■大東流の歴史観には問題があり!■
●西郷派大東流は「大いなる東」に源を発す
西郷派大東流の流名である「大東」は、明治中期から末期にかけて、興隆した「大東亜」の、東アジアや東南アジアと、その周辺地域を指す、樽井藤吉(1850〜1922)の著書『大東合邦論』に端を発する。
樽井藤吉は、奈良・大和出身の社会運動家であった。
板垣退助の自由民権運動に参加し、社会問題や大陸問題に関心を寄せて、明治十五年(1882)に東洋社会党を結成する。その後、明治十八年(1885)に大井憲太郎(大分・豊前出身の社会運動家で、民撰議院設立論争で尚早論を批判、自由党左派の指導者。1892年に東洋自由党を組織、労働者保護や国権拡張を唱えた。1843〜1922)らと大阪事件を起こし、入獄するも、『大東合邦論』を著た。
また、中国に於ては、「大東亜」が五族共栄政策を打ち立て、帝政を廃して五族による共和政体樹立を目指した標語が辛亥革命(しんがい‐かくめい/1911年、日本の元号では明治明治四十四年、辛亥の歳に武昌に挙兵し、清朝を倒した中国の民主主義革命。12年1月、孫文が臨時大総統に就任して共和制を宣言して、中華民国が誕生する)に使われた。
西郷四郎は、孫文とも交流があり、また辛亥革命の時は、従軍記者として、その取材にも奔走している。そして、その原動力となったのは、樽井藤吉の『大東合邦論』であり、「大東」の二文字も、この時の念頭に泛(う)かんだものと思われる。
更に、『大東合邦論』は松岡洋右(山口県生まれの政治家で、国際連盟脱退の際の首席全権。満鉄総裁を経て、近衛内閣の外相として日独伊三国同盟・日ソ中立条約を結ぶ。第二次大戦後、連合軍からA級戦犯として逮捕され裁判中病没。1880〜1946)の、日本を盟主とする満州・中国および東南アジア諸民族の共存共栄を説く「大東亜共栄圏」思想の大きな影響を与えた。
こうして大東流の「大東」が、名付けられた経緯(いきさつ)を探れば、「清和天皇の第六皇子・貞純親王起源説」「清和源氏の流れ説」「新羅三郎源義光流祖説」「新羅三郎の『大東の館』説」は、後世の仮託であると言える。
また、「大東の館」から、大東流の「大東」が始まったとする説も、近年の後世の仮託である。新羅三郎源義光は、射術(弓矢の術)の優れた平安時代後期の武将で、剣の裏技であった柔術という素肌武道の伝承者ではなかった。
大東流の「大東」は、当時、日本列島を虎視眈々(こし‐たんたん)の狙う、欧米列強の圧力に対し、日本にも「極東の優れた戦闘理論(戦略と政治的戦闘思想を含む「大東流蜘蛛之巣伝」)は存在する」とした意思表示として、西郷頼母がこれにちなみ、「大東」の二文字をもって「大東流」と名乗ったと考えられる。
他にも、当時の外国を牽制(けんせい)する意味で、「大東」という二文字が用いられたのは明白であり、西郷四郎は鈴木天眼(すずき‐てんがん/東洋日の出新聞社・社主で元会津藩士)と共に、明治二十七年、朝鮮半島を舞台にした「東学党の乱」が起こった時、この反乱を援助する為に、大東塾を設立し、義勇軍を募ったのである。四郎は、講道館出奔後、政治運動に命をかけた人生行路を選択していたのである。「大東」の二文字は、既に明治二十七年に使用されているのである。
そして、武田惣角が西郷頼母から合気柔術の免許を授けたのは、明治三十一年五月十二日のことである。四年も前に、西郷四郎は「大東」の二文字を使っていたのである。
また「大東」の二文字は、昭和十四年年四月三日に結成された影山正治(かげやま‐まさはる)塾長の大東塾を設立させるに至っている。
影山塾長の大東塾は、明治十四年二月に結成された頭山満(とうやま‐みつる/右翼の巨頭として知られ、萩の乱に連座して入獄。出獄後、自由民権運動に従い、玄洋社を創設して、井上馨(かおる)や大隈重信の条約改正案に反対する。国会開設後は国権の伸張ならびに大陸進出を唱えた。1855〜1944)の玄洋社の流れを汲み、明治三十四年一月に結成された内田良平の黒龍会を経て、昭和六年六月、同会は大日本生産党と改め、その流れを汲んだのが大東塾だった。
この大東塾はその後、民族運動に様々な影響を与え、日本独特の「民族主義」を構築して行く事になる。
ちなみに民族主義には二つの流れがあり、一つは「原理派」といわれるもので、選民意識・日本精神美化・天皇崇拝・反共産主義・反米・反中国(【註】現在の北京政府を指す)ならびに反ユダヤなどであり、もう一つは「改革派」といわれるもので、現状憂慮・民衆啓発・日本精神復活・日本武術奨励・大アジア・親アジア・真の国際協調を目指すものである。
この民族主義に真っ向から対抗するのが、国際主義と云われるもので、「協調派」としては国際化の美化・アメリカ礼賛・西洋崇拝・科学万能主義・唯物弁証法重視・日本精神の軽視ならびに蔑視・新世界秩序・アジアの侮蔑などであり、「隷属派」としては、国際ユダヤ金融資本のユダヤ従属を唱え、シオニスト運動を宣伝し、フリーメーソン社員・ユダヤ勢力の代理人・進歩的文化人・日本敗北主義・日本属領化の推進と、「日本をアメリカの第五十一番目の州にする推進委員会」や「日米欧三極委員会(通称、TC)」などである。
そして民族主義と国際主義の鬩(せめ)ぎ合いは、幕末より、ユッタ衆(国際ユダヤ金融資本の日本人の走狗で、多くは博徒が絡んでいた)の暗躍で表面化し、日本人を愛し、日本精神と日本国家の繁栄を願う、日本国民の利益の為に働く「民族主義」(例えば、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らで、ちなみに会津藩家老西郷頼母は西郷隆盛と遠縁にあたる)と、国際ユダヤ金融資本の軍門に下り、アメリカを傀儡(かいらい)国家にして、アメリカの傘の中で、日本をアメリカ(【註】アメリカは、本土にアラスカとハワイの二州を加えた五十の州と、一つの特別区とから成る)の「第五十一番目の州」にして生き延びようとする「国際主義」(例えば、岩倉具視、大久保利通、伊藤博文、木戸孝允、井上馨、五代友厚、森有礼、福沢諭吉、西園寺公望、新渡戸稲造ら)の対決の構図となっている。
明治維新以降、日本は歴史や政治の影で、こうした鬩ぎ合いが行われてきた。坂本竜馬がフリーメーソン日本支社長トーマス・ブレーク・グラバーに操られていたことは、国際陰謀学を研究する学者たちの常識となっている。トーマス・ブレーク・グラバーはアイルランド出身の武器商人であり、日本を東西に分け、徳川幕府と西南雄藩(薩・長・土・肥)を戦わせて、日本に内乱を起こすことを目的に、日本にやってきた。
そして まず、坂本龍馬に取り付き、拳銃とともに、巨額な資金提供を行い、亀山社中(日本における武器販売商会)を運営させて、日本中を自由に闊歩(かっぽ)する行動力を利用したのであった。やがて、坂本龍馬の薩長同盟によって、かつての会津藩と薩摩藩の同盟は破棄され、日本は倒幕に向かって動き出す。これが戊辰戦争の発端を作ったといえよう。そして、日本という国家は、西南雄藩の維新功労者によって横領されることになる。明治新政府の実態は、おおよそ、こうしたものだった。つまり、歴史的に言うと、明治維新というのは、日本が外圧に屈したフリーメーソン革命であったと言うことが出来る。
明治新政府の横領に気付いたのは、西郷頼母であり、西郷隆盛が「西南の役」で挙兵した際、西郷軍に軍資金を送ろうとしていたのは、戊辰戦争において宿敵だった元会津藩家老の西郷頼母だった。
西南の役の際、多くの元会津藩士が 西郷軍討伐の為に組織された警視庁軍抜刀隊に加わったのは、会津戊辰戦争の仇討ちが目的だった。
ところが、西郷頼母は、もっと大きな、隠れた陰謀を見抜いていて、まず、横領された明治政府を薩長土肥の官僚で牛耳る、政治体制を解放しなければならないと考えたのである。ここに、密教秘法から導いた《蜘蛛之巣伝構想》が窺われるのである。後にこれは、《大東流蜘蛛之巣伝》として、その霊的神性は後世に齎される。
西郷四郎が西郷家の再興の為に、養子に迎えられたのは、単に西郷家の再興ばかりでなく、政治やアジアの情勢に絡む、「大アジア主義」を展開するためだった。
こうした大アジア主義を展開する為にも、「大東」の二文字は、スローガンに値する政治的要素を含んでいた。そしてこの大アジア主義は《大東流蜘蛛之巣伝》をもって、大東塾などの大きな影響を与えたと思われる。
なお、西郷四郎は玄洋社の頭山満と面識があり、頭山の要請で武田惣角と試合する事まで予定されたことがあった。しかし、この試合は奇(く)しくも行われなかった。
四郎は、大アジアならびに親アジアに向けて政治運動を行った。その原動力となったものは、「内なる会津」を模索ではなかったか。ここには四郎の、「大アジア主義」と「内なる会津」の絡み合いの影が窺われる。
こうした近代における明治以降の政治的な流れを探求していくと、「大東」の二文字は政治的な要素が強く、単に新羅三郎義光の館が「大東の館」と称したとか、大東久之助の「大東」をもって、大東流としたと考えるのは、明らかに後世の仮託であり、大東流の「大東」は、やはり西郷親子の政治的要素の強烈な個性が絡み合ったものといえるであろう。そして大東流の名が、知られるようになったのは、明治三十六年以降の、大日本武徳会が創設された後の事である。
こうして日本史を、原始古代・古代・中世・近世・近代・現代と、順に追って来ると、その歴史観に顕われるのは、日本史に於ての時代区分であり、時代区分の節目に、世論を動かす原動力になった根源を見る事が出来る。
武芸を専業とする職能民としての武士団が興ったのは、中世の鎌倉時代からであり、平安時代後期にも確かに武士団は居たが、それは半農半兵の武士であり、武士が職能民として専業化された武士は居なかったという事である。武士が職能民として専業化できない時代に、武芸は存在するはずもなく、まさに、「清和天皇の第六皇子・貞純親王起源説」「清和源氏の流れ説」「新羅三郎源義光流祖説」「新羅三郎の『大東の館』説」の以上の説は、後世の仮託である。
したがって、わが西郷派大東流合気武術は、以上の仮託をもって流名とする大東流合気武道ならびに大東流合気柔術とは同一ではなく、また武田惣角を中興の祖とする伝承を、系統とする団体でもない。わが流は、後世の仮託を掲げる大東流とは一切無縁であり、なんの関係もない。わが流は、わが流独自のものである。
陽の出(い)ずる国「日本」を極東の雄(ゆう)と掲げ、神武天皇以来の「大いなる東(ひむがし)」の大亜細亜に準ずるものである。神武天皇は記紀伝承上の天皇とされ、日本国では初代の天皇である。
それは、初代天皇より連綿と継承されたのが、日本国ではなかったか。
ちなみに、歴代天皇を順に並べれば如何の通りとなる。
即位順
|
天皇名
|
年代
|
生存年齢
|
陵名
|
初 代
|
神武(じんむ)天皇
|
前660
|
137歳
|
(畝傍山東北陵)
|
第2代
|
綏靖(すいぜ)天皇
|
前581
|
84歳
|
(桃花鳥田丘上陵)
|
第3代
|
安寧(あんねい)天皇
|
前548
|
67歳
|
(畝傍山西南御陰井上陵)
|
第4代
|
懿徳(ことく)天皇
|
前510
|
77歳
|
(畝傍山南繊沙渓上陵)
|
第5代
|
孝昭(こうしょう)天皇
|
前475
|
104歳
|
(掖上博多山上陵)
|
第6代
|
孝安(こうあん)天皇
|
前392
|
137歳
|
(玉手丘上陵)
|
第7代
|
孝霊(こうれい)天皇
|
前292
|
128歳
|
(片丘馬坂陵)
|
第8代
|
孝元(こうげん)天皇
|
前214
|
106歳
|
(剣池嶋上陵)
|
第9代
|
開化(かいか)天皇
|
前157
|
101歳
|
(春日率川坂上陵)
|
第10代
|
崇神(すじん)天皇
|
前97
|
119歳
|
(山邊道勾岡上陵)
|
第11代
|
垂仁(すいにん)天皇
|
前29
|
139歳
|
(菅原伏見東陵)
|
第12代
|
景行(けいぎょう)天皇
|
西暦71
|
143歳
|
(山邊道上陵)
|
第13代
|
成務(せいむ)天皇
|
131
|
107歳
|
(狭城盾烈池後陵)
|
第14代
|
仲哀(ちゅうあい)天皇
|
192
|
52歳
|
(恵我長野西陵)
|
|
神功(じんぐう)皇后
|
|
100歳
|
|
第15代
|
応神(おうじん)天皇
|
270
|
101歳
|
(恵我藻伏岡陵)
|
第16代
|
仁徳(にんとく)天皇
|
312
|
143歳
|
(百舌鳥耳原中陵)
|
第17代
|
履中(りちゅう)天皇
|
400
|
|
(百舌鳥耳原南陵)
|
第18代
|
反正(はんぜい)天皇
|
406
|
|
(百舌鳥耳原北陵)
|
第19代
|
允恭(いんぎょう)天皇
|
412
|
|
(恵我長野北陵)
|
第20代
|
安康(あんこう)天皇
|
454
|
|
(菅原伏見西陵)
|
第21代
|
雄略(ゆうりゃく)天皇
|
457
|
|
(丹比高鷲原陵)
|
第22代
|
清寧(せいねい)天皇
|
480
|
|
(河内坂門原陵)
|
第23代
|
顕宗(けんそう)天皇
|
485
|
|
(傍丘磐杯丘南陵)
|
第24代
|
仁賢(にんけん)天皇
|
488
|
|
(埴生坂本陵)
|
第25代
|
武烈(ぶれつ)天皇
|
499
|
|
(傍丘磐杯丘北陵)
|
第26代
|
継体(けいたい)天皇
|
507
|
|
(三島藍野陵)
|
第27代
|
安閑(あんかん)天皇
|
534
|
|
(古市高屋丘陵)
|
第28代
|
宣化(せんか)天皇
|
536
|
|
(身狹桃花鳥坂上陵)
|
第29代
|
欽明(きんめい)天皇
|
540
|
|
(檜隈坂合陵)
|
第30代
|
敏達(びんたつ)天皇
|
572
|
|
(河内磯長中尾陵)
|
第31代
|
用明(ようめい)天皇
|
586
|
|
(河内磯長原陵)
|
第32代
|
崇峻(すしゅん)天皇
|
588
|
|
(倉梯岡上陵)
|
第33代
|
推古(すいこ)天皇
|
593
|
|
(磯長山田陵)
|
第34代
|
舒明(じょめい)天皇
|
629
|
|
(押坂内陵)
|
第35代
|
皇極(こうぎょく)天皇
|
642
|
|
(皇極重祚)
|
第36代
|
孝徳(こうとく)天皇
|
645
|
|
(大阪磯長陵)
|
第37代
|
斉明(さいめい)天皇
|
655
|
|
(越智崗上陵)
|
第38代
|
天智(てんじ)天皇
|
662
|
|
(山科陵)
|
第39代
|
弘文(こうぶん)天皇
|
672
|
|
(長等山前陵)
|
第40代
|
天武(てんむ)天皇
|
673
|
|
(檜隈大内陵)
|
第41代
|
持統(じとう)天皇
|
687
|
57歳
|
(檜隈大内陵)
|
第42代
|
文武(もんむ)天皇
|
697
|
24歳
|
(檜隈安古岡上陵)
|
第43代
|
元明(げんめい)天皇
|
708
|
60歳
|
(奈保山東陵)
|
第44代
|
元正(げんしょう)天皇
|
715
|
68歳
|
(奈保山西陵)
|
第45代
|
聖武(しょうむ)天皇
|
724
|
55歳
|
(佐保山南陵)
|
第46代
|
孝謙(こうけん)天皇
|
749
|
52歳
|
(孝謙重祚)
|
第47代
|
淳仁(じゅんにん)天皇
|
758
|
32歳
|
(淡路陵)
|
第48代
|
称徳(しょうとく)天皇
|
764
|
52歳
|
(高野陵)
|
第49代
|
光仁(こうにん)天皇
|
770
|
72歳
|
(田原東陵)
|
第50代
|
桓武(かんむ)天皇
|
781
|
69歳
|
(柏原陵)
|
第51代
|
平城(へいぜい)天皇
|
806
|
50歳
|
(楊梅陵)
|
第52代
|
嵯峨(さが)天皇
|
810
|
56歳
|
(嵯峨山上陵)
|
第53代
|
淳和(じゅんな)天皇
|
824
|
54歳
|
(大原野西嶺上陵)
|
第54代
|
仁明(にんみょう)天皇
|
834
|
40歳
|
(深草陵)
|
第55代
|
文徳(もんとく)天皇
|
851
|
31歳
|
(田巴陵)
|
第56代
|
清和(せいわ)天皇
|
858
|
30歳
|
(水尾山陵)
|
第57代
|
陽成(ようぜい)天皇
|
877
|
81歳
|
(神楽岡東陵)
|
第58代
|
光孝(こうこう)天皇
|
885
|
50歳
|
(後田巴陵)
|
第59代
|
宇多(うた)天皇
|
888
|
64歳
|
(大内山陵)
|
第60代
|
醍醐(だいご)天皇
|
898
|
45歳
|
(後山科陵)
|
第61代
|
朱雀(すざく)天皇
|
931
|
29歳
|
(醍醐陵)
|
第62代
|
村上(むらかみ)天皇
|
947
|
49歳
|
(村上陵)
|
第63代
|
冷泉(れいぜい)天皇
|
968
|
61歳
|
(岩倉陵)
|
第64代
|
円融(えんゆう)天皇
|
970
|
31歳
|
(後村上陵)
|
第65代
|
花山(かざん)天皇
|
985
|
39歳
|
(紙屋上陵)
|
第66代
|
一条(いちじょう)天皇
|
987
|
21歳
|
(円融寺北陵)
|
第67代
|
三条(さんじょう)天皇
|
1012
|
41歳
|
(北山陵)
|
第68代
|
後一条(ごいちじょう)天皇
|
1017
|
21歳
|
(菩提樹院陵)
|
第69代
|
後朱雀(ごすざく)天皇
|
1037
|
35歳
|
(円乗寺陵)
|
第70代
|
後冷泉(ごれいぜい)天皇
|
1046
|
42歳
|
(円教寺陵)
|
第71代
|
後三条(ごさんじょう)天皇
|
1068
|
38歳
|
(円宗寺陵)
|
第72代
|
白河(しらかわ)天皇
|
1073
|
66歳
|
(成菩提院陵)
|
第73代
|
堀河(ほりかわ)天皇
|
1087
|
28歳
|
(後円教寺陵)
|
第74代
|
鳥羽(とば)天皇
|
1108
|
53歳
|
(安楽寿院陵)
|
第75代
|
崇徳(すとく)天皇
|
1123
|
45歳
|
(白峯陵)
|
第76代
|
近衛(このえ)天皇
|
1142
|
16歳
|
(安楽寿院南陵)
|
第77代
|
後白河(ごしらかわ)天皇
|
1154
|
64歳
|
(法住寺陵)
|
第78代
|
二条(にじょう)天皇
|
1159
|
28歳
|
(香隆寺陵)
|
第79代
|
六条(ろくじょう)天皇
|
1165
|
11歳
|
(清閑寺陵)
|
第80代
|
高倉(たかくら)天皇
|
1169
|
19歳
|
(後清閑寺陵)
|
第81代
|
安徳(あんとく)天皇
|
1181
|
6歳
|
(阿弥陀寺陵)
|
第82代
|
後鳥羽(ごとば)天皇
|
1186
|
48歳
|
(大原陵)
|
第83代
|
土御門(つちみかど)天皇
|
1199
|
35歳
|
(金原陵)
|
第84代
|
順徳(じゅんとく)天皇
|
1211
|
44歳
|
(大原陵)
|
第85代
|
中恭(ちゅうきょう)天皇
|
1221
|
25歳
|
(九條陵)
|
第86代
|
後堀河(ごほりかわ)天皇
|
1222
|
12歳
|
(観音寺陵)
|
第87代
|
四条(しじょう)天皇
|
1233
|
10歳
|
(月輪陵)
|
第88代
|
後嵯峨(ごさが)天皇
|
1243
|
51歳
|
(嵯峨南陵)
|
第89代
|
後深草(ごふかくさ)天皇
|
1247
|
60歳
|
(深草北陵)
|
第90代
|
亀山(かめやま)天皇
|
1260
|
55歳
|
(亀山陵)
|
第91代
|
後宇多(ごうた)天皇
|
1275
|
56歳
|
(蓮華峯寺陵)
|
第92代
|
伏見(ふしみ)天皇
|
1288
|
52歳
|
(深草北陵)
|
第93代
|
後伏見(ごふしみ)天皇
|
1299
|
48歳
|
(深草北陵)
|
第94代
|
後二条(ごにじょう)天皇
|
1302
|
23歳
|
(北白河陵)
|
第95代
|
花園(はなぞの)天皇
|
1308
|
51歳
|
(十楽院上陵)
|
第96代
|
後醍醐(ごだいご)天皇
|
1319
|
40歳
|
(塔尾陵)
|
第97代
|
後村上(ごむらかみ)天皇
|
1340
|
40歳
|
(檜尾陵)
|
第98代
|
長慶(ちょうけい)天皇
|
1369
|
51歳
|
(嵯峨東陵)
|
第99代
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後亀山(ごかめやま)天皇
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1383
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年齢不詳
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(嵯峨小倉陵)
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第100代
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後小松(ごこまつ)天皇
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1392
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56歳
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(深草北陵)
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第101代
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称光(しょうこう)天皇
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1412
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27歳
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(深草北陵)
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第102代
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後花園(ごはなぞの)天皇
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1428
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51歳
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(後山国陵)
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第103代
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後土御門(ごつちみかど)天皇
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1464
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58歳
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(深草北陵)
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第104代
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後柏原(ごかしわばら)天皇
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1500
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61歳
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(深草北陵)
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第105代
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後奈良(ごなら)天皇
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1526
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60歳
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(深草北陵)
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第106代
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正親町(おおぎまち)天皇
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1557
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75歳
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(深草北陵)
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第107代
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後陽成(ごようぜい)天皇
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1586
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45歳
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(深草北陵)
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第108代
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後水尾(ごみずのお)天皇
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1611
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84歳
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(月輪陵)
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第109代
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明正(めいしょう)天皇
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1629
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72歳
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(月輪陵)
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第110代
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後光明(ごこうみょう)天皇
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1643
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21歳
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(月輪陵)
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第111代
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後西(ごさい)天皇
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1654
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47歳
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(月輪陵)
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第112代
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霊元(れいげん)天皇
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1663
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78歳
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(月輪陵)
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第113代
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東山(ひがしやま)天皇
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1687
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34歳
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(月輪陵)
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第114代
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中御門(なかみかど)天皇
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1709
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32歳
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(月輪陵)
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第115代
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桜町(さくらまち)天皇
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1735
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30歳
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(月輪陵)
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第116代
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桃園(ももぞの)天皇
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1747
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21歳
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(月輪陵)
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第117代
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後桜町(ごさくらまち)天皇
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1762
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53歳
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(月輪陵)
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第118代
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後桃園(ごももぞの)天皇
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1770
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21歳
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(月輪陵)
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第119代
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光格(こうかく)天皇
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1779
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69歳
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(後月輪陵)
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第120代
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仁孝(にんこう)天皇
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1817
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45歳
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(後月輪陵)
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第121代
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孝明(こうめい)天皇
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1846
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35歳
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(後月輪東山陵)
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第122代
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明治(めいじ)天皇
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1867
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59歳
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(伏見桃山陵)
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第123代
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大正(たいしょう)天皇
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1912
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47歳
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(多摩陵)
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第124代
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昭和(しょうわ)天皇
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1926
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88歳
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(武蔵野陵)
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第125代
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今上(きんじょう)天皇
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1989
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この歴代天皇の連綿と続くさまは、日本の歴史を連ねる、「大いなる東(ひむがし)」に値する極東の陽の出(いず)る国「日本」を指すものではないか。
そして以上のように歴代天皇を調べていくと、大東流合気武道ならびに大東流合気柔術が掲げる「清和天皇」もしくは「清和天皇第六皇子貞純親王」
から、昭和天皇の代までその継承順位番を挙げるならば、清和天皇は「第五十六代天皇」であり、これより以降、昭和までを経過させれば、この間の天皇代は、「第124代」から「第56代」を単純に引き算すればよいので、「124」マイナス「56」となるので、その間は「68」となり、少なくとも清和天皇時代から昭和時代まで、68代前後の人脈の流れがなくてはならない。
また、清和天皇が即位したのは、858年の、わずか七歳の幼帝であった。そして在位期間は858年から876年までの18年間であり、その四年後の880年に、30歳の若さで崩御している。
この年から大雑把に数えて、今日の時代まで、1126年以上の歴史を持っているということになるが、果たして武芸の流儀に1000年以上の歴史を持ち、その流統を脈々と伝承している流派があるだろうか。
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