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古人の叡智が集約する護身武術
准師範免許拝綬に当たり、宗家と神前に向かい、「感謝の儀」を述べる山口泰弘四段。そして日々新たに、今後一層、斯道(しどう)に邁進(まいしん)していくことを誓った。

准師範免許拝綬式
(じゅんしはんめんきょはいじゅしき)

●この度の准師範免許拝綬式の無事終了に関しての御報告

 この度、山口泰弘(やまぐち‐やすひろ)四段(中華人民共和国広州市在住)と中橋雄介(なかはし‐ゆうすけ)参段(神奈川県横浜市在住)が目出たく准師範号授与(正指導員格)を列せられ、さる平成20年2月10日(日)午後1時より、総本部・尚道館において、「拝綬・授与の儀」の授与式を敢行し、式典がつつがなく無事終了致しました。

 また、この儀に列席された方も、あるいは当日、都合で列席出来なかった方からも、ご祝儀や差し入れのお物品を頂き、式典に華を添えたことに大変感謝するとともに、今後とも、各支部門人の皆様方のご支援ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。
 この度の拝綬式において、無事終了致しましたことも、ひとえに皆様方のご協力の賜物(たまもの)と、慎んで感謝申し上げる次第です。また、拝綬を受けた両名に成り変わり、この掲載ページを以て、式典が無事終了いたし、深く感謝申し上げる次第です。

2月10日(日)の早朝、寒空をつき、拝綬式で免許を賜る山口泰弘四段ならびに中橋雄介参段は、斎戒沐浴(さいかいもくよく)の為に、道場玄関前で冷水を被る準備に入る。当時の水温4度。 両名は寒風を突き、道場玄関前ならびにその周囲をランニングで一回りし、冷水を浴するに当たり心身の心構えを徐々に堅めていった。しかし、「ふんどし姿」で町内一周は、近所の人達の顰蹙(ひんしゅく)を買ったかも。
 
斎戒沐浴したこの日、清々しい気持ちで准師範の免許の拝綬を受ける山口泰弘四段と中橋雄介参段。
 
宗家から一親等門人の「契りの盃」を謹んで受ける中橋雄介参段。
宗家から一親等門人の盃を受ける山口四段。これで晴れて准師範に列せられた。
 これらは古式古法の作法で行われた。
 
宗家から一親等門人の契りの盃を受ける中橋参段。緊張の中にも余裕を見せ、これで晴れて准師範に列せられた。
謹んで免許拝綬の重みを感じる拝綬者の両名。今後の准師範としての立場と責任を痛感し、その決意も新たに斯道への邁進を誓った。
 
拝綬式に参加した尚道館の少年部の子ども達。こうした事も、子供たちのとっては、普段にはない道場での楽しい行事の一つである。
拝綬式のお披露目に招かれた少年部の子ども達。彼等もこの日の想い出は、大人になってからも忘れないであろう。日本のよき伝統を守る、未来の成人になってくれることを期待したい次第である。 当日、千葉県習志野市から駆けつけた、直接の師匠筋に当たる習志野綱武館館長の岡谷信彦(おかや‐のぶひこ)師範から、お祝いの言葉とともに、ビールのお酌を受ける中橋雄介准師範。

 

●心に残る准師範免許拝綬式

 准師範免許(正指導員資格)を拝受する為に、山口泰弘四段と中橋雄介参段が、2月9日に総本部・尚道館に来館しました。山口四段は中華人民共和国広州市より、また、中橋参段は神奈川県横浜市より、拝綬式に臨み、来館いたしました。
 尚道館幹事長・佐々木浩(ささき‐ひろし)壱級の司会とともに、式典が始まり、感謝の儀などを、今回の両拝綬者から感謝の言葉が、謹んで述べられました。
 また、尚道館少年部代表として、桧垣桃子(小学6年生)さんが両准師範に祝辞を述べられ、実によく通ったハリのある声で、堂々としたお祝いの言葉を述べられました。

 この拝綬式は、昭和50年の吉田司師範の『正師範免許』を初めとして、昭和51年の岡本邦介皆伝師範の『免許皆伝』、昭和55年の進龍一師範の『准師範免許』、昭和57年の村上勝利師範の『皆伝免許』、平成16年に今は脱会した元奈良支部長の荒木某の“西郷派大東流棍儀の棍法一切之事”【註】彼の脱会により、棍法後継者の育成は振り出しに戻った。わが流にとって大きな痛手であった。彼は才能もあり、“一途(いちず)な人間”であっただけに、有能な人材の損失だった。いま彼は独自で、自流を立ち上げている)、平成17年の韓国ソウル総支部長の呉東善(オ‐ドンソ)師範の『正師範免許』に継ぐもので、この度の拝綬式は、平成17年より三年ぶりのものとなります。【註】ここに掲載されていない師範は拝綬式を省略している。また、その後の高位の師範号においても拝綬式を省略している)

 一般に、段位や級位、あるいは指導員や師範資格などの免許は、概ねが、「紙切れ」を貰(もら)う程度の軽い物で終わることが多いようです。郵便で、免状の紙切れを受け取り、あるいは黒帯を受け取るなどの、軽い物として扱われ、現代のアメリカナイズされた競技武道は、些(いささ)か、日本の古きよき伝統を蔑(ないがし)ろにした観があります。また、事実「紙切れ黒帯」や「紙切れ師範」が少なくありません。何とも寂しく、かつ残念な限りです。

 また、授かった資格が「紙切れ」であるか否かは、技術的にそれに見合う実力があるかどうかではなく、こうした伎倆(ぎりょう)に加えて、取得した免許資格が、その重みと、それに対する責任の自覚があるか、どうかに懸(か)かります。
 それは偏に、拝綬者の慎(つつし)みに懸かり、謹んで拝綬の場に出向き、神前でそれを受け賜(たまわ)ったか否かであり、当然そこには謙虚さと畏(おそ)れ多さがなければなりません。
 師匠筋から頼まれるから義理に挟まれて、仕方なく金銭を出して、「紙切れ」や「黒帯」を買って遣(や)ったのだと言う横柄(おうへい)な態度は許されません。言語道断です。そういう人は、心に、そうした念を抱いただけで、拝綬の資格がありません。即刻、辞退すべきです。
 そして拝綬資格が、単なる紙切れで終わるか、その資格に値するものであるかは、拝綬者本人の、これからの斯道(しどう)に邁進(まいしん)する心掛けと、その後の精進努力に懸(か)かります。

 昨今は、益々日本のよき伝統が消え去っていく現実があります。総(すべ)ての価値観を西洋に求め、東洋的なものを蔑ろにし、日本的なものを古いと称したり、迷信と称する悪(あ)しき固定観念が日本人の中に蔓延(はびこ)っています。これは非常に残念なことです。また、自称「日本の伝統」と銘(めい)打っていても、その中身は現代風にアレンジされ、かつアメリカナイズされた内容のものが少なくありません。日本の伝統の名を借りた、中身は西洋のものが流行していることは、最近の種々のセレモニーを見て全く疑う余地がありません。

 さて、武術を含め、稽古事というものは、道場の修練活動において、年配者と青少年達が交わる唯一の場所であると言えましょう。それと同時に、若年の青少年が年配者の指導層と親しく交わり、古きよき伝統の教えを受ける場所でもあります。

 一方で道場とは、道場運営維持の為に、青少年者たちは最低限度の経済的負担で稽古することが許されており、その分だけ、年配者たちが負担していることが多く、これが通例であるので、年少者達は努めて、年配者の稽古の為に便宜を図り、かつ介助を行い、こまめに動いて、道場の清掃や整備の為に努めるよう努力すべきでしょう。
 こうした事も、多くは生涯において、それほど多くない免許の授与・拝綬式などを通じ、年少者達が学んで行くことも大切な道場の教育の一貫と思われます。然(しか)しながら、昨今ではこうした日本的な武士道における仕来りが忘れ去られ、アメリカナイズされた、スポーツ的なものばかりが大流行しているようです。重ね重ね残念に思う次第です。

 道場とは如何なる場所かと申しますと、全く学校教育とは異なる、年配者と年少者が「縦の関係」で交流する、大変に意義ある場所であると言うことがいえます。学校などでは、その主体が同じ学年による横の繋(つな)がりでの仲間内の教育に重きを置いている所ですが、道場はこれとは異なる、年配者と年少者が年齢を超えて「縦の関係」で繋がる特異な場所であります。この関係は、決して学校教育には見られないものです。

 年配者は年少者を指導することにより、年配者自身が「教える」ということを学んでいきます。一方、年少者達は年配の指導層から教えを受けることで、「教わる」という形で学んでいきます。これは年配者も年少者も、同じ「学ぶ」と言う点で共通点を持っています。これこそ非常に大事な人間教育であり、かつての日本にはこうしたものが沢山ありました。
 しかし、昨今の流行は、指導者が初心者に教えると言うポーズは、あくまでも人間としてではなく、試合に勝つ為だけのインストラクター的な指導形式に止まっているようです。

 こうした観点で指導と言う面を考えていくと、やがては、日本のよき伝統は廃(すた)れていくことになり、その伝統は崩壊の道を辿らなければなりません。
 こうした崩壊の途上にあって、西郷派大東流の、「拝綬式」「印伝式」は非常に意義あるものと自負しております。

 今回の拝綬式に当たり、拝綬者本人よりも、それを側面から見た場合、この式典に参加した少年部の子供たちにも大きな教育的成果はあったのではないでしょうか。
 つまり、昇級をする、昇段をする、免許を貰(もら)うと言う、厳(おごそ)かな儀式を通じ、道場生を初めとして、その家族全員は、これを祝うと言うことが如何に大事か、気付かされるからです。

 また、それは大きな教育的価値があるからです。
 今の少年少女たちが、大人になったとき、少年時代にこうした儀式に参加したことが大いに役に立つからです。現代と言う時代は、礼儀が廃れ、言葉遣いなどが放題の時代ですから、現代の大人たちも、不文律で観じる、例えば席順や、上席、末席の区別を知りません。
  しかし人間は、儀式を行う動物であるということで、人間以外に他の動物とは一線を画しています。この事は、人間と動物を区別する上で、非常に大事なことです。

 ところが残念ながら、人間には儀式があるということを、現代の大人の多くも殆どが忘れ、気付かず、その作法すらも知りません。此処に日本のよき伝統が崩壊していく暗示があります。
 しかし、もし、こうした崩壊に歯止めが掛けられる唯一の方法があるとするならば、それは年少者達が年配者達の行動の中で、「祝う」という行為を見て、これから学ぶ点が多くあると思われます。

 何かに「合格する」という、関門通過の区切り目は、一種の「けじめ」であり、人間の人生には節々に「けじめをつけていく」ということが求められます。これを疎(おろそ)かにすると、人間は歳をとっても、けじめの無い人間に成長し、図体だけが大人と言う社会不適合の人間が出来上がってしまいます。
 そこで「けじめ意識」として、人間は節々に「けじめ」をつけ、同時のその責任と自覚を持ってきたわけです。

 今回、印伝式に参加した少年部の子供たちは、この事を忘れることな大人になっていくことでしょう。そして、自分たちが大人になったとき、自分の子供に、何かに合格し、あるいは資格を得たとき、これに祝辞を述べる事のできる大人へと成長していくことでしょう

 昇級試験の検定を受けてこれに合格する、昇段試験の検定を受けてこれに合格する、あるいは師範免許拝綬に列せられて免許を受けると言うことは、世話になった人達への恩返しであると言えます。また、此処での礼儀の趣旨は、世話になった自分の師匠筋や先輩や同僚や、後輩達に対しての謝恩の意味が込められています。

 古式古法の作法に則れば、師匠筋、先輩筋や同僚、後輩や年少者達を招いての挨拶であるということが、また、お披露目の作法であるといえます。こうした作法を、道場では年配者と若年者という関係において、縦の繋(つな)がりを以て、儀礼を交わす場所なのです。
 今回の拝綬式は、単に拝綬者本人の拝綬のみならず、これに参加した後進者や、特に、子ども時代にこれに参加した少年部の子ども達にとっても、大いに意義深いものであると思います。未来の日本を担う、少年部の子ども達にとって、この日は有意義な一日であったと思う次第です。


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