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西郷派大東流と武士道

■ 西郷頼母と西郷四郎■
(さいごうたのもとさいごうしろう)

●古武術崩壊の危機

 古武術はその立脚基盤が、古人の試合上手の“武勇伝”に成り立っている。そしてそれは、伝説的な偉人に纏(まつわ)る話として後世に語り継がれ、歴史的根拠の無い儘(まま)、一人歩きしている場合が決して少なくない。
 多くの伝説的な武勇伝は、こうしたケースが少なくない。

 さて、武術と言うものも、人間と同じように時代の要求に応じて発生し、それから成長を遂げ、安定して、多くの門人を集め、そして斜陽化し、更に痕跡化する……という過程を辿るわけである。このコースを辿(たど)って歴史の中で登場した武術古流派は、時代と共に発生し、時代と共に痕跡化していった。それが「幻の武術」と大袈裟に持て囃(もては)されている原因である。

 しかし一旦跡絶え、然(しかる)る後に復元して見ても、それは「秘伝」を解さない儘の復元であり、強(し)いて言えば新たに起源した新興武道の観が強い。最たるものが大東流であろう。
 大東流が清和天皇に始まり、新羅三郎源義光(しいらさぶろう‐みなもと‐の‐よしみつ)によって創始され、甲斐武田家を経て、これが後に会津藩に伝わり、秘密武術として御留流とされたという説に、疑問を持っている人は決して少なくない。著者もその一人である。

 先ず、その第一は幾ら秘密武術と称しても、新羅三郎源義光の時代から数百年間も、その存在を知られずに明治中期まで秘密裡(ひみつ‐り)に隠し果(おお)せただろうか。
 この説を信じる人は、その大方が、武田惣角を中興の祖とする大東流柔術愛好者や研究者で、惣角の武勇伝に便乗している人達やグループである。

 朝日新聞社編『日本歴史人物事典』によれば、甲野善紀氏が“武田惣角の項目”で筆を取り、合気ニュース編の『武田惣角と大東流合気柔術』を参考文献にして、大東流が今日、「古武術のうちで最も盛んである」と評しているのは、純統に大東流をやって、資格を貰った人以外のグループが、勝手に「大東流○○会」などと称して、こうした“自称・武術研究家”というオタクグループが、大東流愛好者と称し、また文献研究者として「自分は大東流を愛好しているという連中」が、その員数に数えられているからである。同氏は、こうした連中をも加えているのであろうか。

 また、これ等の文献研究者の中には、『古事記』に登場する「抜き手」論や、「合気」論を持ち出して、これを大東流と言って憚(はばか)らず、その歴史的根拠を無視した人が多く、更に武術や、あるいは文化・芸能というものが、長い歴史を通過する中で、必然的に明らかになるのは当然であり、それを知られず、“一度も陽の目を見ていない”という説には、実に疑わしいものを感じる。

 殊に武術の場合、第一に研究したり、反復練習をして習得する必要があり、修得したものが正しく遣えるか他流試合で試す必要があり、これを数百年間を隠し通すという事は、極めて難しい事である。

 江戸期に於て、御留流おとめりゅう/藩を挙げての「切り札」となった武技)と称されていたのは徳川宗家の柳生新陰流、島津家の示現流、紀州徳川家の柳生新陰流、南部藩の諸賞流、岡山藩の竹内流等であり、それに準ずるものとして、水戸烈公こと徳川斉昭が天保十三年に自ら薙刀をとって創意工夫した常山流、高槻藩士・山田一風斎藤原光徳を祖とし薙刀と剣による「小脇の構え」と「車返し」を伝えた直心影流、上州安中藩士・根岸松齢宣教が肥前小城藩に伝えた根岸流等であり、これ等は藩外の者が修行する事は不可能であっても、その存在や伝承は明らかになっている。

 武技というものは、起源当時よりも、時代を経て、改良に改良が加えられ、長所を用い、短所を切り捨てて、洗練されてはじめて秘伝になり得るのである。それから考えれば、大東流には改良に改良を重ねる一切の記録が無く、突然、最高の完成品として明治初期に姿を現わしている。

 第二に、新羅三郎源義光の時代から甲斐武田家に至る時代背景は、世の中が混沌とした十六世紀迄の戦国期で、その主戦力は「甲冑(かっちゅう)組打」に代表される、戦場武術でなければならない。日常でも甲冑を着けて生活する時代に、何故「素肌武術」というものが存在し得たのか。

 第三に、武田惣角の学んだ武術は直心影流、柳生流の他、西郷頼母について学んだ一時期学んだ事が明らかである他、以降の伝書による「口伝云々…」は、惣角と植芝盛平の新たな創作であり、大東流が清和天皇に始まり新羅三郎源義光以来、連綿として存在したという歴史的な証拠が何一つなく、それを証明するものは全く見つかっていない。多くは昭和初期の新たな創作である。この為、大東流は新興武道の観が非常に強い。
 この事を強く指摘して、「明治以降興った大東流は新興武道である」と断言する、奈良柳生の達人で柳生月心流の第十七代家元の岡田了雲斎(おかだ‐りょううんさい)先生もその一人である。

 第四に、武術に於て、歴史があればある程、技術的には単純明解であるが、大東流は極めて複雑であり、高級技法に見る掛業等は、高度化され、洗練されているが果たして戦国期に編み出されたものであったのか。
 時代を遡(さかのぼ)り、古ければ古い程、原始的であり、野蛮であり、泥臭さが漂っていなければならない筈であるが、何故古い伝統を持つという大東流だけが、他の古流柔術に比べて垢(あか)抜け、スマートさを持っているのだろうか。

 第五に、技法に名称を付ける場合、多くはその名称の由来を技法名で呼ぶのが一般的であるが、それにも関わらず、「一箇条、二箇条、三箇条…」等と呼ぶのは、西郷頼母の溝口派一刀流や太子流兵法から流用したものであり、江戸末期、会津藩では西郷頼母が幕府要人の為に、それを警護する会津藩士達に授けたものではなかろうか、という事が推測できる。もしそうだとすると、一々技法名を挙げて指導するより、指導の面で容易かったのではないか。

 恐らく大東流柔術(正確には合気柔術と言わない)は、西郷頼母によって伝えられた技法が、武田惣角に、源氏由来伝説を付け加え、清和天皇末裔(まつえい)の新羅三郎源義光が戦死体解剖と女郎蜘蛛(じょろう‐ぐも)云々…の註釈を付け、以降は惣角自身がそれを信じ、全国で武者修行をして廻り、貴重な実戦経験から創意工夫し、大東流柔術と合気術が出来たのではあるまいか。つまり、惣角以降の大東流は、惣角自身の特異なもので、本来ならば大東流とは区別して、惣角流合気術と言われるべきものである。

 したがって西郷頼母の伝えた大東流合気ではなく、惣角の独創によって新しく開発された、当時の武芸者の殆どが真似できない合気術であった思われる。また、西郷頼母の剣は溝口派一刀流であるが、惣角の剣は直心影流であり、北海道系の大東流合気武道の演武会等で行われる剣術の方は、直心影流の「表の型」が披露されている。此処に頼母と惣角の違いが明白となる。

 したがって秘かに、大東流愛好者に吹聴されている、新羅三郎源義光に起源する「大東の館説」、武田家の重臣であったと称する「大東久之助説」、合気が「相木森之助」に由来する説等は、殆ど歴史的根拠のない虚言というべきものであろう。

 やはり西郷頼母、あるいは西郷四郎の西欧列強を睨(にら)んでの、「大(おお)いなる東(ひむがし)」の政治的牽制から「大東流」が創始されたのではあるまいか、という推測が成り立つ。

 清和天皇起源説に始まる、大東流愛好者が歴史的根拠のない、これ等の説を信じる事は、自身の優越的な傲慢(ごうまん)を煽(あお)り立てるばかりで、真摯(しんし)に本物を見据える眼が失われていく事にご注意申し上げたい。
 われわれは先の大戦の如き、無知な過ちを再び起こしてはならない。
 大東流に纏る付随された歴史を、ロマンとして信じる、信じないは別にしても、痛快な武勇伝の域を脱してこそ、己自身の飛躍がり、そこに真実があり、また歴史的根拠を歪める事は、次世代へ受け継がせる歴史的遺産を正しく評価し、検証する眼を奪う事になる。歴史を理性や知性で語り継ぐ事は、これを体験した体験者の必須条件であり、奇妙に歪(ゆが)められた伝説と構図に、われわれは惑わされてはならない。

 合気術をよく遣(つか)う事と、歴史的伝説を間違ったまま強く信奉する事は、決して同じ事ではない。合気術をよく遣う事は高く評価しなければならないが、歴史を歪め、誇張する事は、よく遣う合気術までもを、その評価を低からしめてしまう。
 「合気」は自分自身が、自分の躰(かだら)を遣って日夜精進・努力しつつ修得するものであり、歴史に重きを置いて歪曲(わいきょく)し、それに便乗し、自分の合気術の不勉強を歴史的歪曲によって摺り替えるべきでない。
 もし、摺り替え、歪曲すれば、これこそ古流武術の危機と言わねばならない。
 合気修得は、仕事の余暇や仕事の片手間で出来るものではない。アマチュアの域をでない者は、生涯アマチュアの愛好者でしか過ぎない。しかし昨今はアマチュアレベルの師範が増えている。また、こうした人達は、大東流の歴史を「清和天皇に始まり、新羅三郎源義光によって……云々」と吹聴をするから、非常に困り者である。

 清和天皇は平安時代前期の天皇であり、文徳天皇の第四皇子として生まれた。第五十六代天皇にあたり、即位した年代は西暦858年の事であった。在位したのは858〜876年の十八年間であり、水尾帝とも呼ばれ、幼少のため外祖父藤原良房が摂政となっている。のち仏道に帰依(きえ)し、879年(元慶三年)落飾した。陵名は水尾山陵であり、その所在地は京都市右京区嵯峨にある。

 平安時代は桓武天皇の平安遷都から鎌倉幕府の成立までの約四百年間を言う。政権の中心が平安京すなわち京都にあった時代を指すのである。
 歴史学では、平安時代(平安朝時代とも)は前期・中期・後期の三期に分類され、律令制再興期・摂関期・院政期(末期は平氏政権期)に分ける事が常識となっている。
 平安前期は、平安文学が優美な情趣を醸し出した時代であり、優雅さが主張された時代で、源平対立の殺伐とした戦乱の時代はこれより四百年後の事である。果たして、この時代に大東流なるものが存在したのであろうか。

 ちなみに日本兵法の流派名を遺す最古の流派は、飯篠伊賀守家直いいざさ‐いが‐の‐かみ‐いえなお/日本最古の兵法流派の祖。1387〜1488)の天真正伝神道流である。家直は、はじめ山城守を名乗り、入道して長威斎と号した。その時の事を『本朝武芸小伝』には次のように記されている。
 「飯篠山城守家直は下総国(しもふさ‐の‐くに)香取郡飯篠村(現在の千葉県香取郡多古町飯篠)の人なり。のち同州山埼(やまさき)(現在の佐原市丁字(ちょうじ)字山崎、香取神宮東北隣接)に移り、兵法の精進を志す。幼少より、刀や槍の術を好み、才能恵まれて、それは実に精巧であり、また精妙であった。更に日頃より、鹿島香取神宮に祈った。将(まさ)にその技芸を天下に顕(あら)わさんとするや、自らの技芸を、天真正伝神道流と称した……」とある。
 家直は一説によれば、1387年に生まれ1488年まで生きた武人で、百二歳の長寿を得た人物と言われている。

 香取神宮は千葉県の北、利根川の南岸にあり、旧下総国香取郡香取町香取(現在の千葉県佐原市香取)にある。此処はもと官弊大社で、延喜式によって定められている名神大社である。祭神は伊波比主命(いはひぬしのみこと/経津主神(ふつぬし‐の‐かみ)斎主命とも)で、古くから軍神として祭られ、鹿島神宮と共に軍神として尊崇されて、地域の信仰があった。そして下総国随一の宮である。

 初代家直の門人では、塚原土佐守安幹(つかはら‐とさ‐の‐かみ‐やすもと)、松本備前守政信(まつもと‐びぜん‐の‐かみ‐まさのぶ)が傑出しており、安幹からは卜伝流(新当流)として名高い塚原卜伝高幹つかはら‐ぼくでん‐たかもと/土佐守安幹の養子となり、安幹の亡息の名を襲い新右衛門高幹と改め、のち土佐守あるいは土佐守入道と称した。1490〜1571)が出ている。また、政信からは有馬大和守幹信(ありま‐やまと‐の‐かみ‐もとのぶ)が出て有馬流を興し、二代目の大炊満盛は徳川家康に仕え、家康に教伝した。更に二代目盛近(もいりちか)の流系からは十文字熊槍で名高い、宝蔵院覚禅坊胤栄(ほうぞういん‐かくげん‐ぼういんえい)が出た。そして三代目盛信(もりのぶ)の流系からは十時与三衛門尉長宗(じっとき‐よざえもんい‐おさむね)が出て天真正自顕流(てんしんせい‐じげん‐りゅう)を立て、長宗の流系からは東郷肥前守重位(とうごう‐ひぜん‐の‐かみ‐しげたか)が出て示現流(じげん‐りゅう)を打ち立てた。

 更に時代が下がると、四代目盛綱の門からは穴沢浄見秀俊が出て、新当流薙刀の開祖となった。その流系からは柳生松右衛門家信(やぎゅう‐しょううえもん‐いえのぶ)、阿多捧庵(あた‐ぼうあん)、金春七郎氏勝こんぱる‐しちろう‐うじかつ/金春流の「能」の家元)が傑出した。また阿多捧庵は尾州柳生流の祖であり、柳生利厳(とししげ)槍と薙刀を教伝した師匠である。

 この時代は室町期であり、中期から末期にかけては多くの流派が誕生している。愛洲移香斎久忠あいすい‐こうさい‐ひさただ/紀州熊野の紀氏一族で熊野浦を中心として勢威のあった豪族で、享徳元年に生まれた1452〜1538)もその一人であり、愛洲陰流の祖である。移香斎が他界したのは天文七年の事であり、高齢の八十七歳であった。
 多くの流派が誕生したこの時代は、飯篠家直、塚原卜伝と移香斎の年齢を考えてみると、移香斎が生まれた時家直は六十九歳であり、家直が百二歳で死んだ時、移香斎は三十七歳であり、その翌年に塚原卜伝が生まれている。移香斎が死んだ時、陰流の上泉伊勢守秀綱こういずみ‐いせ‐の‐かみ‐ひでつな/後の武蔵守信綱。1508〜1577)は三十一歳で、柳生新陰流の柳生石舟斎宗厳やぎゅう‐せきしゅうさ‐いむねよし/柳生流新陰流ならびに柳生氏中興の祖。1529〜1606)は十歳であった。また卜伝が死んだ時に柳生宗矩が生まれている。移香斎が誰から兵法を学んだかは定かでないが、関東では既に飯篠家直の天真正伝神道流が盛行しており、三河国(現在の愛知県)高橋庄には中条兵庫頭長秀(ちゅうじょう‐ひょうご‐の‐かみ‐おさひで)が約百年前に中条流を広めていた。
 更に十五世紀に至ると、念流の祖念和尚(滋恩、相馬四郎義元)の門人の中で「京六人」と謳われた人達が京都や奈良を中心に兵法を広めていた。

 室町時代は足利氏(足利尊氏が室町幕府初代将軍となり在職1338〜1358)が政権を握り京都室町に幕府を開いた時代である。1392年(明徳三年)南北朝の合一から、1573年(天正元年)第十五代将軍義昭が織田信長に追われるまでの約180年間を指す。その後期すなわち「応仁の乱」後を戦国時代とも称する。また、南北朝時代(1336〜1392)を室町時代前期に含める説もある。
 ともあれこの時代には、兵法流派が多く誕生している。そして最初に起ったのは日本刀の発明によって剣術が興(おこ)った事が分かる。日本刀はこれまでの剣に代わり、反(そ)りを付けたもので、直剣片刃とは異なったものである。つまり直刀から弯刀へ変化したのが平安中期頃であり、切刃造直刀から鎬造弯刀(しのぎづくり‐わんとう)への移行が剣術の興る起源となった事は明白である。

 平安時代初期、坂上田村麻呂さかのうえ‐の‐たむらまろ/平安初期の武人で、征夷大将軍となり、蝦夷(えぞ)征討に大功があった。正三位大納言に昇る。また、京都の清水寺を建立た。758〜811)の佩刀(はいとう)として遺されている京都鞍馬寺の黒漆大刀は切刃造の直刀で、また兵庫清水寺の三口も直刀である。

金錯銘直刀(切刃造直刀)

 平安時代中期の豪族・田原藤太(藤原)秀郷ふじわら‐ひでさと/平安中期の下野(しもつけ)の豪族。左大臣魚名の子孫といわれる。田原(俵)藤太とも言う。下野掾・押領使。940年(天慶3)「平将門(たいら‐の‐まさかど)の乱」を平らげ、功によって鎮守府将軍となる。弓術に秀で、むかで退治などの伝説が多い。生没年未詳)の佩刀と伝える三重神宮の錦包毛抜形太刀(下記の写真に見られる毛抜形太刀)は反りが浅く、鎬造りに近いものであるが、稜線(りょうせん)は、ほぼ中央近くになっていて、中心(なかご)部分は同じ鐡(てつ)の共柄であり、唐大刀および田村麻呂の大刀が片手用の短い柄であるのに対し、藤原秀郷の大刀は双手で用いる長い柄となっている。

毛抜形太刀(鎬造弯刀)

 こうして考えていくと、直刀の切刃造から鎬造弯刀へと移行したのは平安時代中期からであり、清和天皇が在位した858〜876年の頃には、鎬造の刀は存在しなかった事になる。在位直後は幼帝であった。

 大東流柔術に関する剣の受けは、片手握りの切刃造の直刀に対しての防御ではない。双手柄の鎬造の反りのある、平安中期以降の日本刀に対する防御が中心となっている。柔術は、剣術の裏技である。表の剣術が、片手柄なのか、双手柄なのかで、その防御法も明らかに違ってこよう。大東流は、双手柄の握りの剣に対して、その研究がなされている。何故、清和天皇時代、片手柄が主流であった時代に、双手柄の防御法が行われたのか。

 この事だけを考えてみても、清和天皇開祖説は明らかに欺瞞(ぎまん)である。こうした嘘を、歴史に疎(うと)い武道愛好者に信じ込ませ、これを流布するのは、何たる搾取(さくしゅ)の極みであろうか。
 また、アメリカやイギリス向けのマイナーな武道雑誌にも、英訳されて清和天皇開祖説が報じられ、これを鵜呑みにしている外国人は如何に多いことか。
 昨今では、韓国やその他の東南アジア地域にも、清和天皇開祖説が、まことしやかに流布されている。歴史を歪曲した、流派の経歴詐称の犯罪である。

 繰り返すが、もともと柔術は、剣の裏技として、剣術の興った後に発達した武技である。剣術を充分に知り尽くした後、白兵戦に至った場合の組打の技である柔術を学ぶのが順序である。柔術は、柔術として単独に発達した技ではない。
  あくまで剣の裏技として「やわら」があり、剣術無くして柔術はあり得なかった。この事からも、清和天皇時代に「やわら」の術があったと考えるのは、実に訝(おか)しな事であり、「清和天皇流祖説」は明らかに歴史の歪曲である。

 そして大東流(明治28年(1895)、武術や武道の奨励のために大日本武徳会が創設され、京都に本部、全国に支部が置かれ、大東流が武術史に登場したのは明治31年頃)は、アメリカ建国(1776年の独立宣言によって東部13州が成立)の歴史より、百年以上も新しい流派なのである。ゆめゆめ、伝説の「清和天皇開祖説」に騙(だま)されること勿(なか)れ!この歴史観に真実はない。


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