になり、次ぎに落ち着いた先は「大進流空手道場」(八幡西区森下)に間借りしての細々とした運営だった。 この後、八幡西区上津役に移転し「尚道館」が道場開きした。だがここも2年くらいで同区内の千代ヶ崎に移転し、細々とした活動だった。「大東修気館」を開設して以来、20年目のことだった。 この時、既に千葉支部「習志野綱武館」が進龍一皆伝師範(関東方面指導部長)の手で開設されており、関東方面からはここに多くの人達が学びに訪れていた。 またJRA日本中央競馬協会・美浦厚生会館内には「美浦道場」が、岡本邦介皆伝師範(岡本氏は49歳の時、既に八光流柔術皆伝師範の腕を持ち、当時若冠 29歳の曽川宗家の門に入門した)の手によって創設され、現在の茨城支部を形成している。道場長は桑原清治正師範で、岡本邦介皆伝師範は顧問として桑原師範を補佐している。 さて、平成元年7月、現在の総本部・尚道館は曽川宗家が全財産を抛って創設した道場で、120坪の敷地に、高天井2階建の鉄筋道場が完成した。そして既にここで今日迄の月日が流れた。しかしこれで安住の地を得たわけではなかった。再び受難が襲い掛かる。
●受難の道 さて、曽川宗家は受難の道を歩いた人である。 当時を回想して、曽川宗家は、 そして借金は見る見るまに膨れ上り、借金のための借金、返済のための借金を繰り返した。あれは実に辛かった。ストリート・ファイターとして喧嘩を売られ、殴られる方が余程ましだった。人間としての人格などありはしない。殺されて、何処かの川や湖に浮かんでいたとしても不思議ではない」と、このように語る。 しかし不思議なこともあったという。 しかしこれで終わったわけでない。 当時は警察にこうした事情を訴えても、借りたものは返さねば、という返事しか返ってこない人権無視の時代だった」(この内容は『合気口伝書』綱武出版刊に詳しく出ているので、興味のある方は参照のこと。まるでフィクションの小説を読むような感じを受ける)と、まるで他人事のように、あっけらかんと言い放つ。 おそらく曽川宗家は、私など想像を絶する、死の淵をさまよう以上に、もっと恐ろしいものを見て、経験してきたのであろう。こうした事は凡夫には経験できないことである。またその次元も同じでない。 しかしこうした経験をしながら、不朽の精神を見せ、叩かれる度に強靭な精神力をつけていったのは、曽川宗家が少年時代から死ぬような思いで稽古に打ち込んでいた裏付けがあってのことだろう。凡夫のレベルではとっくに自殺していたはずである。 相撲でも、土俵際まで追い詰められて、土俵際の淵に足が掛かると、この瞬間に諦める力士と、淵に足は掛かりながらもこれを必死で堪え、我慢に我慢を重ねてしぶとく護り通し、とうとう「残って」ウッチャリを食わす力士がいる。曽川宗家はまさに後者の方だ。 ●天命の章今でも、会社時代の負債責任が億の単位であるという。これに対しても他人事のように言う。普通だったら、借金が四千万円も超えたら、とっくに返済を諦め、保険金を掛けて自殺する経営者が多い時代に、曽川宗家は安易にこの道を選ばなかった。如何なる軋轢(あつれき)、如何なる脅迫にも打ち勝って、不朽を見せ「どっこい」生き残る道を選択したのである。 「どんな事があっても、簡単に諦めないことですよ。孟子や老子の『天命の章』を読めば、人間は簡単に諦めてはならないことが書いてある。それを繰り返し読めば天命とは何か、と言う事が分かってくる。 私はね。宇宙の何処かに十万人くらい一度に収容できる大劇場があって、そこに各々の人の人生劇場を演ずる場合、例えばある人は兵士の役でその主人公になり、戦争に駆り立てられて、一兵卒として最前線に送られたとする。そこで猛烈な敵からの攻撃があり、その弾の一発に当たって即死したとしたら、この人を主人公とした、この劇はどうなりますか……? やはりね。頭部に弾を打ち込まれても、それで死ぬのではなく、執念で生きのびて、敵にひとあわ吹かすくらいのサービス精神が無いと、劇は面白くなりませんよ。 かつて会津戊辰戦争の時、横山主税(よこやまちから)という、非常に家柄の良い上級武士がいましてね。この人は会津藩主・松平容保からも目を掛けられ、可愛がられた人で、頭も良かったと聞きます。 しかし横山主税の後を受け継いだ、家老の西郷頼母は違っていましたよ。天邪鬼(あまのじゃく)と表されながらも、どっこい生き残るのが得意な人で、駄目かと思われながらも長生きした人ですよ、人生はああでなくては……」と、自らの人生劇を語る。 これまで数学・理科畑を歩いてきた曽川宗家は、別に文才があるというような特別な人とではなかった。単にごく一般的な、むしろ国語の文法や、言い回しもそれ程うまくなく、失礼だが、こうした面では凡夫の域を出なかった人であったと思う。 そしてまた学術論文を書き続け、何と、52歳のとき、哲学博士(数理哲学/論文『実の時間、虚の時間』)まで登り詰め、イオンド大学(アメリカ合衆国)の教授(数学、哲学)にまでなった人である。
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