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西郷派大東流と武士道

■ 西郷頼母と西郷四郎■
(さいごうたのもとさいごうしろう)

●大東流構想と西郷頼母の蜘蛛之巣伝

 口伝(くでん)と躰伝(たいでん)を主体とする大東流の教伝方法は、密教の手法が取り入れられた為、閉鎖的な秘密主義に一貫したように映る。またこれが、多くの謎を残した。
 更に、伝承については甲斐(かい)武田家伝説が入り交じる為、清和天皇説や新羅三郎源義光説の伝説に翻弄(ほんろう)され、歴史的な史実を疑うような宣伝がなされている。こうした根拠のない流名由来が、日本国内の大東流愛好者や外国人で大東流を愛好する人達の間で罷(まか)り通っている。

 大東流の流名伝説は、会津藩の御式内という殿中作法や、会津藩校・日新館の教科武術であった御留流に由来するのだが、御留流に箔(はく)を持たせる為に、十六世紀にまで遡(さかの)って、その由来を持ち出す考え方や、古代に遡り『古事記』にも記載済みという論説が近年付け加えられた。また戦国期では戦乱の為、甲冑(かっちゅう)を着けての生活が当り前であったのにも関わらず、源氏伝承の素肌武術が存在していたと説く研究者もいる。これが「清和天皇開祖説」や「新羅三郎源義光開祖説」等を捏造(ねつぞう)させる伝説の発端となった。

 他にも「大東流」や「合気之術」の流名由来説はある。
 例えば、武田家の馬場美濃守信房の影武者だった相木森之助(あいきもりのすけ)の「相気(あいき)の術」とか、あるいは武田家の遺臣・大東久之助(系統図に名前を連ねているが、実在した人物でなく、伝説上の人物とも謂われる)が、この武術を芦名氏の地頭になって会津に伝えた等の説や、また武田家滅亡に際し、武田家の重臣が九州福岡藩・黒田家の食客となって武田大東流を名乗った等の説が至るところで実(まこと)しやかに吹聴されているが、真実は定かでない。

 ともあれ幕末に於て、近代武術に生まれ変わった会津御留流は頼母によって、その鍵が握られていたのは事実であった。
 頼母は溝口派一刀流剣術を学び、会津木本派軍法を継承した武人であり、「三尺達磨」や「豆彦」の異名をとる程背が低くかった。頼母のこの背が低かった事が幸いして、大東流の術者としては最適であったとされている。小柄であると言う事は、葛(かずら)の登り(自分の体重を支える訓練)や岩登り(指の力を強化する訓練)には最適であり、同時に、敵の下に巧(たく)みに潜り込み、業(わざ)を発するには好都合の体格であったと謂(い)われる。この躰付きは四郎にも受け継がれていた。
 こうした躰(からだ)付きや頼母と四郎の骨格を考えた場合、法的には養父・養子の関係であるが、別腹の子供がいたとしたら、四郎も、もしや実子ではないかと言う推測が成り立つ。

 そして西郷四郎を想う時、彼の五十七年の生涯を振り返れば、その人生には「光と影」が存在し、前半の講道館柔道時代を「光」すれば、大陸問題に関わって養父西郷頼母の密命を受けて大陸を飛び回る後半の人生を「影」と呼ぶ事ができるであろう。
 西郷頼母の養子となり、やがて講道館を出奔(しゅっぽん)して大陸問題に関わって行くが、一人の人間が、こうまでも自分の人生を前半と後半に鮮やかに分け、光と影を有した人生を送るのは非常に珍しい事である。この光と影は単に、柔道家として将来を期待され、大成して行く四郎に、何等かの屈折が起り、その屈折が翳(かげ)りとなった可能性が大きい。

 では、この屈折の発信源は何処にあるのか。
 この屈折に関わり、翳りの部分、つまり世間に漏洩(ろうえい)されてはならない部分の存在が、養父頼母の意図するところだった思われる。つまり講道館柔道と、養父頼母の政治的思惑である。講道館柔道を創始した嘉納治五郎は、個の組織を発展させ、スポーツ・体育として柔道が不動の地位を占める為に、政治的な策を遣い、これに奔走(ほんそう)していた。
 ところが西郷頼母は、政治力は「個の存続の維持の為」ではなく、「天下国家の為」に遣うべきだと主張した。更には天神真楊流や起倒流柔術の、中間(ちゅうげん)や足軽(あしがろ)などの下級武士が学んだ低級武技ではなく、会津藩の総智(そうち)を傾けた上級武士の高級武技ではならぬ、としたところに西郷頼母の思惑があった。

 そして養子・西郷四郎は養父頼母の板挟みとなり、「内なる会津」を求めて、大陸飛翔(たいりくひしょう)の夢を抱くようになる。
 西郷四郎の生涯を振り返れば、前半の「光」の光源は、四郎自身が自らの実力と内在するエネルギーの放射でなく、後年に発表された小説『姿三四郎』の姿三四郎役や、昭和三十年代のテレビ映画『柔道一代』の郷文四郎役で、四郎が創作者の意図によってモデルになった事であり、姿三四郎や郷文四郎は、作者が作り上げた虚像から放たれた人工光線と言う、捏造(ねつぞう)の一端でしかなかった。
 この捏造を顕(あら)わす最たる証拠が、西郷四郎の死後、建立(こんりゅう)された尾道の逝去(せいきょ)の碑や、長崎市の墓と記念碑、あるいは郷里津川の記念碑や会津武家屋敷(旧西郷頼母邸)にある四郎の柔道衣のイミテーションや、『山嵐』を思わせる近代作家による日本画である。この絵は柔道の『山嵐』が大東流から出たと印象づけるもので、大東流六箇条から出現したと言われる四方関節投げであり、これらは『姿三四郎』や『柔道一代』が登場した後の、戦後に建立されたものである。

 こうした虚像が一人歩きしている今日、四郎の実像は歪(ゆが)められ、実像を表現するに至る等身大の四郎像は大きな制限を受けるに至った。そして話は何処までもねじ曲げられ、虚像のみの人工光線が、多くの愛好者や支持者達に持て囃(はや)されているのである。しかし、この「光」の部分は、あくまで虚像であり、四郎の生涯の前半のみが持て囃され、後半は全く吟味される事なく、尻切れ蜻蛉(とんぼ)の観が否めない。
 また、四郎信奉者の中には、「四郎は若くして死んだ」くらいの印象しか持たない、武術史や人物史に疎(うと)い者もいる。それは四郎が警視長武術大会で披露した『山嵐』が、それ以降途絶えた事に関連しているようだ。
 四郎は当時の人生の寿命から言って、決して若死ではない。五十七歳まで生き続け、そこに「内なる会津」を模索した人物である。しかし『山嵐』以降の四郎が語られない為、四郎は若くして死んだと勘違いする者も多い。

 一般人の基本認識は『姿三四郎』や『柔道一代』のみの、大衆小説やテレビドラマの認識しか持たない。その内容から講道館華々しき時代のみに焦点を当て、山嵐を披露した、その後の四郎の「後日譚」には目も呉(く)れていない。
 西郷四郎と言う人物は、悪く言えば「栄光と転落」を両方とも経験した人物であると言える。しかし、影の部分であった転落?に関する事は一言も触れられておらず、大衆向きに前半の武勇伝のみが華やかに宣伝され、捏造されている。そしてこの人工光線は、後人が勝手に作り上げたものに過ぎない。

 また四郎の心の動きに、不可解な行動も浮かび上がる。それは突然講道館を出奔(しゅっぽん)しているからである。柔道家として、将来を嘱望され、大柔道家を約束された四郎が、である。何故、出奔を急がねばならなかったのだろうか。
 そして四郎の五十七年間の生涯を貫く、命題とは、果たして如何なるものであったのだろうか。

 以上の事を政治的に考えた場合、講道館柔道を創始した嘉納治五郎との関係について、一つの手懸(てがか)りを見い出す事が出来る。草創期の講道館は、柔道骨格の形成に全力を尽した時代であった。天神真楊流や起倒流は立技を得意とする柔術である。立技だけでは、柔道は完成を見なかった。柔道が完成を見るのは、不遷流(ふせんりゅう)柔術の寝技が加わる事により、近代柔道は完成を見る。講道館の四天王が猛威を振るった時代、まだ柔道は完成を見て居なかったのである。

 そして此処で問題になるのは講道館長・嘉納治五郎と西郷四郎の位置関係である。この点において煎じ詰めれば、当時の可能は柔道家と言うより教育者のイメージが強く、また事実、四郎から見て嘉納は教育の聖域にいる人物として四郎は捕らえている。
 要するにこの時、嘉納治五郎から見た西郷四郎は、技術面のみを重視して彼を捕らえ、逆に西郷四郎から見た嘉納治五郎は、柔道家と言うよりも教育者の目で捕らえている。

 だが、こうした視点の違いは、両者の利害関係が錯綜(さくそう)すれば、自(おの)ずとその利用価値も異なっていたはずである。
 嘉納の目の付けたところは、四郎の短期間における柔道の急速な上達だけである。単に技術面だけを重視した観が強い。本来ならば四郎の心の裡には幕末の武士の気風が遺されていた。その根底には会津武士魂という、全人格を代表する武士道が発揮されたからに他ならない。こうした一面を策士の傾向が強い、嘉納が見逃している。そして教育者であり、政治的策士である嘉納は、商家の出の為に本来の武家の作法を知らなかった。

 四郎の特異な体躯(喩えば「蛸足」(たこあし)など)は、仔細な事情が、彼には幾つもあったはずであるが、講道館出奔と言う、彼の分岐点を考えるならば、嘉納が構築した講道館柔道を以(もっ)てしても、四郎自身の価値観と統一性は、嘉納には手ての負えるものではなかった。暴れ馬のごとき四郎の荒霊(あらたま)を、嘉納は見事に馭(ぎょ)す事が出来なかった。
 講道館出奔と言えば、素朴なロマンティズムが湧き起こってくるが、四郎自身は講道館柔道に体系化する事の出来ない武士道思想と、特異な「合気」の技術を持って居たものと思われる。大東流文献研究者の中には、西郷四郎は大東流を学ばなかったという説をあげる研究者もいるが、その理由として、津川と会津若松の距離を挙げ、この距離は百キロ以上を越す事から、稽古に通うには距離的に不可能であると説明する者もいるが、この距離は決して不可能ではない。

 何故ならば、福島県白河から馬に乗って武田惣角の許(もと)に大東流を習いに言っていたと言う、祖父を持つ人に接触する事が出来たからである。白河と会津若松では、有に百キロ以上はあるのである。
 また、最近になって、福島県の眼科医で西郷頼母の孫と言う八十歳の老人で、同じ西郷姓を名乗る人が出て来たからである。その息子も西郷姓であり、紛(まぎ)れもなく西郷頼母は、今日の合気道の祖であると言う事を祖父母から聴いたと言う証言をしているのである。また、西郷家の系図も残っていた。
 次から次へと湧き起こってくる証言を組み立てれば、大東流は、何も武田惣角を中興の祖とする流派ではなかったのである。まだ、歴史に登場していない、別の流系の合気武術も存在するのである。これを大東流と呼ぶか否かは知らないが……。

 こうした事を考えれば、西郷四郎が養父頼母から大東流を学ぶ機会は充分にあったはずであり、もし四郎が頼母の技を身に付けているとしたら、恐らく嘉納にはこれを体系化し、その秘密を暴(あば)く武術的な能力は持ち合わせていなかったと推測できる。
 講道館出奔において、四郎の社会的未熟さは指摘されねばならないであろうが、これはあくまで一般論である。一般論的解釈は、あくまで真実を明確にさせるものではない。一般常識に照らせ合わせた、推測でしかない。
 当時の四郎の講道館離脱が物語るものは、対外古流勢力の牽制(けんせい)と制覇(せいは)を急ぐあまりの、嘉納の政治的な策略が見隠れし、当時の講道館は精神面を無視し、あるいは武士道実践を無視し、專(もっぱ)ら技術面や猛稽古と称する肉体的な鍛練ばかりに重きを置き、武士道的理念やその信条が、盲点の所在となっていたのではあるまいか。

 この時、四郎は嘉納に対し、面と向かって批判がましい事を一言も喋っていない。嘉納を批判する意図など、毛頭なかったに違いない。四郎の裡(うち)には「内なる会津」があるだけであり、講道館柔道だけの練習の場だけでは、抑え切れない渇望(かつぼう)の渇(かわ)きに飢えていたのではあるまいか。
 自分なりの決意と手段を以て、当時の講道館柔道と訣別(けつべつ)を告げたのである。これこそ、武士道の「潔さ」を、四郎は自ら示したのではあるまいか。

 さて、四郎が講道館を出奔した理由を、講道館草創期の組織的な脆弱(ぜいじゃく)さや、統率者としての嘉納を、柔道の実力や指導力に限界があったと検(み)るか、あるいは四郎の社会的未熟性を指摘して、彼の我が儘(まま)と取るかは意見の別れるところであるが、嘉納が見落としていたものは、四郎が西郷家の養子であり、養父西郷頼母の指令によって動かされていたと言う事実である。

 西郷頼母は、柔道を為(な)した技術的母体は、天神真楊流や起倒流などの中間(ちゅうげん)足軽(あしがろ)の肉体重視の下級武士の技で、本来の極東を考えた場合、日本を守り、日本国民の強靱(きょうじん)な体躯の育成は会津藩が総智を傾けた会津御留流、すなわち大東流合気武術でなければならないと考えていた。
 また、個の組織倍増計画の為に、政治的駆け引きは遣(つか)われるものではなく、天下国家の為に政治力が遣われるべきだとし、嘉納の個の組織である講道館が、政治力によって飛躍するのを苦々しく思っていた。そして四郎は、養父頼母と講道館の板挟みとなり、最後は「内なる会津」を模索して、大陸飛翔(ひしょう)の夢を追い求めるのである。

 では、西郷頼母は四郎に一体、何を託したのだろうか。
 西郷四郎研究による原点に立ち返れば、実子説と養子説が双方に別れるところである。しかし何(いず)れにしろ、根本にあらねばならない事は、実在感の希薄さから派生した、結果の象徴であり、この面だけが一人歩きしている観が否めない。西郷頼母の真の目的に立ち返れば、四郎が頼母の実施であったかどうかは、それほど重要な問題ではない。

 また、四郎と大東流の関係についても、歴史的実証的な証拠を見つける為に、深く掘り下げなければならない。だが、研究者の中では今まで信じて来た歴史観や、時代背景と言ったものが予期せぬ方向に動き出し、われわれが見落としていた真実の糸口が、百八十度方向を変えて新たに見い出されるかも知れない。
 そうすれば、大東流のこれまで信じられていた歴史的認識も、実は西郷頼母によって、武田惣角の為に創作された「清和天皇伝説」や「新羅三郎源義光伝説」も虚構である事が発覚されるであろう。

 「大(おお)いなる東(ひむがし)」の持つ意味は、単に明治に起った新興武道を、単に「大東流」と名付けたのではない。この「大東」の持つ意味は、紛れもなく極東を指している。秘密結社的な意味合いが強い。そして秘密結社であるならば、そこに秘密が存在するはずで、これは儀法と言われるもののみに制約されるものではない。結社としての政治的な意味合いを持つ秘密も当然存在したはずである。だからこそ、密教の成約後とや秘事が必要であり、これを包含して秘伝と称したのである。
 明治維新を想う時、これは明らかに日本を真っ二つに割る革命が計画されていた。もし、徳川慶喜が幕府に由縁(ゆかり)のある親藩大名を纏(まと)め、フランス式の軍事教練をして、イギリス式の練兵をした西南雄藩と戦っていたら、日本では間違いなく内戦が起り、フランスとイギリスの両国に割譲(かつじょう)されて真っ二つに分かれた国になっていたであろう。

 この事を見抜いたのは、徳川慶喜であり、彼は鳥羽・伏見の戦い以降、蟄居(ちっきょ)に次ぐ蟄居を繰り返した。鳥羽・伏見の戦を起して敗れた後、江戸城を明け渡して水戸に退き、次に駿府(すんぷ)に隠棲(いんせい)した。そしてその後、政(まつ)り事には一切関わっていない。

 西郷頼母も、内戦を懸念(けねん)し、会津戊辰戦争では反戦論を唱えた。しかし奇(く)しくも時代の流れは、主戦論に傾き、会津藩は奥羽列藩同盟に隨(したが)って西軍と戦い敗北した。此処に会津藩の悲劇があり、賊軍としての汚名を被った。だが、錦の御旗を勝ち取った西軍の指導者は、後に藩閥政治を行い政府を横領したのである。そして政府横領に、背後から手を貸したのがイギリスとフランスのフリーメーソンであり、これに操られてまんまと踊らされたのが薩摩の大久保利通や五代友厚、長州の木戸孝允や伊藤博文や井上馨(いのうえかおる)らであり、公家の岩倉具視や三条実美らであった。

 また、フリーメーソン日本支社長で、長崎にグラバー邸を構えたスコットランドの武器商人のトーマス・ブレーク・グラバーの走狗となったのが、土佐の坂本龍馬であった。しかし聡かった龍馬は、トーマスグラバーの秘密を知り、京都の近江屋で中岡慎太郎とともに幕府見廻組(京都見廻役とも)に殺害される。
 明治維新革命後、その国家建設に奔走したのが明六社(めいろくしゃ/薩摩藩出身で文部大臣の森有礼(もりありのり)が代表者)の福沢諭吉や西周(にしあまね)らの民間人であった。

 ここに日本は管理され、西欧列強のプログラムによって運営されていたのである。西欧列強を背後から動かしていたのはヨーロッパのフリーメーソンであった。
 徳川幕府は、鎖国を通じて反西欧的政策によって幕府の運営を維持していた。これは西欧列強にとっては非常に邪魔な存在であり、何が何でも倒さねばならぬ存在だった。その為に、四民平等の思想を持ち込み、これを当時の人民に培養し、明治維新を通じてフリーメーソン革命を日本に齎(もたら)そうとしたのである。
 明治維新成功の暁(あかつき)には、王政復古によって親欧米的な立権君主制に基づく政府を樹立するように企てたのであった。これが明治維新と言う、フリーメーソン革命の要締(ようてい)である。

 西郷頼母はこの事を知り、西郷親子が毛唐(中国人や欧米人などを卑しめて呼ぶ語)嫌いであり、欧米は契約のよって、日本人を不利な立場に追い込み、騙(だま)す人間の集団と見抜いていたのである。やがて明治十年に西南戦争が勃発する。この戦争は日本史の中では、「西郷隆盛らの反乱」と記載されている。

 ところが、これを仕組んだのは西郷自らの手によってではなかった。
 西郷隆盛等の勢力と対峙(たいじ)する勢力、つまり大久保利通(おおくぼとしみち)、岩倉具視(いわくらともみ)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、木戸孝允(きどたかよし)らのフリーメーソングループが、そもそもこの戦争を仕組んだのだった。西郷と共に政府を追われたのは、板垣退助、江藤新平、後藤象次郎(ごとうしょうじろう)、副島種臣(そえじまたねおみ)等であった。そして、大久保がフリーメーソンの指令を受けて、西南戦争を画策する。

 明治新政府は、日本各地で起る不平士族の反乱に頭を悩ませていた。そこで考え付いたのが、不平士族を九州に集め、これを一気に叩く事であった。対する不平士族の集団はこれまでにない、最大かつ強大なもので、日本史上では最後の大反乱となる。
 日本史では、隆盛が征韓論に敗れて官職を辞し、鹿児島に設立した私学校の生徒が中心となって二月に挙兵し、熊本城を攻略できないうちに政府軍の反撃にあって敗退したと教えているが、西郷自身が反乱に加わったのではなく、大久保利通の画策であった。そして西郷隆盛は九月に自刃(じじん)している。
 しかし、この時、西郷頼母も西郷隆盛軍に軍資金を送り、明治新政府の転覆(てんぷく)させる事のできる最後の勢力と考えていた。西郷隆盛軍を、政府横領者から取り返せる最後の軍であると、一縷(いちる)の望みを託したのである。

 ところが、西郷隆盛の自刃で、頼母の希(のぞ)みの綱は断たれてしまうのである。
 鹿児島には、古くから「弥次郎兵衛(やじろべい)伝説」がある。
 弥次郎兵衛は、子供の玩具(おもちゃ)のヤジロベイの事であり、振分け荷物を肩にした弥次郎兵衛の人形で、短い立棒に湾曲した細長い横棒を付け、その両端に重しを取り付けたものである。指先などで立棒を支えると、釣合をとって倒れない。別の名を「与次郎人形」ともいう。あるいは「正直正兵衛」などとも言われた。

 さて、明治維新の実質的な推進役を行ったのは地下運動を展開し、影の易断政府(えきだんせいふ)として暗躍した「ユッタ衆」(『タルムード』を信仰するユダヤ教徒の走狗と言う意味を持つ)と言う集団で、彼等は別にユッタ者などとも称された。そして裏で影の易断政府を操る総帥(そうすい)を「弥次郎」と言った。
 弥次郎は背後にユッタ衆を配しながら、鉄の統率力で彼等を率いた反面、一般大衆からは愚直とも言える正直さで親しまれ愛称を込めて「弥次郎兵衛」と言われた。あるいは、「正直正兵衛」などとも言われ、信頼を持って親しまれた。

 明治維新は日本にとって、ある意味で偉大であり、ある意味で旧体制の秩序を崩壊させた社会体制の変革であり、あるいは本ページに記するような、日本列島の割譲を狙ったフリーメーソン革命であった。
 しかし、変革や革命と言うものは、時代の成り行きとして、自然発生的に起るものではない。また、革命を日本人自身が上手に取り込んだのでもなかった。必ず扇動者がおり、画策者がおり、影で革命家に軍資金を提供する闇の帝王がいるのである。この闇の帝王は、意図的に時代の流れを変え、特定の目的と、意図をもって、人工的に人間の有史以来の歴史を塗り替えてしまうのである。革命や変革、あるいは国家の浮沈と言うものは「自然体」の結果として、現れるのではない。

 世界の歴史は疑いようもなく、十七世紀後半から十八世紀前半にかけて、一つの目的を持った人工的な流脈によって作り替えられている。そしてその背後には、いつも穏微(おんび)な集団の暗躍があり、暗殺や爆弾テロが起っている。

 明治維新も、こうした人工的な意図によって動かされ、フリーメーソン革命が日本国内に於いて実施された。そしてフリーメーソンの実体に迫る時、そこには神秘主義集団が存在するという事である。
 明治維新は、まさしく日本神秘主義集団の手で画策されたフリーメーソン革命であった。大衆の価値観を変え、金や物に執着する物質主義に移行させたのは、フリーメーソンの洗脳とも言うべき大衆の意識操作だった。

 維新の少し前に振り返るならば、薩摩の島津家の背後に、あるいは西郷隆盛の背後には、知られざる日本神秘主義者の暗躍があり、走狗として暗躍する連中を「ユッタ衆」とか、「ユッタ者」と呼んだ。あるいが「ゴロ」とも言われた。
 彼等は明治維新の尊王の志士達の裏方として、坂本龍馬に活動資金を渡し、会津・薩摩同盟を破棄して、薩長同盟を成立させた影の功労者である。
 薩長同盟締結も、実質的な功労者は坂本龍馬などではなく、影で暗躍したユッタ衆であった。

 ユッタ衆は戦国時代以前(元冦の役の頃からとも)から「影の易断政府」を持ち、日本の政治に深く関わり、鎌倉幕府を創り、室町幕府を創り、南北朝の争いを企て、戦国時代を画策し、徳川幕府を創り上げた。
 ユッタ衆のこの語源は、またユタ衆と言い、ユダヤ教徒の走狗の意味を持つ。ユタ衆は、ユタ者とも言われ、言語学者に言わせれば、「ヨタモノ」とか「ゴロツキ」という意味だそうだ。
 こうした彼等は、背後に得体の知れない強力な経済力を持ち、日本全国、股旅者として自由な行動力を持ち、時代を超越した、人間業(にんげんわざ)とは思えない、歴史への企画力を有していた。この彼等の企画力が、明治維新を企画・推進させたと言っても過言ではない。

 明治維新の功労者で、歴史に名を遺(の)した尊王攘夷の志士達は、現在のアメリカ大統領のような傀儡(かいらい)政府の代理人かも知れない。あるいはスクリーンの中で、「動き」かつ「喋る」飾り物かも知れない。実質的な推進役は、もっと別の所から大統領をコントロールしているのである。アメリカ大統領でも、傀儡の操り人形である限り、アメリカ東部のエスタブリッシュメントには、全く頭が上がらない。
 明治維新も、実質的には影の推進役で動かされ、維新の志士達の背後には、彼等に行動させ、かつ、発言させる背後の集団の暗躍があったのである。

 西郷隆盛も、こうした実質的な推進役に動かされた人物であるが、明治維新革命後、西南戦争によって彼等に仕組まれ、私学校の生徒を動かす羽目になった。逆に隆盛は、この戦争を利用して、自らの命もろとも、彼等を道連れにして日本の歴史の中から滅ぼそうとした意図が窺(うかが)える。
 しかし、当時の民衆はこの事を知らず、「弥次郎兵衛」という民芸品を作り、愚直さ、正直さを模して愛着を抱き、歴史の中に止めようとしたのである。

 この秘密は、島津家の家老であった伊集院家に謎の歴史書『カタイグチ』として遺されているのである。
 歴史は決して自然発生的に起るものではない。まして、大衆の集結された力学が動いて、それが歴史を動かす原動力になるものでもない。
 歴史との接点として、それに関わるのは、大衆であるかも知れないが、歴史を動かすのは神のような存在の超人である。安易な妥協を知らず、強い信念を持ち、屈する事を知らない超人である。

 今日の、デモクラシー下、政治が混乱し、烏合の衆あるいは、政治が愚衆政治に傾いているのは、政治家自身に超人的な器(うつわ)が備わっていないからであり、神でもない者が、威張り腐って神の真似をし、民主主義だの、基本的人権だの、個人の権利だのと喚(わめ)いているから政治が混乱するのであって、こうした国民不在の茶番劇は、国民自身が見飽きた光景である。小さな世界の中で、蝸牛(かくぎゅう)が角を突き合わせている愚かな光景である。

 また、革命に必ず登場するのが『ダーウィンの進化論』であり、「進化論」とは、思想的洗脳を目的とした政治政策なのである。政治政策であるからこそ、日本では、小・中・高校での理科の教科書には『ダーウィンの進化論』を挙げ、「人間は猿から進化した」と洗脳をし続けているのである。そして世界の国民の中で、「人間が猿から進化した」と本当に思い続けている国民は、日本人だけなのである。

 今日の進化論の流布(るふ)は、生物学的進化論よりも、社会思想としての進化論が主体であり、社会操作の為に思想戦略に結びつく社会性を掲げたものである。人間社会には、人間を意図的に、人工的に影で動かしている穏微な集団がいるのである。こうした集団は、自然科学すら、真実を隠蔽(いぺい)し、歴史の真実を自分達の都合のいいように隠蔽してしまう陰謀集団である。そして、進化論が国際政治の中で、人間の理想を叶えるものであれば幸いなのであるが、人間の理想とは程遠い、ひと握りのエリートの為の幸福に繋がる手段として用いられている事は非常に悲しい事である。

 「国家は、西南雄藩に横領されてはならない」とは、西郷頼母の霊言(れいげん)である。
 「大いなる東」の理想境は《大東流蜘蛛之巣伝》の中に秘密として封じられている。この秘密の封印が解かれる時、世の中は大きな過度期に立たされ、二者選択を迫られた場合の道標として、これが再び浮上するであろう。
 目で見る物質の実体は空間であり、空間がつまり物質なのである。
 大東流合気の、「四次元空間に敵を沈める」とは、まさにこの事を語っているのである。裏を返せば、物質に、空間以外の実体はなく、物質であらざる空間はないのである。物質イコール空間であり、空間イコール物質なのである。

 われわれが、事象における物を感じたり、それを感得すると言う行為は、実は、それを心で思い、かつ、意欲を持ち、真理を認識する精神作用に他ならない。そして精神作用も、また空間なのである。
 万古の精神作用は、《大東流蜘蛛之巣伝》の中に封じられている。秘伝も霊的存在として、この中に包含されている。西郷頼母の見据えたものは、深遠な宇宙を推し量(はか)る智慧(ちえ)の思考実験と、観察分析を行いうる、「五つの基本現象」を、実体は総て、空間に帰属すると定義付けているのである。

 つまり「五つの基本現象」とは、その一が「敵が近寄れば、それを抗(あらが)わずに受け流す」。その二が「敵が退(ひ)けば、それを抗わずに追従する」。その三が「敵が吾(われ)を掴めば、抗わずに技を施す」。その四が「敵が掴んだ手を離そうとすれば、抗わず離脱不能にし」。その五が「敵が動けば、制して抗わずに桿(さお)立ちにさせる」である。抗わなければ、要するに、力の格闘を行わねば、敵は自らの勢い余った力で、顛倒(てんとう)し、あるいは桿立ちになるのである。

 そして敵は、あたかも、ずっと掴んでいなければ自分が顛倒してしまう錯覚に陥ってしまうのである。これこそが、精神作用の特徴であり、「物質イコール空間であり、空間イコール物質ある」とする数学的帰納法の必要十分条件を得るとするならば、敵は空間の中で、物質として藻掻いている事になる。
 これが大東流合気の「五つの基本現象」であり、総べて大東流構想が導き出した、《大東流蜘蛛之巣伝》の賜(たまもの)である。

 《大東流蜘蛛之巣伝》の中には、このようにある。
 宇宙の普遍的な法則として、空間の特質は、ある処からある処へ移動する事もなく、また新しく生まれたり、あるいは死んだりする事はない。空間は、あくまで消滅する事の無い、不変のものである。また、劣化する事もなく、増減する事もない。しかし、空間には物体がない。
 物質と言うものが、空間そのものなのである。ここに、人間が認識する作用は存在しない。ただ「在(あ)る」だけである。

 空間の真理が分かれば、意識の作用はなく、物の形すらない。したがって見て、知覚すると言う、肉の目に映る現象は、一種の「誑(たぶら)かし」でしかない。その、有る無しの概念すらない。老いて死ぬと言う概念もなければ、生きながら苦しむと言う概念もない。ここには迷いもなければ、悩みもないのである。これを「空」(くう)と言う。
 また、知識には実体がないのであるから、これを修得すべきものでなく、あるいは学習・練習するものでもない。心に蟠(わだかま)りがなく、思い悩む事がなく、迷う事がなく、苦しむ事なく、虚空(こくう)をもって誤謬(ごびゅう)妄想を超越する事が出来たなら、究極の叡智(えいち)に辿り着く、と教える。


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