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西郷派大東流と武士道

■ 《大東流蜘蛛之巣伝》と武士団戦闘構想■
(だいとうりゅくものすでんとぶしだんせんとうこうそう)

●源平の武士団

 十一世紀になると、源初的な武士団が登場することになる。要注意願うことは、武士団らしい武士団は、「十一世になってから」である。それ以前に武士は居たが、中心は半農半兵であり、武芸を専門とする職能民ではなかった。武芸も起こらず、流派すらなかったのである。

 十一世紀になると、この時代に到って、武芸を専業とする武士が出現しはじめるのである。したがってそれ以前には、武技・武芸を専業とする武士団は存在しなかった事とになる。
 古代における武士団の特徴は、貴種性ならびに皇胤(こういん)の権威のみを追い求める貴族的な、然(しか)も軟弱な、天皇と血縁関係を結ぶ為に奔走した、政略の駆け引きをする武士団でしかなかったのである。

 しかし平安末期になると、武士団の中に武技・武芸を専門とする専門家的な武士が登場して来る。だがこの武技・武芸は、十六世紀の武芸者のそれではない。武芸者が武芸に長じたものと定義されるのは、もっと後の事であり、日本では飯篠伊賀守家直(いいざさいがのかみいえなお)の「天真正伝神道流」が最も古い。そしてこれ以上に古い、武芸流派は日本では存在しない。

 また武芸者は、《武芸十八般》の六種類の武器を使いこなして、はじめて武芸者と云われるのであって、こうした武芸者が歴史に登場するのは十六世紀になってからの事である。
 当時は、弓・馬・剣(直刀ではなく、弯刀の刀剣)・槍・薙刀・長巻などの小数の武器を巧に使い、武器を持って戦う専門家が徐々に出現したのである。したがって、素肌での、無手の柔術は、この時代存在しないことになる。
 柔術が剣術の裏技として、《武芸十八般》に加えられるのは、江戸中期以降のことである。

 一説に、「抜き手」という技術は、柔術より始まったとする説があるが、これは柔術における技法というより、馬術での技法であり、騎馬武者が歩兵である徒侍(かちざむらい)から手頸(てくび)を握られて、馬から引きずり落とされそうになった時、この抜き手の術を使って、振り切ったのであり、この技術が素肌武術である「柔術より起こった」とする説は、時代的に辻褄(つじつま)が合わなくなる。

 さて、武士団内部の主人と郎党の関係は、最初主人の個人的な力量に委(ゆだ)ねられて、それを信頼すると言う関係で結ばれていた。つまり、全くの私的な主従結合であった。
 この主従結合は、その武士の郎党一族の成立の要因として、第一は、武士団の本拠地で常日頃特に親しく親身に仕え、然(しか)も武技に優れた家臣団を形成する事であった。そして、これが側近者としての固定された地位を得る。これが「親しき郎党」と呼ばれるものであった。

 第二に、私営田領主の崩壊によって、次の時代を担った在地の小領主層は、かつての私営田領主が新たな支配を始めて豪族的武士団を形成する際に、中小の在地領主が豪族的領主の郎党として、これに代わり武士団を構成する構成員となる場合に興(おこ)ったものである。

 第三には、武士団が今以上に大きくなり、更に発展を続けて相互の力関係によって競合と統合が進む時に発生し、近辺の中小の武士団を取り込んで、これに主従関係を組織する場合に興(おこ)った経緯を持っている。
 例えば武士団は、清和源氏や桓武平氏を棟梁(とうりょう)とする全国規模のヒエラルキーが各地で展開された時、そこには幾つかの政治的な事件が勃発している。

 特に、桓武平氏におけるこの流れは、桓武天皇の子孫で平姓を賜った氏で、葛原(かつらはら)親王(桓武天皇の第三皇子で、桓武平氏の祖。786〜853)の孫・高望王(たかもちおう)に始まり、国香(くにか)・将門(まさかど)・貞盛(さだもり)らが、関東に威を振ったことに始まり、十一世紀後半を武士団の色で大きく染めている。それは彼等が皇族賜姓(こうぞくしせい/皇族が天皇から姓を賜って臣籍に降下すること。桓武平氏や清和源氏の類)の豪族であるからだ。

 桓武天皇の皇子、葛原(かつはら)・万多(まんた)・仲野(なかの)・賀陽(かや)の四親王の子孫で、このうち最も繁栄したのは葛原親王の孫・平高望(たいらのたかもち)の子孫であった。その一族のうち、伊勢に根拠地を置いたものを「伊勢平氏」といい、忠盛(ただもり)・清盛(きよもり)などが出たことに由来している。

 更に、皇族賜姓の豪族の支流を見ると、仁明(にんみょう)天皇(平安前期の天皇で、深草天皇とも言われた)の皇子・本康親王の子孫や、文徳天皇の皇子・惟彦親王の子孫、光孝天皇の皇子・是忠親王の子孫を見ることができ、皇胤の流れを示している。
 また、「前九年の役」と「後三年の役」は、源氏の東国における基盤を確固たるものにした。
 「前九年の役」に於ては頼義が、「後三年の役」にはその子・義家がいずれも武功を立てている。頼義は平安中期の武将であり、彼は、父と共に平忠常を討ち、相模守(さがみのかみ)となり、後に陸奥(むつ)の地方豪族の安倍頼時(よりとき)・貞任(さだとう)父子を鳥海棚(とりみだな/現在の岩手県金ヶ崎町)で討ち、伊予守(いよのかみ)となっている。また、東国地方に源氏の地歩を確立した。

 一方、その子・義家は平安後期の武将で、八幡太郎と号したことは特に有名である。義家は武勇人に勝れ、和歌も巧みであった事から今日に於いても、芝居などで脚色されてよく登場する。「前九年の役」には、父とともに陸奥の安倍貞任を討ち、陸奥守兼鎮守府将軍となり、「後三年の役」を平定している。更に、東国に源氏勢力の根拠を固めた人物で名高い。

 源頼義・義家父子は、彼等自身、周囲に形成されていた私的な主従関係で結ばれた武士団ばかりでなく、多くの東国武士の支持を得て、彼等を自分の勢力下に納め強大な兵力を構成した。そしてこの義家の代になって、源氏は「天下第一武勇之士」という評価と名声を得て、摂政家の庇護(ひご)の許、巨大な勢力を拡大して行った。

 しかし東国の彼等が、如何に武勇に優れようとも、京都の中央政界では、しょせん貴族的な侍階級に過ぎず、彼等が政治的な権力を握ろうとすることに抑制する中央権力の威光が働いていた。
 この抑止力になったのは、白河上皇の院政であり、上皇が院政を始めると院政を支える勢力が、藤原摂政家の権勢の抑制を目標にして、摂政家の庇護を受けている源氏発展の阻害に勢力を傾けるようになる。然も、この頃から源氏一族は種々の内紛が起り、逆に院との結びつきを強めた桓武平氏が浮上して来るようになる。平忠盛(1096〜1153)の、源氏を凌(しの)ぐ勢いはこの時から始まる。

 忠盛は平安末期の武将で、正盛の子、そして清盛の父であった。白河・鳥羽両上皇に信頼され、1129年(大治四年)に山陽・南海二道の海賊を追捕し、1135年(保延元年)再度西海の海賊を平らげ、累進して刑部卿(けいぶきょう/刑律や獄訟を司る役職)に進み、内昇殿を許された。また日宋貿易に尽力したことで有名である。
 更に、忠盛の子・清盛の代になると、「保元の乱」に見るような、政治紛争解決には武士の武力の力に頼る以外ないと云う概念を朝廷に植え付け、これに続く「平治の乱」では源氏を倒して、中央権力で武力を持つ一大勢力となった。

 「保元の乱」は保元元年七月に起った内乱であり、皇室内部では、崇徳上皇と後白河天皇と、摂関家では藤原頼長と忠通との対立が激化し、崇徳・頼長側は源為義、後白河・忠通側は平清盛・源義朝の軍を主力として戦ったが、崇徳側は敗れ、上皇は讃岐(さぬき)に流された。この乱は、武士の政界進出の大きな契機となったといわれている。
 更に、「平治の乱」は平治元年(1159)十二月に起った内乱で、藤原通憲(信西)対藤原信頼、源義朝対平清盛の勢力争いが原因で内紛を極め、信頼は義朝と、通憲は清盛と組んで戦ったが、源氏は平氏に破れ、信頼は斬罪、義朝は尾張で長田忠致(ただむね)に殺された。

 平清盛は、これまでの武士団の運営を一部変更して、従属的立場を脱し、中央権力の政界に君臨する事で、新たな主従における利害関係を構築したのであった。
 しかし、一方に於いて平氏は貴族化の方向に走り、地方の在地武士との対立を深めて行った。更に地方武士の支持を失い、治承(じしょう/平安末期の高倉・安徳天皇朝の年号)四年(1180)以降、諸国の源氏の挙兵が相次ぎ、寿永(じゅえい/安徳天皇朝の年号)四年(1185)三月には、壇ノ浦(だんのうら)の合戦で平氏は滅亡した。


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