インデックスへ  
はじめに 大東流とは? 技法体系 入門方法 書籍案内
 トップページ >> 西郷頼母と西郷四郎(十五) >>
 
西郷派大東流と武士道

■ 西郷頼母と西郷四郎■
(さいごうたのもとさいごうしろう)

●西郷四郎

 慶応二年二月四日、明治維新前夜、東北地方には例年に珍しい厳しい寒波が到来し、猛吹雪が吹き荒れた。昨夜から吹き荒れた猛吹雪は、会津若松地方にもその凄まじい吹雪を叩き付けていた。
 その日の昼近く、甲高い産声を上げて男子が誕生した。この男子を取り上げた産婆は馴れた手つきで赤ん坊に産湯を遣わせながら、「なんと小さな赤子じゃ、あまり小さいので驚いた。しかしこりゃー、かたじしだよ、しっかりしちるわい」と呟いたと言う。

 この頃、京都では明治維新の前夜を向かえ、風雲急を告げようとしていた。三百年続いた徳川幕府は漸(ようや)く衰えを見せ始め、京都守護職として会津藩兵を引き連れ京都に居た会津藩主松平容保は、俄(にわか)に押し寄せる西南雄藩の討幕派志士の動きを封じるのに重責の苦労を強いられていた。
 荒れ狂う吹雪の中の、動乱期に生まれた赤ん坊は、当時の時代を背景に何か驚くような事を暗示した観があった。赤ん坊の「出生届」は役場に届けられ、会津藩士御用場役、一五十石取り、志田貞二郎、妻さたの間に生まれた三男四郎と届けられた。

 志田貞二郎一家は元々、会津領(現在の新潟県)津川字志田平の豪族であったが、それが何故会津若松に来ていたか不明である。しかし会津戊辰戦争が始まり、会津が戦火に巻き込まれると、父貞二郎は四郎を津川に帰す決断をする。母さたは気丈な女で、二歳の四郎を背中に背負い、三人の子供の手を引き、三人の老人を連れて戦火の会津を避難して行ったという。

 父貞二郎は朱雀(すざく)隊の二番寄合隊員として越後方面の戦場に引っ張り出され、転戦を重ねていた。貞二郎の隊は、奥羽列藩(おおうれっぱん)同盟から長岡藩応援という形で越後西浦原地方を皮きりに、弥彦、与坂、見附、長岡と転戦を重ねていた。この会津藩兵を指揮するのは元新撰組副長で奥羽烈番同盟軍総統の土方歳三(ひじかたとしぞう)であった。
 しかし日増しに戦火が激しくなり、会津が猛攻撃を浴びるようになると、長岡藩応援に来ていた会津藩兵は会津に引き返す決断を行い、その途上にあったが、会津藩が降伏した為、九月二十日鶴ケ城を西軍に明け渡すに及んで、貞二郎の隊は越後塩川(えちごしおかわ)で武装解除になり、高田藩(十五万石、藩主・榊原政敬)に移送され、此処で約一年半の禁固を余儀なくされ厳しい収容生活を送った。

 一方、さたは津川角嶋に居て、農業を始め、慣れない百姓生活を強いられていた。一年半の収容生活から帰還した貞二郎は、此処で百姓として再起する事を決断するが、慣れない百姓生活と、一年半にも及ぶ収容生活の心労が祟(たた)り、病魔に襲われやがてこの世を去る。志田家は絶望のどん底に叩き落され、大黒柱を失った今、農業に見切りをつけて、再び移転を決意し、阿賀野川湖畔の小野戸に舟大工の店を開いた。
 やがて四郎は津川小学校に入学し、舟大工の店を手伝いする日々を過ごしていた。また四郎は会津藩士族の仕来りに従い、幼少より儒教を習い、更に七歳頃から柔術も習い始めていた。津川には天神真楊流の柔術師範、天津名倉堂の粟山昇一(あわやましょういち)が居た。

 会津戊辰戦争の傷跡から漸(よう)く立ち直り、東北地方は新たな生活が始まり復興の兆(きざ)しが見え始めていた。そんな中で四郎は粟山について柔術を習っていたのである。しかしその上達は目を見張るものがあり、既に四郎の敵は津川には居なかった。そして粟山は、四郎を同門の高田大町の天神真楊流名倉堂(なくらどう)の永田政一師範を紹介し、武者修行に出す事を決断する。永田は四十五歳で、粟山と同じ天神真楊流柔術を学び、粟山の方が五歳年長であった。この流派は実に多くの骨継(ほねつぎ)医を出している。その名称も「名倉」が多く、また今日でも名倉の名前を留めるが、この系統の子孫は現在でも外科や整形外科医として活躍している。

 元々天神真楊流は、創始者である磯柳関斎(いそやなぎかんさい)こと岡山八郎治が、柔術の極意である現代の柔道整復術の他に、内科と外科を入れて、江戸期医師として活躍していた事に由来し、また維新後は門弟の柔術家としての生計を助ける為に柔道整復術を伝承した。これは榊原鍵吉らの剣術家が、サーカスに出演したり、また剣術興行を行い、蔑(さげす)まれたのとは対象的であった。

 栗山が永田の処に武者修行に出して間もない頃、元会津藩家老西郷頼母近悳は久しく栗山を訪ねた。栗山は、過去の頼母と、四郎の母さたの関係を知るただ一人の男であった。この時、頼母は四郎に逢いに来たと思った。この頃、頼母は粟山邸に屡々(しばしば)訪ねたという。

 一方、永田の処で修行する四郎は、めきめきとその天成(てんせい/天成とも。生まれつきそうである事)の頭角を表わし、既にこの時『山嵐』を開眼していたと謂(い)われる。「猫の三寸返り」は、この時に考え付いたのであろう。
 更に知識家でもあった永田は四郎に支那から渡来した唐手、欧米で流行している拳闘、国技の相撲、他流の柔術、剣術、居合、棒術、弓術等の武術の技法的術理をも教えたという。また永田は、固技が得意で、その技の切れは凄まじく、それは相手の腹を突き蹴りで打ちつけ、前屈みになったところを内掛けにして、背中に飛び乗り、頸(くび)の後ろ側に膝を掛けて固め、次に相手の右腕を自分の左腕の「脇固」によって、ぐいぐい絞め上げていくものであった。これを永田は「卍掛」(まんじがけ)と称した。

 さて、この「脇固」は、一九八五年、韓国で世界柔道選手権大会が開催された時、日本代表であった斎藤選手は天神真楊流の脇固の柔術の技で対抗しようとして、逆に韓国の選手からこの技を使われて、肘関節内の骨を骨折する事故を起こした。韓国ではテコンドウの中にも「脇固」があり、この技を逆に喰らったのである。
 四郎は永田の許(もと)で柔術の腕を上げる一方、たまにやって来る頼母から合気武術の手解きを受け、生計(くらし)は母校の代用教員をして暮らしを支え、学校近くの農家に寄宿していた。
 四郎が軍人に憧(あこが)れたのはこの頃であり、廃刀令(はいとうれい)が出され、旧武士階級が刀を奪われて、四民平等になった折、軍人と警察官だけは帯刀が許されていた事から、四郎もやはり刀を象徴するものとして軍事を目指したのではあるまいか。
 また「いくぐん大将」と盛んに言い続けたのは、廃刀令に対する旧会津藩士の子弟としての反動であったのではあるまいか。

 明治十五年三月四郎は代用教員を辞めて、親友であった佐藤与四郎を伴って、東京の慶応義塾に入学していた先輩・竹村庄八(たけむらしょうはち)を頼って上京する。四郎の考えた事は、東京に行けば望みが達せられる、そんな夢が四郎を掻き立てたのである。
 その春、四郎と一緒に上京した佐藤与四郎は彼と共に郷里の先輩・竹村庄八の下宿を訪ねた。そして四郎は陸軍士官学校入学の希望を訴えるが、竹村から学力不足(特に数学の)を指摘され、勉学の重要性を諭(さと)される。家出同然で上京した四郎は忽(たちま)ちのうちに金銭が底を突き、仕事探しで奔走したが、結局探し当てたのは団扇(うちわ)の骨削りや、普請場(ふしんば)の水汲み程度で、日々困窮する生活を余儀なくされていた。

 竹村はこんな四郎を見るに見かね、自身も慶応義塾の拳法道場で武術を修行している立場から、四郎の天成の資質を見抜き、拳法道場の師範の伝(つて)を頼りに、四郎を井上敬太郎(いのうえけいたろう)の柔術道場に内弟子として入門させる。
 この頃、東京では東大出の学者の経営する講道館柔道が噂(うわさ)になっていた。これを逸(いち)速く小耳に挟んだ竹村庄八と四郎は、嘉納が講道館だけではなく、嘉納塾も経営する塾頭と知り、一石二鳥の企てを試みる。つまり内弟子を兼ねた書生に潜り込む方策を手段として考えたのだった。そして元々井上と嘉納は磯道場の兄弟弟子の関係にあり、四郎の天成の伎倆(ぎりょう)的資質は直ぐに嘉納にも見抜かれ、それは以降、数年に亙って嘉納に利用される事になる。四郎は講道館に入門して直ぐさま、その驚異的な伎倆を発揮する。

 その三〜四年後には警視庁武術大会に嘉納の名代(みょうだ)として、講道館を背負い、試合に出場している。その伎倆に比は、学者・嘉納を遥かに凌ぐ資質を備えていた。こうして四郎は講道館七人目の弟子として『講道館修業者誓文帖』に名を連ねる事になる。この誓文帖(せいもんちょう)には「福島県越後国浦原郡清川村四十三番地、志田駒之助弟 士族 志田四郎 十四年四ヵ月 明治十五年八月廿日」とある。

 四郎が入門するまでの約二か月半の間には、樋口誠康(ひぐちせいこう)や有馬純文(ありますみふみ)らの入門者が居たが、彼等は嘉納が勤めていた学習院教師の縁故から来たもので、彼等は柔道によって名を為す格闘技の猛者を目指した訳ではなく、むしろ学者肌のひ弱な少年であった。実質上、嘉納塾の書生となり、講道館の内弟子となったのは、四郎と、講道館入門者第一号の山田常次郎(やまだつねじろう)であった。山田は伊豆西浦(現在の沼津市)の出身で、治五郎の父治郎作に見込まれて早くから東京に送り込まれ、四郎より一歳年上で、此処に嘉納家の柔道普及戦略が窺うかが)える。
 山田自身天成の資質を備えており、後年富田家の養子になって富田常次郎を名乗り、次男の常雄が常次郎から詳細に訊(き)いた四郎の伎倆(ぎりょう)を編纂したものが小説『姿三四郎』であった。

 明治十九年一月下旬に五段に昇段し、四郎の得意絶頂はこの時であり、同年三月には講道館が九段坂下に移転した。また同年の六月には警視庁武術大会で、楊心流戸塚派の昭島太郎(しょうじまたろう)と日本一を賭(か)けて試合し、「山嵐」を以て優勝した。

 しかし以降、楊心流戸塚派の昭島の弟(おとうと)弟子であった好地円太郎(こうちえんたろう)から兄弟子の仇討ちと称して、四郎には度々挑戦状が叩き付けられた。四郎は、講道館では他流試合は禁止されているとして、これを断わり続ける。

 さて、『山嵐』である。この技は後に、大東流柔術・六箇条の応用技として解説されているようであるが、その真意は定かでない。むしろ、近年、大東流を宣伝する為に捏造(ねつぞう)された疑いも強い。
 しかし四郎が天神真楊流の名倉堂の粟山や永田の教えを受けていた際、粟山邸には頼母が度々訪れている事から、四郎は天神真楊流とともに大東流も学んだという説もある。その謎は未だにベールを被った儘(まま)で、それは今日に至っても定かでない。また「山嵐」だが、四郎が得意としたこの技は大正九年まで講道館制定の五教一つに含まれていたが、以降万人向きでないと言う理由から外されて今はなく、この技自体が幻の技と称され、この技法を正確に知る者は殆どいない。

 西郷四郎が柔道や柔術だけではなく、日新館の正式教科であった古式泳法をはじめ、弓術や棒術、槍術や居合術の手練であった事を知るものは少なく、彼が何れの術も練達していたと考えると、やはりこの裏には養父西郷頼母の大東流を学んだのではあるまいかという、疑念が持たれる。
 そして柔道家として将来を嘱望された四郎は、大陸への夢が絶ち難く、明治二十三年六月二十一日講道館を出奔した。時に二十五歳である。

 その後、戸籍を青森より長崎に移籍して、一時津川に立ち寄り明治二十五年、郷里に講武館を設立。後、再び朝鮮に渡鮮し、明治二十六年福島を訪ねた際、西郷頼母邸で四月二十四日〜六月五日迄滞在した。この年の八月、樽井藤吉は『大東合邦論』を出版している。

 明治三十五年同郷の旧会津藩士・鈴木天眼(すずきてんがん)が長崎で東洋日の出新聞社を創設すると編集責任者として参加し、また新聞記者として、中国三民主義革命を、革命軍と伴に漢口(Hankou/ 中国湖北省東部の都市で、長江(ちょうこう)と漢水(かんすい)の合流地点の北西に位置し、古代には夏口(かこう)と呼ばれた)で体験する。そしてその内情を続々と送り続けた情報活動家でもあった。恐らくこれも西郷頼母の《大東流蜘蛛之巣伝》構造の一貫として、四郎が機能していたのではあるまいか

 帰国後、鼠島(ねずみじま)として知られる長崎県瓊浦(たまうら)で瓊浦水泳協会発足に因(ちな)み、理事の一人として名前を連ねている。四郎が水泳に力を入れたのは世の移り変わりを直接肌身で観じ、世界に通用するような国際選手の育成を目指した為でなかったのだろうか。
 それを裏付けるものが、大正三年に行われた、『有明海横断二十マイル遠泳大会』である。この遠泳大会はかって無い空前の大企画であった。

 この時、監督の四郎は、この大会を指揮する田中師範に、一振りの短刀を差し出してこう言った。
 「この大会は、我が協会の名誉を賭けた決死の大会である。もし、途中で怪魚が現れ、隊員を襲うようなことがあったら、君自ら海に潜って、これを刺せ。隊員に万一の事故や死者が出た時は、この責任を取って自らの腹を、これで掻(か)っ裁いて申し開きせよ」と言い渡した。

 決死の覚悟で、この大会は行われた事が分かる。この大会には、二十八名が参加したと記録にはある。第一回目は失敗したが、翌年の大会には見事これを達成した。後にこの団体から、国際的にも有名な選手を続々と送り続けた。この話は発祥の地、鼠島の名前と共に、今日でも語り継がれている。
 講道館を創始した嘉納治五郎は柔道を以て国際化を目指したが、四郎は水泳を以て、西欧列強に対し、日本人の雄叫びを此処に示したのではあるまいか。この構図は、嘉納の西欧合理主義に対抗した、四郎の日本の武士道精神であった。

 西郷四郎の講道館を出奔してからの行動には、実に謎が多い。
 また講道館出奔自体も、その理由が「大陸への夢が絶ち難く」だけでは、余にもその行動が社会的未熟を指摘されるものであり、真当(ほんとう)に素朴なロマンティズムで原衝動を社会的状況に準(なぞら)えて、それが離脱の原動力になったのであろうか。
 これは恐らく嘉納治五郎が対外古流の柔術勢力を制覇(せいは)・統一を急ぐあまり、専ら技術的・肉体鍛練的熟達のみに重きを置き、また一方で今日の柔道界ように、交代の利く尖兵(せんぺい)として酷使われ、嘉納の目指した組織的・理念的手段に、四郎は出奔という非常手段で無言の抗議をしたのではあるまいか。それを証明するものが、仙台二高で行われた四郎の講演「柔道に就き、浮びし所感」と題する講演内容であった。

 東洋哲学に回帰した場合、殊(とく)に日本では求心的な儒教的武士道に回帰する。しかし嘉納は武家出身ではなく、町家出身である。嘉納が東大で学び、教養を身に着けたとは言え、それは欧米商人の合理主義であった。
 嘉納の合理主義を以てこの時、四郎は平松武兵衛(ひらまつぶへい/会津藩軍事顧問として家老職の録を受ける)と名乗り、会津藩に武器を巧みに売りつけていたオランダ系の武器商人でプロシア人の、ヘンリー・シュネルを嘉納に重ね見たのではあるまいか。平松武兵衛こと、ヘンリー・シュネルは会津藩と取引をしていた武器商人であり、フリーメーソンであった。ヘンリー・シュネルが武器商人であった事は、長岡藩家老の河井継之助も識(し)って居た事であり、また、河井も西欧の優秀な武器を購入する為にフリーメーソンのメンバーになっている。そしてヘンリー・シュネルは、会津藩に高額な武器を売り付ける事で、フリーメーソンの上部団体のサンヘドリン(ユダヤ長老の最高機関)に上納金を支払っていた。
 ヘンリー・シュネルの、悪業の数々を、四郎は養父の頼母から常々聞いていたのである。
 そしてこれが嘉納に投影され、嘉納と二重写しとなる。

 これは根本的に双方と相反し、嘉納の欧米的合理思想に四郎は蹤(つ)いて行けなくなり、結局、同郷の鈴木天眼の世界に韜晦(とくかい)していったのである。結果的に、四郎の赴(おもむ)くところは「内なる会津」にあった。更にその結果、西郷頼母の大東流に回帰したのである。

 幕末維新の激動は、会津に急激な外的圧力を与え、時代の新陳代謝と伴に、西郷家に一種の精神的土壌が根付き、この西郷親子は大いなる未完の生き方を選択したのではあるまいか。これはとりもなおさず「内なる会津」の模索であった。
 西郷親子の関係は、養子縁組と言われながらも、余にも相互は親密すぎ、頼母自身、養父とは思えない程の愛情で四郎を受け止めている。この細やかな愛情は、一体何であったのだろうか。これはやはり、元々血を分けた親子の関係であったのではあるまいか。


戻る << 西郷頼母と西郷四郎(十五)> 次へ
 
TopPage
   
    
トップ リンク お問い合わせ