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西郷派大東流と武士道

■ 西郷頼母と西郷四郎■
(さいごうたのもとさいごうしろう)

●戦闘思想における大東流蜘蛛之巣伝

 西郷派大東流合気武術は、競技スポーツでないので試合をしないが、しかし、人間(じんかん)の「命の遣(や)り取り」を真摯(しんし)に研究し、そこから「人の命とは何か」という根底まで掘り下げて、術理を追求して行く、特異な伝統武術である。この点は、試合をするスポーツとは大きく異なる点である。
 また「命の遣り取り」を真摯に研究する西郷派大東流の武技は、日本刀や槍などの武器を用いる為に、試合が出来ない理由がある。何故ならば、ひとたび試合を行えば、「死合」を意味するからである。
 「命の遣り取り」のぎりぎりの線は、「いま一歩」の処まで追い詰め、それ以上深入りせず、鉾(ほこ)を収めることにある。

 さて、昨今は、スポーツや格闘技が大盛会の時代であり、愛好者や観戦ファンで賑(にぎ)わっている。時代をリードする花形選手も、こうした時代的な背景により、次々に登場する。仕掛人によって新たに作り出され、そして消えていく。こうした実情は、まるで芸能人のそれを彷彿(ほうふつ)とさせる。
  一方、スポーツや格闘技の多くは、審判員によって勝ち負けが判定され、コーチや監督が傍(そば)にいて、常に選手に耳打ちしたり、アドバイスをしたりしなければ、戦えない格技が多くなった。

 今日の多くのスポーツや格闘技は、その殆どが、試合を公正にする為に審判員を置き、またコーチや監督が傍(そば)に居て、試合展開に於いて、何等かのアドバイスをするのが、新たな流行のようにも思える。そして、アドバイス無しで、自己判断によって試合が展開できるのは、ゴルフだけとなった。
 スポーツの実情と、他の武道との違いを比べると、審判員や判定員の有無で明白となる。これは、かつてゴルフがイギリスの上流階級から始まり、審判員を置かなくても、公平かつ、紳士的な立場から、イカサマをする事無く自己判断が下せると言う、高い意識からきている為である。この意識は、今でも裕福層のゴルフ愛好者に持て囃(はや)されている。

 しかし、巷(ちまた)に流行する多くのスポーツや格闘技、また競技武道と云ったスポーツは、常に審判員からの指示に従い、あるいは不正がないように勝敗の行方をも守ってもらい、結果的には、判定の白黒を付けてもらわなければならない形態をとっている。
 更に選手側は、コーチや監督のアドバイスを受けて、それを今後の試合展開に生かし、その指令に基づいて競われるものが多くなった。
 しかし、選手が試合展開していく上で、アドバイス無しでは自己判断できないのは、極めて幼児的な行動律であり、子が親の指示に従って、親の顔色を観(み)ながら行動する姿によく似ている。こうした「アドバイスを受ける」という競技は、昨今に至って益々増加傾向にある。

 選手やコーチ陣が一丸になって展開するスポーツを、昨今では「民主的」と称するのかも知れないが、この民主的なるものは、主体をぼかし、主役を排除するという、平等思想に端を発している。
 しかし、戦闘思想の中に、こうした平等意識が入り込むと、一艘(いっそう)の船を操るのに船頭ばかりが殖(ふ)え、「烏合の衆」になり、その主目的を見失う場合がある。また、本来選手一人の頭で考え、それを行動に移していたものが、横槍的な思考で主体が曇らされ、選手は不本意な戦い方しか出来なくなってしまう場合がある。
 同時に、こうした戦闘の展開では、複雑に利権や利害が絡む試合が行われる為、どうしても適否を判定する審判員の指示が必要になり、この指示下においてのみ、試合進行が可能になっているようである。

 では何故、審判員が何故存在するのか。
 まず、スポーツ競技の多くが、「観客」を意識している為である。
 スポーツ競技は観客なしに試合展開は行われない。観客の「受け」を主目的に置き、試合進行に関して、その優劣や勝敗の判定を下す為に審判員を存在させねばならない。
 また、展開中におけるプレーの適否を判定する事が必要になる。ボクシングやレスリング等では、レフェリーに対して副審が必要であるし、競技武道も然(しか)りである。そして審判員は多くの場合、判定を下すばかりでなく、「時間進行」という役割も担っている。時間内に試合を、予定通り進行させる為である。

 観客あっての試合興行であり、観客を退屈させたり、飽きられるような事になれば、死活問題に関わるからである。
 またこの点に於いて、「興行を打つ」見世物を企画する興行師の腕がある。その基本は、興行を企画し、観客を集め、入場料を徴収するという行為が働いているからである。
 観客を多く動員させる為には、出場選手の「顔見世興行」が、演劇や芝居なみに必要になって来る。どういう顔ぶれで試合が行われるか、それを観客に知らせる必要がある。そして興行を打つ場合、興行に関する興行権が発生し、ここには選手のみならず、興行に関する様々な支配体制が存在している事が分かる。

 興行を打つ場合、一人の有能な、試合上手な選手が居ても、どうにもならない。あるいは選手層が揃っていても、これだけで興行は出来ない。
 興行を打つには、試合では顔を出さない「裏方」という人達の活躍がなければ不可能である。そして裏方は、企画力のある興行主(資本家)と、興行師の仕掛人としての腕前で、その試合や選手権大会が成功するか否かにかかるのである。また、チケットを売る為の強力な販売網も必要であろう。
 販売網の大事は、プロ野球やプロサッカーの興行がこれに頼り、如何に重要な鍵を握るか、これだけで想像に難しくないだろう。

 以上の意味で、「競う」あるいは「闘う」と言う行為の中には、闘わせる側の興行師をも含む思惑と意図があり、それに沿って、闘わされる選手側との主従関係がある。この主従関係は、あくまで興行支配側が「主」であり、選手側は「従」の立場に限定される。
 したがって、こうした関係が存在する限り、「従である者」は、「主である者」の意図を汲んで、その思惑通りに試合展開しなければならない。そして、この関係が更に濃厚になれば、もはや格闘者である選手は、自分の意思で試合の行方を決定する権利など無いに等しくなり、また、あったとしても軽減されてしまうと言う立場に置かれてしまうのである。これはプロレスなどを見れば一目瞭然であろう。

 選手個人が所有するものは、これまでの練習の成果に則したテクニックと、へこたれない体力と、厳しい練習を積み上げたという自負と、自分自身に備わった伎倆(ぎりょう)以外に何もなく、これらを基盤にした集大成に於いて、興行の中で闘う戦士の役目を果たすだけである。そして、怪我や病気で闘う役目を終えると、また、これに変わる新しい選手が次々に登場し、選手側は幾らでも、代わりが利く存在であると言う事が分かる。
 側面からこの構図を見ると、選手側は観客に顔を見せるにも関わらず、興行支配側の脇役に過ぎず、支配側の意図で踊らされていると言う事が分かるであろう。これはまさに、資本主義における資本家と労働者の関係ではないか。

 試合興行とは、興行と言う商品が、「興行を打つ」と言う支配的な形態となって、選手の育成手段としてこれが試みられる。
 また、興行を打つだけの資本金を有する支配側が、自己の選手としての、労働力以外に売り込む術(すべ)を知らない、肉体労働をする選手階級から、その肉体労働を商品として、それを興行側が買い取り、選手としての価値と、過去の戦歴を利用して観客を集め、余剰観客の動員で、興行側は差額の利潤を手に入れる経済体制と置き換えれば、まさに今日のスポーツ大会や格闘技大会は、こうした経済体制下のもとで展開されている事になる。
 そして武術が武道に変貌し、競技を行うと言う「大衆化」に至った時、武術の成立と変遷(へんせん)は一転する。

 そもそも武術とは、武士が戦場で武器を持って戦闘する技術から、その術理が発生した。そして、その戦闘理論の中で、先ず第一に存在するものは、戦いの展開を強力にし、「敵を敗る」という事が第一義であった。
 その為に、戦場で使用される有効な武器が研究され、各々の武器の種類によって技術的な体系がつくられ、これを平時に於いても、日夜鍛練すると言うのが武人に課せられた役割であった。「百年兵を練る」という言葉も、こうした現実の中から生まれた。
 しかし、これが本格的に修練されるようになったのは、江戸時代に入ってからである。

 一般に「武芸十八般」という。
 この「十八般」は、武器の種類ごとに分類され、その使用法に数え上げられる種目のうち、「十八種目」を指している。そのうち「弓術、馬術、槍術、剣術、抜刀術、短刀術、手裏剣術、薙刀術、砲術、柔術、捕手術、棒術、袖搦(そでがらみの意味を持ち、「もじり」を顕わす)術、十手術、含針術、鎖鎌術、水泳術、隠形(「しのび」といい、隠形の、呪術によって、身を隠す事を指し、これを隠行法と言うが、真言の行者が、自己の姿を隠して身を守るとされる呪法で、この場合、摩利支天(まりしてん)の印を結ぶ)術」が、武芸十八般とされている。

 更に、この中でも中心になるものは、「弓術、馬術、槍術、剣術、砲術、柔術」の六つで、これを「六芸」(りくげい)という。そして上級武士の場合、この上に「軍陣学」という兵学あるいは軍学を学び、この兵学を学ぶに値する身分の分岐点を境にして、上級武士と下級武士の区別がなされていた。

 したがって、上級武士が学ぶ六芸に至っても、例えば「柔術」の場合、基本的には柔術全般であるが、足軽(あしがろ)や中間(ちゅうげん)などの下級武士は体力養生を主体とする柔術であり、上級武士は「やわら」と称された合気柔術、もしくは合気之術を学んだとされる。
 戦陣に於いて、下級武士は先鋒的な役割を果たす。先鋒は、部隊などの先頭に立つ階級であり、「さきぞなえ」であり、「前鋒」ともいう。言葉通りに捉えれば、「行動や主張の先頭を切る者」であるが、裏を返せば、主君を守る為の「捨て駒」であり、時には伏兵として、主君の影も勤められばならなかった。

 一方上級武士は、全軍または一軍を指揮統率する者の側近としての役割を担い、「駒」をどう動かすかの意志決定権を持っていた。その為の「軍陣学」であり、例えば同じ柔術であっても、下級武士が学ぶ柔術と、上級武士が学ぶ柔術とでは、その次元とランクに違いがあった。こうして階層によって、六芸も学ぶ次元が異なっていたのである。

 江戸時代に至り、武芸をもって世に立つ者は、「一学六芸」を立命の証(あかし)としてこれを身に付け、そのうち、少なくとも数種目については熟知していると言う事が要求された。
 この熟知者は、やがて一流一派を開き、流祖となって行く。そして時代が下がると、剣術で身を立てる者、槍術で身を立てる者、砲術で身を立てる者、そして柔術で身を立てる者というように、次第に専門化して行ったのである。
 この専門化は、単一の種目について熟知すればよいというようになり、江戸期に至っては、こうした専門家が続出し、武芸を修得する方式が順次確立されて行ったのである。そして、その修得方法や、師に対する態度と言うようなものが、武芸実践者の心得となって行った。
 「三歩下がって師の影を踏まず」 という格言は、こうした時代に生まれた。師への尊厳を表す言葉である。

 しかし、こうした意識が鮮明になるのは、武士階級が崩壊した明治に入ってからであり、この時代に於いて、これまでの武術は、これを総称して「武道」と呼ばれるようになった。
 武道と言う響きは、人によって、各々の解釈があり、これを大きく分けると、前時代を称して「武士の守るべき道」を武道と言い、あるいは「武芸に関する道」を武道とも称した。前者は「武士道」であり、後者は「武芸上手」を指す。

 江戸中期の軍学者・大道寺友山(名は重祐。小幡景憲や北条氏長に軍学を学び、のち会津など諸藩に招かれて軍学を講じた。著書に有名な『武道初心集』があり、また『岩淵夜話』『落穂集』を著す。1639〜1730)は、有名な『武道初心集』の中に、「武士の覚悟あるいは武士たる者の心得をもって武道としている思想は、前者のものに当り、また、武芸の修行や稽古の在(あ)り方を示すものについては後者に相当する」としている。いずれも、武術が大衆化される以前の思想である。そして武士道実践者と武芸上手をはっきりと区別している。

 しかし、これが明治期に入ると、「武道」と云う言葉は、違った意味で使われるようになった。これを本文では「第一次武道スポーツ欧米化革命」と定義する。
  大道寺友山の定義した、本来の「武道」の意味とは異なるからである。本来の武道が、明治期に入って、再び武道と言う名で脚光を浴びる事になるが、この「武道」は、江戸時代に端を発する武道とは異なるからである。明治期を境にして、一種の武道革命が、欧米のスポーツに習って行われ、これを機転に一新したからである。

 また明治期には、日本固有の武術や武芸の考え方を一掃して、これを「競技する武道」と捉えたからである。こうした競技武道は、スポーツ化を辿(たど)る事になるが、この背景には、相撲の興行と同じように、「観客の懐具合(ふところぐあい)を当て込み、旦那衆(だんなしゅう)を集めて技を見せる」と言う、見世物的な意図が含まれ、スポーツ化の一環として、種目別にこれを観客の前で競わせ、格闘させ、観客を意識して、観客アピールするという形に変わって行ったのである。

 試合に出て、観客に果敢な戦闘や敢闘振りを示し、その戦い方の展開に「ドラマがある」と言う経緯(いきさつ)を楽しむ、ストーリーが観客に好まれるようになる。そして、試合が一種の興行となり、見世物化の傾向が強まると、武芸の修得よりは、生きる為に観客から木戸銭(きどせん)を貰うというのが主体になって来る。
 明治になっても武芸以外で生計(くらし)をたてる事を知らない剣客(けんかく)らは、「刀術勝負」を武芸の見世物として、公衆の面前で試合をして競うようになった。武芸以外に理財の方法を知らなかった為である。
 明治初期の「西南の役」(1877年(明治10)の西郷隆盛らの反乱で、明治政府に対する不平士族の最大かつ最後の反乱)までは、こうした江戸期の武芸残存組が、真剣での刀術勝負に挑んでいた。しかし、ここには生きる為に真剣勝負に挑み、それを一般大衆の公衆の目の前で演ずるという、一種独特の空しさが漂っていた。

 しかし、日本各地で起こっていた農民一揆や士族の反乱が、西南戦争を最後に終焉(しゅうえん)を迎え、日清戦争(1894〜95年(明治27〜28)日本と清国との間に行われた戦争)が始まる頃から、これまでの見世物的な武芸勝負は影を潜め、一方武芸は、武道としての優れた威力を示しているとして、これを「武道の名」を以て復帰させる運動が起った。そして、この在来の武芸の地位を確立させたのが、明治二十八年(1895)の「大日本武徳会」の設立であった。

 武徳会は、平安神宮内に「武徳殿」が建てられ、毎年五月には「大日本武徳祭」が催され、残存した武芸の奨励や振興を高めて行ったが、第二次世界大戦後、日本の敗戦は、この武徳会までもを解散させ、武芸否定の思想が企てられた。
 平和主義を教育に取り込んだ日教組や日本共産党の思惑は、「武道が軍国主義の指揮高揚に寄与した」と決めつけ、「武道」イコール「悪」のイメージを植え付けたのである。そして、これは昭和二十五年まで悉(ことごと)く否定され続ける事になる。

 十九世紀末から二十世紀に入ると、日本は欧米の教育システムを取り入れて行くが、これを「知育」と称した反面、明治十五年(1882)に講道館柔道などが出現し、教育の為に武芸が採用され、これを「体育」と称した。「我が国固有の武道」を、旧時代における「尚武の気風」を再興させた。そしてこれがやがて、「質実剛健」という国民精神に移行し、戦前・戦中に於ては、「心身を鍛練するのに適切」という名目で武道が奨励される事になる。
 今日にも残る、柔道や剣道が教科の必須科目になりうる要素は、武道の持つ精神の涵養(かんよう)と、尚武の気風に明暗を託す思想から出発している。

 日本は昭和六年(1931)に、「質実剛健な国民精神を涵養し、心身を鍛練するのに武道は適切である」と定義されて、柔剣道が当時の中学(旧制中学校)や師範学校の必須科目になり、やがて昭和十六年(1941)の国民学校令の公布を機会として、これまでの「体操科」は「体錬科」と改められ、「体操」と「武道」をもって、体育が構成される事になった。
 ここに「武道」は、「献身奉公の実践力を皇国民の体育育成」の、心身二つの意味から採用される事になる。この二つを掲げた思想は、やがて中等学校の体錬科において、特に重視される事になった。そしてこの思想は、日本が敗戦の日を迎えるまで続く事になる。

 日本が敗戦した時、武道は軍人精神の養生に利用され、軍国主義を強調した道具として使われ、この悪をもって、武道は一時、学校教育から姿を消す事になる。時に昭和20年8月15日以降の事である。正しくは日本国憲法発布の1946年11月3日公布、翌47年5月3日から実施以降の事であると置き換えても良かろう。
 かくして、戦前・戦中を通じて重視されて来た武道は、学校教育から一切姿を消す事になるのである。特に柔道、剣道、弓道、そして薙刀(なぎなた)は、戦後の平和主義教育の中で一掃された。軍国主義を煽(あお)ると看做(みな)されたものは、悉く悪に仕立て上げられ、地下に潜る事を余儀無くされたのである。しかし、これも一時的な事であった。

 昭和二十五年(1950)には柔道が復活し、それに続いて、一年後の昭和二十六年(1951)には弓道が姿を見せた。次に「竹刀(橈(しない)競技)競技」と、これまで名を替えていた剣道が、昭和二十九(1954)には「剣道」の名を以て復活する事になった。これを「第二次武道スポーツ欧米化革命」と定義する。
 そしてここで注目しなければならない事は、これらの種目が「武道」ではなく、他の外来スポーツと同じように、スポーツの一種目として復活が許された点である。

 日本を占領した連合国軍総司令部(G・H・Q/General Headquarters)は、初代最高司令官(SCAP)にダグラス・マッカーサー元帥を置いた。マッカーサーは日本の占領政策を推進し、軍政と戦後改革を徹底的に行なった人物として知られている。武道や時代劇映画も徹底的に否定されたのである。そしてこれが、対日講和条約発効とともに廃止されるが、日本と連合国との間に結ばれた条約が締結される、1951年9月のサン・フランシスコ平和条約まで、G・H・Qの威光は続くのである。

 「武道」の監視は、総司令部側の統制下に置かれ、これが復活したのは「武道」としてではなく、スポーツ種目と同じような、「格技」としての復活と、その奨励であった。これは、当時の財閥解体の思想政策に、非常によく似ている。
 財閥解体は、1945年日本の降伏後、連合国最高司令官の覚書に基づき、財閥を分散させ、その経済的支配力を除いた経済民主化の為の処置であるが、財閥を解体させ、同族系列の総合商社を廃して単一会社にする事で、資本主義の経済活動は「民主化される」という経済思想が、財閥解体の中心課題だった。

 一方、これを武道に当てはめると、そもそも武芸十八般より、連綿として、秘伝を伝承して来た武技は、その多くが、複数の儀法を伝承する「総合武道的」な体系をなしていた。
 剣術であっても、その裏技に、素手で剣と戦う為の柔術が存在し、あるいは「やわら」が存在していた。更には、手裏剣術や棒術や槍術まであったとする流派も少なくない。
 これまで総合を称して「武道」と呼んでいたものが、種目ごとに細かく解体され、「単一種目のみ」としてしまった現状と酷似するのである。そして「単一種目のみ」と限定される事は、要するにスポーツ化を意味したものであった。
 これは総合武道における解体政策であり、スポーツ化を巡る、一種のスポーツ革命であった。

 このスポーツ革命を機に、スポーツとして取り上げる限り、柔剣道やその他の武道種目は許可されるのであって、これに伴い、スポーツ的な要素を取り入れ、ルールを新たに作る事が要求された。武道としてでの復活ではなく、格技としての復活であり、武道的な要素は「第二次武道スポーツ欧米化革命」に於いては、悉(ことごと)く抜け落ちる結果を招いた。そしてこの結果は、今日もその延長線上にある。
 日本を支配下に置いたアメリカ側の、日本人に民主主義を強要した思惑は、武道の競技化や、スポーツ科学としての欧米的思考を植え付けることで、一応「功を奏した」と言えよう。

 昭和三十四年(1959)の国際オリンピック委員会総会では、昭和三十八年に開催される東京オリンピックで、柔道が正式種目として採用されるに際し、競技武道推進派の手で日本武道館が建設される事になった。
 この建設は、武道愛好家がこの館に集い、武技を練成する為ではない。また、武術家や武道家の心身鍛練する場所でもない。日本武道の名を以て、観客を集め、武道を観戦せると言う目的で造られた。
 様々な、格技として分化した武道種目の試合を此処で開催し、大観衆にこれを広く公開し、観戦してもらうと言うのがその目的になっている。ここに新たな、武道の競技格闘が展開される事になり、これを「第三次武道スポーツ欧米化革命」という。

 武道格技の細分化は「武道」という名を借りて、スポーツ化・競技化する事を意味するのである。
 一般には「新たな武道時代の幕開け」と称するが、この時代に到って、各種武道は国際化に向けて愛好者の裾野を広げようとしている。
 この国際化を、最初に目指したのは「柔道」だった。続いて、その後を「剣道」が追いかけている。
 剣道界に於いても、剣道を世界の人々に愛好してもらう事を目的に、「閉ざされた秘伝を捨てて、誰にでも愛好され、単純明快な開かれた大衆化」へと、運動展開を始めたのである。大衆化すれば、「大衆受け」が良くなり、またそれだけ剣道愛好者の、剣道人口も殖(ふ)えると言うものである。

 表面的に、武道を奨励する場合、古来の精神的特性を、現代に生かすとしているが、武道の現代化は、一方に於いて大衆化する事であり、観客を動員して観戦化する事であった。そして現代武道と、それ以前の伝統をもつ武術をハッキリと色分けし、後者を歴史の中に封じ込め、秘伝を崩壊させると言う目的を持っていた。
 秘伝が存在すれば、秘事や伝承儀式が多くなり、これによって大衆化は儘(まま)ならず、近代化に立ち後れると共に、欧米の有識者から、「軍国主義の復活」と、誹(そし)られる事を恐れたからである。一子相伝(いっしそうでん)という伝承儀式を取り払い、平等主義に即して、大衆化する事を意味していたのである。

 「武道」の語源から察するように、武道とは、その発生が示している通り、武士の為の「道」として、武芸を修練する在(あ)り方を示したものだった。
 しかし、これが明治に至ると、武道の復活や、その動機は、やがて欧米に合わせた興行的なものに姿を変え、古きものに愛着を示す一方、西洋流の処世術が取り入れられ、商行為となり、これを興行として生計をたてる手段としても武道や格闘技が利用されるようになった。

 ところが第二次世界大戦後は、日本が戦争を放棄した事によって平和主義が唱えられ、更に日本国憲法第九条の「戦争放棄」が、戦う事の放棄により、表面的には日本国民が戦争放棄を宣言して、民主社会の一員として民主主義の建設を目指しているように宣伝した。
 この意味で、これまでの武道も、民主主義に一躍買ったと言う観が否めず、平和主義や民主主義と言う社会システムを受け入れる事で「スポーツ化」と言う、「3S」(3Sとは、大衆化してスクリーンに放映するの「S」、スポーツ化してこれを観戦する「S」、選手村などに集まった選手間で性行為や、あるいはその取り巻きでセックスが行われるの「S」)の「一つのS」を取り入れた事になる。
 世界規模のスポーツ大会が開かれれば、必ずその周りには「3S」の一つである、セックスが猛威を振るうのである。オリンピックの開催国が、エイズやその他の性病の被害を受けるのは、「3S」の一つである「セックス」という人害の為である。

 では、武道のスポーツ化は何を意味するのか。
 国民を大衆化し、大衆化傾向を高度に導くには、民主化と並んで、これまでの武道の持っていた師弟関係を廃して、主従道徳よりは相互依存の形を強め、自他共栄を図ると言う講道館柔道の精神が表面化されるようになった。

 嘉納治五郎の説く、民主化にちなむ自他共栄は、実に美名である。そして民主化から連想されるイメージは、民主主義であり、デモクラシーである。
 また、この社会システムこそ、今や最善のシステムであるかのように認識され、誰もがこのシステムに疑問を抱かなくなった。しかし、民主主義が正しく機能する為には、背後に隠れる見えない手によって操作がなければの話である。民主主義が真に作動する為には、「確立された個人」が必要であるが、個人は騙されやすく、様々な巧妙な手段でコントロールされてしまう。
 明治十五年以来、日本人の体育は政治がらみで、柔道という格闘スポーツに翻弄(ほんろう)され、自覚症状に気付かないまま巧妙にコントロールされてきた。これは、日本人の武術と武道の認識の低さからも窺(うかが)える。

 講道館柔道は嘉納治五郎の思想に基づき、自他共栄を目指し、その基本方針に基づいて、合理的な面と、科学的な面を融合させて、精神主義的かつ非合理主義的な箇所を一切取り除き、合理性を求める事を第一とした。更に、スポーツ化を導入して「乱取り」中心の試合を展開し、定められた平等な条件で、明確なルールのもとに「勝敗を決する」と言う構図を作り上げたのである。こう評すれば、なるほどと思わせるところがある。しかし問題は、スポーツ化や競技化にある。

 また柔道を、観戦スポーツの意識を高める為に、大衆にも分かりやすいルールを設ける事が必要になり、試合方法も、観客本位の明確なルールを作る必要があった。
 スポーツ化の方向に進んでいるものは、柔道をはじめとして、剣道、弓道、空手道、競技システム合気道、少林寺拳法、居合道、薙刀道、柔剣道、相撲道などであり、各々は固有の味わいのあるものとして進んでいるのである。

 現代武道は、格技の形態をつる事によってその生存が認められ、スポーツ化する事により大衆の興味を惹(ひ)きつけることに成功した。そして各種目の各武道は、柔道がさきがけて、世界的にも広まった成功例を重くみて、多くの各種武道はこの後を追いかけるようになった。
 国際化で目指すものは、「開かれた武道」であり、大衆化すると同時に、現代化し、「現代化」と言う名目をもって、実は秘伝を放棄する事であった。あるいは解り辛い秘伝など一掃して、肉体主義の平等を目指したものであった。

 したがって一方、武術や古武術と称されるものは、今日殆ど、人々の耳目には触れないような形で、細々と伝承され、辛うじて伝統武術あるいは伝承武術の形態をとりつつ、零細企業的な活動をしている。
 江戸時代に各々の武芸の流派が顕(あら)われ、「秘伝」と言う高次元のものを編み出し、これを門外不出として、幕末まで守り通した古流各派は、競技武道の波に押され、その推進力を失っている。
 今日の多くの武道は、現代化と言う美名に酔い痴(し)れて国際化路線を選択し、スポーツ化を宗(むね)として、公開演技を主体とするものが多くなって来た。したがって「心法」や「礼儀」は、二の次となる。ここに現代武道の辿るべき明暗が、分かれているように思えるのである。

 武道がスポーツに成り下がった場合、自らが修行で培った精神的基盤は公開演技の裏側に隠されてしまう。また、試合を展開するにも、アドバイスなしでは到底闘えなくなる。
 日本武術が近代に至って遭遇したものは、三つの「武道スポーツ欧米化革命」を経て、スポーツ化であり、国際化であった。しかし、この兆候は近年に始まった事ではない。既に、明治初期にその兆候が見られたのである。
 それは講道館柔道を見れば一目瞭然であろう。
  講道館柔道は、嘉納治五郎の意思によって、発祥当時から、国際化路線を歩こうとする意図が見られていた。

 それは講道館柔道の、草創期からの生い立ちにある。
 講道館柔道は、一方で「講道館流」とも称された。これは嘉納治五郎が、天神真楊流や起倒流その他諸流の長所を集めて、柔道を創始したという事に由来する。各々の古流のもつ秘伝を廃して、「柔道」という名の下(もと)に、古流を集結させた事にあった。
 その時に使われた言葉が「自他共栄」であった。自他共栄の示す言葉の意味は、自分も他人も共にそうだと認め、「自他第一人者」という意味を含みつつ、自他共に栄えて行くと言う思想である。しかし、この言葉の裏にも落とし穴がある。

 嘉納の考えは、古い時代の社会的位置た主従関係を廃する事だった。
 そして「自他共栄の精神」に基づき、柔道を行うならば、かつて見られた、小手先の技で「驕者(きょうじゃ)の類(たぐい)」を一掃する事が出来ると信じたからだ。
 更に、これに「礼」を加えて、柔道実践者は、「気風の高尚」や「道の為には、艱苦(かんく)を厭(いと)わず」などのスローガンを掲げ、これを柔道愛好者に要望して、柔道躍進を押し進めたのである。しかしこの理想は、見事に裏目に出て、以後、成就する事はなかった。

 嘉納の先見の明は、組織図造りの為の知謀であって、人間一人一人の個人の人格や品格に基づく、修行者としての立場に重きを置かなかった点である。人間の品位や人格は、本来ならば荒々しい稽古を行っている際も、人間としての道を踏み外してはならない。
 一言で「武道は、礼に始まり礼に終わる」と云われる。また、ここに武道の特色があると言われる。しかし、これは本当だろうか。
 あるいは、昨今は柔道を格闘技と考える風潮も強くなり、格闘技愛好家の中に、礼儀を弁(わきま)えている者がどれくらいいるだろうか。

 由来、日本武術は「礼に始まり礼の焉(おわ)る」と言われて来た。誰もがそう認め、これを疑う事を知らなかった。
 その為、世人は武道に礼を期待し、それ以降の武道界もそれに自信を持って来た。しかし、「礼」の一文字をとって、武道界を見渡した時、少数の本格の武術は別としても、それは幻想に過ぎない事を気付かされる。世の良識派と云われる人達や、有識者と云われる権威筋を納得させ、従わせる内容を、今日の武道界や格闘技界が持ち合わせているとは言い難い。

 一方、柔・剣道に於ても、礼儀正しいと自負し、その行動を毎日実践している人であっても、それは自分の集団や組織の中だけにしか通用しない、恣意的(しいてき)な習慣で終わっている場合が少なくない。
 また、彼等が言う礼は、実際的には、「規律や規則」という社交辞令のようなものであって、恣意的な習慣から一歩でも抜け出るものではない。単に、人間の行動的な自由を制限する、禁区的な道具である場合が少なくないのだ。

 嘉納治五郎の説いた、「自他共栄」も、その背後には禁区的な自由の制限があり、裏を返せば、自分は他と隔絶した高い所にあり、質が違うのだと思い上がる内面が隠せない。また、その立場で行動する柔道の愛好者が少なくない。
 自己の才能や権勢などに得意になり、思い上がって、わがままな振舞をする行為などは、格闘趣味に趨(はし)る者に多く、やがては、分に過ぎて金銭を費やし、派手に暮す者が出はじめる。あるいは異性スキャンダルを起こして、マスコミを騒がせている。

 スポーツとしての立場を取る武道と、これを一種の求道の道を定め、己の精進の道として捉える立場とでは、おのずとその価値観が異なっている。
 「自他共栄」は言葉の意味からでは、その背後に隠れた真意が見抜けないであろうが、自他がともに栄えると言う「繁栄」という言葉を深く洞察すると、そこに見えるものは、「自他との境界意識」が存在するのだと言う重要な事柄を見逃している事が分かる。「けじめ」が不明確になるのである。
 一般に、「けじめ意識」と云う言葉があるが、「けじめ」が崩壊するから、自他の境界線が蔑(ないがし)ろにされ、しいては、これが有識者から侮蔑される結果を招くのである。
 そして、「礼」という人間の行為は、自発的など行動律であるから、教養としての見識と、鋭敏かつ柔軟な直覚を必要とするのは言うまでもない。

 だが、果たして武道が近代的な現代武道に変貌し、スポーツ化を目論(もくろ)むこの流れに、以上の事柄は果たして存在するだろうか。
 現代人は近代格闘技を観戦する次元に於いて、「強弱論」から完全に抜け出したと言えるだろうか。
 強弱論が存在するから、大衆は勝者を仰いで観戦するのではないだろうか。誰が一番強いか、その結末を知りたがるのではないだろうか。
 これが偽わざる現代の、試合や選手権大会に固執する武道界や格闘技界の実態であり、それ以前の「求道」(ぐどう)という、根本原理は見失われ、今なお、問題にされない現実がある。

 本来武芸「六芸」は、もともと武門の嗜(たしな)みであった。これは好んで競うものでなかった。しかし時代の移り変わりとともに変化し、肉体が重視され、古人の智慧(ちえ)は無用の長物として捨て去られ、古流の「秘伝」は消え逝(ゆ)く運命を辿ろうとしている。
 後世の人間の為(な)すべき事は、先人の智慧と遺産を正しく受け継ぎ、それを時代に即応させて、以前にも増して、洗練させて行く作業でなかったか。
 ここに西郷頼母が、後世の人に対して問うた「大東流蜘蛛之巣伝」の真意がある。

 西郷頼母は、「大東流蜘蛛之巣伝」の中でこのように説く。
 「戦国期の武芸は徳川時代に移り、新たに剣術や鎖鎌、抜刀術や柔術などの、かくも変わった武術の細分化が行われた。その諸流派の総数をあげれば、数百数千に及ぶであろう。しかしこれ鍛錬するには、必然的に重複くする鍛練法を省く必要があろう。
 各藩における、『御流儀』(ごりゅうぎ)あるいは『御留流』(おとめりゅう)、更には『御式内』(おしきうち)と称される門外不出の統一武芸は、総合武術と称するべきものであろう。そこに柔術があり、剣術があると言うような区別はない。
 本来、柔術に観(み)る無刀の極意は、日本武術の真髄であるが、明治初期の日本を襲った欧米の右回りの思想は、日本を拡散・膨張に至らしめ、かつ細分化の方向へ導いた。競技スポーツの闘争本能を巧みに利用し、煽(あお)った近代の武道思想は、武術の本質を十六世紀の乱世の兵法の逆戻りさせただけであった。ここに人類の有害性がある」と喝破(かっぱ)しつつ、講道館柔道をこのように批判している。

 「講道館柔道は、柔術諸流派の優を結集し、『無刀之位』で敵を薙(な)ぎ倒すと言うが、この無刀之位は柔術の無手乱取りであって、剣術の無刀之位ではない。剣術の無刀之位を会得せずして、本当の無刀之位は会得できない。
  剣術における刀法は、あくまで表芸であるのに対し、無刀之位は『心法』であり、剣より発した裏技の心法を学ばずして、真の無刀之位は悟り得ない。講道館柔道が、その儀法(ぎほう)の中心に置いているのは、天神真楊流や起倒流であり、この技は中間(ちゅうげん)や足軽(あしがろ)の下級武士の技である。講道館流の流儀には、下級武士の技が多く、足や腰の鍛練や養成のみに使われている。また単に、その他の肉体部位の強化に努める事を目的にしている。
  昨今、柔道と言う体育が巷(とまた)に流行し、これが国民の体躯(たいく)に寄与しているような錯覚を植え付けているが、真の国民体育としての育成は、これまで会津藩が総智を傾け、これを連綿として伝承してきた上級武士の、柔術及び御式内の殿中作法である、『やわら』でなければならない」としたのである。

 こうして西郷頼母は、本来の武術の拠(よ)り所を、江戸期に熟成された「一学六芸」に求め、この術理体系を、「大東流蜘蛛之巣伝」の中に留め置こうとしたのである。現に、西郷派大東流には「一学六芸」の基本をなす、剣術、柔術(合気拳法を含む)、槍術、杖術(棒術と腕節棍(わんせつこん)を含む)、手裏剣術、縄術の六種類が含まれている。
 そして大東流蜘蛛之巣伝の中には、「欧米を推進したり、欧米を模倣すると、意図的な一部の人間の思惑によって、事実が捻じ曲げられたり、一方で誤った解釈がなされて捏造(ねつぞう)され、これが世間を惑わす」と警告しているのである。

 西郷頼母の言に従うと、現代の日本人は欧米化の波に押されて、横文字文化を信仰し、特定の目的を持ち、あるいは特定の意図を持った隠微な集団により操られ、搾取(さくしゅ)される現実があるといえよう。そして「現代」という時代は、ある特定のシナリオの流脈に沿い、一定方向に、人工的に導かれているという時代の、真っ只中にあるといえよう。

 

以下、つづく。


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