トップページ >> 西郷頼母と西郷四郎(三) >> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元々、西郷家の先祖は九州の菊池一族に始まる。菊池一族は菊池則隆(孝)を初代当主とする、日本屈指の豪族で、歴史の中で極めて重要な位置に属した一族である。この一族の掲げるスローガンは、何時の時代も尊王主義に基づく《正義武断》であった。 その歴史は寛仁三年(1019)に刀伊(とうい/刀夷とも書く。刀伊の賊の来冦で、沿海州辺境民。女真人ともいう)が壱岐・対馬、博多を襲い、掠奪と殺戮を繰り返して北九州にまで及んだ時、これを迎かえ撃って勇敢な奮戦記録を残した。刀伊と防戦して戦ったのは、菊池則隆の祖父に当たる太宰府の長官であった権帥藤原隆家(979〜1044年)であった。隆家は北部九州の豪族たちを指揮して、これを悉(ことごと)く撃退したという。そして刀伊の賊は、大陸の騎馬戦闘に慣れた戦争集団であった為、奪う、犯す、殺す等の、狂暴で残虐な皆殺しの戦法を繰り返した。 当時北部九州を防備した隆家は、これに散々苦戦を強いられ、太宰府の文官達までもを指揮して勇戦したという。ここに隆家の名指揮官ぶりがあった。この事は『大鏡』にも記されている。 「菊池武朝申状」によると、楠木正成が軍功の第一人者として嫡男の武重を推薦し、肥後守の地位を与えられたと記されている。その後、建武二年(1335)新政政府が崩壊し、後醍醐天皇と足利尊氏の戦いが始まると、菊池氏は天皇方につき、大いに奮戦した。中央では武重が箱根山合戦に於て奮戦し、九州ではその弟武敏が「多々良浜の合戦」で尊氏直義兄弟と戦った。 南北朝時代、武家は《宮方》と呼ばれた南朝方と、《武家方》と呼ばれた北朝方に分裂して戦ったが、菊池氏は内部分裂も起こすことなく南朝勢力を支持し、九州の中央部から北朝方の武家たちを監視し、勢力を強め、征西将軍懐良親王の肥後入国後、九州南朝方の盟主として地位を得ている。そしてその後、武朝は室町幕府体制下でも、肥後国の守護としての地位を実力で確保したのである。 歴史を振り返れば、菊池氏は北朝方の世の中になっても、名誉ある形で武家社会の中枢に生き残り、中世以降も領土支配が強化され、「九州のスメラギ」として長く君臨する事になる。そして一族の掲げたスローガンは、政治的軍事的思想的色彩の強い《正義武断》で一貫されていた。 西郷隆盛が薩摩藩の藩命により大島に流された時、彼は「菊池源吾」と名を変えている。つまり薩摩西郷家も、また菊池一族の末裔であり、西郷隆盛は先祖の言い伝えとして伝えられた、旧姓菊池氏を苗字としたのである。また菊池家と親族関係にあった西郷氏(及び西の姓)は勿論のこと、宇佐氏や山鹿氏や東郷氏(及び東の姓)の姓も、元は菊池氏の流れを汲んでおり、代々が神主や神道と深い関係を持つ事から、菊池一族は宮司家を勤めた人を多く輩出している。 大東流の流技を編纂した西郷頼母は明治維新後、日光東照宮の禰宜を勤めた人物であり、熱烈な尊王家であったことは、菊池一族の掲げた《正義武断》のスローガンからも窺えよう。 後に、この大東流は極秘の裡(うち)に養子西郷四郎(志田四郎…頼母と骨格が似ているので実子かも知れない)に受け継がれていくが、四郎が表向きは大東流を継承しなかった(秘密裏に継承する)為、柔道創始者の嘉納治五郎と養父頼母の板挟みになり、長崎に逃避したという説もある。が、しかしその真意は謎に包まれた部分が多く、実際のところその詳細は分からない。 今日、大東流を「新羅三郎義光」や「大東の館」等を持ちだし、「大東流合気武道は、今から八百有余年前の清和天皇の末孫である新羅三郎義光を始祖として「大東の館」で修練したことに因み、《大東流》と称され…」と説明する団体もあるが、多くは武田惣角を中興の祖としている為である。武田惣角は字学のない人であったが、近代希にみる武術の達人で、特に剣は直新陰流を学び剣客の域に達していた。明治の世になっても、羽織袴に刀の大小を帯刀し、時代遅れの武者修行をして、日本全国を巡回した武芸者であった。 頼母はこのような武田惣角を哀れに思い、武芸(剣を捨てて柔術で)で自立出来るようにと、彼の為に架空の伝書の形式(原本)を作成して与え、「会津藩御留流は清和天皇に源を発し、代々源氏古伝の武芸として伝わり、新羅三郎義光に至っては大東の館で一段と工夫を加えた。即ち戦死した兵卒の死体を解剖して、人体の骨格を研究した上で、女郎蜘蛛(じょろうぐも)が獲物を雁字(がんじ)絡めにする方法を観察して、合気柔術の極意を究めた…」(牧野登著『史伝・西郷四郎』より)という甲斐・武田家伝説を付け加え、新たに「源正義」の名前迄を授けたのである。それにより惣角は頼母の言を墨守し、会津藩の名を恥ずかしめないようにと御留流、後には頼母が大東亜圏構想から、大東流を名乗ると、大東流柔術を名乗り、更に大東流合気柔術本部長と名乗り、生涯を通じて宗家とか、何代目とかは一切名乗った事がなかった。 この事からみても大東流の流名由来が、大日本武徳会創立時(明治三十一年)に、当時の大東亜圏構想に因んで、頼母によって命名された事は明らかであり、この命名によって、当時大陸問題に関わっていた西郷四郎の思想が、何らかの形で流名由来に投影されていたであろう事は容易に推測出来る。あるいは、最終的な命名者は頼母であったにしても、実質的な流名由来の立案者は、寧ろ四郎によるところが大きかったかも知れない。 また四郎が講道館出奔の際に、書き残した一書の題名が「東洋諸国一致政策論」であったことから、吉田松陰の「海防論」の影響を受け、日本を中心としたアジア諸民族の団結を以て、アメリカ、イギリス、フランス及び、ロシア等の欧米列強に対抗することを主張している。 この論説の中心人物が樽井藤吉であった。その著書『大東合邦論』に、四郎は以前から共鳴していたに違いなく、欧米列強を意識して「大東」が、その流名になった事は極めて信憑性が高く、菊池一族の政治的軍事的思想的色彩の強い『正義武断』というスローガンを考えれば、その末裔たちが、危急存亡に対して同じ様なスローガンを掲げ、欧米列強の脅威に危機感を抱いたとしても、何ら不思議ではあるまい。 明治初頭から起こった「大東亜」の大アジア構想は「大(おお)いなる東(ひむがし)」即ち、聖徳太子が隋の煬帝(ようだい)に宛た書簡の「日の出ずる処の天子より、日の沈む処の天子へ」といって憚らなかった事を今更持ち出すまでもなく、極東の中心は「日の出ずる国」日本であり、「大東流」という流名には海外を睨んだ思想的あるいは政治的な時代背景があった。
当時、頼母が南北朝期の尊皇家北畠一族を祭神とする福島県・霊山神社の宮司の職にあり、頼母自身、既に十三歳の時には大和畝傍山(うねびやま)・神武天皇に参詣して、一詩を賦している程の勤皇家であったことを考えれば、あるいは「大東流」命名が、頼母の「極東の中心、日の出ずる国日本」の独創であったのかも知れない。 ともあれ、武士道精神と、陽明学の知行合一の投影が『大東合邦論』によって、命が吹き込まれ、「大東流」と命名した西郷親子の、何れかの理想がはっきりと掲げられている。恐らく、この親子の何れかによって、海外を意識しながら『正義武断』を掲げ、それを総称して「大東流」と命名したということが正直なところではあるまいか。
また、長崎県には四郎の主宰した「瓊浦游泳協会」(会津藩校日新館には泳法訓練をするプールがあった事に由来している)があった。四郎の長崎時代は、多くの挿話があり、その中でも「思案橋事件」は特に有名である。この思案橋事件は人力車の車夫が複数の外人から袋叩きに遭っているところを、そこに通り合わせた四郎が助けたという事件である。当時の地方紙は競って、この事件を取り上げ、四郎の武勇伝を痛快に書きまくっている。 また福岡県久留米市には「南筑武術館」があって、四郎はここでも柔術師範を引き受けている。この時、既に脊髄カリエスで背骨を痛めていた四郎ではあるが、大東流多数捕りの技を使って、瞬時に数人の男を投げたという多数之位は、この時に生れた武勇伝である。
大正二年、孫文ら一行が長崎を訪問した際も、四郎は柔道ではなく、合気武術と思われる業(わざ)を披露したと伝えられている。その特徴が、複数の相手で掛からせ、これを意図もなく次から次へと投げ倒したという事実である。こうした事を考えると、西郷四郎は何等かの形で、養父西郷頼母から大東流の技の指導を授かっていたのではないかと言う推測が成り立つ。その事実も、わが流に於ては調査中である。
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