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西郷派大東流と武士道

■ 《大東流蜘蛛之巣伝》と武士団戦闘構想■
(だいとうりゅくものすでんとぶしだんせんとうこうそう)

●日本に「忠義の民」存在せず

 「士道」と「武士道」が大きく異なっている事は、これまで繰り返し述べてきた。
 日本の戦国時代にあっては、『三河物語』からも分かるように、自分の主君に対しては、忠義心とか忠誠心で仕えると言う観念は、まだ江戸初期にはなかった。
 あくまで、軍事的強制的組織の頂点に立つ大名を盟主として、自分の主人を選ぶと言うのが通常だった。 したがって強い豪族の許(もと)には、多くの家臣候補者が殺到した。

 つまり戦国時代における家臣団と云うのは、一種の雇用誓約により結ばれていたと言う事が分かるのであり、自前の一族郎党を率いて、主君と共に戦(いくさ)に参画すると言う封建的主従関係も、また御恩と奉公によって、君主に奉仕すると言う概念もなかったのである。したがって主従間には、雇用者に対する従業員の忠誠心も、忠義と言う概念も殆ど育っていないのである。

 戦国時代のおける戦国大名下での武士の概念は、今風で云うプロ野球の選手と同じようなもので、例えば、巨人に在籍した選手が、トレードによって阪神に移籍すると行った程度の概念であり、選手自身は最初から巨人に骨を埋めると言う忠誠心も、忠義心も持っては居ないのである。雇用契約が成立している間、トレード後の、阪神の為に全力を挙げると行った程度のものであり、阪神の利益の為に貢献すると行った契約選手が、つまり、戦国期の家臣団と酷似するのである。

 しかし一方に於いて、各々の時誓約を結んだ主人の為に、全力を尽くすという考え方もあった事は事実で、「二君に仕えず」という言葉が示す通り、主人を時と場合に応じて変えると言う家臣側から見た概念も育ち始めていたが、それは江戸初期に至ってからである。これ以前は、例えば藤堂高虎(とうどうたかとら)が七度主君を変えたとか、加藤清正(かとうきよまさ)が豊臣を捨てて徳川に趨(はし)ったとかの、希薄な主従関係を、現代風の義理人情や忠誠の論理で批判する事は彼等にとって気の毒であり、徳川時代以前の概念では、「二君に仕えず」という倫理観は持ち合わせて居なかったのである。
 したがって戦国時代にあっては、武将の裏切りや寝返りは日常茶飯事であり、当時の武士団の感覚は倫理観以前の人間性に、はっきりとした忠義心や忠誠心の観念が不明確であったと言う事が窺(うかが)えるのである。

 日本において、武士の忠誠心や忠義心が喧(やかま)しく云われ始めたのは、十七世紀の徳川時代に至ってからであり、徳川時代に至っても、その中期以前は、武士達が如何に忠誠心を欠いていたか驚くばかりである。だからこそ、「忠臣蔵」が美談として取り上げられ、やがて『葉隠』が登場する事になる。
 忠臣蔵は読んで字の如く、「忠臣」が大勢出て来る話である。この物語の大筋は、日本人であれば誰でも知っていようと思う。

 元禄十四年(1701)三月十四日、播州赤穂藩(ばんしゅうあこうはん)の殿様であった浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり/江戸中期の播州赤穂城主。1667〜1701)が勅使接待役となり、殿中で、勅使接待役の指導をしていた吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)を傷つけ、徳川五代将軍・綱吉(家光の四男で、在職1680〜1709。綱吉が在職した期間を後世では、天和の治と称されるが、次第に柳沢吉保(やなぎさわよしやす)らの側近政治の弊害が現れ、特に生類(しようるい)憐みの令は人民を苦しめ、犬公方(いぬくぼう)とあだ名された。1646〜1709)の怒りに触れ、即日切腹となった刃傷事件である。

 この事件により浅野家はお家断絶となり、この事件の原因を作ったのは、勅使接待役を仰せつかった浅野内匠頭を辱(はずかし)めた吉良上野介であるという事から、浅野家の遺臣四十七士が徒党を組んで吉良邸に討ち入り、上野介の首を刎(は)ねる。後に、討ち入りをした四十七人は全員切腹となるが、主君の為に忠義と忠誠を最後まで押し通したという事で、美談として祀(まつ)り上げられ、毎年十二月十四日前後をはさんで、「忠臣蔵」の時代劇などがテレビで放映される。これは、日本人がこれこそ「忠義の鏡」として美談化している心情に由来する。
 しかし、事件の全容は、まさしく大袈裟な暴力的復讐事件であるのだが、武士の「忠義なる行為」として大いに賞賛される事になるのである。

 この事件より五十年後、大筋は忽(たちま)ち芝居や後段に取り上げられ、巷(ちまた)では大衆の人気を集める事になる。
 元禄時代に於いて、江戸期の社会体制は堅く固定化され、それは揺るぎないものとなっていた。主君が切腹となり御家が取り潰されると、多くの諸藩は家臣達が忽(たちま)ち浪々の身となった。
 しかし浅野家の家臣はこれを潔よしとせず、命を張って、その直接的な原因を作った人物を殺害し、復讐すると言う事件に及んだ。この行為は、紛れもなく大袈裟な暴力的復讐であるが、この時代、その一方に於いて、復讐に及んだ遺臣たる者の忠義として考える特異な考え方が存在して居た事を示している。復讐に及んだ播州浅野家の遺臣四十七士は、その行動に及んだ為に、以降「赤穂義士」として讃えられる事になる。

 播州浅野家は当時五万二千石の小藩であり、士分以上の家臣は約三百人ほどだった。そのうち、討ち入りに参加したのは四十七人であり、全体から見た参加率は僅かに15.6%であった。この数字が高いか低いか、また、全員が忠義の心で参加したか否か、こうした事にも、裏から見れば、大抵は気付かぬところに問題を抱えている。

 というのは、討ち入り参加者の中にも、吉良家の討ち入りを足掛かりとして、再就職運動にこれを賭けるという者が居たからである。しかし、日本人が「忠臣蔵」を論ずる時、こうしたものは一切省略され、一方的な芝居や講談の解釈から、復讐劇を「忠臣」と取り上げたところに大きな問題がある。こうした背後に隠れた参加者の思惑を省略して、日本人はこれを「忠臣蔵」として褒(ほ)め讃(たた)え、一部誤解しているところがあるのである。

 赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、元禄十五年年十二月十四日(1703年1月30日)夜、江戸本所松坂町の吉良上野介邸の襲撃から始まる。
 この襲撃を画策した張本人は、かつて城代家老であった大石内蔵助良雄(おおいしきらのすけよしお/江戸中期、赤穂浅野家の家老で、赤穂浪士の頭領。兵学を山鹿素行に、漢学を伊藤仁斎に学んだ。元禄十六年二月四日切腹。1659〜1703)であり、それに続く者として、吉田忠左衛門・原惣右衛門・間瀬久太夫・小野寺十内・間喜兵衛・磯貝十郎左衛門・堀部弥兵衛・富森助右衛門・潮田又之丞・早水藤左衛門・赤埴源蔵・奥田孫太夫・矢田五郎右衛門・大石瀬左衛門・片岡源五右衛門・近松勘六・大石主税・堀部安兵衛・中村勘助・菅谷半之丞・木村岡右衛門・千馬三郎兵衛・岡野金右衛門・貝賀弥左衛門・大高源吾・不破数右衛門・岡島八十右衛門・吉田沢右衛門・武林唯七・倉橋伝助・村松喜兵衛・杉野十平次・勝田新左衛門・前原伊助・小野寺幸右衛門・間新六・間重次郎・奥田貞右衛門・矢頭右衛門七・村松三太夫・間瀬孫九郎・茅野和介・横川勘平・神崎与五郎・三村次郎左衛門・寺坂吉右衛門の四十七士であった。

 さて、この襲撃事件が何故「忠臣蔵」として賞讃されているか、その根底に大きな問題が横たわっている。
 この時代、自らの主君が切腹に処されたり、大名家が取り潰しになったのは、何も播州赤穂藩だけではない。徳川二五十年間には、何と約二百以上の大名家が幕府の一方的な命令によって、取り潰されているのである。
 但し、お家断絶大名家は三百九十九家あるが、そのうちの大名家側の都合や制度変革によるものは除く。

 こうした現実化にありながら、遺臣がその原因を作ったと称して郎党を組み、復讐劇を演じたのは、多くの大名家の遺臣の中で、赤穂藩が唯一つであり、武士の忠義と忠節を全うする武士団にあっては、僅かに0.5%という数字は何とも淋しい限りである。

 日本人を、諸外国から見て「尚武の民」と称し、「忠誠心の強い民族」と称する向きがあるが、これは大きな誤解であり、全体的に見れば、一体どこに「尚武」があり、「忠義」があると言うのであろうかと疑いたくなる。まさしく買い被りである。実質以上に、日本人と云う実体を高く評価し過ぎているのである。これは新渡戸稲造の『武士道』という、外国人向けの英書が、大きな誤解を招いているといえるであろう。

 これに比べて、ヨーロッパ各地では中世から近世にかけて、皇帝や国王などの巨大勢力が、群小封建諸侯を取り潰すと云う事件は多数あった。諸侯の居城に、無差別攻撃をかけて鏖殺(みなごろ)しにしたり、降伏した諸侯を捉えて残忍な殺し方をした事もあった。
 既に、中世ヨーロッパでは「騎士道」が登場し、キリスト教の影響をも受けながら、騎士身分の台頭によって起った騎士特有の気風があった。この気風の中には、忠誠・勇気・敬神・礼節・名誉・寛容・女性への奉仕などの「徳」が挙げられ、これを理想としたのである。こういう時代にあって、横暴な取り潰しは絶える事はなかった。

 こうした事件で最とも多いのは、江戸幕府と同じく、何等かの罪状をでっち上げて、「領主たる資格無し」と勝手な宣言を行い、領地と居城はもとより、その全てを悉々(ことごと)く奪ってしまうのである。こういう場合、おおよそ三割が戦争になる。皇帝や国王は、領主に対して大軍を差し向ける。これに対抗して、諸侯に忠誠を誓い、大軍勢に及ばぬ迄も、一戦を交えて勇敢に戦う忠臣は非常に多かったのである。

 こうした戦いで、力及ばず敗れたとしても、あるいは領地が奪われたとしても、その後、なお主君に付き従い、ともに諸国を流浪する忠臣団も居たのである。この中には、経済的な困難から仕方なく群盗に成り下がり、いわゆる「強盗男爵」等と呼ばれる、かつての領主と忠臣団も居たのである。
 強盗に成り下がり、窃盗を働く事は決して褒(ほ)められるべき事でないが、そこまで身を落としても、君主に従う家臣団の姿は、遥かに日本の忠臣蔵の比ではない。

 では、日本ではどうだったのか。
 既に述べたように、江戸期には約二百の大名家が取り潰されている。御家御取り潰し、お城御明け渡しともなると、必ず一度や二度は「城を枕に討ち死せん」と豪語する家臣団が居て、幕府軍と一戦を交えるようなポーズを取る輩(やから)がいる。また、「家臣一同、腹を割っさばいて、お家再興を幕府に訴えよう」とする、表面的には勇ましい武士がいる。
 しかし、こうした事は口にするだけで、実際的に行動に至った武士は、数えるくらいしか居なかった。多くは勇ましい言葉止まりで終わったのである。

 一度こうした勇ましい音頭取りが居たとしても、最後まで忠義を全うする武士は少なく、やがて一人去り、二人去りしていくものである。そして一年もすれば、集団は最初だけが「威勢のいい烏合の衆」であったと言う事が分かり、いつの間にか解散してしまう場合が少なくなかった。
 武士の発生から考えて、農民を経由した武士団は、徳川時代に至って「士道」ならびに「武士道」の論理を掲げるようになるが、徳川時代にあっても、武士の忠誠心はこの程度のものであった。

 ちなみに徳川時代に於ては、重臣の子は重臣、足軽の子は足軽というふうに、みな家柄や格式に応じて、地位と職能を相続したように思われているが、実はこれは必ずしもそうではなく、「二君に仕えず」という忠義心を裏切りつつ、意外と主君や主家を度々変える転職組の武士も多かったのである。

 更に幕末になると、豪農や豪商が武士の家督を金で買うという現象まで現れ、百姓や町人でも武士になれるということがあった。
 例えば今まで、豪商の一人息子に生まれた武芸の心得の全くない若者が、突如旗本になるという不思議な現象である。
 今日の日本人が考えているように、日本はヨーロッパの封建制と比較しても厳格に区別されていたわけではなく、身分も金で自由に変えられるという現実があったのである。こうした現実が存在する中では、代々武士の身分であった者が、堕落し、腐るのも当然のことだ。

 だからこそ、山本常朝(つねとも)は『葉隠』の中で、『三河物語』の大久保彦左衛門の論理を退け、主君を諌めるを第一義として、「己が生涯を通して仕えよ」としているのである。したがって常朝の『葉隠』は、中世ヨーロッパの騎士道に酷似するところがあり、まさにヨーロッパ諸侯の忠臣団に匹敵する思想と行動律を定め、「二君に仕えず」を力説したのである。

 忠臣の家臣であったと信じられている赤穂浪士の四十七士であっても、彼等の素性を調べてみると、大部分の武士は、親の代、あるいは自分の代になって浅野家に仕えた武士達であり、親子三代が浅野家に仕えていたと言う武士は非常に少ない事が分かる。
 親の代になって、あるいは自分の代になって仕官が叶い、漸(ようや)くにして勤め始めた武士は、浪人生活の苦しさがよく熟知しているので、吉良邸討ち入りには非常に熱心であった。
 しかし、親子三代以上が浅野家に仕えた武士は、牢籠(ろうろう)の身の苦しさなど想像もつかないので、「討ち入り連判状」には血判を押すが、いざ、討ち入りとなると尻込みし、やがて浪士団からは去って、新たな就職運動を起こしたり、町家へと身を落として行った。

 一口で「武士は二君に仕えず」という。
 しかし、これはあくまでタテマエである。「飢えは恥よりも苦しい」というのが、武士の偽わざるホンネであったろう。
 だからこそ、常朝はこうした武士に対し、激怒し、『葉隠』には、「諌言を入れない主君であっても、そのような表面的な解釈で主君を理解するのでなく、主君が喩(たと)え悪を働いたとしても、主君の罪を自分が被り、然る後に折を見て、なお主君を諌め続けるのが武士たる者のありからである」と力説するのである。したがって、これまでの説明から結論付ければ、『三河物語』で挙げられているような「主君に忠誠を尽す武士」を、一概に「御家の犬」とは一蹴できないのである。
 むしろ、他家に転職したり、時代に応じて掌(てのひら)をひっくり返すような武士こそ、憎むべき武士だと常朝は結論付けているのである。

 世の中の常は、裏切り者が多々居る事である。
 無能な主人の許(もと)から去り、有能な主人の下(もと)に馳せ参じた。これは、時代が代わった、方針や指針が代わったと言えば聞こえがいいが、これにかこつけて、今まで世話になった主人の許(もと)を離れる人間は、古今東西実に多いのである。しかし中世ヨーロッパでは、以降騎士道が発生し、この道を踏み進んだ紳士は、今日に至っても、これを忠実に守り通し、忠誠の気風を持つ人物は多い。

 ところが日本ではどうだろうか。
 一方で終身雇用と云われる日本の会社組織を横眼に見ながら、自分の家族と自分の生活に寄与した経営者は、一度風向きが悪くなると、見向きもされなくなる。ここに日本人の変り身に早さがあると言えばそれ迄だが、日本人は元来の国民性として、「明日の豊かさより、今日の豊かさを求める」民族のようだ。
 ここに、「人につかず、金につく」と言う、日本人の浮動性がある。

 それを如実に顕わすものが、「江戸城開城」でなかったか。
 「江戸城開城」に至る迄の経緯は、徳川幕臣代表者の裏切りに端を発する。歴史からこの経緯を窺えば、周知のように徳川幕府は一八六七年、薩摩長州を中心とする二藩と、尊王攘夷を掲げる過激派志士の叛乱や暴動によって、意図も簡単に倒壊する。西南雄藩から見ての倒幕運動を、どれだけの武士が、幕府の徳川将軍家に、命賭けで忠義に赴いたであろうか。

 当時、佐幕の為に忠義を尽くし、徳川将軍家を側面からバックアップしたのは、僅かに二藩の会津藩と桑名藩であり、また長岡藩や、その他の「奥羽列藩同盟」(戊辰戦争に際し新政府に対抗した東北・越後諸藩の同盟。慶応四年(1868)五月、仙台藩を中心に奥羽二十五藩、ついで越後六藩が参加して盟約、会津藩征討中止などを要求し、連合して薩長軍を討つとした。新政府軍に敗退する中で瓦解)の弱小の小藩であり、これらは今風に云えば、遠縁の子会社や孫会社である。また、新撰組や京都見廻役は、急遽(きゅうきょ)寄せ集められた臨事雇のガードマンでしかなかった。

 一方、徳川幕府には、こんな小規模な外郭団体ではなく、もっと強力な、歴(れっき)とした正社員とも云うべき、「旗本八万騎」が居たのである。実際には、旗本八万騎は大袈裟であるかも知れないが、幕末の頃の徳川本家の直結の武士団は、旗本や御家人を合わせて、約二万五千人であったと推測されている。

 この勢力は会津藩や桑名藩に比べると、数倍以上にも及ぶ大勢力であった。しかし、この約二万五千人の旗本や御家人は、佐幕として動こうとはしなかった。歴代の恩顧を、徳川本家より受け賜りながら、最も忠誠の家臣団べきあるはずの彼等が、佐幕に身を投じないとは、一体どうした事であろうか。

 この当時、幕府に忠誠を尽くした旗本は、勘定奉行の小栗上野介(おぐりこうずけのすけ/幕末の旗本で、万延元年(1860)通商条約批准交換のため渡米。のち外国奉行・町奉行・勘定奉行・軍艦奉行を歴任。ロシアとの折衝、フランス士官の招聘、製鉄所の経営などに尽したが、徳川慶喜の恭順に反対して辞職し、最後は官軍に捕われて打ち首になった。1827〜1868)くらいなもので、他の幕閣は何もしなかった。
 この意味から考えれば、小栗上野介こそ、徳川本家に忠節と忠義の道を貫いた「誠の武士」でなかったか。しかし、彼の評価は「朝廷に弓引く逆賊」【註】孝明天皇に忠節を尽くし、京都守護職として、朝廷に「忠節」を、最後まで捧げ通した会津藩は、近代日本史の中で、しばらく「逆賊」として登場してくる)として評価は低く、まるで大悪人のような評価で近代日本史に登場してくる。

 その一方、中には自分の保身とその後の生活を考えて、明治新政府に寝返ったり、吾(わ)が身一身を安全と引き換えに、自分の資産を保存する事のみに奔走した旗本や御家人も少なくなかった。
 この意味からすれば、幕臣旗本の勝安房守海舟などは、幕閣最大の裏切り者であり、客観的に厳しく洞察すれば、徳川幕府を滅ぼす為に、その内側から城壁を崩し、積極的に西南雄藩の侵略を受け入れ易いように働いた事実上の裏切り者であった。

 ところが日本史を見るとどうであろうか。
 彼は、江戸無血開城の功労者となり、幕府側代表として江戸城明渡しの任を果した後、維新後には参議となり、海軍卿となり、枢密顧問官となって、更には伯爵の爵位まで賜っているではないか。徳川本家に、忠誠を尽くさねばならぬはずの幕府側の代表者がこれである。大人物と評される裏側には、こうした裏切り的な側面もあるのだ。

  日本人は、自国民の英雄を客観的に厳しく分析し、その非を論ずることが下手な人種である。だから、裏切り者でも「時の英雄」として逆評価されてしまう。
  一体、日本人の何処をもって、「忠義の民」と評するのであろうか。また日本人の「忠節」は、何処に存在するのであろうか。

 そして日本人が、国際政治の中で、人物的にそれほど高く評価されず、茶坊主的な評価が下されているのは、実はこうした「忠義の民」と評する過大評価に、その真相を、したたかに外国人から見透かされている現実が有るのではあるまいか。


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