■ 日本人としての誇り ■
(にほんじんとしてのほこり)
●切り札の定義
そこで西郷派大東流合気武術は、こう提案したい。「切り札」を持てと。
人に負けない、自分だけの切り札。これそが咄嗟の場合、何よりも役に立つ切り札だ。
しかし切り札と言っても、単に「術」の習得に明け暮れることではない。
その心構えが、切り札となるのだ。隙を作らない心構えだ。如何なる気配も感じ取る「八方の目配り」だ。
あなたは、自分の前に、いま、一個の湯呑み茶碗が置かれているとしよう。
あなたはこれを、どう見るか。
単に湯呑み茶碗と見るのか、咄嗟のときの武器と見るのか。
古人は、こうした物の存在も、咄嗟のときは武器になることを教えた。
自分の前に座っている、対峙した相手が、突然敵に豹変して襲い掛かったとき、この茶碗の湯を敵に眼潰しとして掛け、次に茶碗を叩き割って、その欠片(かけら)で、敵の目に斬り掛かれと教えた。要するに、これだけの気魄を持つ心構えだ。
この心構えを、実際に遣う必要はない。こうしたことを知っておくだけで、敵が知らない術を知っているということは、それだけで自信となり、切り札となる。
そして切り札は、「遣わない」という限りにおいて、その効力を発揮する。
しかし切り札は、一旦遣ってしまえば、敵に手の裡(うち)が知れ、研究する機会を与えてしまう。秘密は、秘密であってこそ、それは秘密なのである。
手の裡を公開した秘密が、秘密であるはずが無い。
西郷派大東流合気武術には、こうした「秘伝」と言う、秘密が沢山あるのである。それも簡単に解る事の無い、「口伝」と言われる、古人が数百年単位で研究した秘伝が……。
合気は、一般に普及している「合気道」のそれではない。もっと高度な技術だ。これをマスターすれば、喩え、不慮の事故に遭遇しても、命だけは落とさずにすむ。
人間の命は一つしかない。自分に与えられた命はたった一つ。
この一つの命を、あなたはどう護るか。
●本物を目指そう
今日の世の中は、どこか暗雲が垂れ込め、混沌としている。
そして人は、こうした現実にありながらも、悩みと、絶望と、不安を隠し、こうしたものは一切通さぬような自己を懸命に作り上げようとしている。
ある人は宗教の名を借りて、またある人は人格改造という集団心理の力を借りて。
しかしこうしたものを借りて、作り上げた自己は、しょせん「単なる自己」に過ぎない。
浅はかな自己の肯定である。
そこで見られる朗らかさや、楽観や、快活な積極性は作られた、軽薄な、無知な積極性ではない。
これはかつての、アメリカテレビ映画の「パパものドラマ」の家庭劇的な浅はかなる朗らかさであって、こうした取って付けたような楽観や快活は、解決されるべき自己のテーマでなく、未知数の要因を含んでいる。
そして、いつかは不安や苦難や絶望に面したとき、砕け散るような疑懼(ぎく/疑い恐れることの意)の構図が裏に隠れているのである。
それは悲しみを通過したの朗らかさではなく、悲しみを経由しない朗らかさなのだ。
換言すれば、苦労を知らないトントン拍子の成功であり、苦労以前に存在した成功であり、実はこの成功は見せ掛けの、本物ではない成功である。これこそが、しょせん砂上の楼閣の実態だ。
真実の朗らかさとは、作られた中に存在しない。
もし真実の朗らかさがあるとするならば、それは絶望の淵を逍遙い、苦悩を重ねて、こうしたドン底から這い上がってきたときのみに、生まれるものである。素通りした朗らかさなど、一銭の値うちもないのだ。
さて昨今、大東流は、故人・武田惣角の武勇伝を以て、人気を集め、ここに参集した愛好者は多い。
しかし、武田惣角の武勇伝を以てしても、明治時代に大成した技の数々は、最早時代遅れの骨董品となり、技法事態は時代錯誤の観が強い。こうした型稽古を何年繰り返しても、それは骨董品の範疇(はんちゅう)の域を抜け出すものでなく、時代遅れの技術になりつつある。
こうした愛好者は、しかし頑迷にも、その骨董品を後生大事に護り、その一方において、空手や拳法やボクシングの打法を真似をし、空手式の組手を興じる団体も少なくない。
おそらくこうした目的で大東流を愛好する連中は、柔術は大東流で、その柔術の対抗しきれない徒手空拳は、空手か拳法で対処して、それを骨董品の補填に当てているということであろうが、果たしてこれが本物といえるか。
本物は、人脈的流統の系図に、己の姓名が記載されているか否かではない。本物はその時代を考え、時代に合わせて創意工夫することが、これを、より一層本物に近づける道だと思う。
骨董品の物真似は、このスピード時代のめまぐるしさにそぐわない。
しかし流名と人脈系統図に重きを置くあまり、いつまでも骨董品の域を抜けきれない武技は、やがて役に立たない時代錯誤のものとなってしまう。
更に骨董品の付加価値を付ける為に、空手式などの組手を模倣してこれを創意工夫とするのは、如何なものであろうか。
西郷派大東流合気武術は、総合武術として故人の智慧を総結集した、近代希にみる武術である。この域は単に格闘のみに止まらない。「負けない境地」を会得するためにはどうしたら良いか。こうした事を、長年研究してきた。
頑強な体躯を養う為には、単に行き当たりばったりの練習を反復させても、無駄である事を知り尽くしてきた。
そこが他の大東流柔術と一線を画するところであるが、それに加えて、武術家は、同時に、「一個の人間」でなければならない。
単に反復練習を繰り返し、世の中に脊(せ)を向けて、空しい遠吠えで一人芝居を演じるものではない。
積極的に世の中に関与し、世の中の不正な暴力や腐敗を正し、こうした不正や腐敗が罷り通る、現世の恥部を改造して行かなければならないと思っている。
武術家は武人である前に、一個の人間である。人間として現世を生き、人生を生き、その上で不正や腐敗を正す奉仕人であらねばならない。そこに全人格を代表する偉大な武士道精神が生まれるのである。
武士道とは何か。
それは一切の代償を顧みない、人民への奉仕である。 |