インデックスへ  
はじめに 大東流とは? 技法体系 入門方法 書籍案内
 トップページ >> 死を嗜む道(二) >>
 
西郷派大東流と武士道

■ 死を嗜む道■
(しをたしなむみち)

●死生の因縁

 人間界には寿命と言うものがある。失脚したり、地位を追われたり、罠(わな)に嵌(は)められたりしてスキャンダルの的になったり、大人を余儀無くされるのは、時代が、その人を、もう必要としていないからである。

 また、「人が死ぬ」という現象は、因縁が、その人の命を必要としていないからである。運命が、因縁が、その人の命を必要としなくなった時、人は死ぬ。しかし、人間は病気で死ぬのではない。
 また突発的な事故で、偶然に死ぬのではない。その人が、幾ら若い人間であり、死ぬまでには程遠い年齢であっても、生きる因縁が途絶えたら、その人は事故死と言う運命を辿って、死に至る事になる。

 また、病死の場合も同じである。本来、病死と言うものはない。病気で死ぬのではなく、生きる因縁が途絶えたから死ぬのである。寿命が尽きたから死ぬのである。
 世間では、よく死因を病気に求め、また現代医学も、その人の死因を病気のせいにする。ガンを発症して死んだ場合、その死因は例えば「○○ガン」であったり、また心臓障害が絡む、脳卒中などで死んだ場合は、脳血栓または脳塞栓などが死因となる。死亡診断書には、そのように書き込まれる。

 しかし、幾ら病名を挙げ、それが死亡診断書の体裁を整えていたからと言って、実は病気で死んだのではなく、寿命で死んだのである。寿命が尽きれば、人間は死ぬ以外ない。それは、因縁がその人を必要としないからだ。運命は、その人を生かしておいても、無駄だと判断するからだ。
 もともと非存在なる人間が、生きているから、これは奇蹟である。人が日常生活を送って生きていると言うことは、よく考えてみれば、奇蹟の連続である。奇蹟が連続するから、そこに生きる因縁が生まれ、生かされることが約束される。そして、生きることと、死のことの両方に大きな意味を持つことになる。

 あるいは偉人の死は、その人が死ぬことにより、死の意味に大きな問題を持たせ、あるいは大きなメッセージを残して、その人を死なせるのである。これは死の場所と、死ぬ時機(とき)を得た場合のみに、偉人の死が発生する。死することのメッセージである。したがって、犬死にはなりようがない。人は、みな大きな意味を持って死んでいくのである。それは「人の死」というものだ。

 武門の家は、人の死を重んじてきた。人が死ぬということの意味を、明確にしてきたのである。そこに礼儀があり作法があった。もちろん町家にも、礼儀や作法はあったであろうが、武家のものとは違う。階級が違えばこれらも異なるのである。
 武門の礼儀や作法は、常に心に死を充てた礼儀であり、作法であった。

 死をよく致すということは、そのまま「生」に反映され、日々を死に充てて生きていくことである。この極限状態を以て、日々を過ごせば、その一日一日が意義あるものになり、生きている実感も真剣勝負と同じものになる。此処に死を恐れない、死を嗜む道が開けてくる。本来武士とはそういう階級であった。

古人の中に見る生き態(ざま)は、使い古した馬術具ひとつ検(み)ても、その潔さということにおいて現代人より勝っている。死を嗜む道の道理を知っていた為である。

(画像クリックで拡大)

 時機は目紛(めまぐる)しく移り変わる。どんなに一世風靡(ふうび)をし、その時代に持て囃(はや)されたとしても、時が過ぎれば忘れ去られる。世界最強の個人闘技の優秀者も、時は、人々にその存在を忘れ去らせる。また、こうした人も、因縁の定めるところにより、生きる因縁をもつ間は生かされ、不必要となれは直ちに死が頭上に下る。
 人間は生きる因縁を失えば、一溜(ひとた)まりもないのである。生きることへの感謝、生かされていることへの感謝を忘れた時、人は因縁に、その人の生が相手にされなくなる。故に、死ぬ。死とは、そういうものでえある。また、生も然(しか)り。

 人間は因縁において、「生かされている」ということである。生かすのは「天命」である。人は天命によって生かされる。生きる因縁において生かされる。天命を知らぬ者は、生の因縁が薄い。やたら死ばかりを回避して、生に固執する。こうした我(が)のある人間は、生への因縁が薄いようだ。

 病気に罹ったり、病気に罹って中々治らなかったり、予防医学ばかりに執念を燃やし、体質改善を考えないものは病魔に冒されやすい。これは薄命に因縁であるからだ。
 薄命の因縁者は病気に罹り、それが中々治らなかったり、遂には克服できなくて、半身不随や植物人間になる。あるいは痴呆症になる。こうした人は、薄命に因縁である。薄命に因縁は、仮に辛うじて命をとり止めたとしても、生命維持装置にお世話になり、人間としての用を為さないものに成り下がる。生きる因縁が薄く、薄命なるが故である。

 一方、天命に生かされる人間は、病気に罹っても治りやすい体質を持っている。あるいは病気と倶(とも)に長い間、共棲する。そして自分の使命を遂行する。こうした人は、天命に生かされている人である。

 かつて、天命に生かされている人は多く居た。
 特に死を嗜む道を知っている人は、天命に生かされた人であった。こうした人は、生きる因縁が深い為に、また死に際も潔い。死を回避したり、恐れたりしないからだ。物事の汐時(しおどき)を知り、これに逆らわず、物事の道理を知っている人である。したがって、自分の寿命まで精一杯生き、死ぬ時が来たら潔く死ぬ。したっがって、こうした人の死は、本物である。

 人間は人生の課題に、「生き甲斐」、「愛」あるいは「許し」などが含まれているだろう。その一方で、死と対決しなければならない局面が控えている。「死」は、明らかに苦しみの一瞬であるには違いないであろうが、それは誰にも用意されたものである。
 その一瞬は総決算の瞬間であろうが、これを完了できる「嗜み」を持っている人だけが、真の人間としてこの世を終わることの出来る人であろう。現実の、この現世がどんなに悲惨であっても、そこまで到達できた人は、どういう生き方にしろ、人間としての「生」に、成功した人であろう。それは「死」と言う局面を回避しなかったからだ。「生」に固執し、辻褄合わせをしなかったからだ。

 こうした生き方は、かつては多く武人に見られたものである。何故ならば、武人は、最後の土壇場で、逃れられない、どうしようもない運命を素直に受諾し、これを潔く受け入れているからである。

 

●忠孝真貫流

 江戸末期、忠孝真貫流なる流派があった。流祖は平山行蔵である。名は潜、字は子竜である。号は兵原、または兵庵、練武堂、退勇真人、韜略(とうりゃく)書院、運籌真人などと称した。
 行蔵の家は祖父代々からの幕府の御家人で、伊賀組同心、三十俵二人扶持(ににん‐ぶち)の微禄であったが、四谷北伊賀町(明治後、町名は箪笥町と改められ、現在は新宿区栄町)稲荷横丁の自宅に道場を構えていた。そして流派名を、「忠孝真貫流(ちゅうこう‐しんかん‐りゅう)」と名乗った。のち講武実用流(略して実用流とも)と改めた。

 軍学の師は長沼流の斎藤三太夫、槍術は大島流の松下清九郎、柔術と居合は渋川伴五郎時英、砲術は武衛流の井上貫流左衛門に学んだ。剣術の師匠は心抜流(しんぬき‐りゅう)の山田茂兵衛松斎(しょうさい)で、松斎は運籌流(うんちゅう‐りゅう)三代であった。
 この運籌流は柳生系の剣術の流派の流れを持ち、柳生宗矩に始まり、木村助九郎矩泰(運籌流初代。宗矩の高弟で小太刀をよくした)→出淵平兵衛盛次(運籌流二代。矩泰が後に柳生流を名乗ることが許された為、運籌流二代を譲られるも後に盛次も柳生流を名乗ることを許され、運籌流は柳生家に返上して宗家預かりとなった)→……→山田茂兵衛松斎(運籌流三代)で、その後、平山行蔵潜が四代目を継いでいる。
 但し、山田茂兵衛松斎は真貫流の九代で、師は同流の八代の山田甚太夫弘篤で、この時、松斎は幕府の徒士かち/中世・近世、徒歩で行列の先導をつとめた侍のことで、小身の侍で、また「かちざむらい」ともいう)であった。

 一方で、熱血漢であり、松斎の直情熱血が血気はやって、御政道に対する諷諫ふうかん/遠回しにして諌めること)を十代将軍家治に上書しようとした為、謹慎を命ぜられた。この時、松斎は真貫流より破門となった。その為に、仕方なく柳生の門に移籍し、自ら運籌流三代目を名乗ったが、その後、破門が解けて真貫流に復帰した為、四代目を平山行蔵に譲ったのである。そして行蔵は、その後、自らの流派を立て、流名を「忠孝真貫流」としたのである。

 行蔵の剣法は、文政四年に著わされた『剣説』によれば、「それ剣術は敵を殺伐することなり」とあり、その一語に尽きると記されている。
 行蔵の忠孝真貫流によれば、この流派は試合によって勝負を争わない。試合は模擬のものであり、真剣勝負とは異なるからだ。真剣勝負は死を嗜む道であるが、試合は強弱の決着が主である為、死ぬことはない。殺すか殺されるかという、ギリギリのところに身を置かない。いつでも、負けを宣言すれば、生きて帰る距離にある。故に、武儀を試合で争うことは無駄となる。

 平山行蔵の死生観は、常に武芸の中に持ち込まれ、此処で死を嗜むことに励んでいる。
 行蔵は、平素の稽古を試合と心得、素面と素小手で、相手に三尺三寸の長竹刀を持たせ、こちらは柄元(つかもと)一尺三寸の短い竹刀で踏み込んでいって、躰事(からだごと)ぶち当たり、一刀必殺を養う剣法である。
 この場合、竹刀の当たりはずれは問題ではない。肝心なのは、体当たりして潔く討ち死にする覚悟でぶちあらるのである。その後の、わが命など、残す気持ちなど全く無いのである。ただただ、潔く討ち死するだけである。

 この「死を嗜む道」を著わしたものに『忠孝真貫流規則』があり、これによれば次のように記されている。
 「敵の撃刺に構わず、この五体をもって敵の心胸を突いて背後に抜け通(とを)る心にて踏み込まざれば、敵の躰にとどかざるなり。かくの如く、気勢いっぱいに張り満ちて、日々月々精進して不倦(うまず)、刻苦して不厭(いとわず)、思ひをつみ功を尽す時機(とき)は、しない太刀を取って立ち向ふと、自然と敵があとすざりし、面(おもて)を引くようになる。如斯(かくのごとき)にならざれば、真実の勝負は中々存じよらざること也」とある。

 これはこの流派が、勝負を争う次元を、試合場から戦場に置き換えていることで、「ただただ討ち死すること也」としていることである。試合場では、竹刀の打ち合となるので死ぬことはないが、戦場では生死を賭けて命のやり取りをするので、殺すか殺されるかの命を賭けた戦いとなる。

 その為には、死生観を超越しなければならない。この超越することこそ、忠孝真貫流では「討ち死」であったのである。武芸・武術の真髄(しんずい)は殺すか殺されるかのギリギリの真剣勝負の修行である。命を賭けていなければならない。こうしたギリギリの線まで自分を追い込み、大事に臨(のぞ)んで生死を明らかにするものでなければならない。まさに、これこそが「死を嗜む道」なのである。

 死を嗜む為には、生に有っては「生の道」を尽し、死に有っては「死の道」を尽すのである。そして行動を「悟り」の一語に帰するのは、「潔い討ち死」である。
 こうした観点から考えれば、現代に世界に広まった日本武道は、「武の道」の名に値するものが殆ど無い。多くは興行主義で、入場料をとって観客に見せることを目的とし、あらかじめルールを決め、好戦的に争って、どちらが強いか弱いかの強弱論に終止し、その範疇(はんちゅう)を出るものでない。小さなステージで、興行目的に行われる。

 危険な技を、あらかじめルールによって禁止しているので、規則内の試合でポイントをとるだけのものに成り下がり、「危険を無くした闘技」となって、単なるスポーツや体育に成り下がっているのである。その為に、その道の探究者に生死を超越する気魄(きはく)がなく、見苦しい小手先の掛け引きばかりが目につくのである。

 

●日々月々精進

 平山行蔵は、「日々月々精進の人」であった。読書の時でも、座右に用意した欅板(けやきいた)を両拳で叩いて拳を鍛えた。
 また、『忠孝真貫流規則』に「日々月々精進して不倦(うまず)」とあるのは、不倦の言葉通り、疲れても厭(いや)にならない、また、諦めないということであり、ここに精進の原点がある。

 書を読み終わると、水風呂に飛び込んで惰気だき/怠け心)を励まし、毎朝早朝から七尺の棒を振ること500回、長さ四尺で幅が三寸の居合刀を抜くこと300回、61歳前後になるまで土間に臥(ふ)して、夜具は一切用いなかったと『善行録』にはある。

 また行蔵が、死ぬ半年程前に入門した土佐藩士の森四郎正名(もり‐しろう‐まさな)の『江戸日記』によると、「その頃、平山先生は中風ちゅうぶう/半身の不随、腕または脚の麻痺する病気。脳または脊髄の出血・軟化・炎症などの器質的変化によって起るが、一般には脳出血後に残る麻痺状態をいう)に罹(かか)っていたが、ベラボウメを連発して言語は激烈を極め、居間の押し入れに四斗樽(よんと‐だる)を据え付け、冷酒をがぶ呑みする。扶持米(ふちまい)は置き散らかして、玄米のまま炊いて食う。玄関の次が稽古場三十畳で、そこはきれいにしているが、それに続く十畳の居間は、八尺の薙刀、九尺の木刀、六尺の長竹刀、槍数十本、大砲三門、抱え筒二梃、鉄砲、鉄棒、薙刀、木刀などの武具類、具足櫃(ぐそく‐ひつ)、本箱数十が乱雑に詰め込まれ、庭は草ぼうぼうの有様であった」と記している。

 行蔵は江戸末期の剣客に一人に数えられ、文政11年(1829)12月24日、七十歳で死去した。東京四谷愛住町の永昌寺(杉並区下高井戸1の68に移転)に墓がある。

 その後、幼年の頃より内弟子になっていた金十郎が養子になり、家督を相続して平山家を次ぎ、金十郎は平山金十郎行蔵と名乗った。普段から精進を怠らなかった金十郎は文武の道に優れ、後に出世して大筒方(おおづつ‐かた)与力(よりき)に仰せ付けられた。

 また平山行蔵の道場で師範代をしていた下斗米秀之進将真(しもとべ‐ひでのしん‐まさざね)は、南部領内(南部氏の旧領地の通称で、青森・岩手・秋田三県にまたがる地域で、特に盛岡をいう)の福岡で寛政元年(1789)2月11日に、南部家百石取の下斗米宗兵衛の二男として生まれた。幼名を来助といった。

 将真は文化3年(1807)南部家を出奔して江戸に出ている。この時、平山行蔵の門人で旗本の夏目長右衛門信平の門に入り、その後、同5年1月から平山道場に移籍した。
 精進を続けて文化七年(1811)の頃になると、平山道場の四天王に数えられ、翌8年には師範代となり、同9年には実用流の免許皆伝を得た。

 文化11年8月に帰郷して郷里福岡に兵聖閣(へいせいかく)道場を開き、二年後には門弟数200強を数えたという。
 文化14年、平山と同門の細井知機とともに蝦夷地(えぞ‐ち)を探索し、文政元年(1818)福岡に帰った。同年10月には金田一に新築した道場を建て、旧兵聖閣の門人を連れて移転した。

 文政4年の盛岡城主・南部大膳太夫利敬の病死を悼み、同年の4月、その憤怒を報ぜんが為に、津軽越中守寧親を羽州(おうしゅう)街道橋桁(はしげた)に邀撃(ようげき)せんとして果たせなかった。その後、江戸に向かい、江戸三番町で相馬大作と変名して町道場を開いたが、津軽越中守邀撃が判明し町奉行に捕らえられて死罪が申し渡された。
 その刑の執行は、文政5年8月29日で、伝馬町牢内で、五代目山田流の山田浅右衛門吉睦(よしむつ)によって斬首され、小塚原刑場で獄門・梟首(きょうしゅ)に付された。

柳生但馬守宗矩
丸目蔵人佐

 この忠孝真貫流のルーツを探ると、タイ捨流の丸目蔵人佐(まるめ‐くらんど‐のすけ)からはじまり、心抜流の奥山左衛門太夫忠信→長尾流槍術の長尾鎮宗→同流の益永軍兵衛盛吉→益永軍兵衛盛次→永山大学氏次→岩田勘五郎内敬→三宅善三郎信元→山田甚太夫弘篤→山田茂兵衛松斎(運籌流三代)そして平山行蔵潜に伝承された流れを持っている。

 また下斗米秀之進将真(相馬大作)の流れは、下斗米惣蔵雅教→下斗米栄八廉政→下斗米軍七昌言へ。更には雅教からは下斗米知機昌高と伝承された。

 

●死んで生きること

 生命を賭(か)けないと、人間には心眼が見えてこない。
 現代人は、「命賭け」という言葉を、出来るだけ回避しようとする生き物である。命を賭けて、何かを遣(や)ろうとする人は少ない。困難を避けつからだ。

 理想と現実をはっきりと色分けしているくせに、現実に眼を瞑(つむ)り、理想とも、夢とも区別のつかないものばかりを追いかけている。一見現実主義者のようでありながら、実は夢想主義者が多いというのも現代人の特徴であるようだ。

 したがって、眼に映る事実を事実として、これを中々認めたがらない人が多い。おそらく、楽な方を選択し、厳しい現実から眼を反(そ)らしている為であろう。
 そして、現代人の殆どが、金銭を稼ぐ為に生きているのか、生きる為に金銭を稼ぐのか、これを明確に出来ないでいる。

 誰もが、何一つ危険の起らないことを願い、安全圏の中で安穏(あんのん)とした生き方を選択する。穢いことも、危険なことも嫌う。そんな仕事は他人に廻したい。自分に、こうしたお鉢が廻ってくることを、何よりも遠ざける。

 しかしである。現実の世は、こうしたことを望んだとしても、これが叶えられることが少ない。むしろ、「恐れるものは、みな来る」 に直面することが多い。
 この世は、「表」のことなど、数えるくらいしかなく、多くは「裏返し」になっている。裏返しになっていることに気付かず、近寄ったりすると、大変な目に遭(あ)う。

 人生は至る所に、泣く現実が待ち構えている。かくして、泣くものは慰められ、慰めは笑いを誘い、笑うようになる。泣き笑いの中に身を置くことになる。喜怒哀楽の中に身を沈める。しかし、笑っているものは、不幸に突然遭遇して、また泣くようになる。これが喜怒哀楽の現実だ。

 持つものは、いつかは奪われて一文無しになる。虎視眈々(こし‐たんたん)と狙われ、そして遂に奪われる。奪われて失い、また無いものは、いつか得るようになる。これこそ、喜怒哀楽の現実。

 健全を誇り、健康を謳歌(おうか)していたものは、やがて病魔に蝕まれる。生きる因縁があれば、治癒もしようが、因縁が失われれば、永遠の死が訪れる。こうして変化が常に起り、いっときも停滞することはない。時節は刻々と移り変わる。

 暑さは寒さを呼び、寒さは暑さに移り、時節は変化する。濡れたものは乾き、乾いたものは濡らされる。熱したもものは、火から遠ざければ、やがて冷め、流れる水も、一箇所に止まれば、やがて淀(よど)んで腐る。

 人間はこのように「変化」の中でも弄(もれあそ)ばれながら、一生を生きる宿命を背負わされている。故に、現象人間界は高が知れており、喜怒哀楽の中で、笑いや喜びばかりを求めたとしても、その裏には、苦しみと悲しみ、迷いと挫折が待ち受けている。喜怒哀楽の中で、一喜一憂の泣き笑いを求めても、高が知れているのである。

 だから、金・物・色に心を動かされるのではなく、もっと深い、精神的なものへの移行しなければならない。
 本来修行者とは、こうした精神世界に眼を向け、そこに移行し、それに傾倒するものである。命か賭けて、「眼に見えぬ何かを追求する」というのが、真の修行者の姿勢であり、命を賭けられるものを持っているというのが、「死を嗜む道」なのである。

 死を嗜む道を歩く者は、みな心に「玉(ぎょく)」を抱いている。志の玉である。これを抱いて、死を嗜む道を歩むのである。

 現実とは、惨憺たるものである。そこには無残が至る所に転がっている。しかし、この無残を乗り越えて、運命の中で確固たる位置に立つことこそ、命賭けで何かが出来るのである。
 死を嗜む道としての武術は、人間が運命に対する、その余りにも儚(はかな)い存在の中で生き、追い込まれ、困窮し、苦悶(くもん)して、迷いに迷い、絶望に陥ったとき、そのどん底から何か見えてくるものがる。

 最早(もはや)これまでと思って、絶望の淵(ふち)に立たされた時に、救いの逆転劇が起る。この逆転劇の中に、永遠の道に通じる暗示が示されている。

 平山行蔵は、「大事に臨んで、潔く命を捨てよ。見事に死んでみせよ」と、『忠孝真貫流規則』に教えている。
 進退窮(きわ)まった、絶望の淵に立ってこそ、そこから見えてくるものがある。それは死んで生きることを教えている。

 現代人の多くは、何も知らないまま人生を潰(つい)える人が多い。あるいは知られざるものを、知ろうともせず、知らないまま死んで行く人が多い。「知らずに死ぬ」というのは、換言すれば犬死である。値打ちのない死である。

 現実を鋭い観察眼でしっかりと見据えなければ、見逃しや聞き逃しが起る。則(すなわ)ち、人間とは現実を赤裸々に生きて、幸福と不幸を引き摺(ず)って生きている生き物であるからだ。だから、何(いず)れも知る必要がある。

 物事は「表」からばかり見るのではなく、「裏」に廻って見る必要がある。表ばかりの一方向の、平面上ばかりを見ていても、実体は何一つ見えてこない。表舞台よりも、舞台裏を見ることだ。此処にこそ、真実があるのだ。その真実を見逃すべきでない。

 見えないから存在しないのではなく、そこには肉の眼で見えない何かがある。むしろ本体は、普通見えないのが本当である。真実とは、容易に見えるものではない。また、表に鎮座(ちんざ)しているものでなく、裏に居座っている。
 この世は、総て「裏」からなる。裏のものは、多くが「造られて」いる。造られているから、隠れている。

 この世に造られないものは何一つない。物質界に有るものは、かつて誰かが創造したものだ。先の先まで計画され、造られたものである。総ては偶然の遺産ではない。この世に偶然の産物など何一つない。しかし、偶然という言葉を信じ、その偶然の巡り会わせに酔うのは、もっかのところ、お人よしの現代日本人だけだろう。また、この民族は、戦後、民主主義という名の下(もと)に、洗脳され、集団催眠術を掛けられた民族でもある。

 今日の日本人が民族を為(な)しているか、否かは知らないが、今日の日本人が、こうした人種であることは確かなようだ。それがまた、日本人を死から回避させる人種にしてしまったといえる。今日の日本人が、死をひたすら回避して、逃げ回るのも、この為だろう。

 

●死の道は、本来は一本

 武術や武芸の修行は、真剣勝負において、死ぬことを超越することである。死を超越し、更に超剋(ちょうこく)の境地に至り、覚悟を決め、死を逃れられない運命を承諾することである。
 しかし、生きている人間にとって、死を逃れられない運命として承諾することは、なかなか難しい。死が目前に迫っていたとしても、願わくばその死を、何とかして回避したいと考えるのが人情だろう。

撃剣絵図(芳年画)

 真剣勝負の模擬に、防具なるものがある。本来、真剣勝負は対峙(たいじ)した双方が心に死を充(あ)てて、死地に赴く覚悟で、死を承諾する行為であるが、これが未熟の場合、防具をつけて死の模擬稽古を行う。しかし、死に心を充てて、その覚悟が不足している場合、やがて模擬稽古は試合形式をとり、勝敗だけにこだわるようになる。死を回避した為である。

 死の回避は、迷いを生み、苦界に堕(お)ちる側面がある。悩み、迷い抜いた挙句、その判断を誤らせることが多い。「生」へ固執した場合、本来は、死の道は一本なのに、幾つも道があるかのような錯覚を起し、道の選択に悩みを起し、迷妄(めいもう)を作り挙げる。一本道は、幾筋にも別れているような錯覚に陥る。迷いは、こうしたところに派生し、これが迷いの元凶となる。死への一本道を見ていないからだ。

 最初の一太刀だけではなく、二之太刀、三之太刀……などがあるのは、「初太刀に総てを賭ける」という、第一番目の太刀を疎(おろそ)かにした戦闘思想である。初太刀を、軽いジャブ程度に考え、敵に少しちょっかいを出しておいて、その後、次に出る手を考える遣(や)り方である。その為に、身が退(ひ)ける。五体で体当たりするという迫力に欠ける。その結果、及び腰となる。
  これは「死の道が一本である」ことを見失っている為である。

 一本の道を見失えば、他に幾つも道があるような錯覚を起す。この錯覚に陥った者の死は、永遠の死であろう。況(ま)して、九死に一生を得るなどはありえない。迷いに迷って、死んでいくことになる。迷いの心からは、「永遠の死」しか得るものはない。

 昨今は、死に力がない為、迷い放しで死に就く者が多い。病魔に冒されて死ぬ就く者も、「永遠の死」であろう。この迷いの中には、死を回避し、何とか助かりたいという、「生」に縋(すが)る執着心がある。したがって、死から逃れ回る者は、「永遠の死」しか訪れない。これが横死である。

 既に前記したが、柳生宗矩が入門を請うて出た武士に、その武士が死を心掛けて、死の道は一本と覚悟の程が余りにも見事だったので、「貴殿は、あたらめてわが流の剣術を学ぶ必要はござらぬ」と云い放った、あの死を受諾する覚悟が大事である。

 「殺されるか、殺すか」の、ギリギリの命の遣り取りにおいて、人を殺すことの出来ない剣は、また、人を活かすことも出来ない剣なのである。死があって、初めて本当の「生」があるのである。生は、死を覚悟した末に、本当の「生」が訪れるものである。


戻る << 死を嗜む道(二) >> 次へ
 
TopPage
   
    
トップ リンク お問い合わせ