■ 西郷頼母と西郷四郎■
(さいごうたのもとさいごうしろう)
●無刀之理と柔術の奥儀の時代背景
刀と、日本人の魂とを分離された以降の武士階級は、その拠(よ)り所を失って、西洋化の雪崩(なだ)れのような怒濤(どとう)の波に飲み込まれ、日本人民の多くは処世の為の術策に精を出し、人民の価値観は金や物や色へと大きく変貌する。そして、うまく立ち回り、世渡りして行く事を第一義と考えるようになる。
また日本刀も、武士の魂から、美術観賞用の「モノ」へと扱われるようになる。
こうして日本刀は、武士階級の精神の拠り所としての役目を逐(お)え、日本精神は日本人から完全に姿を消し去り、魂とその精神は、無慙(むざん)に引き裂かれたのである。
以降日本人が、日本刀に対して抱く思考は希薄になり、美術品として観(み)る以外には見向きもされなくなり、やがて人々の心から忘れ去られる事になる。そして後年になれば、その遣い方すら忘れ、日本刀が単に美術品としての、投機の媒体のようになり、単なる物品に成り下がっていく現実を招き寄せるのである。
今日、日本の精神の拠り所としての魂の証(あかし)は、時代とともに曇らされ、忘れ去られ、歴史の中に取り残されて行く。
西洋の、右回りにした拡散膨張を繰り返す、遠心力を持つ物質文明は、中心の拠り所から「右旋」を繰り返し、人心を金や物や色に魅了される世界へと近づけた。心の拠り所である中心軸を大きく外れ、膨らみすぎた人間の欲望は益々煩悩に煽(あお)られ、身も心の欧米人の思考のように横文字化していくのである。これには複雑な人間の打算が絡み、競争原理の中で徘徊する。そして物質文明の高度化した淵に人間が立たされた現代は、現代人そのものが、実に煩悩(ぼんのう)の深いことを物語っている。
かつては古人が魂と称した、日本刀が収集家の間でランクがつけられ、その売買取引において日本刀は品物とした対価の対象になっている虚しい現実がある。
さて、日本刀の歴史を追うと、直刀から弯刀への移行は、「突く」あるいは「薙払う」から、「斬る」と言う技術的な移行が、時代を下がるに従い繰り返されて行く。平安中期から後期を機転とし、これまでとは一変して、「斬る」へと移行した時代がこの時期に当る。そして日本刀の重要な鍵を握るのは、この時期を境にして、一大変革的な発想の転換が行われたという事である。
そもそも剣は、中国渡来の銅剣や銅戈に端を発する。その後、鉄製の剣があらわれるが、これは銅剣や銅戈を、更に鉄と言う材質をもって、強化した事にあった。しかし、あくまでその使い道は、「突き」、更に「薙払う」という用途以外に存在しなかった。
これが「斬る」ために変貌したのは、平安中期から末期にかけてである。しかし中国に於ては、剣が「斬る」ことを目的にした「刀」へとは変わらなかった。
陳元贇(ちんげんぴん/1619年(元和五年)明代の私人で、衰乱を避けて来日、尾張徳川家の食客となる。日蓮宗の学僧・元政(国学に長じ、彦根藩主・井伊直孝に仕え、致仕後、京都深草に隠棲、深草上人と称され、堅く律を守る)と交わり、中国拳法にも秀でた)が伝えたと称する『武備志』にいたっても、刀剣の項には「我が国では刀は廃れ、刀剣は日本のように刀へは発展しなかった。專ら剣を特異とし、刀に至っては、日本の剣術より学ぶべし」とあり、『武備志』(ぶびし/八十六)には影流の目録絵図があげられ、刀法を、猿が刀を握った絵で紹介している。同時に、日本では剣が刀に変化した事を述べている。そして「柄握り」について、剣が片手柄であるのに対し、刀は両手柄である事を記している。
また、『武備志』を著したのは、実は陳元贇ではなく、明代の中国河北省の官吏で、少保(しょうほ/周の三公の次に位した三つの官の事である。すなわち少師・少傅(しようふ)・少保の称。天子の師傅で、それぞれ太師・太傅・太保の副の位にあたる)の地位にあった叔継光なる人物が、明の嘉靖四十年(永禄四年1561/戦国時代の正親町(おおぎまち)天皇朝の年号で1558年2月28日〜1570年4月23日)陣上で「其の習法を得たり」とあるから、当時中国沿岸を侵していた倭寇(わこう)が残して来たとも言われる。
また『武備志』には、文字の写しの誤りが多く、誤字もあり、記載の中には猿飛、虎竜、青眼、陰見、猿回、山陰などの刀法操作の名前も見られる。
あるいは『武備志』の著者は茅元儀(ちげんぎ)の作と称され、明室の衰乱を憂い、武備の大事を説いたもので、二百四十巻からなり、「平訣評」「陣練制」「軍資乘」「占度戦」の五部門に分かれ、各部門が数十の項目に分かれている。歴代順に事件や事実を論説風に述べ、時代順に遍しているのが特徴である。
その「八十六」には、「武経総要、載せる所の力おおよそ八種にして、小異が猶列(ゆうれつ)せず。其の習法は皆伝わらず。今習う所は惟(こ)れ兵刀、長刀(なぎなた)なり。腰刀(こしがたな/腰に差す鍔(つば)のない短い刀)は団牌(だんぴ/円形の盾)に非(あら)ずんば用いず。故に牌中に載す(牌は盾)盾の所に載せる)。長刀は倭奴(わど/日本人の事を指し、古代中国人が日本人を称した語)の習う所、世宗の時(1522〜67)進んで東南を犯す。故に始めて之を得たり。戚(せき/中国河南省にあり)の少保、辛酉(かのととり/永禄四年)に陣上に於いて其の習法を得たり。又従って之を演じ並びに後に載す。此法(このほう)末(いま)だ伝わらざる時、用うる所の刀制略(せいりゃく/おさめる智慧や技術を指す)同じ。但し短くして重し。廃す可(べ)き也」と記し、その次に「影流之目録」が猿之図とともに記載しているが、不明文が多く、非常に難解な書物である。
また、茅元儀は陳元贇と同一人物であろうか。とにかく謎の多い書物であるが、内容を要約すれば「中国では切断する為の刀之術は廃れたが、刀之術は日本の影流などを学べ」とある。
しかし日本の刀剣が、平安時代中期頃を境にして、直刀から弯刀へと変化したり、直刀当時の刀剣の術を紹介した事柄は一行も述べられていない。
さて、「斬る」ための斬り方は、左右の袈裟(けさ)斬りに代表され、切断しようとする媒体に対し、約45度を中心とした角度で斬り付けるというのが「刀法の理」となる。正しくは、大上段より振り降ろし、約45度の角度をもって斬り付け、その際の斬る時の動作は、少し前へ出て、躰を後ろへ移動させながら斬ると言う「引き斬り」が試し斬りの原則となる。
この切断法の思想は、平安前期から後期にかけて起ったものと考えられる。そしてそれ以前にはなく、それ以前のものは、直刀であり、かつ片刃であり、袈裟斬りができると言う形は有していなかった。
直刀は非常に「剣」の形に酷似していたが、多くは「突く」と「薙払う」ということを目的にした、横水平打ちと言うのが平安前期までの刀法の遣い方であった。ただし、「横水平打ち」という斬り方は、後世になって起る「真横斬り」(横一文字)という、いわゆる「胴斬り」というものではなく、頸(くび)の部分を狙った「薙払い」である。直刀の構造として、反りがない為、「胴斬り」は無理な刀法なのである。しかし、以後「斬る」ことを目的にした「反り」のある刀が発明された事により、真横からの「胴斬り」が可能となる。
また、反りの発明によって、頭部へ叩き込む「真直(しんちょく)斬り」という、「真っ向(まっこう)枯竹割」も可能になるのである。
此処で大事な事は、平安中期頃を境目にして刀剣は、「剣」より、「刀」に変化したという時代的変革があり、また同時に、武技の変革もこの時代に起ったと言ってよい。そしてこの時代以降に、武士階級の発生があり、武技を職能として生活する職能民と捉える立場から考えれば、平安後期にこの階級が登場し、江戸時代まで存続した社会階層を「武士」と言うのである。
「武士」の定義は、武芸を習い、軍事にたずさわる者を広く指す。また武技を職能として生活する職能集団を指す。そしてこの集団が起ったのは、歴史的に見ても平安後期の事である。日本史の何処を捜しても、武士なる階級は何処にも見当たらない。
こうして考えていくと、『清和天皇開祖伝説』は武技を職能として生活する、職能集団は、この時代、居なかったことになる。あるいは「武芸」と云われる武技が登場したのは、平安時代後期以降とするのが正しい。なにゆえ平安前期の天皇が、武技の必要性に迫られ、これを研究し、以上のような武技を確立させ、それを後世に伝承したのかと言う事になる。
また、刀剣の形態の相違にも注目したい。
もし、平安前期に『清和天皇開祖伝説』を正しいとして、特異な武技が存在したと言うのなら、何故、この時代の特徴であった「直刀」を用いた「剣法」なるものが残っていないのか。
今日に残る、大東流合気柔術や大東流合気武道と名乗る一派の剣術を見てみると、その基本は直心影流の「表(おもて)の型」であり、それ以前の剣法の技ではない。
そして注目をしなければならないのは、直心影流の起こりは江戸前期の事だ。
この流派は摂津高槻藩士・山田平左衛門光徳(1639〜1716)を祖としている。そして幕末に至り、男谷精一郎・島田虎之助・榊原鍵吉らの達人を輩出している。
更に注目したい事は、武田惣角もこの流派の出身である。惣角は西郷頼母の伝承した会津藩に残っていた溝口派一刀流の出身ではない。そして惣角が「直刀剣法」や、その後の大太刀を佩した「佩刀(はいとう)剣法」をもって勇名を馳せたという事実はない。
惣角は「刀法」の人である。そして大東流は、「刀法の理」の無刀捕りを、柔術百十八箇条の母体にしている。
これは惣角独自の達人的な工夫と伎倆(ぎりょう)によって、直心影流をベースにした無刀捕りが工夫されているという事である。しかし直心影流は、平安前期から中期にかけての直刀剣法ではない。あくまで刀法のみである。
直刀を用いての「剣法」と、反りのある弯刀を用いての「刀法」は形の上からも大きく異なるが、もし清和天皇が開祖したと言う大東流合気柔術が、この時代より存在したとするならば、その技の中には当然の如く、「剣法」と認識できる直刀の剣技が伝承されていなければならない。果たして現在に伝わる大東流合気柔術、もしくは大東流合気武道なるものに、「直刀剣法」あるいは「佩刀剣法」と認識できる技法が存在するのか。
そして認識しなければならないことは、江戸初期に始まった「大小一腰」の腰指帯刀と、それ以前の佩刀の刀装とは、その日本刀の用い方が違うということである。
刀剣の起こりと、その時代変貌によって、刀剣が変化する時代区分に照らし合わせれば、「清和天皇開祖伝説」は紛れもなく捏造(ねつぞう)である事が判明する。
平安前期の、極めて平和な時代に始まった平安朝時代は、平安中期までこの平和が続き、上代から日本に行われた和歌を詠み、優美な情趣を宗(むね)とし、「みやび」を主潮とする貴族的な、女房階級が文学の作者として活躍し、紫式部が著した『源氏物語』や『紫式部日記』などが著された時代である。また、伊勢・竹取・源氏・栄華などの物語、『土佐日記』などの日記、『枕草子』などの随筆が出、和歌は『古今集』を中心として隆盛を極めた平安文学絶頂の時代である。軍記物語は殆ど見当たらない。
軍記物語は鎌倉時代に作られたもので、特に我が国では、鎌倉初期に作られた『保元物語』(平安後期、後白河・二条天皇朝の年号時の保元元年七月に起った内乱を題材にした物語)、『平治物語』(平安後期、二条天皇朝の年号時の物語で、成立は保元物語の後、平家物語より前で、平治の乱の顛末(てんまつ)を描く)、『平家物語』(平曲として琵琶法師によって語られ、軍記物語・謡曲・浄瑠璃以下、後代文学に多大の影響を及ぼした。原本の成立は承久(1219〜1222)〜
仁治(1240〜1243)の間という)、『太平記』(応安(1368〜1375)〜
永和(1375〜1379)の頃までに成り、作者は小島法師説が最も有力であるとされるが定かでない。北条高時失政や建武中興を始め、南北朝時代五十余年間の争乱の様を華麗な和漢混淆(こんこう)文によって描き出す)などが有名である。いずれも平安後期の争乱を題材にしている。
したがって平安前期から中期にかけては、極めて当時は、大きな事件もなく、『源氏物語』『枕草子』に代表されるような平安朝文学花盛りの頃で、天下太平であったと推測できる。
この時代の律令制再興期(前期)や摂関期(中期)の平和で、安定したこの時期に、なにゆえ武技をもって、他と争う理由が何処にあろうか。
この時代の貴族の中心課題は、万葉の歌人に因(ちな)んで歌に明け暮れ、恋に明け暮れ、これを満喫した時代である。なにゆえ平安前期から中期迄の間に、武芸の流派が突如発祥しなければならないのか。
平安時代が騒然とした様相を呈するのは、院政期(平安後期)の事であり、平氏政権期から鎌倉幕府成立までの騒乱期である。
剣術の流派で日本最古のものと断言できるのは、飯篠伊賀守家直(いいざさいがのかみいえなお)の天真正伝神道流である。
この流派は日本兵法の中興の祖的な存在であり、『本朝武芸小伝』が著されたのは、十五世紀の頃でなかったかと推測されている。そして歴史に残る剣術の流派で、これ以上に古い流派は存在しない。
武技が優れていると言う事と、優れた武技が極めて古い時代に存在していたと言う事は全く辻褄(つじつま)が合わず、もし優れた武技が、幾多の時代を経て伝承されたとするならば、更に今よりまして進化を遂げていなければならないはずだ。
何故ならば、古い武技ほど原始的であり、単純であり、素朴であり、直線的な動きに集約され、野蛮さの残留を引き摺った形跡が否めないからである。ところが大東流には、こうした古典的な単純性も、直線の動きも、野蛮さを引き摺る形跡も認めることができない。むしろ他の柔術に比べて、直線的な動きが少なく、極めて洗練された円運動や球体運動を主体とし、新しいものだらけの優れた箇所を多々見い出す事が出来る。これはこの流派が、他流の優れたところを寄せ集めて、近代になって作られたという、新しさの証明でもある。
かくして『清和天皇開祖伝説』なる歴史的虚言は、無慙(むざん)に崩れる事になる。清和天皇の生きた時代は平安時代前期であり、然(しか)も、即位したのは幼帝の頃であった。
時代的に観(み)て、武装も「直刀」が主流の時代であり、かつ、古い時代に起源した流儀は単純極まりない。また武技がこの時代に存在したというならば、それは単純明快で、相撲のように「力ずく」が原則でなければならない。理由はその単純性と、行動線が最短距離を通るため、直線的な動きが主体となるからだ。
また、『新羅三郎源義光開祖伝説』や、義光が戦死体の解剖をして人間の骨格を研究し、これを研究した場所を「大東の館」と称し、そこで技を編み出し、これが後の合気柔術に至ったとする説も事実無根である。この時代、日本人には人間の死体を解剖するという、医学的な技術を持ち合わせていたであろうか。
本当に「大東の館」なるものがあり、ここでは戦死体解剖から、骨格の仕組みが研究され、その仕組みを元に、合気柔術なるものが研究されていたのであろうか。
あるいは新羅三郎源義光は弓矢で武功を立てた武人であったが、平素でも甲冑に身を固めて生活をする戦時の時代、何故、彼は「柔術」という素肌武術なるものを考案しなければならない必要性に、果たして迫られていたのであろうか。
しかしこうした考え方は、日本の歴史に疎(うと)い、大東流を愛好する外国人に広く浸透し、英訳されたり、その他の外国語で書かれるようになった。その結果、「中世以前の日本史」や「武家の仕来り」に疎い欧米の外国人は、「清和天皇説」や「新羅三郎源義光説」を疑いもなく、盲目的に信じている。それに疑いを抱かない、外国人愛好者は実に多いようだ。
そして一番不可解なのは、近代の中興の祖・武田惣角以来の大東流と言う極めて優れた柔術の指導者や愛好者が、明らかに、歴史的虚言と判明するこれらの伝説を持ち出して、この伝説に何故縋(すが)ろうとするのか、全く理解に苦しむばかりである。
優れたものは、時代を経ることによって洗練されていくのであり、時代を経ずして、最初から優れたものが、いきなり歴史に登場するという事実は、まだ人類史上一度もないのである。
最初は、総て「原始的なもの」である。 野蛮かつ泥臭い。行動線に至っても、最短距離をとる単純な動きから始まる。この単純な動きを繰り返し研究することにより、直線よりは円が優れていることがわかり、単調な動きより、螺旋状に動く球体運動の方が優れていることに気づく。こうした結果の総ては、その起因が、起源として「原始的なもの」であったはずである。
原始的なものに改良が加えられ、やがてこれが繰り返されれば、洗練された優美さを観、ここにこそ、垢抜(あかぬ)けた一面が現れるのである。
今日にみる大東流が、 こうした垢抜けた一面を備え、他の柔術を排して、抜きん出ているのは、やはり幕末に編纂されたという事実と、これに携わった西郷頼母の卓越した見識眼であると思われる。そして、西郷頼母の目指したものは、後世に問いかける「大東流蜘蛛之巣伝」であったのである。
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