■ 西郷頼母と西郷四郎■
(さいごうたのもとさいごうしろう)
●西郷頼母の陽明学的行動
封建時代において、支配体制側の都合のいい学問は「朱子学」であった。
朱子学は、南宋の朱熹(しゅき)が、北宋以来の理気世界観に基づいて大成した儒学の体系である。
宇宙を、存在としての「気」と、存在根拠・法則としての「理」と、二元論的にとらえ、二者の相乗的発展において、気と理の命題を追求する学問である。その根本は、人間においては前者が「気質の性」、後者が「本然の性」となり、本然の性にこそ「理」が備わっているとして、「性即理」の命題をうち立て、この理の自己実現を哲学的課題の中心に置いた。
その方法としては、「格物致知」「居敬窮理」「主敬静坐」などであり、これを究める事によって「性即理」が備わるとした。
更に、「理」としての規範や名分を重視するところから、以後、明代・清代を通じて、封建的身分制的秩序のイデオロギーとして、体制教学化され、李氏朝鮮(りし‐ちょうせん)や、江戸時代の日本にも、その面から導入され、徳川幕府体制側の官学となった。朱子学は、体制側の学問としては非常に都合がいい学問であった。
日本では、藤原惺窩(ふじわら‐せいか/江戸初期の儒学者。播州播磨(ばんしゅう‐はりま)に生れ、初め相国寺の僧、後に朱子学を究め、儒を以て世に立ち、門人に林羅山らを輩出。著「惺窩文集」など。1561〜1619)・林羅山(はやし‐らいざん/江戸初期の幕府の儒官。藤原惺窩に朱子学を学び、家康以後四代の侍講となる。また、上野忍ヶ岡に学問所および先聖殿を建て、昌平黌(しようへいこう)の起源をなした。1583〜1657)・木下順庵(きのした‐じゅんあん/江戸前期の儒学者。松永尺五に朱子学を学び、加賀藩に仕え、次いで将軍綱吉の侍講。1621〜1698)・室鳩巣(むろ‐きゅうそ/木下順庵に朱子学を学び、加賀藩の儒官、のち新井白石の推薦で幕府の儒官となり、将軍吉宗の侍講。著書に『赤穂義人録』1658〜1734)・山崎闇斎(やまさき‐あんざい/江戸前期の儒学者。初め僧となったが、谷時中に朱子学を学び、京都で塾を開き、門弟数千人に達した。後に吉川惟足(よしかわ‐これたり)に神道を修め、垂加(すいか)神道を興した。著「垂加文集」など。1618〜1682)・柴野栗山(しばのりつざん/江戸後期の儒学者。寛政の三博士の一人。江戸で林氏に学び、昌平黌教官となり異学の禁を建議。1736〜1807)・尾藤二洲(びとう‐にしゅう/江戸後期の儒学者。寛政の三博士の一人。江戸中期の儒学者の片山北海(かたやま‐ほっかい)に学び、のち朱子学を正学として尊び、昌平黌教官となる。1747〜1813)・古賀精里(こが‐せいり/江戸後期の儒学者。寛政の三博士の一人。はじめ陽明学、のち朱子学を奉じ、藩校の創設に尽力して幕府に登用され、昌平黌教官となる。1750〜1817)らを日本朱子学派と呼ぶ。
これ等の人は、総(すべ)て時の権力側に付き、官学として官許学問となり、体制擁護(ようご)を図った人達である。これに寄与した人達を「徳川儒学集団」と言う。
一方陽明学は、体制側とは相反する、これまでにはない革命的な学問であった。
王陽明(おう‐ようめい/明の大儒で政治家。名は守仁。字は伯安。陽明は号。浙江(せっこう/中国東南部)余姚(よちょう)の人。初め心即理、後に致良知の説を唱えた。世にこれを陽明学または王学と称する。兵部尚書。文成と諡(おくりな)された。著書に「伝習録」「王文成公全書」などがある。1472〜1528)の説いた陽明学は、「心即理」を絶対的道理(真理)とし、これは人間の心中にあると説いた学問である。心の在(あ)り方こそ、人間向上の原点であり、心の根本は「まごころ」であると説いた。
人間に備わっている是非善悪を直覚する心は、すなわち「良知」であり、この良知こそ「まごころ」の現れとし、「誠」の一字を「まごころ」と呼んだ。
そして 「誠」を完全に発揮すれば、万物は整然になると説いている。
やがて江戸中期にかけては、行動派武士道観の『葉隠』(佐賀鍋島藩の山本常朝(やまもと‐つねとも)の口述書)にも大きな影響を与え、精神衛生上の手段となり得て、「サムライの行動原理」ともなり得た。これこそが自分自身を、自分の精神的演出者たらしめ、これを「まごころ」をもって表現し、「全人格」をもって全体に奉仕し、これを行動に移す事こそ、武人の行動原理であると説いたのである。
人に還元してこそ、武士道は全うされると説いたのである。したがって、その実践者は、「人の手本にならなければならない」としたのである。
逆説的に言えば、この時代はこれまでの「士道」や「武士道」が地に落ちている時代であったといえる。それ故に、本来の武士道に回帰しなければならないという思想が起ったのである。行動学と称される、「陽明学」もその一つであったと考えられる。
良知を発揮する為の学習方法は、書物などを読んだり、学問として調べたりするのではなく、実生活の中に、これを求めなければならないとした。これこそ陽明学の真髄であった。生活実践の中で、「行う事」が「知る事」であり、知っていると言う事は、同時に、それを行う事が出来ると言う思考で捉え、これを「知行合一(ちこう‐ごういつ)」と言う。陽明学の基本理念である。
しかし当時の江戸幕府は、陽明学を危険思想と決めつけ、それを異学(陽明学も「寛政異学の禁」に触れた。寛政二年、柴野栗山によって幕府に建議され、朱子学以外の学問が禁止された)として、これを学ぶ事を喜ばなかった。危険極まりない学問と、異端視したのである。この異端視の見方は、今日も尾を引いているように思われる。それは近年、作家・三島由紀夫氏らが起した“楯の会”の、「三島事件」に回帰されるからである。
また、兵書では《八門遁甲術》 が禁止され、これを学ぶことや、同書の類を所持していただけで、即刻打ち首となった。陽明学は、《八門遁甲術》とともに、危険極まりない学問であったのである。
それは何故ならば、自分が是と感じ、真実と信じた事こそ、「絶対的真理」であり、この真理は何人(なんびと)とも覆(くつがえ)すことができず、この事を知った以上、「知る事は行う事」であるから、知っていると言う事は、行動してはじめて完結性を得るのである。
この論理思想は、特定の権力者などの、個人の主体を基礎とした朱子学とは対称的であり、時の権力に対する価値観の相対化であった。これはあらゆる権威法則から、人間を解放する事で、心は何者にも縛(しば)られず、「心即理」が行われ、自由になると説いたのである。その意味からして、時の権力とは相対する「革命的な学問」であった。こうした革命的な学問は、いつの世においても、体制側が転覆する危険性があり、それを嫌い風潮は強い。
当時の身分制度において、学問の目的が、支配体制側の保守政策強化の為に存在し、これを擁護(ようご)する考え方が一般的であった。この事からすれば、権力者側からの弾圧を受けるのは避けられなかった。こうした実情が、やがて幕末の「安政の大獄」などに繋(つな)がって行く。
しかし一方に於いて、従来の天動説に対峙(たいじ)する「地動説」とも言うべきこの学問は、革命蜂起(ほうき)の起爆剤ともなりうる激しいもので、伝統的儒教学説を覆(くつがえ)し、封建体制下では大いに危険視される学問であった。
陽明学は、初め朱子学の性即理説に対して「心即理説」、後に「致良知説」、晩年には「無善無悪説」を唱えた、革命的行動原理を第一とする。朱子学が明代には形骸化したのを批判しつつ、明代の社会的現実に即応する理をうち立てようとして興(おこ)り、やがて、経典の権威の相対化、欲望肯定的な理の索定などの新思想が生れた。
日本では、中江藤樹(なかえ‐とうじゅ/江戸初期の儒学者。日本の陽明学派の祖。初め朱子学を修め、伊予(いよ)の大洲(おおす)藩に仕え、のち故郷に帰り、王陽明の「致良知説」を唱道。近江聖人(おうみ‐せいじん)と呼ばれた。門人に熊沢蕃山らがいる。著「孝経啓蒙」「翁問答」「鑑草かがみぐさ」など。1608〜1648)・熊沢蕃山(くまざわ‐ばんざん/江戸前期の儒学者で京都の人。中江藤樹に陽明学を学び、岡山藩主池田光政に仕える。著に「大学或問」が幕政批判とされ、古河こが城中に幽閉されて没。著「集義和書」「集義外書」など。1619〜1691)、山鹿素行(やまが‐そこう/江戸前期の儒学者・兵学者。古学の開祖。名は高興・高祐。会津生れ。儒学を林羅山に、兵学を北条氏長(ほうじょう‐うじなが)らに学ぶ。「聖教要録」を著して朱子学を排し、陽明学を受け入れた為、幕府の怒りを受けて赤穂(あこう)に配流。山鹿流兵法を編み出す。のち赦免(しゃめん)されて江戸に帰る。1622〜1685)、佐藤一齋(さとう‐いっさい/江戸後期の儒学者。美濃岩村藩(みの‐いわむら‐はん)の家老の子。中井竹山(なかい‐ちくざん)に学び、朱子学を主とし、のち陽明学に傾く。林家の塾長、昌平黌の教授となる。経書に訓点を施し、世に1斎点という。著に「古本大学旁釈補」「言志四録」「愛日楼文詩」など。1772〜1859)、また大塩中斎(おおしお‐ちゅうさい/大塩平八郎。江戸後期の陽明学者で大坂町奉行所の与力。諱(いみなは)正高、のち後素(としもと)を名乗り号は中斎。家塾を「洗心洞」(せいしんどう)と名づけた。大坂天満(一説に阿波)生れ。天保の飢饉に救済を町奉行に請うが、入れられず、蔵書を売り払い窮民を救う。天保八年(1837)2月19日大坂に救民・幕政批判の兵を挙げ、敗れて潜伏後、放火して自決。著に「洗心洞箚記」「古本大学刮目」など。1793〜1837)、河井継之助、そして松下村塾の吉田松陰らに受け入れられた。
陽明学の根本は「致良知」である。「良知」を致す事に回帰される。
良知とは、もと孟子(もうし)から出た語で、先天的な道徳知をいい、王陽明はこれを借りて、心即理説を「致良知説」へと展開した。良知は心の本体としての理の発出であり、この良知を物事の上に正しく発揮することによって道理が実践的に成立するとする。そして陽明学と朱子学の根本的な違いは、「格物致知」の捉え方である。
朱子学では「格物致知」を、後天的知を拡充(致知)して、自己とあらゆる事物に内在する個別の理を窮め、究極的に宇宙普遍の理に達する(格物)ことを目指した。
一方陽明学では、「格物致知」を、陽明学では、先天的道徳知としての自己の良知を十分に発揮(致良知)し、それによって物事に正しく処する(格物)ことを目指すとした。そしてこれが「知行合一」となっていく。
「知行合一説」は、朱熹(しゅ‐き/南宋の大儒で、宋学の大成者。官途のかたわら究学して、周敦頤(しゆう‐とんい)・程こう・程頤(ていいら)の学説を総合し、いわゆる「性理学」を集大成した。著書に『朱子文集』『朱子語類』『四書集注』『資治通鑑綱目』『近思録』などがあり後世、朱子と敬称、その学を「朱子学」といい、江戸時代、幕府の御用学者や儒学者に多大の影響を与えた)の先知後行説が「致知」の「知」を経験的知識とし、広く知を致して事物の理を究めてこそ、これを実践しうるとしたのに対して、王陽明は「致知」の「知」を「良知」であるとし、知は「行」のもとであり、行は「知」の発現であるとし、知と行とを同時一源のものとして捉えた。
更に、「致良知」に至る。良知は心の本体としての理の発出であり、この良知を物事の上に正しく発揮することによって道理が実践的に成立するとするのだと説く。また、この点において、朱子学とは根本的に異なるのである。
陽明学に至る足跡を辿るには、朱子の朱子の足跡をも辿らなければならない。
元冦の役において、日本侵略に失敗した元(モンゴル帝国)のジンギス・カン(成吉思汗/モンゴル帝国の創設者。モンゴル高原のモンゴル族を統一、1206年ハンの位につき成吉思汗と号した。金(きん)を攻略する一方、西夏(せいか)に侵入、19年以降、西征の大軍を発し、ホラズムを滅ぼし、27年西夏を滅ぼしたが、負傷がもとで病没。1162〜12271)は、孫のクビライ(忽必烈/モンゴル帝国第五代の皇帝。日本にも二度遠征軍を派遣したが失敗。1215〜1294)に国家統一の強化を引き継がせる。
元(モンゴル帝国)以前の国家は、南宋が北アジア系の女真族(じょしん‐ぞく/中国東北地方から沿海州方面に居住したツングース系の民族。隋・唐代には靺鞨(まつかつ)といい、黒竜江地方に散在。五代の頃より女真と称し、のち女直ともいう。1115年完顔ワンヤン部の首長阿骨打アクダが金を建国し、宋に対抗。後に清朝を興した満州族も同一民族である)の建てた金(中国東北部の女真族完顔部の首長阿骨打アクダの建てた国。遼(りょう)・北宋(ほくそう)を滅ぼし、東北・内モンゴル・華北を支配する。女真文字を作った民族で、九世モンゴル軍に滅ぼされた。1115〜1234)によって河北を占領され、宋は都を南に移して防戦し、これを南宋(なんそう)といい、この時、時代は両立時代(1127〜1279)だった。
この時代は相次ぐ戦乱によって国力が消耗し、人民は疲れていた。また、他国と結ぶ条約は国民の自尊心を損なう屈辱的なもので、南宋に於ては、現れるべくして「復古的主体論」が登場するに至る。これが朱子の「朱子学」であった。
朱子学はこれ迄の公的な競技であった儒教に対抗して、老荘(道家)思想と言う老子・沿うし始まる、人間の思考から生まれる様々な作為を捨てた学問である。幼児のように、自然の中で無知無欲に生きる事を人生の理想とする思想や、また、仏教に人々の心が吸収されて、これに救いを求めると言った大衆の無知を非難し、これに代わって現実的な朱子学を打ち立てたのである。
特に荘子の教えは、主観的判断を捨てて物事を見る場合、自分自身を客観的に捉えよとしている。しかし、朱子学は、自己を客観的に捕らえ、禅の世界にも共通する、万物をあるが儘(まま)に受け入れる事で自由が得られると言う、消極的思想に真っ向から対立した。主体は個人であり、個が豊にならなければ全体も豊かにならないのだと主張した。つまり、自然流人生哲学の否定である。
その理由は、例えば、権力に汚染され、野望をギラつかせ、異なった価値観をもった強力な侵略者が時刻を襲った場合、どうするかを問い糺(ただ)したのである。その場合、自然哲学流に、無為無策無欲で生きた場合にどうなるか。明らかに一溜まりもないであろう。敗北は目に見えているのではないかと説く。
朱子もまた、一国を想う憂国の国士であり、国を憂うる儒教の再活性化を試みたのである。したがって朱子の言う「格物致知」は、あらゆる事柄、あらゆる万物は物を貫く『定理』というものがあり、これこそが格物致知だと説いたのである。
人間は万事あるいは万物の理を究める事で、その価値観が現実味を帯び、個人はそれによって豊となり、そこに人生の価値観を求めるべきたと説いた。またこの哲学的体系を儒学の中に求めた。しかし一方、欲情が理性を超え、理性を覆う時、悪が生ずるという、「禁欲主義的倫理性を抱いていた。これを「警世の論理」といい、この論理は当時の学者達に受け入れられ、新儒教と呼ばれた。
この新儒教は、日本では鎌倉時代に伝来し、のち徳川幕府に至っては、学問顧問役であった林羅山(はやし‐らいざん)によって、『武家諸法度』が作られた事は有名である。これにより新儒教と称された朱子学は、文句なく徳川体制下で受け入れられる事になる。以降、徳川年間、支配者側の体制学問として、官学として君臨する事になる。
1659年(万治二年)、中国より長崎に亡命して来た明朝再興を企てていた朱舜水(しゅ‐しゅんすい/1600〜1682)は、これに失敗し、家康の孫であった徳川光圀(とくがわ‐みつくに)に迎えられた。朱舜水は明代の儒学者で、実学を重んじ、礼法や建築にも精通した人物である。彼は日本に亡命してその後、帰化し、光圀に招かれ江戸に来住し、小石川・後楽園などを設計すると共に、徳川幕府に朱子学を馴染ませた。著書には「舜水先生文集」などがある。
幕府は保守体制の安定に相応しい厳格な道徳律を有する個の学問を、官許学問とし、更に権力の正統性を打ち立てる位置付けを目的として、光圀は朱子学を通じて『大日本史』を編纂(へんざん)する。これが後の『水戸学』に発展し、水戸藩は朱子学を基幹として、神道と直結した『水戸学』と言われるものを、独自の発想によって構築して行く。
朱子の明代時代、地方の県知事として自らの有能さを発揮し、その能力は天子(てんし)にまで届いていた。そしてついに、天子の御前において時務を奏上すり地位にまで上り詰め、その政治理念は率直な言動と清廉(せいれん)さゆえに中間管理職には大いに受け入れられたが、高官達には受け入れられず、反感を買い任を解かれた。朱子が任を解かれたのは1194年の事だった。
南宋はその後、モンゴルと手を組み、宿敵だった金を滅ぼすが、45年後、モンゴル・元に滅ぼされる事になる。南宋の滅亡は、1279年の事だった。そして1280年には、この地において民族主義紛争が起る。そして後の「紅巾(こうきん)の乱」へと発展する。
その後、農民の力を結集して「紅巾の乱」が起り、これより15年間戦乱の世となる。紅巾の乱は、元末の1351年、異民族の支配を倒し、漢人王朝を回復するために起った白蓮教徒の反乱である。首領は韓林児(かん‐りんじ)や劉福通(りゅう‐ふくつう)らで、「紅布の頭巾」を標とした。明を建てた朱元璋(しゅ‐げんしょう/太祖)も初めこれに参加した。
明は、太祖の朱元璋が元(げん)の支配を倒して建国した国である。成祖の時、国都を南京から北京に遷し、南海諸国を経略し、その勢威はアフリカ東岸にまで及んだ。中期以後、宦官の権力増大、北虜南倭(ほくりよ‐なんわ/十五〜十六世紀、明を悩ませた北方のモンゴル族と南方の倭寇(わこう)の侵略に対する中国での称)に悩まされ、農民反乱が続発し、李自成(り‐じせい/明末の農民反乱の首領。飢民・流民らを組織して各地を荒らし、1644年に明を滅ぼす。北京で帝を称したが、清軍に破れ敗走し、自殺。1606〜1645)に北京を占領され、十七世で滅亡した。
明朝が成立したのは1368年の事だった。この時、朱子学が官学として迎えられている。
以上のように、中国とその傍系文化国の朝鮮や日本の社会倫理や政治理念を探究すると、総(すべ)て儒教に回帰する事が分かる。
また、哲学に至っても、世界や人生を根本的に追求する学問として儒学が用いられて来た。そして朱子学は、哲学性をも兼ね備えた学問として、徳川封建時代の封建制度の中で醸成されていくのであるが、王陽明の出現によって、儒教の鬼子(きし)ともいうべき、革命論を従えた陽明学が登場する事になる。
亡国を憂い、危機意識から展開されて行った朱子学は、「性即理」という真理観を持っていたが、学問の単一化は、その論理展開において無理が生じ、支配者や権威筋には非常に良い安定した学問であったが、陽明学の登場によって、硬直化が避けられない現実を招いた。それは「心即理」を絶対的真理においていた陽明学とは相反する根本的な違いを有していたからである。
さて、会津藩は藩祖・保科正之以来の長い伝統をもった藩であった。
保科正之(ほしな‐まさゆき/会津藩藩祖。1611〜1672)は江戸前期の大名であるが、儒学を好み山崎闇斎を聘し、また吉川惟足(よしかわ‐これたる)の神道説を学び、その伝授を得た名君として名高い人物である。正之は徳川秀忠の庶子して生まれ、保科氏の養子なって、会津23万石に封ぜられた。また将軍家綱を補佐役として活躍し、社倉を建て領民を保護した人物としても知られる。
ちなみに西郷頼母は、保科正之の末裔(まつえい)である。
会津藩は徳川本家に忠節を尽す、保科正之以来の親藩大名(江戸時代、徳川家の近親が封ぜられた藩)である。その為官学である朱子学を重んじていた。
一方、家老西郷頼母は実学の人であり、行動派の人であった。長岡藩家老・河井継之助と同じく、藩主容保に諌言(かくげん)を進言している。「薪(たきぎ)を背負って、火の中に飛び込むが如し」は、それを如実に顕(あら)わした言葉ではなかったか。
そして西郷頼母に、陽明学的な数々の行動が見て取れるのである。
中国を震源地とする傍系文化や、それが発端となった学問は、朝鮮半島および日本列島においては、儒学の基礎を作ったが、その基礎にこそ、儒学ルートの終着点であった日本では、これが国風的に新たに解釈されて、やがて日本独自の日本学派を構成することになる。更に、日本の場合、こうした学派は武術と深く結びつき、これが武士道として結実したり、行動原理として行動学になりえた。また、士道の重んずるところ、さまざまな武士道集団を作った。水戸天狗党しかり、新撰組しかりである。
西郷頼母の《大東流蜘蛛之巣伝》 も、実はこうした行動原理が結実して、後世の人間に当てた重大なメッセージであった。そのシンボルが「大(おお)いなる東(ひむがし)」である。極東一、優れたものという意味で、取りも直さず、「日本の思想文化」を指す。
一般に大東流といえば、数ある武道の一流派と同じように考えられ、これを大東流合気柔術としているが、これは実に短見である。「大東」の文字の中には、思想的な意味合いが含まれている。流名と解釈するのは短見であろう。
大東流は、西郷頼母が西欧列強を睨(にら)んで、極東一の優れた「理想郷」としたものが「大(おお)いなる東(ひむがし)」の大東流なのであり、大東流には思想が伴って、はじめてその真価を発揮する。したがって、この流儀が、清和天皇から始まったとか、新羅三郎義光がその流祖であるなどの歴史的虚構は、その思想と一切関係がない。
然(しか)しながら、今日大東流を標榜(ひょうぼう)する武道団体の多くに、思想らしきものは見受けられず、殆ど存在していないといえよう。
これは西郷頼母以来の伝統である、《大東流蜘蛛之巣伝》 が抜け落ちているという証拠でもある。思想体系があってこそ、その流儀は、「礼」としての文武の面を持つことが出来る。“武文”ではなく、「文武」だ。大東流は、武技と思想が渾然(こんぜん)一体になった特異な流派なのである。
そしてこれを如実に顕(あらわ)すものが、西郷頼母と西郷四郎の親子が政治や思想に非常に良く通じていたということである。これこそが、《大東流蜘蛛之巣伝》そのもであり、単に、柔術百十八箇条と直新影流の表の型が合わさったものを、大東流というのではない。大東流は、西郷頼母の意図を反映して、思想と結びついたところに本当の「大いなる東」があるのである。
また《大東流蜘蛛之巣伝》は、一種の政治結社の、伝播(でんぱん)手段的な役割を果たしていたのであり、事実、今日でも、会津戊辰戦争当時の、薩長に対する恨みは、未(いま)だに晴らされていない。
また、明治新政府の藩閥政治に見る、薩摩・長州・土佐・肥前の維新功労者で組織する政治体系は、いわば戊辰戦争に勝利する事で奪い取った国家横領勢力であり、組織の実態は欺瞞(ぎまん)であった。ここに旧会津藩士と西郷頼母には、煮えきらぬ“わだかまり”が残っていた。
こうした事から、政治結社あるいは秘密結社のような、地下運動が今日も展開されている。
ちなみにこの地下運動は、旧会津藩主・松平容保の意向を受け、その後も、ユッタ衆(薩摩藩は古くからユッタ衆の暗躍に気づいていた。こうした連中が、地下で「影の易断政府」を作り、フリーメーソンの走狗として暗躍していた。西郷隆盛が西南戦争に駆り出されたのは、ユッタ衆の画策であるとも言われる。ユッタ衆の語源は、「よたもの」であり、これは「ゆった者」がその語源。今日では博徒または広域暴力団を指す)と言われる欧米に、日本人の心を売り渡す集団に対抗して、欧米の正体を暴(あば)き、これを覆(くつがえ)す秘密結社が、その末裔たちの指令を受けて活動している。
当時の明治新政府が「明治維新」というフリーメーソン革命を通じて、新政府を作り上げたとするならば、この政府は西欧列強、ことにフリーメーソンの意向が働いた傀儡(かいらい)政府であり、当時の下級武士たちや尊皇攘夷のスローガンに騙(だま)されて、軍資金を提供した三井・三菱・住友などの豪商は、西欧の平等主義に踊らされて、四民平等を謳(うた)い文句に、フリーメーソン革命という内戦を戦ったことになる。しかし維新後、本当の意味で“四民平等”はありえたか。明治維新を経て、人民の階級は、より分類され、克明化したではなかったか。身分制度が、一層激しくなったのである。
藩閥政治に見る我田引水が、画策者のせめてもの遠吠えではなかったか。
ここに西郷頼母は、当時の明治新政府に、国家を横領した大久保利通(おおくぼ‐としみち)らに欺瞞(ぎまん)があったと結論付けるのである。その最たるものが、後に展開された「藩閥政治」であった。
明治10年に起こった“西南の役”の際、西郷頼母が、西郷隆盛に当てて軍資金を送ったことはあまり知られていない。西郷頼母は西南戦争を通じて、新政府の欺瞞を正そうとしたのである。
しかし、この試みは奇(く)しくも削(そ)がれ、成功を見ることはなかった。
また、こうした不発が、《大東流蜘蛛之巣伝》に結びつき、更には志田四郎を養子に向かえ、西郷家再興を願った頼母の行動であった。
明治新政府が西欧列強の意図を受けた傀儡国家であるとすれば、「大日本帝国」という国家そのものが、藩閥政治で作られた欺瞞であり、この政府は、そもそもが国民を搾取(さくしゅ)していることになる。
無差別に貧富の差を問わず、ホームレスからも生活必需品を買うごとに消費税を巻き上げ、政府財源に加えるという行為は、明らかに欺瞞であり、われわれ日本人は、傀儡と欺瞞の上に生活に基盤を築いている事になる。
|