■大東流の歴史観には問題があり!■
●崩れつつある清和天皇流祖説
天皇家の即位継承に並行して、更に深く立ち入れば、単純計算として、1000年の長き期間を、流脈として絶やさずに伝える為には、その一子相伝(いっし‐そうでん)という形を重んじる古武術は、宗家在職期間を一人の宗家が平均寿命50歳(根拠は織田信長の「人生五十年」に由来する)として約20年間携わったとして、1000年間のリレーでは50年の宗家の人脈がなくてはならず、1126年では「56.3人」となり、第56代以上の宗家が必要となる。
ところが、鶴山晃瑞先生編の『図解コーチ・合気道』(昭和47年4月20日発行)には、武田時宗先生が第26代宗家(【註】後に、2版以降訂正され、第36代となり、更に4版以降は武田時宗先生が、宗家としての流統から消えている)として流統を伝承したと紹介されている。
また、綿谷雪・山田忠史共著の『武芸流派大事典』(東京コピイ出版部、昭和53年12月10日発行)には、大東流伝書を上げ、「武田惣角以前は伝書なし」としながらも、大東流の歴史は清和天皇第六皇子貞純親王から始まるとしている。
第一代目
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第1番目には、清和天皇第六王子貞純親王 |
第二代目
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第2番目に「御長子・経基」 |
第三代目
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第3番目に「長子・満仲」 |
第四代目
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第4番目に「第四子・頼信」 |
第五代目
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第5番目に「長子・頼義」 |
第六代目
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第6番目に「第三子・義光」 |
第七代目
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第7番目に「長子・武田義清」 |
第八代目
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第8番目に「長子・武田信義」 |
第九代目
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第9番目に「長子・武田信光」 |
第十代目
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第10番目に「十余世・武田信満」 |
第十一代目
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第11番目に「長子・武田国継(称、土佐守。国次とも。また大東久之助と改名され、大東流命名後の流祖とされる。このことは中村久著『合気道入門』の「大東流および武田流の系譜」22ページに記載されている)」 |
第十二代目
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第12番目に「十余世孫・武田惣右衛門(称、内匠守)」 |
第十三代目
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第13番目に「孫子・武田惣角(称、源正義)」あるいは武田惣角正義(大東流総本部長)、そして武田時宗(大東流合気武道宗家) |
すると、第1番目の清和天皇第六王子貞純親王から数えて、先の述べたように第56代以上の宗家が必要となるが、更に追言すれば、百歩譲って、第26代でも第36代だとしても、歴代の流統をつないだ宗家の数は完全に不足することになる。
また、仮に第36代で、1126年の歴史をリレーしながら、これを36人の宗家で繋(つな)ぐとすれば、31.27年間在職していなければならず、“人生五十年”といわれた武士の興った時代を経ていることを考えれば、どう考えても辻褄(つじつま)が合わなくなる。そして戦国時代を経てきているので、健康上の理由からだけではなく、暗殺なども日常茶飯事だったので、寿命も短い。
更に宗家の平均寿命は、一人平均80歳以上を維持できたことにより、この必要十分条件は叶うのであり、どうしても歴史的に検(み)て、無理があることが分かる。特に、16世紀の先刻時代を経由する日本独特の日本史は、普段でも甲冑に身を包み、更には当時の時代背景として、暗殺なども日常茶飯事であり、当時の武門の寿命は、グーンと短くなる。
太平洋戦争当時、日本人男子の平均寿命は42歳だったといわれている。この事から考えて、日本には少なくとも、外圧や戦乱と思われる異変が度々起こり、中世以降にも、二度の蒙古来襲があり、16世紀の戦国期、幕末の明治維新革命、日清・日露の戦争、太平洋戦争の敗北などがあって、この戦乱期には、グーンと男子の寿命は短くなるはずである。
平安時代前期から、戦後の昭和期まで、数えれば、その流統伝承に携わった人は、あまりにも少ないこの事実を、一体どのように考えたらよいのであろうか。
一方、『武芸流派大事典』の惣角流の項目には、合気と柔(やわら)が紹介されていて、武田惣角は会津の人で、この流派は武田惣角正義が流祖であり、会津坂下御池田で武田惣吉の二男として生まれたと記されている。とすると、武田惣吉なる人物と、大東流の項目であがっている、十余世孫・武田惣右衛門(称、内匠守)は、同一人物なのであろうか。
それにしても、 歴代天皇が平安初期から昭和の時代までに達する間、「六十八代」を要しているのに、何故、大東流の流統伝承だけが“27代”であったり、あるいは“36代”なのであろうか。
以上から察すれば、惣角流は武田家に独自に伝わった直心影流などの技であり、明治後期に名乗られた大東流柔術とは、あまり関係が深いとは思われない。特に、当時の植民地主義を展開する欧米列強を睨(にら)んで、「大東」と名乗る、頼母の思想や政治観は、少なくとも惣角には伝わってないと思料される。
やはり大東流の流名由来は、西郷頼母が欧米列強を睨み、「極東の最も秀でた流儀」という意味を込めて「大東流」と名乗ったとするほうが、最も自然な形であるまいか。
こうして考えてくると「大東流」とは、その背景に思想を携え、単に武技の優劣を競うだけでなく、ある意味で「憂国の情」に燃える政治色の強い一面を持っているのである。
そしてこの背景には 「大いなる東」があり、その根本には、「大アジア」があり、更には「親アジア」があったと推測される。それが政治結社的な《大東流蜘蛛之巣伝》を、霊的神性な見地から唱えたのかもしれない。これこそが、真にアジア人を、欧米と比較して侮蔑しない思想であったと思われる。したがって、「大アジア」を掲げた場合、「大東」の二文字は必要不可欠な意味を持つ。
昨今は横文字文化が横行し、これに目を奪われる日本人が多くなり、大衆は西洋を崇拝しつつ、日本やアジアを蔑ろにする拝金主義と享楽主義にのめり込み始めた。そして政治面においては、大多数の国民は無関心であり、今や、国家の中枢は国際主義者たちのよって占有され、まるで、明治新政府が欧米推進派の連中に占有されたような国家横領のような状態になっている。
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果たしてこうした厳しい状況下で、日本は国家として存続できるか。あるいは世界情勢は風雲急を告げ、日本人の大衆の多くは、井の中の蛙(かわず)同然で、現在の日本の実態や、世界での出来事の真相を全く見ようとしていない。
国際ユダヤ金融資本に汚染されたマスコミは、絶対に本当のことを報道することはない。マスコミ誘導によって、世論は操作され、日本人大衆の多くは集団催眠状態にある。然(しか)も古来より連綿と続いた、日本精神を放棄して、国際ユダヤ金融資本の拝金主義の汚染の渦に巻き込まれようとしている。そして、多くの大衆は、日本社会を劣化させ、間核と犯罪の蔓延(まんえん)する、日本社会が作られようとしているのである。暴力団新法は、国際ユダヤ金融資本が日本政府に圧力を掛けた結果から現れた政策ではなかったか。
日本において、暴力団自体は反社会的な集団である。
ところが、これまでの日本の暴力団が一掃されたら、その空いた席には、国際ユダヤ金融資本の傘下にある、国際ユダヤの犯罪シンジケートが入り込み、より不穏な状態になったことは、昨今の多発する外国人の兇悪犯罪から見ても明らかである。
そしてこれまでの日本人が気付かなかった点は、日本の暴力団が存在する自体が、外国からの犯罪組織を阻止していたという事実であった。ところが、これが排除されれば、世の中は不穏となり、混沌としてくる状況が作り出されるのは火を見るより明らかである。
こうしたことに絡み、性格粗暴者や精神異常者、変質者やスローカーが増え、へたをすれば、日本は、中南米やフィリピン並みに不穏な社会になりかねないであろう。
今こそ、日本人は「大いなる東」 の日本精神に立ち返り、無知と事なかれ主義の蔓延する、大衆誘導の集団催眠から目を覚まし、大アジアに目を向け、「大東」の二文字の意味するところを掘り下げていかなければならないのであるまいか。
そうした意味からも、武術や武道の流派だけではなく、企業や政治結社も「大東」という社名や結社名を名づける団体や組織は少なくない。フランスのフリーメーソン秘密結社組織は、その洋訳が「グラント・トリアン」であり、「グラント・トリアン」は日本語訳で「大東社」と訳された。
大東流の「大東」 は、以上の思想的かつ政治的要素を掲げた場合、誰もが、ごく普通に標榜する団体や組織のスローガンになりやすく、誰もが思案の末、考え付く名称といえよう。
わが流は、この「大いなる東(ひむがし)」の言葉にちなみ、「大東」の二文字を、わが流の象徴として、西郷頼母の霊的神性を引き継いで後世に伝えるものであり、「西郷派大東流」の流名をもって、《武芸十八般》から出(い)でた、剣術(居合術や殿中居合、居掛之術を含む)、柔術、拳法、棒術、杖術(中心は五尺杖だが、腕節棍を含む)、手裏剣術、槍術、薙刀術、吹矢術(毒針と解毒剤の術を含む)、飛礫術(つぶて‐じゅつ)の十種類の術であり、これを総称して、「合気武術」と呼んでいるのである。いわば総合武術の立場を取り、剣を母体として、わが流は「西郷派大東流合気武術」と称するものである。
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