■ 西郷頼母と西郷四郎■
(さいごうたのもとさいごうしろう)
●一撃必殺の伝説
人間は「突き」や「蹴り」の一撃で、簡単に即死するものではない。死期を目近に控えた老人、生まれて間もない赤ん坊、病弱で寝たり起きたりを繰り返している病床人ならともかく、健康な成人・大人を、「突き」や「蹴り」の一撃で即死に至らしめる事は出来ない。
しかし徒手空拳の格闘技が持て囃(はや)されている今日、打撃系の格闘技は若年層を中心にして、大もてであり、その威力が過信されている。また、こうしたものにあやかり、これに便乗する形で、各種・分派の大東流の中にも、空手の組手を取り入れて、これを「合気空手」あるいは「合気拳法」と称して普及させている団体もある。
実際に人間を殺すのに、果たして「一撃必殺」はあり得るのか。
もし、本当にあり得るとすれば、なぜ空手のオープントーナメント選手権や少林寺拳法演武会、あるいはその他の拳法大会などで、一撃必殺で殺される死人は出ないのか。
カンフー映画を見てみても、一撃必殺で即死する者は絶対に出て来ない。互に殴り合いが始まり、殴り合いの中で、余計に撃たれた方が戦意を失って軍門に下ると言う場面が少なくない。殆どは、打たれても、また起き上がると言う場面が多い。更に腕の骨や、脚の骨も折れたと言う形跡がない。打たれる側の鍛え方が弱ければ簡単に折れてしまう、肋骨(ろっこつ)すら折れる事はない。これは打撃系の武道が、一撃必殺をもって、人間は、「そう簡単には殺せない」と言う事を物語っている。
また人間の所有する肉体は、瓦や試割板やブロック、あるいは木製バットなどの固体物とは異なり、流動体であると言う事を物語っている。
人間を瞬時に殺す事のできる武器は、人間の肉体の一部である風雪に鍛えた手足ではない。これは単に喧嘩の場合の殴り合いの道具に過ぎない。したがって人間を死に至らしめる事は出来ない。
人を瞬時に抹殺する事のできる小銃や拳銃に変わる武器は、かつて日本刀だった。日本刀やその他の斬首刀による攻撃によって、頸(くび)の動脈を切断した時に限り殺す事が出来た。
ところが「蹴り」の一撃や「突き」の一撃では即死に至らしめる事は出来ない。まして正拳突きなどで、人間は到底殺せるものではない。骨折等の大怪我や重傷を追わせる事は出来ても、瞬時に殺す事は出来ない。
また、当身の「当て」と、日本刀などの刃物での攻撃で損傷を受けた場合、その被害状況や損傷度も異なってくる。当身の「当て」は、日本柔術では元々「仮当身」の意味で用いられる事が多かった。仮当身は敵の出鼻を挫(くじ)き、戦意を喪失させる事が目的であり、一撃をもって死に至らしめると言うものではない。戦意を失わせれば、それでよしとするものだ。
格闘技における徒手空拳の打撃系武道は、当身を一撃必殺に武器に作り替え、手足をもって人間を「突き殺す」「蹴殺す」としたところに、一撃必殺のロマンが生まれ、これ等の武道の信奉者は、このロマンに酔い痴ている観が今日でも否めない。
かつての中国から沖縄に渡来した、古流の沖縄唐手(【註】今日の力とパワーの反復トレーニングの西洋スポーツ武道とは異なり、72箇所の経絡を叩いて半身不随にしたり、唖にしたり、抜手で敵の内臓を突き破り、あるいは内臓を引きちぎる凄まじい技があった。正確に当身の急所である「天道」「虎点」「眼間」「仰兎園」「霞」「松風」「村雨」「水月」を捉えたならば、即死もありえた)ならともかく、西洋スポーツ化されて筋トレを基準とする近代スポーツ空手や、ポイントだけを取る競技空手の練習法では、一撃必殺をもって人間を殺す事は出来ない。これはボクシングでも同じで、撃ち合いや殴り合いの中で、戦意を喪失させ、あるいは頭部を殴って脳震盪に至らしめ、顛倒(てんとう)させると言う競技であり、瞬時に人間を殺す事を目的にしていない。
一方、熟練者から、人間が手足のよる徒手空拳の攻撃をマトモに食らった場合、まず骨折が考えられ、例えば腹部や脇腹に攻撃を受けた場合は肋骨を骨折する事が考えられる。また、顔面に攻撃を受けた場合、正拳の場合は顎の骨を骨折したり、歯を損傷したり、頸動脈に攻撃を受けた場合は頸椎(けいつい)の損傷が考えられる。更に目に硬拳(こうけん)や貫手(ぬきて)を喰らった場合、失明する事がある。
しかし、これをもってしても直接的に、瞬時に、一撃で殺す事は出来ない。ただし、顔面に掌底(しょうてい)で鼻骨を攻撃された場合は、鼻骨の尖端(せんたん)が脳に突き刺さり即死に至らしめる事が出来るが、これは正拳による方法ではなく、あくまで掌底攻撃の「発気術」を知らなければ、素人には用いる事が出来ない特殊な技法である。
打撃系の武道のノックアウトを誘引する打撃法は、肉体表面への外表部分の衝撃ではなく、内面の内部衝撃が伝搬しなければ、ノックアウトを誘引する事は出来ない。これは人間の躰が固体物ではなく、流動体で出来ていると言う事を物語っているからである。ノックアウト状態は「死んだ状態」ではなく、脳震盪(のうしんとう)状態なのである。
しかし流動体の肉体を無視して、試割で柾目(まさめ)の杉板を割ったり、試割競技用の瓦(かわら)を割ったり、あるいは試割競技用のブロックを割ったりと言う、空手の試割競技大会が行われているが、こうしたものは元々実際に、屋根に葺(ふ)く瓦や、建築ブロックを割ると言うものでなく、あくまで試割競技大会用に造られたものを、単に試割していると言うのに過ぎない。したがって昨今の建築建材として強化されたセメント屋根瓦や、建築ブロックの「ホンモノ」を割っているという事ではない。これは試割競技大会での、観客を意識した興行的な見せ物的画策に過ぎないのである。
さて、人間が即死に至る武器で攻撃された場合、特に日本刀(【註】日本刀には「ふくら」と「反り」があり、他の刃物と異なり、筋肉を斬られた場合、切断面が開くようになっている。これは出血多量で死に至らしめるという事を目的とした武器である)では、腕や脚の動脈を斬られた時、その後、約14秒が生死の境目となる。14秒で止血し、敵と戦わねばならない場面が生まれる。この間放置し、為(な)す術がなければ、14秒後には意識不明となって顛倒(てんとう)する。この意識不明は、当身による「当て」の「経穴(けいけつ)撃ち」(【註】西郷派大東流の特異な「ツボ」撃ちであり、敵の戦意の喪失に使われる)や、「点穴(てんけつ)刺し」(【註】中高一本拳をはじめとする点穴への攻撃で、西郷派大東流の特異な技法)の打法とは異なる。放置すれば出血多量で死に至るからである。
当身の「当て」は、「活」によって蘇(よみがえ)らさせる事が出来るが、刃物での切断は攻撃箇所が切断されている為、元にように復元し、繋ぐ事が出来ない。ここには打撃系武道にはない「止血の技術」がいるのである。
「一撃必殺」と言う語は最早死語であり、現代社会においては無用の長物として考えられ、これを目指して稽古する人は少ない。あるいは存在したとしても、これを自在に使える古流の唐手家は殆ど居ないと言ってよい。素手による一撃必殺のロマンに酔い痴れるのは個人愛好者の勝手だが、今日の打撃系の格闘技で、一撃必殺で即死させられる事の出来る手練(てだれ)は殆どいないのである。
そして昨今流行している事は、打撃系の格闘技に魅せられて、合気道や大東流の愛好者が「合気空手」や「合気拳法」と称して、打撃系武道の突き蹴りに対抗して組手を行って居る事である。
しかし、この際申し添えて置くが、合気空手や合気拳法と自称している「合気」の二文字は、あくまで名称に過ぎず、従来の空手や拳法と区別する為であり、空手や拳法と異なると言う意味で、単に字頭に合気の単語を用いているに過ぎない。そして実際の合気とは無関係である。
要するに、合気道や大東流の愛好者が柔術の練習の他に、組手と称する練習法を取り入れ、打撃系の格闘技の練習も開始したと言う事であり、これまでには無かった発想である。
この発想の裏には、柔術の関節技等の技法修得は合気道や大東流で、突き蹴りの練習は空手や拳法の突き蹴りでという、分散練習をしている事であり、裏を返せば、合気道や大東流の技術では、打撃系の武道には歯が立たないと言う事を証明している事になる。
本来武術と言うものは、それ自体が固有の総合武術としての儀法を備えているものでなかったか。
しかし、合気空手や合気拳法と称して、合気道や大東流の愛好者が組手練習を行うと言う練習展開は、既に植芝系の合気道や北海道系の大東流が、単に伝承武道であり、時代遅れになった骨董品である事を物語っている。
ちなみに伝統武術とは古来より伝承されたものを時代と共に、「伝統」という形で変化させたものであり、伝承武道と称するものは、時代に関係なく、古典の儘(まま)で受け継いだものを「伝承」と言う。
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