■ 《大東流蜘蛛之巣伝》と武士団戦闘構想■
(だいとうりゅくものすでんとぶしだんせんとうこうそう)
●日本人に忠誠心は存在するか
江戸時代の武士は軍人ではなかった。
これは「日本」と言う国を理解する上で重要な事柄であり、また「忠義の民」であると信じられている日本人の義理人情」も、本来は表皮的かつ短見的な解釈であり、日本人の忠義と云う意識は、忠孝と云う語源と裏腹に重複した矛盾を抱えている。それを如実に顕わすのが、幕末である。
当時の徳川幕府の中央政権下には、旗本・御家人を合わせて約二万五千人を数えていた。徳川家ゆかりの諸藩の親藩大名下には、相当数の徳川直結の武士団が居て、これを合計すると十数万人以上に及んだ。
これだけの武装官吏を所有する徳川幕府が、尊王攘夷を叫ぶ、圧倒的な少数派の過激集団に屈し、あるいは世論を恐れて、これを論ずる事を避け、更には、たった六百人程のペリー艦隊の砲撃の前に降参した、当時の徳川幕府と云う非武装国家の中枢は、忠義も奉公の意識も全く存在しない、軍事思想と戦争観の欠落した武士団の集合であったと言う事が分かる。世界史の戦争論から見れば、これは全くの、ギネスブック的な大記録と言えよう。
このギネスブックの記録に迫るものとして、約八万人の常備兵を持っていたインカ帝国が、たった百六十人のスペイン人に征服されたという例ぐらいであろう。
一方、こうした事実を持ち出せば、言い訳と弁明好きの日本人は、当時の武器の差、あるいは国際情勢の大局観の有無などを持ち出して、これに抗議するであろうが、これは単なる悔(くや)し紛(まぎ)れの言い訳に過ぎない。
尚武の気風が旺盛と信じられている日本国民は、当時の欧米列強からは、その弱さが見透かされていたのである。したがって、ヨーロッパ列強の植民地になってしまう恐れがあった。
中国がアヘン戦争を経由して、植民地になった如く、日本もこれが危惧(きぐ)されていた。この危惧の念を現したのが吉田松陰であった。
吉田松陰は軍学者であったが、日本人のこうした側面を欧米人同様に見透かし、「日本人の尚武の心なし」と嘆いていたのである。だからこそ、黒船の砲艦外交に屈する日本人を、よく凝視していたといえる。「尚武の心あり」と考えるのは、実に短見的な発想なのであろう。
むしろ尚武の気風が旺盛ならば、武器の差とか、国際情勢を持ち出す前に、これまでの日本精神と、日本という国を守ろうとして、一戦に及ぶべきものであったろう。
歴史を振り返れば、ヨーロッパ勢力の東漸(とうぜん/勢力が次第に、東方に進み移ること)において、トルコも、ペルシャも、中国も、一戦も二戦もこれと交えている。カラハリ砂漠のズール族や、アメリカインデアンやサエモなどは、ヨーロッパ勢力の前に屈する事なく、激しい戦いを展開しつつ、これに最後まで抵抗した。
また、アラビア半島の北岸に位置していた、今日のアラブ首長国連邦の辺りに生息していたベトウィン系の住民ですら、弓矢と投石で、二百年に亘り、当時世界最強と称されたイギリス海軍と戦い続け、決してこれに負ける事はなかった。
この地域が戦前まで、「オーマン休戦海岸」と云われたのは、彼等ベトウィン系の住民が、イギリスと対等な休戦条約を結んだとする名誉の証(あかし)であった。
日本においても、「尚武の気風」を重んじていた薩摩藩では、イギリス艦隊と戦い、決して負けはしなかった。薩摩の城下では、イギリスの砲撃によって、街は火の海になったが、それでも薩摩藩士達は勇猛果敢に戦い、イギリス側に対しても大きな損害を与えた。そしてやがて、イギリス艦隊は退却を余儀無くされたのである。
これは国民が戦意を持っていれば、武器の装備や戦術に、かなりの差があっても、その戦力の何十倍の兵力差ぐらいでは、びくともしない闘志の在(あ)り方を顕わしている。
こうして考えて来ると、朝鮮戦争の朝鮮民族も然(しか)りであり、またベトナム戦争におけるベトコン側の勇戦も然りと云わざるを得ない。
幕末に於いて、当時の武士階級で、外国と一戦を交えたのは、薩摩藩と長州藩だけであり、その他は戦わずして砲艦外交の軍門に下り、今日の日本人が、まるで原子爆弾を恐れるように、黒船の大砲を恐れたのである。したがって、幕府は開港をする以外にその選択肢はなく、また不平等条約すらも平気で結んでしまったのである。当時の幕府の役人の中には、自らの弱さを充分に知りつつ、多くの日本人が外国の圧力に対し、戦意のなさを無意識のうちに計算していたに違いなかった。
そしてそれが、日米和親条約や、日米通商修好条約提携に繋がる結果を招いたのだった。
こうした日本人の戦意のなさの無意識を、巧に読み、これを利用し続けたのが、尊王攘夷を掲げる討幕派の過激浪士達(長州藩・水戸藩・薩摩藩・土佐藩・肥前・肥後のなどの脱藩した浪士ならびに、幕府に不満を持つテロリズムを企てる郷士や農民や町人)であった。
尊王攘夷は当時、日本中を巻き込んで大きな嵐となるが、彼等も自分達が政権取得に近づくにつれ、これまでの非武装国家ではどうにもなら無い事を悟って行く。しかし、日本が慌てて西洋式軍隊を組織しても、攘夷が不可能な事を、また悟るのである。彼等は、現実の中で日本人の弱さを再認識し、「開国」し、「文明開化」の政策を押し進めるのである。
軍隊と行政的な警察機構とは根本的に異なっている。
警察機構はあくまでも警察行為の域から出る事はなく、したがって軍隊組織とは大きく異なっている。この事が、徳川時代行政官の官吏としての武士と、文体組織を形成する武士団との違いが理解できなかったのである。
幕府の官吏にとっては、軍隊での一番大切な工兵や輜重兵(しちょうへい)の本質も理解できなかったであろうし、また騎兵の意味も、機能も分からず、騎兵隊とは騎乗を許された上士だけが編成した一軍と勘違いする程だった。また、動員計画とか、戦地行政である軍政などは、全く理解できなかったであろう。
この理解不足は、太平洋戦争に至っても、大きな影を引き摺(ず)り、日本軍の弱点として最後まで残った。太平洋戦争の第一の敗因を挙げれば、日本人は、最後まで「軍隊」と言うものを江戸時代の武士と同様に、理解する事が出来なかったと云う事だ。
では「軍隊」とは、如何なるものか。
武器を所持するだけでは軍隊にならない。軍隊を組織するには、その内部機能が性格に、確実に機能しなければならない。この機能を「自己完結性」という。
自己完結性とは、一切を自前で総(すべ)て解決できるという機能のことである。軍隊が敵陣に進行する為には、兵員を運ぶ輸送手段である鉄道聯隊(れんたい)や、その他のトラックなどの輸送部隊が必要である。物資輸送は輜重兵や船舶兵が行う。これを一々民間の業者に頼むわけにはいかず、軍隊組織自体に、この機能が備わっていなければならない。
橋を架けたり、鉄道を敷いたり、橋頭堡(きょうとうほ)を作ったり、軍事施設や兵舎を建設するのは工兵が行い、負傷兵には陸海軍病院や野戦病院が必要で、ここには軍医も衛生兵も従軍看護婦もいる。また軍医は、医師資格を持つものだけではなく、歯科医師も、獣医師も軍医として扱われた。
その他、陸軍では戦車兵、航空兵、落下傘兵、通信兵、情報や破壊工作をする特殊部隊があり、海軍では戦艦や航空母艦に乗り組む士官や下士官・兵に軍医や看護兵が乗り込み、それぞれの術科には専門の術科学校や、法務や、主計を養成する経理学校が存在した。また、特務将校や技術将校もいた。
軍体内の犯罪捜査は憲兵が行い、犯罪の判決は軍事裁判所である軍法会議がこれを行う。判決が出れば、陸軍刑務所か海軍刑務所で服役しなければならない。つまり、軍隊の中には総ての機関があり、一切合財を自前で解決できる機能を有しているということだ。
これが軍隊に求められる自己完結性であり、軍隊の機能の中に、総てが解決できる能力があるということである。
だが、自己完結性という理解力に、日本人は欠けていた。
徳川幕府がフランスから軍事顧問団を招きながら、彼等から教わったのは、戦闘面の戦術だけであり、戦略面は何一つ教わらず、また幕府自体、ただ戦闘することばかりを学んだ。要するに軍隊の機能で最も重要な、自己完結性について全く学ばなかったのである。
軍隊組織が敵陣に進攻する場合、そこには先陣を切って敵陣に突入する歩兵ばかりでなく、橋を架けたり橋頭堡(きょうとうほ)の足場を作る歩兵を支援する工兵や、歩兵を運ぶ輸送兵や、武器弾薬を運ぶ輜重徴兵が必要である。
そして組織全体の割合から言えば、敵陣に突撃する歩兵や騎兵は、全体の三割程度で、その他は突撃部隊を支援する、七割の後方部隊で組織される。しかし、日本人はこれが理解できなかったのである。軍隊といえば、全軍が歩兵であると勘違いし、軍隊の後方支援部隊については全く理解し得なかったのである。
徳川幕府がフランスの軍事顧問団から、ほとんど戦術だけを学び、近代式軍隊の戦い方については熱心に学んだが、軍隊機能を維持する機能は全く学ぼうとしなかった。橋頭堡を確保する為には工兵が必要であり、武器・弾薬・食糧を運ぶ為には輜重兵が必要であるということを理解できなかったのである。
これは明治新政府の時代になっても同じだった。後に陸軍は、ドイツから戦略という参謀教育の手ほどきを受けるが、これは自己完結性を学んだのではなく、戦術を展開する為の戦略のみを軍事学の対象にとどめたことだった。また、海軍もイギリス式のゼントルマン教育に熱心であったが、肝心な自己完結性は、最後まで学ばずじまいだった。
そしてこれが、太平洋戦争敗戦まで尾を引きずるのである。
しかし、この日本人の弱さを本当に知る抜いていたのは、明治の政治家や軍人達であった。
彼等は徳川時代の非武装国家から何とか抜け出し、西洋の軍事力と肩を並べるべき必死の努力を重ねてるのである。
明治初頭、欧米の軍事指導を得て、何とか軍隊らしきものは組織した。
ところがこの軍隊編成は、付焼刃に過ぎず、当時の国民の多くは軍隊の本質と、その本質的な機能を全く理解する事が出来なかった。また、この理解力の欠如は今日に至っても、余韻(よいん)を曳(ひ)いて残っている。
今日、日本人が日本において、軍隊といえば、自衛隊を想像し、武器を扱う特殊国家公務員ぐらいにしか思っていない。兵力や武器だけを前面に打ち出し、その性能だけを問題にする。
しかし幾ら優秀な武器を所持していても、その武器を使用する為に砲兵や歩兵に、武器・弾薬・食糧を運ぶ輜重兵がいなければ、砲兵や歩兵の活躍は期待できない。
今日の日本では、先の大戦の敗北によって、その後、サラリーマン組織化した自衛隊を組織した。
しかしその組織は、軍隊の形態は為(な)していても、肝心の魂である、軍事思想や戦争観は、何処にも存在していない。これはまさに、幕末の幕府の官吏が理解できなかった軍隊の本質に回帰する。今日の自衛隊員に、戦略思想もなければ、軍事観や戦争観も持ち合わせていない。ただそれぞれの特化部署で、武器の解体組み立てができるといった程度の、サラリーマン的職人に過ぎないのが、今の日本を守る陸海空の自衛隊である。
そして最悪の欠点は、今日の自衛隊には、自己完結性がないということだ。軍法会議がなく、自衛隊員の犯罪捜査は、警察に委ねられるということである。これは、明らかに軍隊組織としての機能を有していないということにもなる。
先の大戦では、日本軍は夜郎自大(威張り腐ること)化して、「威張る」だけに終始し、日本を焦土と化した。欧米の緻密な戦略や戦術に対し、これが劣っていると云う事に気付くと、この欠点をそのまま、武士道の結び付け、武士道を歪(ゆが)めて、「滅びの美学」を導き出す。この結果が「死んで還(かえ)る」ということだった。
「死んで還る」というスローガンは、出征を賛美する合い言葉に造り変えられ、戦況の如何では「玉砕」することが美談にまで伸(の)し上がっていくのである。特攻隊の発想も、
「死んで還る」というスローガンに応呼したものだった。
幕末の頃には、佐幕派・討幕派に関係なく、武士階級は少しでも自分達の「弱さ」を僅かながらに認識していた。しかしその頃から、五十年ほど過ぎると、その「弱さ」をすっかり忘れ、自らを「尚武の民」と称して、自惚れ始めた。「帝国陸海軍は無敵無敗」と自称するようになるのである。
この勝手な過大評価の自己イメージが、後に大きな悲劇を招き、広島と長崎で、頭上に、人類初の原子爆弾を浴びる事になるのである。
歴史に学べは、日本人は「尚武の民」でもないし、「忠誠心の強い民族」でもないと言う事が分かるであろう。
太平洋戦争を振り返れば、当時日本で叫ばれていた日本軍を過大評価した「忠勇無双」という言葉も、また幻想であったという事が分かる。
当時を振り返って、多くの歴史家や経済評論家や進歩的文化人が指摘する、先の大戦の敗因は、アメリカの圧倒的な物量に敗れたのだとする考え方に、先の大戦の無謀論が立脚しているが、必ずしも物量的な格差だけで、日本が戦争に負けた理由は説明できない。むしろ内部構造における欠陥や、ソフトウェアの不備に、その敗因があったと思われる。
したがって、ハードウェアの量的格差に敗因を求めるのは、あまりにも短見である。
しかし、歴史の示すところはそれだけではない。
日本の敗因を求めるならば、日本軍は作戦や戦闘行為、情報処理といった、組織力や動員力の迅速さでも、アメリカ軍には格段に劣っていた。情報と戦局に対する戦闘現場を無視した大本営と陸外軍参謀本部。また、用心深さや注意力、精神の集中力といった内面的な面への侮りもあった。
先の大戦を物量的に分析するならば、昭和十七年まで、日本軍は圧倒的優位に立っていた。アメリカを遥かに上回る兵力と武器を持ちながら、各作戦において裏目、裏目に出て、惨敗を繰り返したのは一度や二度ではない。
中でも日本軍人の軍事思想の幼稚さと、教養面や、日本人全般の戦争観の着薄さは、「尚武の民」を論ずる以前の軽薄そのものだった。
日本人の軽薄を現すアメリカ側の戦記の一節には、「日本軍は太平洋戦争の全戦線において、米を主たる食糧として用い、これは二十世紀の近代的軍隊としては、近代稀に見る戦争観の軽薄をあらわすものである」という厳しい指摘文章がある。
兵員用の食糧として、米は全く戦場向きではない。米を、兵隊が携帯するには、まず水分の含有量が多く、然も輸送に非常に手間がかかり、重量も大きい。その上、飯盒炊飯すれば、火を使わなければならず、煙が出て、それを敵に見られるという恐れがる。
第四次川中島の合戦の、武田信玄と上杉謙信の、妻女山での炊飯時の出来事を考えれば容易に想像がつこう。上杉軍は武田軍の煙の状態を、即座に読み取ったのである。そしてこの事が、武田軍を窮地に追い込める状態を作り、軍師・山本勘助は後に戦死するのである。
原因は、煙を出して、上杉軍に所在を知られたことが仇(あだ)となったのである。
太平洋戦争時の日本軍も、敗因に繋がる原因を、それぞれが内包して戦場に赴いたことになる。太平洋の島々を戦場とした戦いでは、米は非常に不向きな食糧であった。高温多湿の熱帯雨林地帯に、米を持参して出の戦いは、不利不便であるばかりでなく、貯蔵するにも腐りやすくて腐敗しやすい欠点を持っていた。これを第一線に持ち込んだのであるから、日本軍の戦争観は、幼稚なものとして捕らえられても、やむを得ない事である。
そしてこの事が、後にアメリカの戦歴のある将軍に、「日本の軍人は、自らの嗜好を満たすために、戦術的な不利益を犯しながら、それを一向に顧みなかった」と厳しく指定されたのである。
また当時の日本軍には、特殊部隊としてのコマンド思想がなかった。日本人の頭で、コマンドといえば、ゲリラくらいしか想像ができないのである。
「いざ戦争」となれば、普段は贅沢三昧(ぜいたくざんまい)をしていても、直ぐに頭の中を戦時から平時に切り替えて、戦争という現実の中で、殺戮(さつりく)に邁進するのが軍事優先の軍事思想であり、戦争観である。
ところが、日本人は、「尚武」を自負しながらも、喰うか喰われるかの局地に追い込められても、欧米人やユーラシア大陸の民族が何百回となく繰り返した異民族戦争の経験が殆どないから、こうした状況に追いこめられても、実際にぴんとこないのである。
そして「尚武の民」を自称した日本人は、先の大戦で戦争観不在のまま大敗北し、その上、広島と長崎で、人類初の原子爆弾を頭上に浴びたという事実があったことだ。
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