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西郷派大東流と武士道

■ 西郷頼母と西郷四郎■
(さいごうたのもとさいごうしろう)

●波乱万丈の西郷頼母の生涯

 さて、西郷家は首席家老・田中土佐(たなかとさ)と並ぶ、会津藩きっての名門の家柄であった。西郷家の家録は家老職として千七百石を拝領していた。先祖は家老職を務める代々重臣の立場にあり、会津藩の秘伝と称する日新館正果武術と殿中作法である御式内を継承するに相応しい条件を持っていた。
 会津戊辰戦争後、西郷頼母は日光東照宮禰宜(ねぎ/宮司(ぐうじ)の下で事務職を司る神官)就任した。就任後は、自分が継承した会津藩秘伝の技法を兼々継承に相応しい人物を捜し求め、この時志田家から志田四郎を養子に迎えているが、禰宜という多忙の激務を縫って四郎を探し出し、四郎の入籍を認めさせた介在人は、一体誰なのか今日に至っても謎である。

 そこで頼母の実子ではないかと言う推測が濃厚になって来る。それはまず禰宜と言う、日光東照宮の事務長とも言うべき多忙の職にありながら、その暇を縫(ぬ)い、どうやって志田四郎を養子に迎える事が出来たかという事である。最初から心当たりがなければ、すんなりと志田四郎を探し出す事は出来ないはずである。

 しかし、禰宜として多忙な日々を追われる頼母にとって、遠く離れた津川、あるいは東京から、四郎を選び出す事は容易ではなく、最初から顔見知りの間柄であったと推測する方が妥当であろう。そして骨格や顔形等が非常によく似ている事から、実子説が有力であり、一説によると、頼母の妾の子を志田家に預けていたという説等があるが、これらは実際のところ定かでない。

 頼母は優れた見識をもった軍略家であったが、会津戊辰戦争で敗北をし、特に白河口攻防戦は指揮官としての名誉を失墜させた。更に、西郷家一族二十一人の自刃(じじん)は、筆舌に尽くし難い程、悲惨なもので、弟の死、長男清十郎の死と、悉(ことごと)く運気に見放され、不幸の渦中で藻掻き苦しんだ敗軍の将でもあった。過酷な人生を歩んだと言える。

▲写真・西郷家子女の一族二十一人の自刃
(会津武家屋敷。背後には逆さ屏風が置かれる)

▲西郷頼母邸

 晩年は名誉挽回をするべく、《大東流蜘蛛之巣伝》という人脈構造と情報システムを巧みに使って、秘伝を遺し、それを託すべき意中の四郎を養子に迎え、明治17年、西郷家を再興させている。後に改名して、保科近悳(ほしなちかのり)と名を改めるが、頼母は反政府の権力に対する心意気と会津の汚名を晴らすべく、極秘中の極秘人物に、西郷四郎を置いたのかも知れない。四郎の講道館謎の失踪も、頼母の依頼を受けての大陸飛翔であれば、講道館出奔の謎はこれで解ける事になる。そして此処に、頼母(保科近悳)の構想した膨大な、大東流構想《秘密結社的、大東亜圏アジア構想》が感じられるのである。

 また頼母の構想は、単に武術的な一面に止まらず、政治や経済や軍事にまで及び、秘密結社的な要素が濃厚であったからこそ、密教の行法を取り入れ、秘事とした秘密が多く存在していたと言える。
 秘密は、秘密であるが故に、秘密は末永く維持する事が出来るのであって、これを公開し、講道館柔道のように大衆化すれば、秘密の手の裡(うち)を曝(さら)け出してしまい、秘密が暴かれてしまう。
 そして、そこには敵を力でねじ伏せるために、筋力やスピードが入り込む起因を生む。

 そうすれば、秘密は更に研究され、力による返し業(わざ)が編み出される結果を作る。最早(もはや)そうなれば、秘密は人知れる事になり、力で対抗する西洋流のスポーツ科学理論の技術が出現する。日本武術の特異性の一面であった「小能く大を制す」という戦闘理論が根底から覆される。これを「大衆化」という。
 確かに大衆化すれば、競技武道やスポーツ格闘技を主宰する興行主は底辺の裾野が広がり、観客数動員も増大を見込めるが、秘伝として守り続けて来た伝統は、金儲けにとって代わられる。

 読者諸氏は、相撲が何故庶民の間に浸透して行ったか御存じだろうか。
 それは江戸時代中期頃に発明された「土俵」によるものである。土俵の発明は、大衆の眼から見て力士の勝ち負けがハッキリするようになった。土俵の淵から「出れば負け」、土俵上か、土俵淵で投げられれば負けと言う単純明快なルールを決め、それが大衆の眼から見て明確に分かるような競技システムを考え出したからである。こうした事を「大衆化」というのである。そしてこれにより、相撲は益々庶民の娯楽の一部となり、浸透して行くのである。
 これを同じような事を、講道館柔道も目指したのである。

 明治28年から31年にかけて大日本武徳会が設立され、日本では古流の剣術や柔術が武術としての種を遺す為に、大いに持て囃(はや)される時代であったが、この時に種として残ったのは、剣術や柔術が、西洋式のトレーニング法を借りて、体育・武道となり、剣術が「剣道」、柔術が「柔道」となったことである。それに習って、沖縄に伝わる伝統的な古流唐手も、やがて「空手道」と名を変え、日本本土に上陸して来る。今日では素人空手団体も含めて、かなりの数が「空手道」を標榜(ひょうぼう)している。
 しかし、これを武術的な、古人の伝統武術と解した時、これは武術には似ても似つかわない、武道の名を借りたスポーツ武道である事が分かる。特に、組手に至った時などは、空手特有の古式の型が完全に消え失せ、ボクシングのようなフットワークによる足捌きが主体となり、型らしきものは殆ど登場しなくなる。

 つまり、トレーニング方法は西洋スポーツ理論の論理を借りて、筋力を鍛え、パワーを養うと言う事が、その練習方法の課題となっている。これは「外筋強化」であり、年齢と共に威力を失って行く。若い時は見事な肉体美の持ち主でも、その鍛えられた外筋は、歳を取れば見る影もなく、常に鍛え続けなければだぶついた脂肪へと変貌する。日本の武術の危機は、おそらく明治30年代前半のこの時期と重なるであろう。

 西洋を何処までも模索し、これを追い求める事は、実は非常に危険か事であったのである。
 西郷頼母は、これについて警鐘を鳴らした。日本柔術の特徴は、世界の格闘技の中でも例が少ない、「素手」対「素手」でなく、日本刀などの刃物を持った敵に対して、その本義が発揮されるように構成されている。素手で、武器を持った敵とも対峙し、それを制する事が出来るのだ。

 この発想は、決して日本以外の外国では見る事が出来ない考え方であり、武器を持った敵でも、日本柔術では対決し得るのである。中国系の武術にも、武器を持った敵と対峙し、これを戦う「擒拿術」(きんなじゅつ)なるものがあるが、日本の柔術のように、最初から一方が素手であり、これに対し、敵は武器を所持していると言う構図で戦い、武器を持った敵を、殆ど怪我させずに「生け捕る」と言う発想をした武術は他に例を見ない。
 この点が、昨今流行している格闘術やアクション映画が等で、相手を叩き殺せばいい、ねじ伏せて頸動脈を締め上げ、窒息させればいいという目的を持った格闘技よりも、柔術は非常に高度な技術から構成されている事が分かる。
 そして柔術の特徴は、医療と健康面から考えた場合、素肌武道としての特徴を持ち、江戸中期に改良・整備されたものが多い。

 この改良・整備は、徳川体制下の武術・武技の戦闘理論と無関係ではない。
 徳川体制下では、戦国時代に興(おこ)った合戦術はその意味合いを失い、弓術、馬術、槍術、弓馬術、長巻や大薙刀、手裏剣術、吹針術、飛礫(つぶて)術、矢払いの為の二刀流剣、大砲や鉄砲や短銃をはじめとする砲術、長槍を従えた槍術、軍船を動かす操船術、城の濠を渡る古式泳法や水中柔術などの攻撃武術が、平和な世の中の登場で、合戦の基盤であった主導権を失い、平和期に入ったお陰で、喩(たと)えば剣術に至っては、攻撃の「陽流」から、柳生新陰流などに見られるような防禦(ぼうぎょ)の「陰流」に新しい主導権を譲る事になる。江戸期に至っては、戦国期にしか見られなかった攻撃の内容は影を潜め、それに代って、武芸は単に武芸者の嗜(たしな)みとして変化して行くのである。

 同時の武芸はこの時代に至って細分化され、分派が作られこれを繰り返し、亜流へと変貌するマイナーな流派も興った。その結果、得意技を特徴とする個々の流派が生まれる事になる。そして諸流派の誕生は、必然的にそれぞれの術が、これより数百年単位で研究され、重複する儀法の無駄を省く技法編纂が進められる事になる。
 現代的に言えば、企業の合理化であり、経費節約のための省エネ化と言う事ができよう。つまり江戸中期は細分化と同時に、合理性と無駄なものを取り除く省エネ化が行われたのである。

 そしてこれが動乱の幕末期を迎えると、再び十六世紀の乱世の兵法のような傾向に変化し、喩えば柔術に於ては、これを広義の意味で解釈するようになり、平安末期の「耶和良之術」(やわらのじゅつ)が浮上して来る事になる。耶和良之術は「やわら」に通じるものであるが、この「やわら」とは、戦国合戦期における馬上で戦う馬上柔術を、陸上戦でも戦えるように整備したものであり、「抜き手の術」を基本とし、剣術、棒術、槍術、小刀術、短刀術、そして柔術を総合し、統一武術の総称として武術の本義が理解されて行くようになる。

 この発想は、柔術の技が単に投げる為の「やわら」でなく、総合武術として、時の場所に合わせてこれが変化し、ある時は杖術となり、また、ある時は剣術となり、更には棒術や槍術にもなり得たのである。つまり「やわら」の戦闘思想が、剣術にも通じ、あるいは槍術にも通じたと言う事を指すのである。
 特に大東流【註】江戸期に「大東流」の名称は存在しない)は、この戦闘思想的な発想によって構成され、あらゆる優れた流派を寄せ集め、諸流派の優れた面だけを使用する柔術であったと言う事が出来る。しかし、講道館柔道の出現により、柔術の「やわら」と言う、戦闘思想は取り除かれ、西洋スポーツ流に解釈する柔道と言うスポーツ科学が生まれる事になる。

 このスポーツ科学として構成された講道館柔道を、西郷頼母は次のように評する。
 「講道館柔道は、その技法の中心となっているものが、投げ技の天神真楊流の柔術であり、これに足技を得意とする起倒流が加味されている。この技は足軽や中間の下級武士の柔術であり、単に足腰の鍛練を強化する為だけの柔術である。真の国民的な体育としては、講道館が説くような西洋スポーツに名を借りた新興日本武道の柔道ではなく、会津藩が総智を傾けた上級武士の合気之術でなければならないと進言したのである。上級武士とは五百石以上の、騎馬武者ならびに侍大将を指すものであり、また殿中作法や殿中居合からなる御式内の『やわら』でなければならない」と考えていたのである。

 幕末から明治にかけては、西洋が日本に雪崩(なだれ)込んだピークを迎えた時期である。日本人が拭(ぬぐ)っても拭い切れない、白人コンプレックスを感じた時期でもある。また、巧妙な白人の処世術に正面から煽られた時期でもあった。白人に揚げ足を取られて、まんまと騙(だま)され、白人の都合のいいように事が運ばれ、不平等条約が次々に締結された時期でもある。後の政治家が苦労するのは、安易に結ばれた不平等条約破棄の為に、無駄な奔走を繰り返さねばならなかった事であった。

 頼母が蜘蛛之巣構造を立案してから、大日本武徳会の創設をみ、その時期は既に明治後期に至っていた。時代は愈々(いよいよ)厳しさを増し、国家間に不穏な動きが生じていた。特にロシアとの関係は破綻状態にあり、ロシアとの外交関係が緊迫し、日露戦争の開戦が噂(うわさ)されていた時期である。
 明治36年4月28日、頼母は七十四歳で病没した。西郷四郎は、養父の病気が重くなった事を知り、若松の陋屋(ろうおく/むさ苦しく、狭い家)に帰郷し、頼母の死を見取った。かつて、千七百石の家老の死にしては余りにも粗末だった。

 会津藩家老・西郷頼母は悲劇の人であった。
 藩主松平容保が西軍との戦いを強硬に打ち出した時、利(り)(あ)らずとして猛烈に反対したが、これが藩主の怒りをかい、家老職を罷免(ひめん)され、その後、長男吉十郎を連れて、幕府海軍奉行であった榎本武揚の軍に、仙台から合流して北に向かう。
 新撰組の土方歳三らと合流し、函館五稜郭(ごりょうかく)に立て篭って、篭城戦を試みたが敗れて、館林(群馬県南東部で、もと秋元氏六万石の城下町)に閉じ込められて禁固の身になったが、釈放後は伊豆謹申学舎塾長、福島県棚倉都々古別神社宮司、また日光東照宮では旧藩主容保に支えて禰宜となり、七年間勤務した後、福島県霊山(りょうぜん)神社宮司を十年勤め、大東流合気武術を編纂して七十四年を波乱万丈の人生を閉じた。

 一方四郎も数奇な運命を辿っている。
 四郎の関係遺族相互間には、現在に至っても交流が途絶えていると言う。西郷家、保科家、そして志田家と跨がる四郎の運命は、まことに複雑な事情が絡んだものであった。当時の養父頼母と四郎の関係は複雑な状況にあり、頼母の大東流合気武術を四郎に伝承せんが為の深謀遠慮が複雑に絡み合っている。
 それは頼母が、大東流合気武術の継承を四郎に行う為に「四郎養子縁組」の内在的な大きな比重を占めているからである。しかし一説によれば、四郎は大東流合気武術の継承をきっぱりと断り、これを拒絶したとある。

 したがって、以降の継承者は武田惣角に代わり、日光東照宮時代の頼母の創作が付加されて、「清和天皇説」や「新羅三郎源義光の大東の館説」「女郎蜘蛛伝説」までが創作されたと言うが、頼母自身内面は複雑な心境であったのではあるまいか。また、頼母の創作は後世の愛好者に対し、歴史観を誤らせる結果を招いた。
 そして大東流合気武術は、武田惣角を中興の祖とする大東流柔術となり、その主体は、術理体系を主体に置いたものに止まった。哲学的かつ政治的経済的軍事的要素は含んでいない。また伝書による大系区分は、合気道の創始者・植芝盛平によって哲理部分を主体とし、これを大本教(正しくは「大本」)の宗教観で捕らえた事が合気道の特徴である。

 現在大東流は、大東流を全く修行てない人までが愛好会グループを作り、勝手に「大東流」を名乗り、その多くは「大東流○○会」である。研究会と名乗る大東流諸派も決して少なくない。
 しかし、こうした研究会や愛好会諸派は「合気」の実像を知らないまま、大方は進龍一著『大東流合気武術』(愛隆堂)や、BABジャパンのビデオ『大東流合気武術』から知識を得たもので、一種の物まねであり、その代表者は「合気」を知らないといってよい。また、一口に「高級技法」というが、高級技法は合気を知らずして、敵を制することはできない。高級技法もどきの「型真似」にすぎない。

 「合気」を修得するためには日本刀の刀法に熟知していなければならない。
 日本刀の操法を知らないで「無刀之位」は解らない、という「やわら」の根本を見逃している。これは木刀や竹刀とは大いに異なる。日本刀には刃筋があり、刃筋を支えるのは「ふくら」である。また、日本刀には「刀の理」というものがあり、この理は「無刀之位」を教えている。つまり、日本刀の太刀筋を読み、紙一重でかわし切る「見切りの術」を言い、「素手」対「刃物」の攻防を言うのである。
 そして大事なことは、本来「柔術」というものは、剣術の裏技であり、これは表裏一体の関係にあったものなのだ。

 剣の奥義は「無刀取り」に集約される。日本刀は、本来は戦場で敵兵を斬り倒す「殺人剣」であった。しかし「無刀取り」が研究されるに従い、「殺人剣」は「活人剣」へと移行をはじめ、「無刀取り」の究極が『無刀之位』であり、これを取得せんが為の中間過程が「無刀取り」であった。

 さて、西郷頼母の足跡を探ると、もう一つ興味深い事柄に出くわすことである。
 明治27年、朝鮮半島を舞台に「東学党の乱」が起こった。この時、西郷四郎は鈴木天眼(すずきてんがん/東洋日の出新聞社社主で元会津藩士)と共に、この反乱を援助するために、大東塾【註】西郷四郎の大東塾は、昭和14年4月3日に結成された影山正治の大東塾とは異なる。影山の大東塾は、明治14年2月に結成された玄洋社の流れを汲み、明治34年1月に結成された内田良平の黒龍会を経て、昭和6年6月同会は大日本生産党と改め、その流れを汲んだ大東塾である。なお、西郷四郎は玄洋社の頭山満と面識があり、頭山の要請で武田惣角と試合する事まで予定されたことがあった)を設立し、義勇軍を募った。講道館出奔後の西郷四郎は政治運動に命をかけた人生行路を選択していた。

 一方、西郷頼母は四郎への大東流合気武術の伝承を保留し、その一部を明治31年武田惣角に伝え、「しるや人、川の流れを打てばとて、水に跡あるがものならなくに」の和歌の一首を与えた。
 これがいわゆる「小野派一刀流忠也派と直新影流の剣の時代は去った。以後は、剣を捨てて柔術で身を立てよ」という意味で、惣角に示唆を与えたのである。
 そして時代遅れの惣角を気の毒に思った西郷頼母は、「清和天皇説」や「新羅三郎源義光の大東の館説」、「女郎蜘蛛伝説」の伝説と御墨付きを付け加え、ここに頼母の創作が、惣角に受け継がれるのである。
 今日も内外において、清和源氏の流れに入れ揚げ、この伝説を信じる大東流愛好者は少なくない。


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