■ 西郷派大東流有段者会長引継式 ■
●奉納演武
有段者会長任命を賜った引継ぎの後、奉納演武が行われ、神前に奉納された。
神へのお窺いから始まった古式の伝統より始まった引継式は、新有段者会長に任命の段が下されて、その格調を高めるものとなった。
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▲高安伸明・新会長に授与された「会長任命書」
曽川宗家の親書ともいえる敬愛の任命の書である。多くは愛弟子に贈られるものである。 |
奉納演武は御事典によって礼儀と作法をもって行われる。午前中に実行される厳粛なものである。
したがって奉納演武とは、単に神前で憶えている儀法を演武することではない。武人としての志の証(あかし)を立てることである。
演武を通じて、時と場合、あるいは状況、更には人によって臨機応変に変化させる即応性を点検するために神前で行う、神への報告でもある。したがって教条的なものではないし、固定されたものでもない。
更に確認事項として、霊の根本である「互いに犯されず、犯さず」を信条にして、武術本来の有事の際に即応できるか否かの点検において、奉納演武は重要な意味を持っている。単に任命の印可を受けるという、その程度のものではないのである。
印可のたびにこれを行い、当事者がそれに相応しかを確認するのである。
つまり武の道の求道者は、同時に礼の体得者でもあらねばならないのである。 単に技術的に優れているとか、手が速い、足が速いという粗暴の徒ではならないのである。人としての品格が物を言うのである。
わが流でこうした制度や行いが顕著になりはじめたのは、昭和三十年代半ばの頃であった。したがって、御事典を通じて行った『拝綬』の印可は、実に重い意味を持っているのである。格調高く、誇り高く伝統を保ってきたのである。
しかし一方で、門人間には現存するものの、道場生会員間には基本技の一部を伝承する流れはあるが、肝心な礼法は殆ど途絶えてしまっている。大変残念なことである。指導的立場の者でも今日は知る者がいない。
御事典を通じた『拝綬』の印可は重要な礼儀作法の一つである。
それは厳格なものである。
また、それは正・邪を分けていると言っても過言ではない。これこそが「光透波」の持つ重さである。光透波とは言葉である。二言が通じないものである。
意思決定は人間の言葉によって判別されるからである。そこに言葉の持つ意味の軽重がある。言葉を軽く用いてならないことが、誰が考えても明白であろう。
引継ぎの拝綬の後、奉納演武が催された。
本引継式においては、西郷派大東流合気武術の殿中作法である「坐捕り柔術」を、前会長と新会長が謹んで神に奉納した。
また坐捕り柔術は殿中作法であるため、普段の稽古衣は不可で、わが流の慣わしとしては神前で演武するに当たり、紋付袴の礼装に身を改め、白布晒しの襷(たすき)掛けをして、必ず「前差」という脇差もしくは短刀を帯びて武門の嗜(たしな)みを忘れず、坐法の古式作法に従い演武を行うことになっている。古い伝統を持つ。
これこそが、わが流が「現代に生きる武士道の実践」と言われる所以である。これをもって、現代の誇り高き武士道に回帰される。
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▲殿中坐捕り柔術・奉納演武1 |
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▲奉納演武2 |
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▲奉納演武3 |
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▲奉納演武4 |
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▲奉納演武5 |
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▲奉納演武6 |
人間は指名され拝受によって役職を授かったり、その役職に胡坐をかいては、他の嫉妬を買うことになる。
慎み深さと、自身を戒める必要がある。有頂天に舞い上がる愚を制するのである。そして教訓を上げるとすれば、常に「ほどほど」という慎重で、奥深い格言を大事に教訓に活かしたい。
出すぎては駄目なのである。出る杭は嫉妬を買われて、打たれる譬えもある。
控えるべきだ。
いいことは人に譲るべきだ。
これが身を滅ぼさないための格言である。
出しゃばるな、目立つな、人気者として売り出すな、常に陰に隠れ、隅に控えれ。そして羽目を外して有頂天に舞い上がるな、である。
これがわが流の教えである。また、物事の道理を弁えた御仁(ごじん)ならば、この意味は即座に理解できるであろう。
そのためには、余程のことがない限り、一か八かの大穴狙いを遣ってはならない。
いつも口喧しく云っていることは「大穴狙いはするな」ということである。
人生で「大穴」というのは恐ろしい運命の仕掛けである。愚人はこれに掛かり、落ちる。哀れの一言に尽きよう。
普通、大穴狙いをしても、中々当たらないものである。まず的中することはない。
だが、この「当たらない」が怕(こわ)い。
何故なら、運命の悪戯で、万が一という確率で当たることがあるからだ。十年に一度とか、二十年に一度という「まぐれ」がある。
そこで人は狂う。
何故なら、まぐれで大穴が当たることがあるからだ。この大当たりに狂う。
狂うという暴挙に出るのが、また人間である。
しかし、ここが怕いと諌(いさ)められたことがある。
運は気紛れであるからだ。幸運の女神は気まぐれである。順風満帆が継続することはない。継続したかのように映る。ところがそうではない。好事魔が多しの譬えである。
そして「まさか」となる。今までの好事は何だったのかとなる。
しかし、その時は遅い。
だが、これは闇に隠れる。
凡夫には見えない。映らない。
そして繰り返すが、その「まさか」となる。
その「まさか」が、時として有頂天に舞い上がるような狂気を齎すことがあるからである。
人が狂う所以である。
背後には魔が取り憑(つ)いているからである。此処には「猟(か)られた構図」があるからである。
用心怠慢、警戒皆無では猟られても、根源には礼がないから当然であろう。
そして運命から猟られたことに疎(うと)い。有頂天は、その最たるものである。愚者ほど有頂天に舞い上がる。恋だの愛だのをラッキー現象と捉える。愚者の辿る最悪のコースである。
当たらないものが当たる……。普通では考えられないことが起こる。
こうした事象をどう捉えるか。そこで賢愚の差ができよう。
これは異変と捉えていいだろう。決してラッキーではないのだ。
後で、そのしっぺ返しが、必ず起こるからである。世の中には作用と反作用が働いていることを知るべきである。
この反作用としての「しっぺ返し」に、人は人生を翻弄(ほんろう)され、自分の運勢を、つまらないことで擦り減らす人間も少なくない。愚者はこういう勘所が悪い。
よって嵌る。操られる。反作用をもろに受ける。
愚者の辿る最悪のコースである。
「運が悪い」と言う人間は、そう言う人種のことである。可も無く不可も無く……という、何もしない人間に多いようだ。
そして決まって、こういう人間に思わぬ「幸運に見える災難」が起こる。
だから、「まぐれ当り」は、怕いのだというのである。これも災難だろう。
例を知らない者に多く起こる現象である。
こういう大穴狙いが、まぐれで的中し、そう言う現実が具現化されたとき、人間はこのラッキーに有頂天に舞い上がるだろう。愚者は「俺は何てツイているのだろう……」と、はしゃぎ諸手を打って大喜びするだろう。
あるいは、「これから俺の運が上向くぞ……、これを機に、俺は運のいい、順風満帆が訪れる……」などと、自惚れてしまう。こういう自惚れは、必ず、後でそれと同等か、それ以上の反作用に見舞われるのである。この場合の失う物は大きいであろう。その中でも精神の喪失は大きいだろう。それは物品を失った以上の大きいはずである。
だが、本当の転がる坂道は、ここから始まるのである。
用心深くなる必要がある。用心は幾らしてもし足りないことない。すればするほどいい。常時戦場を忘れるべきでないだろう。礼儀はその根本にある。
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▲宗家とともに神前で。忠誠かつ忠義の証。そして義に燃える武士道集団。人間のプライドとは、信条と誇りを指す。 |
愚者ほど、有頂天に舞い上がり易い。目先のラッキーに踊るのが愚者の特徴である。
しかし運命の背後には大きな仕掛けと落とし穴がある。これに落ちるのが愚者だ。愚者はこれを殆ど回避できない。
それは何故か。
礼儀を知らないからだ。
仕事が上手くいかなかったり、自分の展開する事業や経営が上手くいかないのは、根本には礼儀を知らないことから始まる。何も経営論に疎い事から始まったのではなかった。根本には、礼儀の疎さがあった。
これを省みらない以上、ことは改善しないだろう。
多くの愚者は、自分を「運のいい賢者」と思い込んでいるから、運命は、こうした愚者の隙を突いて、忍び込み、ひと時の有頂天に舞い上がる愚者の運命を没
落に向かわせることを、しばしの楽しみとする。
大穴を狙ってはならない。
そして、「ほどほど」の少ない儲けでよしとする。
何と云う名言……。
また、この金言の中にこそ、孔子の説いた中庸があり、釈迦の説いた中道があるのである。
孔子が中庸を説いたのは礼法からであった。いらぬ摩擦を防ぐためである。
中庸とか中道という選択肢は礼儀の面からも、賢明な選択である。
仕事でも、任務でも、使命でも、「ほどほど」の60%ほどの完成がいいと思っている。事実そうである。六分と勝ちで止める事こそ、賢者の行動律である。
100%完成させることは、しなくていいのである。100%の完成に向かって邁進(まいしん)しないから、遣る方も気が楽である。「時間がない」などと、縛られなくてもいいし、強迫観念に喚かなくていい。ほどほどに、楽しみながら遣っていれば、それでいいのである。こうした余裕に、リラックスが生まれ、その余裕の中の「損する余裕も」生まれるのである。
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▲尚道館玄関前で。
拝綬者は自ら、使命と武士道精神を改めて確認する。それは総て、一個人の利益に捉われない、奉仕への義へと回帰する。 |
健在の、仕事もでも任務でも使命でも、「石にかじりついても」という決死の覚悟で遣る必要はない。そう言う場合の努力は、多くの場合逆効果となる。努力は実らないことが多いからだ。
しかし努力は実らないからといって、努力を怠ってはならない。努力する他力が必要である。
これを、わが流では「他力一乗」と説く。努力する他力のことである。
人事を尽くして天命を待つという言葉があるが、天命は、日頃から努力を惜しまない他力一乗の実践者に働くのである。だが多くを望んではいけない。欲張ってはならない。
何事も多く望まず、未完成覚悟で遣ればいいのである。何が何でも……と言うゴリ押しの強硬策は必要ないのである。天命が働かないからだ。
そのためには「ほどほど」がいい。
100%の勝利を需(もとめ)ないことだ。完璧を需めないことだ。気楽に遣ればいい。これが無意識の緊張となる。
そして、慎ましく、目立たず、出しゃばらず、隅に端座して、思慮深く振る舞う。
この背景には、観察眼の大事がある。周囲がよく見えるからである。
これこそが賢人と愚人を分ける、大きな「隔たり」であり、あるいは神界と邪神界を分ける「結界」となる。
観察眼の大事が分らなければ、他人の抱える、特に目上の抱える「心理のあや」は、読むことが出来まい。結界の本当の意義を知れば、人の「心理のあや」
まで読むことができる。
観察眼の疎い者は、極めて無防備で、自分が、常に他人から検(み)られていることには無頓着である。その無頓着な間抜け振りが、検られる。そこを、読まれてしまう。
この行動律は、今でも「金言」である。総ての行動律は、礼儀作法の中にある。
観察眼のある者は用心深い。周囲の気配をよく感じる。前後左右そして斜め。更には上下。こうして用心深く気を巡らすものである。
これも偏に礼法から起こる。
礼というのは、互いに犯されず犯さずの行動原理から起こる。
そして武術というものは、有事にあたって自己を全うするものである。
武人はすれ違ったもの同士でも、根底には状況判断と危険に対する感覚が働くものである。
こうした場合、相手の打ち気を誘発したり、また外したり、あるいはいなしたりするのは必ずしも武技を交わさなくてもよく、言葉や態度でもまったく事情は変わらないのである。武の達人は、また礼と体得者でもあるからだ。
わが流の教えるところは用心である。
礼というのは、天地の摂理であると同時に、護身の心得でもある。行動規範の原点には礼儀がなければならない。例に従って行動をしている限り、他人に害されることはないからである。また辱めを受けることもないだろう。
侵犯を避けるというのが、わが流の説く「礼の効用」といえるのである。
そして礼儀とはまた用心のことである。この用心こそが、また武の極意にも通じるのである。
今回の西郷派大東流有段者会長の引継式は、武の極意に通じる用心によって内外に知らしめるべく、恙無く決行されたのである。
総本部・尚道館 謹書。。。。。。。。。
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