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西郷派大東流と武士道

■ 西郷頼母と西郷四郎■
(さいごうたのもとさいごうしろう)

●大東流が誕生するに至る当時の時代背景

 孝明(こうめい)天皇崩御、大政奉還、明治維新、会津戊辰戦争と目紛しく時流が移り、《公武合体》の新体制の中で、要人警護の会津御留流(当時は大東流の流名を持たない)は卓(す)ぐれ他流派の長所を集積して一応完成したものの、未発表の儘「幻の御留流」となって、この後も世に出ることはなかった。

 当時の時代背景としては井伊直弼いい‐なおすけ/幕末の大老で彦根藩主。徳川家茂を将軍の継嗣と定め、また勅許を待たずに諸外国と条約を結び、反対派を弾圧したので「安政の大獄」を押し進め、水戸・薩摩浪士らに桜田門外で暗殺された。1815〜1860)の暗殺後、幕閣の中心となったのは老中・安藤信正あんどう‐のぶまさ/幕末の老中で磐城平藩主。公武合体を図り、その外交が攘夷論者に憎まれ、文久2年(1862)1月に坂下門外で要撃されて負傷。1819〜71)と久世広周くぜ‐ひろちか/安藤信正の後を引き継いだ中老。尊王攘夷の嵐の中、厳しい難局を収拾しようとしたが、幕府は独力で抑える事ができなかった。1919〜64)であった

 この時、幕府は政治方針を変えて、“公武合体政策”を取るのである。しかし、この時代、幕府の威厳は地に落ち、徳川幕府は斜陽に差し掛かっていたのである。西南雄藩を抑える力は喪失していた。また、これを機に、西欧列強は徳川幕府の揺さぶりにかかった。

 その最たるものが、アメリカの“黒船砲艦外交”であろう。
 ペリーの砲艦外交で、開国を迫る幕末の混乱期の中で、幕府の《武》の権威は衰えていったが、反幕閣派の結合の中心である朝廷の《公》と結び付く事によって、幕府体制の再強化を図ろうとしたのである。これを《公武合体》といい、難局を乗り切る為の“幕府苦肉の策”であった。

 公武合体政策の中心課題は、孝明天皇の妹・和宮(かずみや)を、第十四代将軍家茂への降嫁であった。
 和宮は文久元年(1861)江戸に下り、翌年二月、第家茂との婚儀が行われた。これが徳川家と皇女和宮の婚儀であった。これにより、徳川幕府は息を吹き返す予定であった。
 しかし公武合体政策を推進し、幕権回復の為に和宮降嫁を実現させた事は、後に尊皇攘夷派の武士達の憤慨(ふんがい)を招いた。この事が原因で、安藤信正は登城途中、坂下門外で水戸浪士六人から襲われ重傷を負った。この事件を「坂下門外の変」といい、これを岐点に尊皇攘夷運動は益々激化していく。世は、激動の世の中に突入するのである。

 幕府は大原重徳(おおはらしげのり)によって齎(もたら)された勅命ちょくめい/天皇の命令で、勅諚とも)に従い幕政改革を実行し、一橋慶喜ひとつばし‐よしのぶ/徳川家の分家筋に当り、徳川吉宗の第四子宗尹(むねただ)以来の江戸一ッ橋門内に邸宅を賜っていた十万石の大名の一橋家を嗣(つ)ぎ、将軍家茂の補佐役)を将軍後見職に据え、松平慶永を政事総裁職に、会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)を京都守護職に任命するのである。
 ここから、松平容保と会津二十三万石の悲劇が始まるのである。この時、頼母は霊的な予言ともいうべき諫言、「薪(たきぎ)を背負って火の中に飛び込むが如し」を藩主に申し立てるが、この進言は退けられてしまう。この間、国歩は多難な時代を迎え、白昼公然と幕府要人が斬殺されるような事件が江戸や京都で起こり、幕府の衰運は誰が見ても明らかであった。

 また頼母と同じような諫言をした者が、長岡藩国家老(当時は郡奉行兼町奉行であった)河井継之助(文武両道に優れた陽明学者)であった。
 長岡藩主・牧野忠恭が京都所司代に推挙された事について、河井継之助(かわいつぐのすけ)は「微弱小藩の力を以は紛擾ふんじょう/もめ事)の渦中に巻き込まれるばかりでありますから、今は藩政を充実して力を蓄え、大事を計るのが何分にも先決でありましょう」と、藩主に所司代辞任を建言したが、これは受け入れられず、河井継之助は空しく帰国している。継之助はこれから騒然となる動乱の時代を読み切っていた。先見の明はあったが、却下されたのである。文久二年(1862)八月の事である。

 幕末から明治に掛けて、日本中は蜂の巣を突ついたようになり、日本は尊王攘夷思想で爆発した時代であった。西欧で革命が起った場合、法制や封建制妥当の為に、“共和政”が採用されたが、日本は西欧の共和政とは異なり、徳川幕藩体制を転覆(てんぷく)させ、“四民平等”をもって封建時代に終止符を打ち、それに代わって王政復古を目指したのであった。これが「平等時代」の始まりであった。

 つまり“天皇制”を取り入れ、日本近代デモクラシーを出発させようとしたのである。此処が西欧の近代デモクラシーとは異なり、西欧近代デモクラシーは君主制を打倒する事によってデモクラシーを成立させたが、日本の場合は天皇制を復古させ、それによってデモクラシーを成立させたのである。しかし“デモクラシー”は名ばかりであった。
 そして戦前に於ては、デモクラシーを超越した“天皇大権”の名の下に、専制主義的侵略国家が成立したのであった。幕末は、こうした時代を目指して、世の中が変化しつつあった。誰もが明治維新の真の目的も知らず、“デモクラシー”または“四民平等”の名に浮かれた時代であった。

 今にして思えば、「明治」と言う時代は、非デモクラット的な存在として、天皇を頭部に戴くことにより、疑似形態としての“戦前型のデモクラシー”が醸成された時代であった。そしてこの時代に辿り着くまでに、尊王攘夷思想の嵐が吹き荒れ、明治とは、まさに尊皇攘夷の名に浮かれた“爆発テロ時代”であった。

 こうした歴史の流れに目を向けると、幕末から明治に掛けて、世の中は“革命の嵐”で日本中を覆(おお)わばかりの様相を呈していたと言ってよい。これは欧米列強の企みがその根底に隠された、所謂(いわゆる)「フリーメーソン革命」であった。至る処で幕府要人や、反対勢力の公家たちを襲う“テロ”が発生し、俗に言う「人斬り」が横行した。これは新政府樹立で、一応の終止符を打つが、テロの時代は、更に明治の世にになっても続けられた。

「人斬り半次郎」と言われた示現流の達人・中村半次郎で、後の陸軍少将・桐野利秋。しかし「人斬り」の名とは程遠く、中村半次郎は今日の歴史家が評価する暗殺者とは程遠い人物だった。

 会津藩家老・西郷頼母は激動の時代にあって、幕府の“公武合体政策”を通じて、要人警護の為の、会津藩御留流の編纂(へんさん)に忙しかった。
 もともと尊王攘夷思想は、元来京都新政府の指導者達が、幕末期において、倒幕運動を鼓舞・指導し、初版の下級武士や民衆を煽(あお)り立てた運動であった。

 関ヶ原以来、外様に置かれた各藩の下級武士たちは、その原動力が“清貧に甘んじる”という欠乏的な生活を強いられた為、これが“バネ”となって、幕末期には激動の時代の渦の中に突入する。尊皇攘夷も、その現われであっただろう。
 明治新政府を作る為の原動力は、薩摩・長州・土佐からなる、以降の藩閥政治の中枢を為(な)した、当時の下級武士たちであった。

 こうした武士の中に、中村半次郎こと、後の桐野利秋(きりのとしあき)が居た。
 桐野利秋は、かつて「人斬り半次郎」などとも呼称されていたが、この人は歴史上では、殺伐(さつばつ)とした暗殺者のような誤解を受けている。しかし実際には、こうしたイメージとは程遠い、温厚な人柄であったことを付け加えておきたい。
 事実においては、中村半次郎が、誰かを“影で密かに暗殺した”という事件は全くないのである。歴史上の作り出されたイメージから来る、大きな誤解である。

 しかし、中村半次郎が示現流の達人であったことは事実だ。
 示現流には、薬丸自顕流などの分派があるが、この分派は東郷藤兵衛重位(とうごう‐とうべいしげたか)の高弟・薬丸兼陳(やくまるげんじん)が興したものである。この流派には、示現流の「立木打ち」によく似た、二本の木の間に渡した「木の束」を打って稽古をする。この稽古は壮絶なもので、かつて著名な武術家などもこうした稽古を積んだといわれる。

 中村半次郎が学んだ流派は、まさに示現流(自顕流)の薬丸派であり、本質的には、稽古法は変わりなかった。
 半次郎は稽古通いに頼らず、「一人稽古」を旨とした。というのも、半次郎の場合、貧しさゆえに道場通いがままならず、自分の家の周りで、樹木と向かい合い、木々を相手の一人稽古を重ねたのであった。樹木相手に「立木打ち」や「打ち回り」を徹底的に稽古した。

 後に時機(とき)を得て道場に入門する機会を得たが、半次郎は入門と同時に、師範の伊集院鴨居に即刻その腕前が認められ、一足飛びに高弟に迎えられた。
 ちなみに「自顕流」という流名は、名を改めた示現流の東郷重位の発想から興ったものでなく、これは重位の剣儀を高く評価した島津家久の奨めだといわれる。
 家久は、「自ら顕れるというのでは、余人が勝手に自流を名乗るであろう」と心配し、薩摩の著名な学僧文之和尚に相談し、新たに「示現流」の名を遺すことにした。これは「示現神通力」の言葉から採ったと言われる。そして自顕流が「示現流」と改められ、島津家の「実戦第一」の御流儀となるのである。

 さて、当時の民族的な思想の中枢は、鎖国を強固にして排外感情に根ざし、国学(『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの古典の、主として文献学的研究に基づいて、特に儒教・仏教渡来以前における日本固有の文化および精神を明らかにしようとする学問。荷田春満(かだ‐の‐あずままろ)・賀茂真淵(かも‐の‐まぶち)・本居宣長・平田篤胤の四人の国学者を四大国学者と称する)や水戸学(江戸時代、水戸藩で興隆した学派で、。国学・史学・神道を基幹とした国家意識を特色とし、藩主徳川光圀の『大日本史』編纂に由来するが、特色ある学風を形成したのは寛政(1789〜1801)年間以降のことである。これが幕末には尊王攘夷運動に大きな影響を与えた)が説くところの、天皇を中心とする偏狭的な神国観に揺り動かされたが、これは一部の下級武士のみで、実際にはそんなに激しい思想を有していたわけではなかった。当時の為政者の考え方一つで、あるいは命令一つで、如何様にも動かせるものであった。

本居宣長画像
平田篤胤画像

 ところが井伊直弼が朝廷を無視して不平等条約を締結すると、攘夷熱は一挙に吹き上げ、この時点から反幕運動が激化して行く。では何故、井伊の締結した不平等条約で猛烈な反幕運動が展開されたのか。
 それはアジア諸国が、列国の東漸によって侵蝕され、次第にアジアは植民地化されて行くと言う危機感からであった。このような趨勢(すうせい)の中で、幕府が外国勢力の圧力に屈し、易々と屈辱的な条約を締結した所に当時の国を憂える勤王の志士達の怒りを買ったのである。

 これは、いわば幕末の民族主義運動の起爆剤となったのである。その上、水戸学や、過激な国学思想が結びついた為、倒幕運動は激烈を極めるようになる。
 そして倒幕運動の指導者達は、この怒りを巧みに利用し、日々軟弱化する幕府の失態を責め、倒幕のエネルギーを構築して行ったのである。

 これは革命の手段としては有効であったが、これをその儘、革命政府の指導原理に置き換える事には無理があり、当時の日本次実力から言って、極端は排外主義をとることは、やがては西欧列強から付け込まれて自滅する恐れがあったのである。また、西欧列強は日本に介入すれば内乱になる恐れがあり、「外国船打払令」などは、外国と幕府が結びつき、西南雄藩を相手に内戦にもつれ込む危惧(きぐ)があった。

 西郷頼母は当時の日本を分析してこう思う。日本の国力は貧弱である。政治も経済も、文化も民族も、悉くが外国に劣り、思想も、道徳も、風俗も、作法も、総べて西欧列強に劣っている。初めから対等な立場などあり得ない。西欧化政策を行って、開講し、和親を通じて文明開化を標榜したところで、中身は張子の虎である。表面だけ対等を装っても、中身が充実していなければ日本は外国の思う壷に嵌り喰い物にされる。

 毛唐である、イギリス・フランスは、日本を朝廷側と幕府側に分けてそれぞれを戦わせようとしている。その上、武器を提供し、軍資金の援助までしている。ロシア連邦も日本を餌食にしようと虎視眈々とその機会を窺っている。こうした諸外国の謀略は、日本を植民地化しようとする画策に直結している。
 頼母の懸念もよそに、尊王攘夷の秩序破壊とテロリズムは着々と遂行されていたのである。そして頼母が急いだ事は、極東一の外国に侵蝕されない、大東流構想であった。


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