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西郷派大東流と武士道

■ 日本人としての誇り ■
(にほんじんとしてのほこり)

●日本が亡国の危機に際したとき、日本人として何をするべきか

 われわれ日本人は、その国家の歴史の中で、北条時宗や、徳川慶喜や、東郷平八郎を知っている。彼等は国難を救った人達である。

 北条時宗は鎌倉幕府の時の執権であり、1274年(文永11)元寇を撃退し、北九州沿岸に防塁を築き、81年(弘安4)の再度の元寇も、よくこれを防御した武人である。
 もし日本が度続く、蒙古来襲に屈していたら、おそらく今日の日本とは違った歴史をとどめていたであろう。

 徳川慶喜は徳川第15代将軍(在職1866〜1867)であった。徳川斉昭の7男として生まれ、初め一橋家を嗣ぎ、後見職として将軍家茂を補佐した。
 1866年(慶応2)将軍職を継いだが、幕末の内憂外患に直面して、翌年遂に大政を奉還、68年鳥羽伏見の戦を起して敗れ、江戸城を明け渡して水戸に退き、駿府に隠棲した。

 慶喜の偉大さは、鳥羽伏見の戦後、江戸城を明け渡し、水戸や駿府に隠棲したことである。そして以降、挙兵の意は表わさなかった。蟄居謹慎して何もしなかった。この「何もしない」というところに、徳川慶喜の偉大さがある
 こうした負け戦に直面したとき、愚将はこれを何とか立て直し、兵を纏めて再建を計らうとするのであるが、慶喜はそれをあえてしなかった。

 もし、これを行った場合、慶喜の人物と力倆(りきりょう)からして、江戸に押し寄せる西南雄藩(薩摩、長州、土佐、肥前)に対抗して、奥州越同諸藩(会津、米沢、桑名、仙台、長岡)を纏めてこれに対抗したかもしれない。そうなったらおそらく、日本は東西に分断され、朝鮮半島の如きなって、欧米列強の植民地になり、喰い物にされたであろう。

 事実、当時の東西を二分する各々の勢力には、例えば薩摩にはイギリスが軍事援助を行い、幕府にはフランスが軍事援助を行っていた。そしてこの背後には各々の外圧勢力であるフリーメーソンが関与していた。
 例えば、観光地長崎市のグラバー邸の持ち主であったトーマス・ブレーク・グラバーは、スコットランド系のフリーメーソンであり、21歳のとき、長崎にやってきた武器商人であった。またフリーメーソンの日本支社長であった。

 坂本龍馬と盟友になり、海援隊の創立後、フリーメーソンに入社させ、龍馬をそそのかして武器販売組織「亀山社中」を結成させた。
 またグラバーは、伊藤博文、井上馨、五代友厚、森有礼らに働きかけて、秘密裡に日本二分計画を実行していた。ところが龍馬はフリーメーソンの真の意図を見抜き、組織から退社(脱退)の意を現わし、逆にグラバーはその深層部を覗かれた事を知ると、刺客(一般には京都見廻組とも新撰組ともいわれるが……?)を送り、陸援隊の中岡慎太郎ともども、京都の近江屋の二階六畳で暗殺してしまった。

 そしてこの事件に仰天したのが、福沢諭吉であった。彼もまたフリーメーソンの結社員であったからである。「今度は俺の番か」と呟いたのは福沢であった。
 以降、武士階級嫌い、侍嫌いの福沢は、不思議な行動に出る。
 それは刺客に備えて「居合術」を猛烈に稽古し始めたことである。そして福沢の腕前は、居合術の達人の域まで達していたという。これは福沢の賢明な選択であった。
 以降、67歳まで命をつなぐことになる。

 一方、幕府勢力に関与したのはフランスメーソンの大東社(グラントリアン)であった。
 またこのグランドロッジの指令に従い、日本にやってきたのがオランダ系プロシア人のヘンリー・シュネルであった。
 兄シュネルは、弟エドワード(武器商人)とともに来日。幕府の在日プロシア公使館付の書記官であったが、幕府と西南雄藩との睨み合いが激しくなると、離任して会津藩に取り憑いた。

 表向きは日本名・平松武兵衛(家老職待遇)を名乗る軍事顧問であったが、深層部での素顔は列記とした武器商人であり、弟とともにシュネル兄弟商会として奥州越同盟諸藩に飛び回り、次々に武器を売りつけていった。
 特に、長岡藩の陽明学者として知られる同藩家老・河井継之助と懇意になり、河井をフリーメーソンに入社させ、当時、日本ではまだどこの藩でも所持しない、ガトリング砲を売りつけた。河井はナポレオン・ボナパルトの戦争芸術に傾倒していたのである。

 こうして日本の東西分断作戦は、両方のフリーメーソン同士が画策して、水面下で着々と押し進められていたのである。

 会津藩家老・西郷頼母は、戊辰戦争に対しての徹底した反戦論者であった。
 頼母は、当時京都守護職にあった藩主を諌める。
 「薪を背負って火の中に飛び込むが如し」とは、頼母の言であった。しかしこれは聞き入れられなかった。
 また戊辰戦争に対しても反対を唱えた。
 鳥羽伏見の戦で会津藩兵を置き去りにして逃げた会津藩・主松平容保の、遺恨戦ともいえる会津戊辰戦争を、反戦論者として、藩主を諌めたのは頼母であった。その度に頼母は幽閉された。

 また東郷平八郎は日露戦争において、連合艦隊司令長官に就任後、日本海海戦でバルチック艦隊を破り、日本の国難を救った。この時も、もし日本海海戦で日本が敗れていたら、今とは違った、ロシアの属国になっていたであろう。

 さて国難に対して常に立ち上がったのは、質素倹約を旨とする当時の武士階級であった。
 会津西郷家と薩摩西郷家は、血筋的には遠縁であり、その起こりは南北朝時代、九州のスメラギと称された菊池一族に端を発する。
 菊池一族は菊地則隆(のりたか)を初代当主とする。この一族の掲げるスローガンは、不正な暴力と平和を乱す敵に対して尊王思想に基づく「正義武断」であった。

 1019年(寛仁3)刀伊(刀夷とも)が壱岐対馬、博多、北九州の地域を襲って、掠奪と殺戮を度々繰り返していた。
 刀伊は女真人(じょしんじん)であり、中国東北地方から沿海州方面に居住したツングース系の民族で、騎馬戦闘に慣れ、獰猛で、奪う、犯す、殺すなどを行って、その残虐行為は当時の日本人を慄え上がらせた。戦闘に慣れ、好戦的で、騎馬戦並びに海戦に長け、海賊行為を繰り返した民族で、当時の日本には彼等と互角に戦える武士勢力は存在しなかった。

 しかしこれに勇敢に戦いを挑んだのが、菊地則隆の祖父にあたる、太宰府長官であった権帥(ごんのそつ)藤原隆家(たかいえ)であった。
 隆家は北部九州の豪族達を指揮して、これをことごとく撃退したという。
 しかし当初は刀伊の巧妙な戦術に撹乱されて、苦戦が強いられ、敗退に次ぐ敗退で、これに対峙する武士はいなくなり、最後は太宰府の文官達までもを指揮して、これと戦い、文官達もまた勇敢に戦った。
 この隆家の勇猛果敢な指揮ぶりは『大鏡』にも記されている。

 また、後の蒙古来襲のときには、菊池武房が北条時宗と並ぶ活躍を示し、このことは『蒙古来襲絵詞』に描かれている。
 菊池氏が日本史の中でクローズアップされたのは、隠岐(おき)に流された伯耆国(鳥取県の西部)船上山に脱出した後醍醐天皇に応呼して、「元弘の変」に壮絶な討ち死をした菊池武時の頃からである。

 「菊池武時申状」によると、楠木正成が軍功の第一人者として嫡名(ちゃくなん)の武重を推薦し、肥後守の地位を与えられたと記されている。
 その後、建武二年(1335年)新政府が崩壊し、後醍醐天皇と足利尊氏の戦いが始まると、天皇方につき、大いに奮戦した。
 中央では武重が箱根山合戦において奮戦し、九州ではその弟武敏が「多々良浜の合戦」で尊氏直義兄弟を戦っている。

 歴史を振り返れば、菊池氏は北朝方の世になっても、名誉ある形で武家社会の中枢に生き残り、中世以降も領土支配が許された。そして「九州のスメラギ」として長く君臨することになる。

 菊池氏は古代末から中世に掛けて、肥後国菊池郡を本拠地として栄えてきた武当派の戦闘集団であり、その行動範囲は広く、その子孫が長距離遠征を繰り返して、中国四国地方、関西地方、関東各地、更には東北に至り、会津に及んで西郷姓を名乗ったとしても不思議ではない。

 西郷隆盛は薩摩藩の藩命により、大島に流されたときは「菊池源吾」と名乗っている。隆盛は先祖の苗字言い伝えにより、一時期、旧姓菊池氏を名乗ったのであろう。
 また西郷氏は菊地則隆の次男・西郷太郎政隆を初代当主として興り、以降ここから東郷姓、本郷姓と分かれていく。東郷平八郎も、また菊池一族の末裔である。
 そして日本が危機に接したとき、これらの苗字を持った菊池一族の末裔が立ち上がり、国難を救っている。(詳しくは曽川和翁著『大東流合気二刀剣』を参照されたし)

 こうして日本史を振り返るとき、古人は瑞穂の国・麗しき山河を護る為に、命を投げ出して外敵と戦っている。
 しかし今日、先の大戦の敗北から自虐的史観とともに、「善意による脅し」と「言論による暴力」は、現代に日本列島を直撃し、この嵐は、忌まわしき社会風潮となって今もなお、荒れ狂っている。

●日本消滅の危機に、あなたは日本人として何が奉仕できるか

 この嵐の元凶は、欧米が持ち込んだ歴史史観であり、独断的な一列平等思想は、日本国民の学校教育を崩壊寸前に導こうとしている。

 国民の膏血(こうけつ)をつぎ込んでの学校教育の存在意義は、自らの子供及び、学校区の地域住民の子弟が、豊かな精神と、健康な肉体の育成の双方が健全に行われ、これが正しく機能することであった。
 ところが今日、五体満足な健康な子供に生まれてきても、子供自身にも、また親達にとっても、問題は多く山積みされている。

 今日、日本人の一般レベルでの教養の高さは、世界に誇るべきものであるといわれる。特に識字率はその一つであろう。
 アメリカでは五人に一人が字が読めないという。これから考えると日本は、義務教育のレベルは高く、文盲は少ないことになる。

 しかし字は読めるが、読めるだけで頭はカラッポ。自分で物事を考えたり、判断する力はアメリカの文盲より劣っているのではないかという、不審が頭を持ち上げてくる。そして追言すれば、道徳心の低さや、マナー的レベルに低さは眼を覆うばかりで、世界でも最低である。

 日本は明治の幕開けとともに、学校教育の中で「修身」という科目を取り入れ、子供の心身健全育成を図った。
 ところが戦後は、この忌まわしい「修身」によって多くの若者が戦場に駆り出され、また国内を焦土に化した元凶として、これは自虐的反省とともに、教育現場では捨て去られてしまった。

 昨今は「道徳」として復活したが、子供達に道徳を教える教師も、親達も、皆無の状態である。
 そして道徳の代わりに教えられるのは、「自由と平等」の思想であり、また、決して異論を挟むことが許されない「民主主義」と「人権の尊重」である。更に付け加えられて、自虐的な歴史観を「常識」と置き換える歪んだ教育である。

 しかし学校教育の歪みは、これだけではとどまらない。
 小学校教育(一部の地方には中学校も)の中には「学校給食制度」が依然として実施されている。ここで支給される給食とは、「現代栄養学」に基づいた食事メニューである。

 現代栄養学とは、一般には栄養について研究する学問と信じられている。
 概ねは、栄養素の代謝・所要量・過不足による病態、食品の種類・組成・調理法、疾患時の食事などについて生理学・生化学・病理学・衛生学の立場から探究する学問としているが、その深層部には欧米の食糧メジャーの意向が働いている。

 また国連機関のFOA(Food and Agriculture Organization of the U. N./国連食糧農業機関)がこれに関与し、 世界の食糧および農業問題の恒久的解決を図ることを目的とするという標榜を掲げている。
 しかしこれは表面的なことである。

 われわれ日本人は、いつから日本人であることを忘れ、欧米人の模倣を始めたのだろうか。そして、あの日本が、まだ貧しかったあの時代、その食生活の正しさは、今よりも間違っていなかったはずである。
 今、われわれはこうした、貧しかった時代の食体系が、実は正しかったのではないか、とつくづく考えさせられるのである。

 食生活の誤りは、日本人に何を齎したか。
 成人病と怪我と争いを齎しただけではなかったか。不幸現象を次から次へとつくり出しただけではなかったか。
 目的を失い、拠り所を失った青少年達は、苦しみ、すさぶ心の救いを何に求めてよいか、その芯(しん)を見失っている。

 その自己表現の一つとして、髪の毛を茶色や金髪に染め、あるいはアメリカ下級層の黒人の真似をして、そのファッションに酔い痴ている。遊ぶ金欲しさに援助交際という売春を働いたり、ひったくりや、強盗事件までも起こしている。すべて教育の荒廃と、食への慎みを忘れた副産物である。

 明日を担う子供達は、かつては国の宝と表された。しかし今日、それは見る影もない。
 ただでさえ少子化によって減っているという日本の現状からすれば、こうした浮草のような青少年ばかりが増えて、成人していくとしたら、日本は、まさに亡国を暗示するものである。

 大人達は、こうした手合いに手をこまねき、扱かねている。こうしたところにも、学校教師一人の、一辺倒的な学校教育に委ねるのでなく、家庭教育での躾も重要性を帯びてくる。

 さて、親自身が襟を正すべき反省箇所は多々存在すると思うが、あなたは如何が思われるだろうか。


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