■ 西郷頼母と西郷四郎■
(さいごうたのもとさいごうしろう)
●日本刀剣の時代区分を知る
「無刀之理」とは、刀法の操法や研究を含めて、あらゆる敵の攻撃にも対応できる防禦自在の体勢を言う。したがって、「素手」対「素手」の徒手空拳のみの、無手柔術の域を出ない稽古法では、これを会得する事が出来ない。剣を熟知することが先決問題であり、剣を理解する事が出来ない者に、剣を躱(かわ)し、素手で、剣の攻撃を制する事は出来ない。剣の攻撃を躱し、これを防御する方法を会得するためには、徹底的に剣を研究しなければならない。剣を知らずして、あるいは刃物の鋭さを知らずして、腕力だけでこれに対抗してもだめである。いくら腕っ節が強くても、鋼(はがね)で出来ていない胴体や腕は、躱し損なえば、無慙(むざん)に斬られてしまう。
ももとも無刀捕りなるものは、剣術の裏技から発したもので、無手柔術における、単に素手で剣に対抗する技ではない。剣を知らないで剣に対抗すれば、まず腰が引けて、「及び腰」になる。及び腰では、動きが直線になり、詰め寄られれば、羽目板に追い込まれるものである。これでは追い込まれた後の、脱出手段がなくなり、手も足も出なくなる。したがって無刀捕りを会得するには、けんをし、研究し、刃物の構造を研究することである。
無刀捕りを行う母体は剣術であり、剣を持たない手刀(てがたな)が、無刀捕りを発展させたのである。これを「無刀之理」という。
また、「無刀之理」には、その発展段階において、戦国期の「殺人剣」から、江戸中期の「活人剣」に移行した形跡があり、無刀捕りの極致を極める為には、まず、極めて原始的な殺人剣の域を充分に体得しなければならない。つまり刃物での命の遣り取りだ。
ここに日本刀に学ぶ「無刀之理」の意義がある。日本刀を理解せずして、「無刀之理」を理解する事は出来ない。「無刀之理」を知るためには、日本刀を研究し、日本刀からこの理を学びとる以外なく、日本刀の中にこそ、この理の真髄がある。
つまり、西郷頼母の伝えた大東流合気武術は、「無刀之理」まで掘り下げれば、それは戦国期の「命の遣り取り」をした殺人剣の探究であり、活人剣は殺人剣を極め尽くした後に会得できるものである。したがって木刀や竹刀の、日本刀の代用品では、命を遣(や)り取りする行為として、全く役には立たないという事である。
代表品は代用品の域を出るものではなく、どこまでも代表品が原形である。また、その原形が動きの中に付きまとう。日本刀を模擬する代用品が、日本刀に取って代ると言う事は絶対にあり得ない。それは構造自体が全く異なる事であり、木刀や竹刀は刃筋も、また、その断面は尖先(きっさき)から横手(よこて)にかけて、切断面を大きく切り割く「ふくら」すら所有しない。正確を期すれば、どれも、日本刀には似ても似つかない形態をなしている。
更には、目標媒体に向かって、日本刀で斬り据(す)える事が出来ない者が、敵の日本刀の攻撃を受けて、これを躱(かわ)し、制する事は出来ない。日本刀を制するには、また一方、「斬られる恐怖」を体験しなければならない。「斬られる恐怖」の体験なくして、ただの「一点」で迫る日本刀の攻撃は、決して躱せるものではない。
日本刀の剣技の特徴は、刃を下にし、棟(むね)を背にして、「日本刀の理」によって斬る、薙ぐ、払う、受ける、突くなどの動作が加味されて居る事である。
更に、日本刀の特徴は「柄握り」にある。
「両手握り」の「茶巾(ちゃきん)絞り」にその特徴を持つ。「茶巾絞り」の要素は、木刀や竹刀にも存在するが、日本刀のそれではない。日本刀は「茶巾絞り」をすると、自然と「日本刀の理」に隨(したが)って、反(そ)りが媒体を重力方向に従い、切断すると言う斬れ味を作り上げているが、木刀や竹刀では、これが出来ない。また「直真の棒状のもの」と「反りのあるもの」の違いであり、横手の「ふくら」など、全く無いので、肉体を「切り裂き」、骨肉を割いて傷を広げる構造が備わっていない。
そして此処で正確に認識したいことは、人間という肉体そのもの、もしくは甲冑などで武装した武士を斬る場合は、茶巾絞りを行わない「片手打ち」では、到底人間は切断できないということである。片手打ちで攻撃した場合、肉体の表皮は傷つけるであろうが、肉を割(さ)き、骨を斬ることはできないのである。
「片手打ち」の直刀剣法は、「突く」と
「薙ぎ払う」であり、「両手握り」の刀法は「斬る」「薙ぐ」そして「突く」ことであり、その主目的は「斬ること」に回帰される。直刀剣法が「斬ること」を目的にしてないのは明白である。
媒体を真っ向、もしくは左右の袈裟(けさ)斬りで切断する場合は、必ず茶巾絞りの要領が必要となえる。茶巾絞りの伴わない、片手打ちでは人間を頭のてっぺんから肛門まで、真っ二つに切断することはできない。まして、相手が甲冑などに身を包み、鎧(よろい)で武装している場合は、片手打ちでは簡単に跳ね返されてしまう。どうしても茶巾絞りを伴う、両手握りの要領でのみ、媒体を真っ向から切断することが可能になるのである。
したがって直刀における柄の握りは、「片手握り」であり、鎬造弯刀(しのぎづくりわんとう)における柄の握りは「両手握り」でなければならない。そして両者は、その刀法そのものの「剣操法」が異なるのである。
柔術における「対剣術」では、敵の「柄握り」と「茶巾絞り」の伎倆(ぎりょう)がモノを言うので、躱すのがまずければ、斬られる事になる。敵の剣を「紙一重」で躱(かわ)し、捌(さば)くには、自らも日本刀の操法と、媒体切断法を研究しなければならない。
剣の術者は、今日の剣道のように、切先三寸を当てに来るのではなく、日本刀で「斬りに来る」のであって、人間の肉体を切断するのである。この「切断」という目的のために、日本刀は存在するのだ。
そして「切断」を目的をした攻め方は、当然「柄握り」も異なってくるのであり、両手で柄を握り、斬りつけなければ、人間の肉体は切断することが出来ない。これは江戸期の首切り役人だった山田浅右衛門(徳川将軍本家の刀剣の試し切りを、罪人によって行う公儀御様(おためし)御用を勤めた浪人。首切り浅右衛門と称された)の土壇場での、罪人打ち首の刀法を見ても明らかである。屍(おろく)試し斬りの、「一ツ胴」や「二ツ胴」に至っても然(しか)りである。総て、「両手握りの切断」だ。また、片手打ちの「片手握り」では、こうした切断方法は可能ではない。
さて「柄握り」に、対剣術の術理が隠されている。これは日本刀の発達の過程を追う事によって、明確となる。日本刀の時代区分は、その発達と共に次のようになる。
刀剣第一期は「上代」である。つまり太古とか上世(かみよ)とか言われた時代である。
この時代の剣は、石剣や石槍(いしやり)などの原始的なものは別にして、弥生時代に至って、大陸から我が国に銅剣・銅戈(どうほこ)などの青銅製武器が伝えられた。やがて国産化が図られるが、この時点で、形そのものが鋭利になって、偏平のものへと構造が変化する。斬る事を目的にした為である。同時に、実用性を持ったものから儀式用の祭具となり、実際には、この時代の武器は首長の権威を顕(あら)わす為のものになっていく。
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▲鉄剣・銅漆作大刀
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古墳時代における鉄剣は、やがて奈良時代に至ると、「刀」としての形態を持ち、直刀としての姿をなす。しかし鉄器製の直刀は、まだこの時代、片刃だった。 |
古墳時代は、三・四世紀から七世紀までの四百年を指すのであるが、古墳出土の武器や武具は多く、弥生時代に至ると、青銅製武器は姿を消し、鉄器製に代わっている。砂鉄や鉄鉱石から銑鉄(せんてつ)を採取する技術が発達し、やがて製造された鉄から、不純物をできるだけ取り除き、製鋼用銑(せいこうようせん)としてこれを鋼(はがね)にする技術が急速に発達した。
この時期に登場した刀剣は、直刀の構造を持つ「両刃」の剣(つるぎ)であり、刀(かたな)は「片刃」である。剣は突くに適し、刀は斬るに適した。刀剣操法の技術は、最初は「突き」であり、その後「斬る」となる。「突き」から始まり、「斬る」に至るのである。
そして刀は、平安時代前期までは直刀であり、反(そ)りがない。
また、柄握りは「片手」であり、利(き)き腕で握り、敵に攻撃する形で使われた。したがって「両手握り」のものとは全く違うのである。
日本刀の歴史の中で、平安時代中期と平安時代中期には、「片手握り」から「両手握り」に移行する刀の操法の違いがこの時代に発生している。そして繰り返すが、大東流の一部に「清和天皇起源説」が、正しい歴史観を無視して吹聴されているが、これは刀の構造の発展から考えても不可解な事であり、もし「清和天皇説」が正しいとするならば、この時代の剣操法も、以降の刀剣とは異なる形で、今日に伝わっていなければならない。
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▲平安前期の直刀・黒漆大刀
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奈良時代から平安時代初期にかけて、片手で柄を握る直刀がこの時代に登場し、その用途は、まず「突く」そして「薙ぎ払う」だった。 |
直刀と弯刀の違いは、正しく認識する必要がある。刀剣史も然りである。すなわち直刀は「突く」を目的にしたもので、弯刀は「斬る」を目的にしている為だ。だから大東流の歴史観の中に、平安前期の天皇を持ち出し、直刀の剣技が存在するのならば、今日に至っても伝承武術の形式をとる以上、刀剣による「突く」巧妙な儀法(ぎほう)があって可然(しかるべき)だ。
刀剣第二期は平安時代中期に至って、直刀から弯刀へと変化する。
しかし弯刀と言っても反りは浅く、鎬(しのぎ)造りに近いが、稜線(りょうせん)は、ほぼ中央に位置し、中央から柄元までにかけて大きな反(そ)りがついている。この太刀(たち)を鎬造弯刀というが、この時代の太刀は、刃と中心(なかご)が地続きで、同時に鉄との「共柄」であり、平安前期の片手用の柄から、双手で用いる、長い柄へと変貌しているのが特徴である。
ここで日本の刀剣は「柄握り」が、その刀法として確立されていくのである。片手での「突く」技術から、両手での「斬る」技術に移行したという事である。
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▲黄金壮大刀
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平安中期は直刀から弯刀に変化する時期であり、拵(こしらえ)は刀工職人たちによって施しがなされている。上は、平安中期の後半に製作された拵と思われる。そして以後、直刀は鎬造弯刀へと変化する。
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刀剣第三期に至ると、新興武士達の勢力が増大し、『平家物語』には黒漆太刀・金作太刀・鞘巻・衛府太刀・馬尾で柄巻をした太刀などの拵(こしらえ)が登場して来る。黒漆太刀は、源平合戦時代に盛んに用いられた太刀で、柄は革巻きに黒漆をかけた柄頭の冑金が、鞘尻の鐓(いしづき)に比べて非常に大きい事が特徴である。
当時の拵は、鞘に「渡り巻き」という刀工職人の手の込んだ手法が用いられ、此処が直刀との大きな違いとなる。
また、直刀の柄頭(つかがしら)には存在しなかった黒漆太刀には、「猿手」という吊環(つりかん)がついている。猿手は手長猿が、手を組み合わせたように見える事から名付けられた。これを「結い金」といい、これに手抜き緒を結ぶ。
そして刀身の反りは、毛抜形太刀のように、ごく浅い「腰反り」となっている。
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▲毛抜形太刀
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最初、弯刀は「握り柄」と一体型の打ち物として製作され、鎬造(しのぎづくり)弯刀として造られた。そして腰に佩(はい)したのである。 |
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▲銀銅蛭巻太刀拵
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初期の弯刀は、柄が馬上から抜き上げ行うために、湾曲しているのが特徴である。腰に佩するのは、騎乗して抜き上げを容易にするためであり、「佩する」ことで、それが自在だった。 |
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▲金沃懸地螺鈿毛抜形太刀拵
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柄と刀剣部の一体型の弯刀の拵。この時代の刀の拵と、体裁は総て「腰に佩(はい)する」ということで、腰から上へ斬り上げるという剣操法が中心である。新羅三郎源義光の時代は、まさにこうした剣操法が行われた時代であり、新羅三郎の「大東の館説」が真実とすれば、この、腰に佩した大太刀を「斬り上げる剣技」も今日に伝わっていなければならない。 |
刀剣第四期に至ると、時代は鎌倉となり、源平合戦を経て源頼朝(鎌倉幕府初代将軍で、在職は1192〜1199。武家政治の創始者。建久三年(1192)征夷大将軍となる)が鎌倉に幕府を開き、これより始まる、鎌倉時代の約百五十年間を指す。ここに至って武家勢力は増大して行くが、やはり、未だに文化の中心は京都だった。
この時代のおける初期に於ては、武家政権は軟弱であり、武士の所領を統制する為の独立した政権組織は出来上がっていたが、後鳥羽上皇(鎌倉前期の天皇で、高倉天皇の第四皇子。院政を敷いた事で有名。1180〜1239)を中心として蜂起した「承久の変」(承久3年(1221)後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討滅を図って敗れ、かえって公家勢力の衰微、武家勢力の強盛を招いた戦乱)の鎮圧は、北条氏の執権政治以降の事であり、この時代に入ると武家支配体制は整備され堅固に固まって行く。
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▲源頼朝像に見る柄拵
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頼朝像から窺(うかが)えることは、両手握りの柄の湾曲に特徴があり、この湾曲は一種の滑止の役割をしていた。また、刀は腰に指すのではなく、「腰に佩する」というのがこの時代の特徴である。 |
鎌倉時代初期の刀剣は、腰から中心に至るまでの流れに反りが強く、先反りの少ない、元身幅(もとみはば)に対して、先身幅(さきみはば)の細いものが一般的であった。これはしかし、最初から意図的に先身幅を細くしたのではなかった。実戦用に使用した為、合戦の打ち合いで刃零(はこぼ)れが生じた為、繰り返しの研ぎ直しで、先身幅が細く変型したのだった。
鎌倉時代の末期は中期の延長と検(み)てよいが、太刀では帽子(ぼうし)がやや「延びごころ」となる。包丁正宗(ほうちょうまさむね/鎌倉後期の刀工、岡崎正宗のことで、鎌倉に住み、古刀の秘伝を調べて、ついに相州伝の一派を開き、無比の名匠と称せられた)に見るような身幅の広い物が流行し、同時に重ねの厚い物が流行った。
刀剣第五期は、南北朝時代であり、後醍醐天皇(鎌倉末期・南北朝時代の天皇。後宇多(ごうた)天皇の第二皇子で、親政を志し、北条氏を滅ぼして建武新政を成就する。間もなく足利尊氏(あしかわたかうじ)の離反により吉野入りし、南朝を樹立したが、失意の間に没す。1288〜1339)による「建武の中興」(建武新政とも。足利尊氏と対立し、わずか二年半で崩壊)の時代である。
この間の刀剣の造りに於ては、豪壮なものが流行する。世の中への不満や反幕思想が刀剣の作風となって現れたものと言ってよい。これは江戸末期の「新々刀」の興りと非常によく似ている。美術史や文化史では、南北朝時代は室町時代と同じように論じられる事が多いが、刀剣史からすべば、絶対に見落とす事の出来ない重要な刀剣時代区分期となる。
この時代の特徴は、政治的混乱期と言えようが、文化や芸能に於ては旧来の伝統を超越し、新しい文化の様相が展開された時代であるからだ。
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▲黒漆金銅蛭巻太刀拵
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弯刀鎬造の反りが大きくなると、当然、柄を形成する中心(なかご)を包む柄も長くなり、両手握りの特徴を現す長柄となる。 |
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▲大太刀 信房作
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大きな反りを持つ弯刀大太刀は、中心の長いことに特徴があり、反りによって「刀の理」を保っている。太刀に反りがあるということは、「斬ること」が究極の目的であり、刀は媒体を切断するという役目を担っていた。 |
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▲足利尊氏の騎馬武者像に見る大太刀の刀姿
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大太刀は反りの深さと同時に、馬上から斬り上げる剣操法にも優れていた。 |
佐々木導誉(佐々木高氏のことで、南北朝時代の武将。足利尊氏に従い初期の室町幕府に重きをなし、出雲・飛騨の守護をも兼ねる。太平記には「バサラ大名」として描かれているが、和歌・連歌に秀でた文化人であった。導誉は法名。1306〜1373)によって代表される「跋折羅」(ばさら)は、派手にみえを張ることを指し、「だて」を気取り、これは前時代の伝統的儀礼を否定した事に繋がるのである。
『建武式目』には「倹約」を宗(むね)とする一節が加えられているが、当時の為政者は治安の安定を求めて繰り返し「派手好み」を禁止するが、多くは守られる事がなかった。そしてこの時代のもう一つの特徴をあげれば、坂東武者と公家勢力との対立が起り、時代が混沌とした時代であるのにも関わらず、商工業および貨幣経済の発達はこれまでになく、衣・食・住も驕(おご)り始めたと言う時代であった。
兵士となった民衆は、同時に文化の移動混乱までもを招き、こうした混乱と発展の中で、鍛冶社会も例外ではなかった。刀剣を製作する立地条件は非常に発達し、やがて技術的供給が各地方独特の作風に特異性が生まれ始めたのである。全国的な流行として、この時代の刀剣は身幅が広く、長寸となった大太刀(おおたち)が目立つ事である。また、大薙刀(おおなぎなた)も出現した。
刀剣第六期は、室町時代であり南北朝時代に引き続き、刀鍛冶は全国に拡がり、この時代も名刀の出現が多い。京には応永信国と云われる源左衛門尉、式部丞(式部省の四等官の第三位)を冠する者がおり、信国に数工数代出て、新たに豊前や豊後の鍛冶が名を馳せるようになる。豊前には信国定光、筑紫信国あるいは宇佐信国と称された。また豊後にも了戒定行、了戒能真らが出た。そして室町後期に至ると、平安城長吉、三条吉則、吉房が出る。また、鞍馬住吉次、美濃の流れを汲む鞍馬関と呼ばれる者も出た。そして全国津々浦々まで鍛冶が拡がった。
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▲皺革包大太刀長巻拵
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大太刀長巻(ながまき)は、柄を、これまでの大太刀以上に長くすることで、斬馬刀(ざんばとう)としても用いられた。この長巻は、薙刀としての用途にも優れ、騎乗の武士を馬ごと斬り据える事ができた。 |
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▲大太刀の柄部分
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柄の部分は両手握りになっており、柄を両手で握り、握り幅の間隔を長くする事で、薙刀のように用いることもできた。 |
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▲大太刀・備州長船住 薬師寺弥五郎久用
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柄を長くすれば、当然柄に入る中心(なかご)部分も長くなり、中心を長くする事で「斬る」正確さを増した。 |
刀剣第七期は桃山・江戸時代前期が入り、金工の名門により、刀身彫刻されたものが多く出現する。これは古刀期には見られない斬新なものの出現である。
また江戸中期の元禄を過ぎる頃になると、刀鍛冶は激減する現象を示す。町人文化が花開いた頃で、享保の一時期、将軍吉宗の武術奨励によって鍛冶は増える傾向を示すが、それも一時的な事であり、直ぐにふるわなくなってしまう。
安永の江戸中期には、出羽国出身の川部儀八郎(かわべぎはちろう)こと、水子心正秀(すいしんしまさひで)が江戸で名声を得て、弟子の大慶直胤(たいけいなおたね)や細川正義らを排出し、この一派は全国的に繁栄する。そして幕末への新々刀の時代を迎えるのである。日本刀は新々刀時代を迎えて、斬る為の技術が頂点に達するが、明治9年(1876)には廃刀令が出され、軍人や警察官以外の者は、かつて武士であっても帯刀する事が禁じられた。また、これより五年前の明治四年には、散髪脱刀令(1871年公布)が出され、髷(まげ)を落し、刀を帯びないことを自由にした、旧弊打破・文明開化の法令が出されていた。こうして日本刀は帯刀する事ならびに使用する事が禁じられることになる。
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▲佐藤一斎像に見る刀装拵
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打刀の刀装は、江戸期に至って、太刀造りの拵とは異なってくる。そして大小を腰に指すというのが、この時代の特徴である。 |
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▲刀・奉納接州住吉大明神御宝前 小野繁慶
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太刀造りと異なる打刀造りは、腰刀の様相を呈し、「抜き打ち」の剣の繰り出しに優れた。 |
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▲黒漆研出鮫打刀拵
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「抜き打ち」を可能にした腰刀の打刀拵。これまでも腰に指す風習はあったが、「大小一腰」というのは、打刀としての体裁を整えてからであった。また、下げ緒は手長猿型の佩環(はいかん)に代わったものである。 |
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▲黒漆打刀 助真の拵
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刀剣史での時代区分の大きな変化は、桃山時代に至って少しずつ変化が起こり始める。それは、これまで腰に佩(はい)していた太刀が、腰に指すことへと変化する。 |
以降の日本刀は、新々刀以降(明治以降)の刀を現代刀といい、斬る要素は薄れ、鑑賞用にと変貌して行く。以上の事から、日本刀は時代と共に変化している事が解るであろう。
また、日本刀の変化は柄握りの変化でもあり、片手握りから始まった日本刀は、終局的には両手握りへと変化している。その形態は、「突く」から「斬る」へと変わった事である。
「突く」技術に対しては、これを躱す技術があり、また「斬る」技術に対抗する為には、躱しに加えて、「捌く」と言う技術が必要になる。両者は一見同じように見えて、実は根本的には異なる戦闘理論より発しているのである。
そして無刀捕りなるものは、弯刀に対しての「無刀捕り」であり、直刀に対しての無刀捕りではない。
更には、腰に佩した大太刀を受ける無刀捕りでもなかった。江戸期に入ってからの対剣術であり、これ以前の剣術の剣操法は含まれない。それは、大東流の演武などに使われる武器は、木刀、短刀、杖や棒などであり、特に木刀は打刀の形態をなしており、これは腰に指す「大小一腰」の「大刀」の形を模したものである。
清和天皇時代の直刀とも違うし、あるいは新羅三郎源義光の時代の腰に佩した太刀に於ける、刀法とも異なるのである。
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