■《大東流蜘蛛之巣伝》と武士団戦闘構想■
(だいとうりゅくものすでんとぶしだんせんとうこうそう)
●武士は農民の中から興った
《大東流蜘蛛之巣伝》を理解する為には、まず「武士の興(おこ)り」の歴史を理解しなければならない。武士集団(【註】一般に武士集団といえば、武士団のことを指し、半農半兵の従事者を指す)という、集合体の存在理由を知らなければならないのである。武士の起源と、半農半兵として歩いた足跡を理解しなければならない。
さて、武技を専業とする従事者を「武士」と云う。
これを、広義に解釈すれば、物の本では「武芸を習い、軍事にたずさわる者を広く指す」とある。この専業者は、武技を職能として生活する職能民の事であり、後に独自の武家政権を構築し、平安後期頃に登場したとある。そして封建時代の支配的社会層として、この職能民は江戸末期まで君臨した。
そもそも「武士」という用語は、古くは八世紀末の『続日本紀』(しょくにほんぎ)に登場し、武芸に秀でた者を指した。古来より、この階級を「もののふ」と言い、「武士」という用語と同義語に使われた経緯(いきさつ)を持っている。
しかし歴史学上の名辞(めいじ)として、武士は単に、武芸に優れた「士」(もののふ)あるいは武技専業者ではなく、武力を有する封建的領主階級もしくは系譜的に、これに繋(つな)がる先駆的存在であったと云われている。
したがって、その意味における武士の発生は、中世における社会の担い手となる在地領主層の基礎を作り、武士団の成立に繋がって行く。武士階級の構成は、同族的結合を中核とし、「家」というものと、血族の「血」というものを重んじて、武士間の階級構成は、内部的なヒエラルキーを構築させつつ、一個の戦闘的権力組織を築き上げた。これを「武士団」と言う。
この武士団は、やがて「土豪」や「豪族」という形態を取りつつ、武力を以て、社会支配層に伸(の)し上がって行く基盤を築いた。
土豪や豪族を中枢とする武士団は、中世の鎌倉時代に至って隆盛(りゅうせい)を見る。こうした現象は十一世紀頃から全国的に発生し、鎌倉幕府創設から江戸幕府の終末までの、約六百七十有余年の間、武家政治の中枢を担った。そしてその存在形態は、武士団をはじめとして、「党」「一揆」「大名家臣団」等を構成し、これ等は時代や各地域によって様々であった。
一般には、武士は「侍」(さむらい)とも呼ばれているが、これは主人の近辺に伺候(しこう/おそばに奉公するの意)する意味の動詞である「さぶらふ」が名詞化したものであり、八世紀はじめに編纂された『養老律令』(ようろうりつりょう/律・令各十巻の古代の法典で、718年(養老二年)藤原不比等(ふひとら)が編纂を開始し、757年(天平宝字元年)藤原仲麻呂の提案で施行。大宝律令とほとんど同文であり、中世に律は大半散逸したが、唐律から内容を推定でき、令は大半が令義解(りようのぎげ)など注釈書の本文として残る)によれば、老人及び重病人に、侍(さむらい)を賜(たまわる)る規定があり、ここでは該当人の子・孫・近親、その他の順で、侍を選ぶことが定められていた。また当時は、主人に伺候するというような身分意識はなかったものと思われる。
奈良後期から平安初期にかけての天皇は、桓武天皇(737〜806)である。
桓武天皇は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ/平安初期の武人で、蝦夷(えぞ)征討に大功があり、正三位大納言。また、京都の清水寺を建立したことで有名。758〜811)を征夷大将軍として東北に派遣し、794年(延暦十三年)平安遷都(せんと)を実現し、長岡京(ながおかきょう)から、都を山城国宇太(やましろのくにうた)に遷都した。これが「平安京」である。
桓武天皇が在位したのは781年から806年までの二十五年間であり、在位中での偉業は、平安京を都に定めたことであり、平安京は延暦十三年(794)から明治元年(1868)までの、都が東京に移るまでの1074年間を「平安京」とし、「都」を京都の中心部に据えたことである。
元々、平城京や平安京は、隋(ずい)や唐の都の長安(ちょうあん)を模して建設された都市であるが、彼(か)の国にあった城壁は最後まで造られず、治安用の土塀程度のもので間に合わされた。日本では、城壁で囲われた都市は遂に出現しなかったのである。
この事は、歴史的に観(み)て何を意味するか。
それは日本人が優れた定住的な「農耕民族」という事を現しているのである。そして古くからの都市は多数住居を構築し、更に加えて、商業施設の密集する楽市楽座のような地域を造ったのである。こうした発想が、平城京や平安京にも反映されていたと見るべきであろう。
したがって隋や唐のような、堅牢(けんろう)な城壁で囲まれた都市は遂に出現しなかったのである。またこれが、農耕民族であるが故の、宿業(しゅくごう)だといえるだろう。
そしてその宿業は、半農半兵の武士団を形成し、侍が登場することになる。
そして平安時代に至ると、皇族や貴族などは、身辺に常時伺候する侍を身辺警護に当てるようになる。
侍の本分は、「武勇の士」として高く評価されることになり、皇族並びに身分の高い貴族らの護衛を任務として、これを専業化することになる。
また、侍は、自らも「五位」「六位」といった官位を持つようになり、武士の中でも身分の高い者は、自らも身辺に家臣として侍を置くようになった。これが主人に直接仕える「侍」というものの存在になって行く。
この事は、以後の武家政権内部に於いても同様であり、鎌倉幕府の元では、郎党(郎等という「党」を構成)を従えて、騎乗の資格を持つ身分の高い武士が登場している。
騎乗の資格を持つ武士は、一般の侍とは異なり、郎党とは明確に区別された階級であった。後に、騎乗の資格を持つ武士は、「騎馬侍」と称され、「徒(かち)侍」のような、足軽や中間の下級武士とは区別されることになる。
しかし、この時代の侍は、「徒侍」(かちざむらい)という下級武士と同義語で、「騎馬武者」や「騎馬侍」とは区別されていたのである。騎馬武者の資格を持つ者だけが、将軍直属の家臣であり、「御家中」と称され、この家臣団から御家人(ごけにん)が発生する。御家人は幕府の役職につく事が出来、幕政に参画することが出来た。
また、御家人にならない、武士は「侍」と云う身分で、「非御家人」とよばれ、奉公の義務もなく、更には幕府の保護もなかった。
室町時代に至ると、足利氏(あしかがし)一門に従う武者を「侍」と云うようになり、侍はこの時代、前時代より異なった意味を持つようになって来る。つまり、一門に従う者を侍と呼ぶようになり、江戸幕府でも、御目見(おめみえ)以上を「幕臣」と呼び、旗本以上を「侍」と云うようになった。
更に「侍」の語は、下級武士とは区別して、こう呼ばれるようになった。しかし江戸時代では、将軍家と直接的な結びつきを持ち、その家臣団が「侍」なのであって、旗本以下の下級武士は侍とは区別されるようになったという事である。
江戸時代は徳川家康以降、時代の安定とその固定化が続くと、社会機構が揺るぎないものとなり、身分の秩序も、武士階級内部の問題から社会全般へと拡大化されて行くことになる。つまり身分の固定化であり、これが「士・農・工・商」の身分制度を作り上げて行った。そして武士全体を総称して、後に「侍」と呼ぶようになった。
武士の発生は、おおよそ十世紀から十一世紀の中世にかけて、農村の中から生まれたと推測されている。また、農村の中から生まれたと考えるには、その発生要因が、それ以前の諸条件に見い出されるものでなければならない。これを推測すると、「律令制」に深く関係を持っているように思われる。
律令制の元では、唐(とう)の兵制に習って、地方に軍団が置かれたが、八世紀末に至り、これが廃止されて健児制(こんでいせい)が用いられることになった。
健児制は奈良時代や平安時代、軍団を廃した代りに、諸国に健児制を配置して、その国の兵力および国府の守護(しゅご)、あるいは関所の警固などをさせた兵士の事を指し、これ等は地方有力者の子弟から選抜したのである。また地方の郡司(ぐんじ/律令時代の地方行政官)や富裕者の子弟から健児(こんでい)が選ばれ、選ばれた彼等は、「選士」あるいは「健士」と呼ばれた。
そして健児制の形は、武家時代に至っても続くことになり、やがて下級武士である中間(ちゅうげん)や足軽(あしがろ)という階層を生み出すことになる。
しかし実際的には、このような兵制の側面だけを論じても、私的戦闘集団である武士団の形成と、構成員としての武士の発生は、充分に説明することができない。則(すなわ)ち、武士団が存在するには、武士構成員そのものの、財力や権力を背景とする社会的経済的政治的基盤がなければならないのである。
では、その財力や権力は何処から派生したか。
それは「健児田」に見る事が出来る。
奈良時代や平安時代には、諸国に配置した健児の食料に充(あ)てた不輸租田(ふゆそでん)に、この糸口が隠されている。
不輸租田とは、律令制で、神田・寺田・公廨(くげ)田・勧学田・勅旨田・放生田など、公用・準公用に供するため、田租を免除された田のことである。一方、律令制で、私的用益を許し、田租を課した田のことである。口分田・位田・墾田などを「輸租田」といった。
さて、十世紀になると、律令的な公領制度は既に崩れ、荘園が各地に成立し始めていた。公領も国衙領(こくがりょう)も、その関係によって私的支配され、平安後期以後、国司の統治下にある土地や国領は、荘園制度的なものへと土地制度が一般化されるようになった。この頃から、旧荘園の支配が弛(ゆる)み始め、未墾地や荒廃地は、国家や有力寺院の手から地方の有力者である豪族の手へと移り始めていたのである。
未墾地や荒廃地の開拓者は、国衙(こくが)に納めるべき雑役・雑税の免除と、租税の系統を曳(ひ)く正税である「官物」(かんもつ)の一部控除が認められた。また免除を許された分が、開拓者の私的収益となり、やがてこの収益が財を成す起因となった。
開墾地を「私領」もしくは「私地」と呼び、あるいは「開発私領」「根本私領」と呼ばれた。この頃になると、一般農民の小規模な開墾は盛んに行われ、この開墾地は「百姓治田」と呼ばれるようになった。しかし零細な百姓治田は、やがて有力土豪のもとに集積され、次々に買収されて行った。
有力土豪は自らの開墾地の他に、これらの集積した私地も、開発私領と称し、支配地を次々に拡大して行った。また、有力土豪は自らの開発私領が、国衙に「保」(ほう)、あるいは「別符名」(べっぷみょう)として認められることにより、自ら保司職(ほうししき)、名主職(みょうしゅしき)を得て、その所領の領有を保証されるようになった。
また、一方に於いて、国衙の下級官吏である在庁官人として、地位を保有し、所領の領有を中核として現地で実力を貯えて行った。しかし国衙の保証だけではその存在意義は充分でなく、所領の自衛の為に武力を養う必要があった。ここに戦闘集団としての武士団の形成が必要になり、これが武士を作り出す「武士化」に拍車をかけて行ったのである。
更には、現地保有の保全を完璧にする為に、中央からの下向(げこう)してくる受領(ずりょう/国司の意)や目代(もくたい/代官の意)に所領の領有を否定されたい為に、有力土豪はその私領を権門勢家に寄進し、名目上、権門勢家の荘園とする荘園寄進を盛んに行ったのである。
寄進の条件としては、有力土豪が一定の年貢(ねんぐ)を納めると云うことはその条件であり、この条件を許(もと)に、権門勢家から所領の領有を保証してもらったのである。これは国衙から干渉を受けない為の手段であった。そして有力土豪は、実質上、領主権を手に入れたのであった。
更にこの領主権は、預所職(あずかりどころしき)、下司職(げししき)などと呼ばれ、荘官職に補任するとう形をもって、荘園領主から身分と地位が保証されていたのである。このように荘園体制の内部から入り込んで行った開発領主は、荘官(しょうかん)として、その所領の私有を保証された上に、「荘官的領主」に伸(の)し上がり、地方武士団の首領として、強力な武士を形成する主流のなって行ったのである。
では、開発領主は、前時代にはどのような階層の系譜を曳(ひ)くのであろうか。
この系譜には諸説があり、「武士」イコール「開発領主」と定義され、前時代の「私営田領主」に系譜を曳くものが主流であるとし、領主的支配を発展させたと考える説が有力のようである。
私営田領主は広大な土地を所有し、これを直接自分で経営し、大地主的経営者であった。付近の貧困農民層を集め、彼等の労働力として使い、多くの奇口(きこう/律令制の戸籍で、一戸を構成しえず、他戸に付記された小家族)や奴婢(どひ/下男と下女)を含めた大規模な家族が、強大な権力と土地を所有する家長の許(もと)に集合したのである。
一つは、所領の経営の参画であり、もう一つは暴力的に、武力を以て支配を貫徹する事であった。そして私営田領主の許では、農民が従者として領主に仕え、従者を駆使して経営を続けて行く為には、武力行使が必要だったのである。そして領主といわれるこの役目は、「猛者」(もさ)でなければならなかったのである。
猛者は自らの力を直接的に、農業経営に反映させる為に、農民支配にその鉾先(ほこさき)を向けるが、更に進んで、農民達を一つに纏(まと)めようとする策を行う。つまり農民を、ひと纏(まと)めにして、武力組織を作り上げたのである。この時に、私営田領主は「首領」としてヒエラルキーの頂点に立つ位置付けがなされ、その配下に、農民が形を変えた「兵」(つわもの)が出現するのである。
この兵は武士の前進であり、具体的な人物としては平将門(たいらのまさかど/生年不詳〜940年没。将門は、桓武平氏の祖で、桓武天皇の皇子葛原親王の孫にあたる高見王の子の高望(たかもち)の孫と謂(いわ)れ、父は良持とも良将ともいうが、謎の多い人物である)が上げられる。
平将門は平安中期の武将であり、摂政・藤原忠平(ただひら/醍醐天皇の時代の左大臣で、兄時平の後を継いで延喜格式を撰上。朱雀天皇の時、摂政関白・太政大臣。880〜949)に仕えて検非違使(けびいし/平安初期から置かれ、京中の非法・非違を検察し、追捕・訴訟・行刑をつかさどった職)を望むが成らず、憤慨して関東に赴いた人物で、最初は相馬小二郎と称した。
伯父国香(くにか)を殺して近国を侵し、939年(天慶二年)居館を下総猿島(しもふささしま)に建て、文武百官を置き、自ら「新皇」と称し、関東に威を振ったが、平貞盛(たいらのさだもり)と藤原秀郷(ひでさと)に討たれた。
しかし、この間の将門の兵力の特徴を挙げるならば、恒常的な戦闘組織が出来上がっていない時代であり、時の情勢の応じて容易に変動し、あるいは農繁期には、兵士達の多くが帰郷するといった不安定な現象が観(み)られる武士団であった。
将門の従える兵士の主体は農民であり、武芸を専門に行うと云った武芸集団ではなかった。平安中期に至っても、こうした状況であった。この事から察すれば、この時代、まだ武芸を専門に行う専業者としての武士は存在しなかったことになる。また、武術の「流名・流派」と言うものも、この時代には全く存在していない。
平将門が没した年は、940年である。
これは武術や武芸の歴史を語る上で、重要な事柄である。何故ならば、当時の武士団は、その実体が農民であり、農繁期には帰郷するといった、半分は武士の体裁を取り繕(つくろ)い、また半分は農事の専従者だったからである。ここに日本人は、農耕民族であると言う証(あかし)がある。
更に時代を振り返れば、清和天皇が生きた時代は850年から880年の三十年間であり、在位したのは、まだ七歳の幼帝の頃であり、858年から876年までであり、将門の時代より、六十年も前の時代の天皇である。
その六十年後、平将門が武士集団らしきものを組織するが、その武士と云われた主体は「農民」であり、この時代、武芸を専門的に行う武士は、まだ登場していない。
したがって私営田領主が幅を利(き)かせた時代、「兵」と呼ばれた階層は、まだ中世の武士団とは言えないものであった。武士団と言えない集団が、武芸を専業として行えるわけがなく、当時の兵の実体は、紛れもなく「農夫」であると云う事が分かる。その後に至って、兵の実体は変貌を遂げる。
つまり、兵と呼ばれていた私営田領主は、その武力が未熟であり、然(しか)も兵の場合、その所従、従者は同時に農夫であり、これが武士に変貌(へんぼう)を遂げる課程に、郎党も存在するようになり、あるいは在地領主にもなり得た。また、その郎党が従者を従えることにより、主従関係の階層的な関係が生まれるのである。したがって兵は、所従を持つが、兵が他の兵を従えるという重層的な階層関係は未(ま)だなかった。
主従関係に階層的な関係が認められない以上、師弟関係など存在するわけがなく、武芸や稽古事というのは、師弟関係あってのことであり、この時代こうしたものは歴史的に見ても皆無である。
ところが、こうした私営田領主の組織した武力集団が、やがて中世的な武士団として発展して行ったことは事実である。私営田領主の経営内部には、農民達の成長が見られ、荘園内の「田堵(でんと)名主」のような地主層も出現した。更に在地領主化し、在地の小武士団を形成するに至った。私営田領主を内部から切り崩す力を、農民層からなる小武士団は持ち始めたのである。
このような私営田領主の危機にあたり、兵としての強い力が失われると、彼等は没落する運命を辿(たど)り、これに代わって、新興の地主層が組織されることになる。
地主層が組織した戦闘集団は、新しい戦闘組織となって、彼等は在地の豪族的領主となって、次の時代に生き残りを果たす。こうした豪族的領主は、先進地帯である関西近畿地方に起り、新興の在地勢力が早くから成長し始めていた。然(しか)も、この地に於ては、古代国家の権力が強く、ために私営田領主の経営を圧迫した為、私営田領主の没落が早くから顕(あら)われていた。
逆に、東国や九州などの地に於ては、辺境後進地帯の観が否めず、その没落は少なかった。そしてその為に、千葉氏(桓武平氏良文の支流で、下総の豪族)や上総(かずさ)氏(今の千葉県の中央部に勢力を持っていた豪族)等に見られるように、豪族的在地領主へと発展して行った者が多く見られた。
やがて武士は、大武士団を形成することになる。しかし武士が、武芸を専業としてこれに従事し、武技を職能として生活する職能民と捉えることが出来た時代は平安後期からであり、清和天皇朝時代(清和天皇在位は858年から876年まで十八年間)は、まだ武技や武芸なるものは一切存在しなかった事が分かる。それは武士団が専業者として存在していないからであり、この時代の武士は、季節労働者的な半農半兵であったからだ。
しかし時代が下がり、平安後期になると、豪族的武士層と、中小の在地武士層の間には、所領の支配を媒介する封建的主従関係が成立した。そこに生まれた階層的支配関係が、武士組織の中で強大なヒエラルキーをつくり始め、これを基軸として、新たに次なる戦闘組織は誕生して行った。そしてこれは強大化し、やがて大武士団を形成したのである。
ここに武士が武術・武芸の専業者として、職能民の基盤を築くことになり、時代は鎌倉時代へと突き進んでいく。そして鎌倉時代こそ、武士は職能民として開花していくことになるのである。
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