インデックスへ  
はじめに 大東流とは? 技法体系 入門方法 書籍案内
 トップページ >> 西郷頼母と西郷四郎(一) >>
 
西郷派大東流と武士道

■ 西郷頼母と西郷四郎■
(さいごうたのもとさいごうしろう)

●日本伝統の「秘伝」の目的

 武術とは、そもそも「戈を止める」にある。日本では古来より、戈(ほこ)を止める事にその重点が置かれて来た。しかし、武術が格闘技として西洋スポーツ化され、観戦スポーツ化されて、興行的な見世物に成り下がると、その時代に合わせて、本来武術の修行目的であった心の修養が蔑ろにされ、競技としての格闘の一場面のみを珍重するようになった。
 格闘技あるいはスポーツ武道の中で、格闘選手としてその強さの秘訣を問われた場合、十中八九までが、日頃の「練習」と応えるであろう。また「精神力」と言ったり、あるいは「根性」と応えよう。しかし逆に、練習と精神力と根性を徹底するだけで、果たして真当(ほんとう)に強くなれるのであろうか。あるいは「肉体を苛め抜く」だけで、秘伝なるものが授かるであろうか。

 秘伝を得る為には、以上のような事は無用の長物であり、時間の無駄であり、人生の空虚な浪費であると言えよう。
 人には様々な能力があり、それを長所たる利点に用いれば、最良の結果を生み出すであろうが、多くの場合、人間の持つ様々な能力は発見されない儘(まま)、埋没すると言うのが、また、この世の茶飯事の出来事である。運・不運もあろうが、よき師との出合いなくして、また、自分の能力や才能も見い出される事はない。多くは、失意の儘、埋没すると言うのが現実である。そして、最悪な場合、出合った師の先入観と固定観念と無知によって、肉体を酷使する事こそ、上達の近道等と嘯(うそぶ)かれ、ついには肉体や精神までもを破壊する者がいる。
 人間は固体物ではなく、また機械的に動くピストンのような打ち出し機械ではない。根本的には流動体であり、その物理的肉体作用の根本は、70%が液体である。そしてこの液体は、絶えず躰を循環している。
 液体に衝撃を与えるのに、木槌やハンマーを以てしても駄目である。それは、水に幾らハンマーを打ち付けても、その破壊の跡が見られないからである。

 また、肉体は年齢と共に衰えると言う欠点を持つ。十代後半から二十代を頂点として、中年の三十代に掛かった頃から徐々に、これまで維持出来ていた威力は衰え、四十の初老に差し掛かった頃には、若かりし日の肉体美は跡形もなく消え去っている。齢をとっても、肉体美は日々の肉体教化のトレーニングによって維持する事が出来るが、その実情は「張子の虎」であり、裡側(うちがわ)に秘めるスピードとパワーは、若かりし日のそれではない。肉体美のみが、何とか維持され、強健のように映る。

 秘伝武術と言うのは、そもそもが修行と練習の違いの、その相違点を見い出す事が出来る。練習は元々、肉体的記憶と反復トレーニングによって齎されるもので、それを脳に記憶し、本番の試合で発揮されると言うスポーツ的トレーニング法が練習であり、これは修行とは異なる。修行は自分の全人生を賭けて、人格向上と品格を高める為に行われるものである。そして日々の稽古の明け暮れの余力として齎されるものが儀法であり、根本は日々精進する修行が中心課題となる。

 つまり儀法が先に来るのでなく、儀法はあくまで日々精進する稽古の中で、自然と身に付くもので、西郷派大東流の根本は、よき指導者から、正しく教えて貰うと言う事にある。そもそも大東流の儀法は、古人の智慧と教訓から、それらは実戦を通じて齎されたものであり、この集積は、一個人の天才的な人物が現れて一流派を残したと言うものではない。数百年単位で集積された古人の智慧(ちえ)の結晶である。
 この智慧は、修行者が自分でどうこうして、考え出せるものでもなく、大東流の三万儀に及ぶ儀法を、自身で研究し、編み出せると言ったものではない。古人の数百年単位で集積された智慧は、よき師によって齎されるものであり、教えてもらわない限り、これは一個人が、練習と反復トレーニングの結果、創り出せると言ったものではない。

 一撃必殺を目指す為に巻藁を長年叩き、あるいは基本技の養成と称して「一本捕り」を十年掛かって遣る等は、決して武術の見地から見て合理的ではない。これ等を指示する指導者は、基本が大事という事を強調したいのかも知れないが、人間の人生はそれほど長くない。その活動期は「生・老・病・死」の内、「生・老」に駆けての僅か二周期に過ぎず、これを四季に置き換えれば、「春」と「夏」であり、二季節にしか過ぎない。「秋」には病気になり、「冬」には死ぬという短い計算となる。
 人間はこうした短い時間の中で四期を一巡し、冬の時期になれば死に絶えるのである。しかし、死は人の死の最後でないから、その魂は再び形を変えて蘇る事になるであろうが、その時は同じ人物、同じ人格として蘇(よみがえ)るのではなく、魂が同じでも、形が変わった形態を為している。その為に、自分と言う同一形は、延長線上の一点であるにもかかわらず、唯一人であり、唯一人の人生は精々長生きが出来ても、わずかに百年足らずである。

 大自然、大宇宙の寿命から考えて、人間の百年の人生とは余りにも短いと言える。したがって時間の節約が大事となる。時間の節約を考えた場合、風雪に耐えた孤拳を作る暇はなく、また、大東流の一本捕りを十年掛かって遣っている暇はない。
 「光陰(こういん)矢の如し」と云う。人間が歳月を完治できる時間の移りは、自分の思う以上に早いものである。月日、歳月と言うものは、止まるところがない。目紛しく移り変わる。この移り変わりの激しい、流転をして止まらない大宇宙の時間の中で、わずか百年足らずの人生で、時間を浪費する暇はない。合理的に考えれば考える程、よき師との出逢いが必要になり、「術」を学ばねばならないのである。
 そして「術」と、練習で積み上げた「スピードとパワーによって培われた技」とは、種類を異にすると言う事を知らなければならない。

 さて、記憶力の全盛は十代後半に失われ、体力は三十代半ばから下り坂になる。これを練習と根性でカバーしても、得るものは何もなく、ただ肉体疲労からくる心臓肥大症という悪しき穏亡(おんぼう)が自分に纏(まつわ)り憑(つ)くだけである。
 肉体主義の研鑽は、三十代半ばには脆くも崩れ、老武道家達は第一線から退き、外野から鸚鵡(おうむ)返しのように「根性」の一言を連発して、コーチ役に廻り、気怠い檄を飛ばすというのが、何処の道場でもの実情ではあるまいか。
 そして技術でカバーできなくなると、「心」だの、「道」だのを持ち出し、肉体の老化と駆け引きして、反比例的に精神面の強調が始まる。

 しかし精神面から、「心」や「道」を強調して見ても、それはあまりにも抽象的であり、現実感が伴わない為、単に「御題目」で終わっている場合が少なくない。更には、勝者を英雄とする昨今の格闘技の世界に於て、「心」や「道」の倫理観は全く通用しなくなってしまっている。試合に勝った者だけが英雄であり、英雄はタレント並みの祝福を受ける現実を前にして、心・技・体の教えは、遥か遠い日の古き遺産と片付けられている。

 昨今はマスメディアの発達で、個人武道の秀技は、西洋スポーツのルールを借りたものが広く流行し、観戦する娯楽的な大衆武道の、興行的趣向の観が強くなってきている。
 そして日本人は、古来より培った精神風土を急速に風化させている。
 自らのご都合主義に拠(よ)り掛かり、一方で武道を豪語しながら、また一方でスポーツ反復練習を肯定して、飽くなき筋力トレーニングに励んでいる。

 古人の命懸けで培った「秘伝書」は、埃(ほこり)を被るだけの骨董品に成り下がり、実際に役に立つ形で読み取れないのが現実だ。
 いわば秘伝書はアマチュアレベルでは解読できない、難解な書物になってしまっている。

 その現実の一つは、秘伝書に掛かれている全貌は、その文字から窺う想像力であり、それは直接相伝を授からない限り意味が理解できないのである。
 また、もう一つは個人レベルでの理解力と能力を必要とするもので、単に野心・野望・根性・情熱・努力・忍耐といった有限的な奮闘だけでは到底辿り着けない仕組で構成されている。

 不思議な事に、各流派の秘伝書あるいは極意書というものを眺めれば、レベルの低い秘伝書や極意書ほど、その説明は詳細に、丹念に説明しているのに比べ、高レベルの技術を説く秘伝書は、その説明が極めて抽象的であり、項目を、ただ単に箇条書に並べているに過ぎないものすらある。
 これは一子相伝(いっしそうでん)を目的とした為、詳細を口伝で伝え、あとは箇条書された項目を頭の中で整理したらよいというだけの形になっている。従って古文献を漁(あさ)り、それを蒐集して見たところで、骨董品の寄せ集めでしかなく、実技として解読し、実際に役立てるという試みは、既に崩れてしまった構成になっている。


戻る << 西郷頼母と西郷四郎(一) >> 次へ
 
TopPage
   
    
トップ リンク お問い合わせ