■ 西郷頼母と西郷四郎■
(さいごうたのもとさいごうしろう)
●長岡藩国家老・河井継之助
河井継之助(かわい‐つぐのすけ/幕末の越後長岡藩の家老。名は秋義。号は蒼竜窟。古賀謹堂・山田方谷らに陽明学を学ぶ。1827〜1868)は文武に優れた武人で、陽明学を修めた近代希に見る知識人であり戦略家であった。長岡藩財政の立て直しに尽力を尽した。また、洋式の銃砲を購入してフランス式の調練を行ない、ナポレオン・ボナパルトの戦術を研究した、当時としては屈指の近代軍事学の軍略家としても知られている。
慶応三年(1867)長岡藩国家老に就任した河井は、同年十二月藩主牧野忠訓に従い上洛、王政復古で誕生した明治新政府に対し徳川への大政再委任を建白した。
翌明治元年(1868)一月には鳥羽・伏見の戦いに参戦したが、徳川軍の総崩れとなって江戸に退いた。後、藩邸の資財を総て売却し、その金で当時最新の兵器であったガトリング砲をはじめとする新兵器を買い込み、同年三月長岡に帰った。
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▲ナポレオンの戦術を徹底的に研究した長岡半国家老・河井継之助
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長岡城攻防戦に於ては、英雄的な力を発揮した。この攻防戦に於て、戦った長岡藩士は1531名で、この内、戦死した者は390名である。全体の約二割が殆ど降伏することなく、最期まで壮烈な戦いを展開したのである。
長岡戊辰戦争に際しては、14歳から65歳までの男女全員が、志願によって市街戦に加わり、長岡城に籠城(ろうじょう)して、明治新政府軍として組織された西南雄藩の西軍を苦しめた。他の幕府軍の戦いと比較してみれば、その戦いが如何に激しかったか分かるであろう。
河井継之助の戦いとその指揮を見ると、かつて中国の「墨子(ぼくし)集団」を彷佛とさせる。墨子集団を率いたのは墨子であるが、墨子は春秋戦国時代の思想家で、墨家の祖である。魯の人で、姓は墨と言った。墨とは、顔が黒かった為とも言われ、入墨者の意味で一種の蔑称とも言う。宋に仕官して大夫(たゆう)となり、後に墨子集団を組織する。
墨子は兼愛説と非戦論とを唱え、墨子集団組織後は門弟を引き連れ、弱小国で戦争指導や戦術指導を行った。墨子集団は、非戦論を掲げたが、戦争をしない為には、まずその国が国防意識に通じ、万全の備えをしていると言うのが非戦論の根本にあり、他国から容易に攻め込まれない防備をする事が戦争をしない為の論理であった。
墨子集団は一種の戦争技術者であり、弱小国に招かれては戦争技術の指導を行った。まず、弱小国に出かけて行き、国王の無能や、酒池肉林(しゅち‐にくりん)に明け暮れる愚を詰(なじ)った。次に国防には、女子供までもを動員させて兵士として教練し、敵軍に対し組織抵抗する事を教えた。こうした弱小国は軍事面において徐々に力を付けていった。そして一度戦えば、女子供と雖(いえど)も、勇敢に戦った。
さて、ここで河井継之助の戦いの奮戦ぶりを上げて見よう。先ず、戦争あるいは事件、戦闘志願者数、戦闘期間を上げて見た。
西軍との衝突で火蓋(ひぶた)を切ったのは上野戦争である。これは江戸に於ける幕臣旗本の反乱兵士が上野に立て篭り西軍と交戦したのであるが、その戦闘期間は僅かに半日程度の“1日弱”であった。
次に 鳥羽・伏見の戦い であるが、 徳川慶喜を中心とする幕臣軍と西軍が交戦した戦いであり、西軍の精鋭部隊に押されて鳥羽から敗走を重ね、伏見に至る戦いであったが、その期間は“約四日間”であった。
次に会津若松鶴ヶ城の攻防戦であるが、会津藩士が松平容保を中心にして戦った戦争であり、戦闘期間は“約30日間”であった。 白虎隊の悲劇も、この時に生まれた。
この悲劇は、年長者と隊長が、隊士の為に食糧調達に出かけたことが、少年隊士達の自刃(じじん)に繋がったとも言われる。本来の戦いを知っていたら、隊長は守備地に“でーん”として構え、食糧の調達などは、隊員に遣らせればいいのである。しかし、この時の隊長は、狭義から考える自分の責任感において、部下の隊員に任せず、自らが動いて、食糧調達の出かけたことが、そもそもの間違いであった。残された少年隊士たちは心細くなり、鶴ヶ城が燃えていると錯覚し、自刃に至ったのである。
世論は、“戦後生まれの現代人”を指して、「戦争を知らない子供たち」と評したが、実は「戦争を知らない」のは子供たちばかりでなく、大人の中にも、結構常識はずれで、戦争を知らない人間は幾らでも居たのである。
先の大戦においても、「戦争を知らない昭和の軍人たち」は多くしたし、その甚だしきは、エリート面した、肩から胸に参謀肩章(さんぼう‐けんしょう)を付けた陸海軍の軍隊官僚の連中で、こうした無能な高級軍人が戦争指導をした為に、悲惨な約3年8ヵ月の戦いを強いられ、おまけに広島や長崎に原子爆弾まで投下され、日本は大敗を帰したというべきであろう。“一億火の玉”は戦争指導者たちが作り出した「虚構」であった。
さて、それらの戦争に比べて、長岡城とその近辺の市街戦は、長岡藩士及びその子弟や老人女性までが参戦して戦い、戦闘期間は何と“約150日間”であった。河井継之助は、最後まで敵を苦しめ、健闘したが、負傷し、落城後に戦病死した。彼は、まさに「戦争を知っていた」のである。
継之助は、かつて人に、このように語っている。
「天下に無くてはならない人になるか、有ってはならぬ人になれ。沈香(ちんこう)もたけ、屁もこけ、牛羊となって人の血や肉に化して仕舞ふか、豺狼(さいろう/貪欲な獣の意)となって人類の血や肉を啖い尽くすか、どちらかになれ」と、また「人間というものは、棺桶の中に入れられて上から蓋(ふた)をされ、釘を打たれ、土の中に埋められて、それからの心でなければ何の役にも立たぬ」といっている。
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▲日本屈指の陽明学者であられる安岡正篤先生が、生前、曽川和翁宗家に送った、陽明学の祖・王陽明が示した「一掴一掌血 一棒一條痕」の事情磨練(じじょうまれん)の書。言葉の意味は、「ひとたび相手の手を掴んだら、自分の掌(てのひら)が血で滲(にじ)むように掴め。また、ひとたび棒で打ち据えたならば、その一条(ひとすじ)の痕(あと)が残るように打ち据えよ」いうことであり、何事も、「まごころ」をもって、一生懸命に行えという、行動原理を説いたものである。
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この事を近年の陽明学者、故・安岡正篤(やすおか‐まさひろ)先生は、その著書『英雄と学問』の中で、「誠は天の道であり、之を誠にするは人の道で有る。故に、人は私を去って誠に生きてこそ尊い。そこに自らの分もあり礼も有って、大義にも即し得るので有る。継之助の血誠至公は、天に通ずる。天下の大道廃れ、人皆仁義を言わずして利のみいふ時、天の命はまた其人の英霊を徒らにして置かないであろう」と評している。
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