■ 日本人としての誇り ■
(にほんじんとしてのほこり)
●謙虚を忘れず
人の一生を顧みて、それはあまりにも果敢ないものであると、染み染み思わざるを得ない。
我が身を悪魔に売り渡して巨額の暴利を貪った者、あるいは世間的に名声を博しようと奔走した者、そして富者を夢見ながらそれになることができなかった者。結局はいずれを比べても、大宇宙から見れば、他愛のない五十歩百歩であった。
しかし一方で、いい年をしながら、強弱論を論じ、西洋の持ち込んだ弱肉強食の低次元な世界に身を置き、自分のしている行動の愚かさに気付かず、いつまでも得意になっている人間も少なくない。これは武道やスポーツや格闘技の世界に限らず、広く一般に見られることである。
あるラーメン屋の前で長蛇の列が出来ている。また、或る、たこ焼屋の前で、お好み焼き屋の前で、名物寿司屋の前で、新手のフランチャイズ店の前で、こうした現象は見られる。
こうした店を経営する経営者の傲慢はどうだ。我がままぶりはどうだ。
人間が、世間的に有名になっても、それは一種の利口馬鹿である。こうした有頂天に舞い上がる人間は、自分を厳しき戒める自粛がなければ、最も始末の悪い愚か者に成り下がる。彼等にその覚悟はあるのか。
本当の人生の生き甲斐は、こうした傲慢や、我がままに振る舞うことにあるのではない。
誰もが、そう、心の片隅では感じていても、多くは自分一身の幸福を目当てにして生きている。
自分一身の立場から、自分一身の安全地帯から一歩も踏み出すことはない。いささかでも、いいから、人の為に貢献し、奉仕しようとする心が無い。すべては自分の為に、自分の家族の為に、何事も、目的も、これに回帰する。
しかし果たして人生に、これで歓喜は訪れるか。得意満面の有頂天に舞い上がって、他を見下すことが、人間に与えられた人生ではなかったはずだ。
再び、謙虚を思い出して見るべきである。
●自分一人の、誰からも真似されない「切り札」を持とう
さて、西郷派大東流合気武術は、その流名が示す通り「武術」である。武術の奥儀は「術」である。「術」を以て、敵を制する武技である。
したがって体力に頼る事なく、また筋トレで反復運動をして、肉体美の品評会のようなボディービルダーのような、筋肉隆々の体躯を造る必要もない。そうした点では、大量に汗をかく反復練習も必要ではあるまい。
それはこの武術が、スポーツ武道と異なり、準備運動も、競技終了後の整理運動も、する必要が無い「術理」で出来上がっているからだ。古人はこれを作る為に、数百年単位で智慧と技術を結集した。
ここが一人の天才的な開祖が出て来て、数年で技を作った武道各流派とは異なる。
今日、欧米から流れ込んできた西洋スポーツは、呼吸による吐納法が正しくない。その為、力む現象が起きる。ここ一番の、一瞬に呼吸が止まる。
この現象が心臓肥大症(心筋梗塞)という原因をつくりだしている。無理をすればショック死するという現象だ。これはマラソンやジョギングに見られ、また近代剣道にも見られる。
わが西郷派大東流合気武術は、その愚を犯さない。
そして武術の奥儀は「秘伝」に由来する。
秘伝を「切り札」として用いる以上、これは公開されることはない。少なくとも「口伝」と言われる部分は、一般に公開されない。秘密を秘密として、一子相伝によって純正なものを保存していく為である。
したがってその稽古は地味であるし、コツコツと少しずつ、毎日地道な努力を重ねて向上していくものである。
この地道な努力の裏付けは、新聞やテレビで報道され、有名を馳せる為の売名行為ではない。秘伝を「切り札」として用いる為の努力であり、「切り札」を、イザという時機(とき)に用いる為の努力である。
多くの人は、不慮の事故を、自分とは全く関係無いと思い込んでいる。自分には、災難は降り掛からないと、そう信じているのではあるまいか。
毎日、必ず何処かで起こっている交通事故。毎日、必ず何処かで起こっている殺人事件や傷害事件。こうしたものを、何処か遠い国の出来事のように思っているのではあるまいか。
「君子、危うきに近寄らず」
確かに的を射た言葉である。しかし不慮の事故はこうした「危うきに近寄らず」の、ごく一般家庭の玄関や、庭先で起こったり、白昼の往来で、堂々と、大胆に発生している。
そして悲劇とは、自分はこうした不慮の事故とは無関係で、こうした事件には遭遇しないという、安易な考えから起こっている。
人間には危険に遭遇しても、あるいは咄嗟(とっさ)の出来事にしても、これを回避する為に防衛本能が働く。
風が砂を巻上げれば、目に砂が入らない為に瞼(まぶた)を閉じるし、頭上に落下物が落ちればこれを防ごうとして、自然と腕は頭を護ろうとするし、内臓を収める弱い腹部を護るにも、自然と両手で覆い、本能的な動作が作動するようになっている。
しかし危険が渦巻く、高度に発達した現代社会は、こうした原始時代に、人間が身に付けた防衛本能の防禦力では、殆ど要をなさない。生命が危険に曝されたとき、咄嗟に対応できる術(すべ)がないことには、到底今日の暴力は防ぎきれない。
刃物を突きつけられて、目を閉じてしまえば刺されるだけである。顔面を打たれまいとして頭部をガードすれば、水落(鳩尾とも。ミズオチの訛。 胸骨の下の方、胸の中央前面のくぼんだ所)や金的(睾丸)を殴られる。
ではこうした時代、何を以て、その「術」とするのか。
考え方は人様々であろう。
ある者は、徒手空拳の武道や格闘技を求めて松濤館のような型空手、あるいはフルコン空手、拳法、ボクシング、ムエタイ、K1などをケンカ目的の予備練習とするであろうし、またある者は一撃必殺と信じられていた実戦空手が意外に脆く、意図も簡単にグレーシー柔術に敗れたことから、柔道やレスリングを選択する向きもあろう。
しかしこうしたスポーツや格闘技も、練習形式は「一対一」であり、多勢に無勢の、ストリート・ファイターの比ではない。試合のルールに則ったもので、その上、刃物を持った凶悪犯には、全く無力であるという欠点がある。
また、相手が複数だったら、この危機をどう脱出するのか。更には、日本刀で斬り掛かってきたら、どう躱(かわ)すのか、その辺のことは明確にされていない。
これは兵法の、何たるかという、「殺し之術」の根本原理が抜けている為である。
また実戦護身術を考えた場合、襲われて何処までが防禦の為の正統防衛で、何処からが傷害事件なのか、日本は法律的にもはっきりさせていない。
正統防衛という自己主張した行動に出た結果、傷害事件の加害者にさせられてしまうこともあるのだ。
かつて、ある女性が夕暮れの会社帰り、ストーカーに付け狙われて、肩を抱かれた瞬間に、日頃から練習していた杖術の技を遣って、ストーカー男の暴力を払い除けようとしたところ、この女性は力余って、男の目を傘先で突き刺してしまった。故意ではなかった。
男は強制猥褻の現行犯として、近くの交番に突き出されたが、ここで男は目を潰された理由で居直り、女性の過剰防衛を理由に、傷害事件として今度は逆に女性を訴えてしまった。
立場は一転して女性は加害者となり、ストーカー男が被害者として、刑事事件とともに、高額な慰謝料と、片目を失った損害賠償を求めての熾烈な民事裁判が起こった。
ストーカー男と、その両親は自らの家庭教育の躾(しつけ)の不充分を棚に上げて、強制猥褻行為の被害者の女性を、新聞やテレビにも取り上げるよう、単独で「被害者の会」を作り、世間の同情票が集まるように工作を開始した。
結局、猥褻行為の被害者の女性は、名前を伏せられてテレビが取り上げ、新聞が取り上げて、その是非の判断を巡って一時社会的な問題になったことがあった。
ところがこの女性は、いつの間にか過剰防衛の加害者にされて、世間を騒がせたという理由で、勤め先の会社まで馘(くび)になってしまった。
それ以降、この女性は地獄の泥沼が始まった。今まで習っていた武道を辞め、また一生涯を掛けて償いをする現実が始まった。
あなたはこうした事件を、どう思われるだろうか。
そしてこの世の中が、何処かおかしいのではないか、と気付かれないだろうか。 もし、これにも関心を抱かず、他人事と思って、自分とは無関係だ、と考えるならば、次はあなたが、こうした事件に遭遇するかもしれない。
こうした事件は日常茶飯事に起こっている。小競り合いは、どの階級でもあり、何処ででも抗争が起きている。何も、抗争は暴力団だけの世界ではない。 |