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●心に残る准師範免許拝綬式 准師範免許(正指導員資格)を拝受する為に、山口泰弘四段と中橋雄介参段が、2月9日に総本部・尚道館に来館しました。山口四段は中華人民共和国広州市より、また、中橋参段は神奈川県横浜市より、拝綬式に臨み、来館いたしました。 この拝綬式は、昭和50年の吉田司師範の『正師範免許』を初めとして、昭和51年の岡本邦介皆伝師範の『免許皆伝』、昭和55年の進龍一師範の『准師範免許』、昭和57年の村上勝利師範の『皆伝免許』、平成16年に今は脱会した元奈良支部長の荒木某の“西郷派大東流棍儀の棍法一切之事”(【註】彼の脱会により、棍法後継者の育成は振り出しに戻った。わが流にとって大きな痛手であった。彼は才能もあり、“一途(いちず)な人間”であっただけに、有能な人材の損失だった。いま彼は独自で、自流を立ち上げている)、平成17年の韓国ソウル総支部長の呉東善(オ‐ドンソ)師範の『正師範免許』に継ぐもので、この度の拝綬式は、平成17年より三年ぶりのものとなります。(【註】ここに掲載されていない師範は拝綬式を省略している。また、その後の高位の師範号においても拝綬式を省略している) 一般に、段位や級位、あるいは指導員や師範資格などの免許は、概ねが、「紙切れ」を貰(もら)う程度の軽い物で終わることが多いようです。郵便で、免状の紙切れを受け取り、あるいは黒帯を受け取るなどの、軽い物として扱われ、現代のアメリカナイズされた競技武道は、些(いささ)か、日本の古きよき伝統を蔑(ないがし)ろにした観があります。また、事実「紙切れ黒帯」や「紙切れ師範」が少なくありません。何とも寂しく、かつ残念な限りです。 また、授かった資格が「紙切れ」であるか否かは、技術的にそれに見合う実力があるかどうかではなく、こうした伎倆(ぎりょう)に加えて、取得した免許資格が、その重みと、それに対する責任の自覚があるか、どうかに懸(か)かります。 昨今は、益々日本のよき伝統が消え去っていく現実があります。総(すべ)ての価値観を西洋に求め、東洋的なものを蔑ろにし、日本的なものを古いと称したり、迷信と称する悪(あ)しき固定観念が日本人の中に蔓延(はびこ)っています。これは非常に残念なことです。また、自称「日本の伝統」と銘(めい)打っていても、その中身は現代風にアレンジされ、かつアメリカナイズされた内容のものが少なくありません。日本の伝統の名を借りた、中身は西洋のものが流行していることは、最近の種々のセレモニーを見て全く疑う余地がありません。 さて、武術を含め、稽古事というものは、道場の修練活動において、年配者と青少年達が交わる唯一の場所であると言えましょう。それと同時に、若年の青少年が年配者の指導層と親しく交わり、古きよき伝統の教えを受ける場所でもあります。 一方で道場とは、道場運営維持の為に、青少年者たちは最低限度の経済的負担で稽古することが許されており、その分だけ、年配者たちが負担していることが多く、これが通例であるので、年少者達は努めて、年配者の稽古の為に便宜を図り、かつ介助を行い、こまめに動いて、道場の清掃や整備の為に努めるよう努力すべきでしょう。 道場とは如何なる場所かと申しますと、全く学校教育とは異なる、年配者と年少者が「縦の関係」で交流する、大変に意義ある場所であると言うことがいえます。学校などでは、その主体が同じ学年による横の繋(つな)がりでの仲間内の教育に重きを置いている所ですが、道場はこれとは異なる、年配者と年少者が年齢を超えて「縦の関係」で繋がる特異な場所であります。この関係は、決して学校教育には見られないものです。 年配者は年少者を指導することにより、年配者自身が「教える」ということを学んでいきます。一方、年少者達は年配の指導層から教えを受けることで、「教わる」という形で学んでいきます。これは年配者も年少者も、同じ「学ぶ」と言う点で共通点を持っています。これこそ非常に大事な人間教育であり、かつての日本にはこうしたものが沢山ありました。 こうした観点で指導と言う面を考えていくと、やがては、日本のよき伝統は廃(すた)れていくことになり、その伝統は崩壊の道を辿らなければなりません。 今回の拝綬式に当たり、拝綬者本人よりも、それを側面から見た場合、この式典に参加した少年部の子供たちにも大きな教育的成果はあったのではないでしょうか。 また、それは大きな教育的価値があるからです。 ところが残念ながら、人間には儀式があるということを、現代の大人の多くも殆どが忘れ、気付かず、その作法すらも知りません。此処に日本のよき伝統が崩壊していく暗示があります。 何かに「合格する」という、関門通過の区切り目は、一種の「けじめ」であり、人間の人生には節々に「けじめをつけていく」ということが求められます。これを疎(おろそ)かにすると、人間は歳をとっても、けじめの無い人間に成長し、図体だけが大人と言う社会不適合の人間が出来上がってしまいます。 今回、印伝式に参加した少年部の子供たちは、この事を忘れることな大人になっていくことでしょう。そして、自分たちが大人になったとき、自分の子供に、何かに合格し、あるいは資格を得たとき、これに祝辞を述べる事のできる大人へと成長していくことでしょう 昇級試験の検定を受けてこれに合格する、昇段試験の検定を受けてこれに合格する、あるいは師範免許拝綬に列せられて免許を受けると言うことは、世話になった人達への恩返しであると言えます。また、此処での礼儀の趣旨は、世話になった自分の師匠筋や先輩や同僚や、後輩達に対しての謝恩の意味が込められています。 古式古法の作法に則れば、師匠筋、先輩筋や同僚、後輩や年少者達を招いての挨拶であるということが、また、お披露目の作法であるといえます。こうした作法を、道場では年配者と若年者という関係において、縦の繋(つな)がりを以て、儀礼を交わす場所なのです。
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