■ 死を嗜む道■
(しをたしなむみち)
●神仏無用
武の道は、同時に「死を嗜む道」でもある。また、武の道というのは、そもそもが敵を殺傷する「術」からいって、必死三昧(ひっし‐ざんまい)の修行をするのであるから、此処には当然「死生の道」を明らかにする心構えがなければならない。
更にその心構えにおいて、必死三昧とは、わが「独立率自在」の境地に委(ゆだ)ねられる。
敵をして、施すところなかしめるを「必勝の気」という。また、生々発展・精進して、「武を練る」ことによって長寿を全うするを「正大の気」という。更に、天地自然の法則に遵(したが)い、これに恭順することを「神人合一の境地(さとり)」という。
神人合一の境地は、一朝一夕で得られるものではない。師の教えに遵い、それを学ぶことも大事であろうが、問題は自己の心の在(あ)り方である。心の在り方とは、従順さと正しさである。したがって、武を学ぶということは、敢えて坐禅や山篭りなど必要なく、あるいは神仏に頼ることも無用である。
何故ならば、武の修行は「死を嗜む道」そのものであるから、それ自体が宗教の「行」と一致するのである。
死を嗜み道は、人間が地球に存在する以上、永遠に繰り返される。少なくとも、地球が存続を続けている間は、人間の死も存続するだろう。そこには人間の死があるだけである。したがって、それに耐える為には心の準備は必要であろう。この心の準備こそ、「死を嗜む道」なのである。
かつて、武人が存続した時代、彼等は自分の死を思わなかったことは一日たりともなかったであろう。常に心に死を充て、日々を充実した毎日で過ごしていた筈(はず)である。
ところが現代は、心に死を充てて生きるなどの、崇高な思想が失われている為、今日では、しつこいほど死を恐れる。死を、何かと回避しようとする。死を受諾できない世の中になってしまっているのである。故に、無慙(むざん)な死を迎えるともいえる。
死が不明確になっているのである。多くの現代人は未来への展望がなく、ただ仲間内だけで、あるいはこじんまりとした家族の内輪だけに固執し、その日その日を、へられらと面白おかしく暮らしている。
しかし、この手の暮らし方は、人生そのものが不明確であり、したがって死も不明確となる。こうした生き方をした人間の死は、「力のない死」であろう。生きるのが曖昧ならば、死ぬのも曖昧となる。漠然と生き、漠然と死んでいく。
そして、その生き方に、「命賭け」という生き方は感じられない。命賭けでない生き方は、また死の人の頭上に訪れる死も、命賭けの死でないから、曖昧模糊(あいまい‐もこ)として不明確なことになる。簡単に病気などで取り殺されることになる。こうした死が如何に惨めか、想像に難くないだろう。
ある意味で、命賭けで生きない人は、その死も命賭けでないから、死に力がなく、その弱さから神仏に頼るのかも知れない。
●死の超剋
人生の中には、様々な凄惨(せいさん)を舐(な)める箇所が多く登場する。屈辱もあろうし、死ぬより辛い生き恥をかかされることもあろう。それでも人は、寿命の限り、精一杯生きなければならない。心にどんな疵(きず)を背負い、どんな悲しみを持っていようが、うなだれずに背筋を伸ばして、毅然(きぜん)として人生街道を歩きたいものである。
多くを望まず、普通に食べ、見知らぬ人から会釈されれば、自然と笑みがこぼれ、こちらも会釈を返す。これこそが、人生経験者の輝く生き態(ざま)ということが云えないか。そうした人の人生には、何処か余裕というものを感じさせるものである。
喩(たと)え、一度や二度の敗北や失敗しても、それにもめげず、俯(うつむ)かず、背筋をしゃんと伸ばして人生街道を歩きたいものである。
背筋を伸ばし、矍鑠(かくしゃく)と人生街道を歩き続けた人ならば、その晩年は「老」と云う言葉が相応しいだろう。「老」に至るには、単に馬齢を重ねた生き方をしていては到達できまい。老練でなければならない。老練に至って、内心と外面の乖離(かいり)が可能になるのである。それは武人の場合、「雄々しさ」といってもよかろう。
武術史を紐解き、古人の生き態(ざま)と死に態を検証すると、そこには常に「備え有れば憂いなし」という防備の思想が窺(うかが)われる。
生き態については、常に、心に死を充て、捨身懸命(すてみ‐けんめい)に、精一杯、命賭けで生きて来た足跡がある。更に、その死に態については、心に備えと準備がある為に、大慌てすることもなく、死に直面しても実に潔い。決して、無駄死にや犬死はしていない。死の在(あ)り方が、実に大きな意味を持っているのである。
本来、人の死には意味があるものでなければならない。その人の死は、後世に発するメッセージが克明に残されていなければならない。古人には、そうした人が実に多い。それは、古人自身が、死に対して力を持っていたからだ。つまり、「死ぬ力」である。
しかし、現代人に「死ぬ力」を持っている人は非常に少ない。現代人の死には、殆どといっていいほど、死に力がない。厭々(いやいや)死ぬか、あるいは曖昧に生きた帳尻合わせに、自殺などをして現実逃避を図る。何とも愚かしい限りである。
曖昧に生きるから、曖昧に訪れる死は恐ろしいものとなる。したがって、病気などに罹ると、これが中々完治しない。ガン発症、高血圧症その他の現代病はその典型であり、一旦これらの病気に罹ると、治らずに痴呆(ちほう)や植物状態になって死んでいく人が多い。ひたすら死から逃げ回った結果である。
「死を恐れない者は生き、死を逃げ回る者は死ぬ」というが、寔(まこと)にその通りである。死を逃げ回る者に、九死に一生を得るという奇蹟は起らない。みんな死んでいく。永遠の死の、死に方である。自殺願望者の死と酷似する。
また、現世には念仏宗的な生き方がある。愚かしいまでの生き方である。
「南無阿弥陀仏」と、一席ほざいて死んでいく死に方がある。この死ほど、安っぽい死に方はなく、まさに自殺願望者の死に方と酷似する。自殺願望者は、この世に何もいいことがなかったから死ぬのである。人生に、何の意味も見出せなかったから死ぬのである。自分勝手な死の考え方である。
この考え方には、死を以て、「生の終わり」とする考え方は支配している。だから死ねば楽になると考える。
換言すれば、生命というものを蔑(ないがし)ろにする考え方である。人の生命を尊ばない考え方である。命を目方売りする考え方である。こうした考えは、死を恐れるばかりでなく、死を無視すらしている。死を無視した考えは、人間の命の尊厳すらも失わしめる。命が、十把一絡げの、実に安いものになる。自分の生命のみが安っぽくなるばかりでなく、他人の生命までも、安っぽくしてしまう。此処に生命の尊厳が、蔑ろにされる元凶がある。
念仏宗的の発想は、生命の尊厳を安っぽくした宗教思想である。
彼等は云う。生きている間に、どんな辛いことがあっても、あるいは病気などで苦しめられても、人間は一度死ねば、楽を得て極楽浄土に行けるのだと。
それには、ただ「南無阿弥陀仏」を唱えれば、それでいいのだと。
しかし、果たしてそうだろうか。
一度死ねば、極楽浄土に行ける……という人を、念仏宗の門徒や宗徒に多く見る。しかしである。生きている「生」においてですら、楽を得ずして、何ゆえ死して楽を得ようか。これこそ、自殺願望者の心理を描いたものではないか。まさに、自殺者の心理の錯覚状態というものである。
ただ「南無阿弥陀仏」を唱えれば、阿弥陀如来の膝元に大往生できるのか。
常凡低調(じょうぼん‐ていちょう)なる、曖昧な生き方において、最後の死の場面だけが、どうして阿弥陀如来の膝元に大往生できるほど、その死が荘厳(そうごん)なのか。どうして奇抜な、劇的な死が訪れるのか。これはマヤカシの何ものでもない。現実を直視しない、現実逃避である。苦しければ苦しい現実の中で、一生懸命、のた打ち回れば済むことである。
病気になったら、病気の真っ只中にあって、病気と闘い、それが苦しみにあるときは、思い切り苦しみもがけば済むことである。ただ、のた打ち回るだけだ。しかし、それに囚(とら)われて、思い悩むことはない。「生」を、苦しみの中で、あるいは絶望の中で、ただ全うするだけのことである。それが現実を生きることである。
未(いま)だ、精一杯生きて、人生の辛酸を舐(な)め、もがき苦しみ、のた打ち回って生きた足跡のない生涯が、どうして荘厳なる死を迎えるというのか。
人間、最後の欲望が「生」に固執する生命欲とするならば、その断絶は、まさに死に回帰されよう。死に対して、生に固執することこそ、悲痛なる叫びとなる。これが最も強くなることは、当然であろう。死を恐れる人間こそ、この執着心は強い。往生際(おうじょうぎわ)悪く、死を中々受諾しないのである。
しかし、もし、死が人の人生最大の悲痛であるとするならば、人はあらゆる努力を払って、悲痛なる死生観を超越するべきではないか。死生観を克服するべきではないか。
これこそが「死の超剋」というものである。死は超克すべきものなのである。
死は総決算であり、人生の一大事なのだ。これに向かって努力を払う必要がある。そして、これこそが「死を嗜む道」なのである。古人に死を嗜んだ人は多い。
その死を嗜み、偉業を遣(や)り遂げた人が、幕末の剣豪・平山行蔵であった。死生観が超越できれば、本筋が正しく見えるようになる。
●死を嗜む道の象徴的存在
平山行蔵の晩年に著したものに『武芸十八般略説』の書がある。これは平山行蔵が文政年代に著した武術思想が織(お)り込まれている。また著者は、これを著すに当たり、これまでの諸流派の分類とは無関係で、自分は戦場において、直ぐに役立つものばかりを選んだとする「新案」の形で発表されている。
則(すなわ)ち、「戦場で直ぐに役立つ」ということ自体が、死を嗜む道と考えられる。人が戦場に出て、戦うということは、一方において、心には死の準備をしておかなければならない。戦士は、戦場では死を回避することは出来ない。死ぬ覚悟がいる。更に、その覚悟には力がなければならない。この力こそ、「死ぬ力」である。
死には力が必要であり、無駄死にや犬死を避け、死自体に意味がなければならない。それこそが、「非存在」たる人間の、生きた証(あかし)を証明する義務である。
「生」には、その足跡が必要である。これを明確にすることにおいてのみ、人は「慥(たしか)に生きた」といえるのである。昨今は、「生」を証明して死を迎える人が少なくなった。自分が何で死んでいくかも明確にさせることなく、事故や事件に巻き込まれて死ぬ人や、病魔に犯され病気で死んでいく人が多くなった。みな「生」を証明できずに死ぬ人たちである。これこそ、生きた証が証明できないのであるから、無駄死にであり、犬死である。
さて、平山行蔵は持ち前の自説を掲げて、《武芸十八般》を次のように分類する。
第1は、弓は「木弓」、第2は、馬は「騎射」あるいは「騎乗組討(きじょう‐くみうち)」、第3は、飛鎚(ひつち)または鎖鎌は「鎖打ち棒」あるいは「虎乱棒」更には「分銅鎖」、第4は、槍は「長槍」、第5は、眉尖刀(びせんとう)は「小薙刀」、第6は、太刀は「野太刀」あるいは「中巻」、第7は、抽刀(ちゅうとう)は「居合術」、第8は、銃は「鉄砲」あるいは「大砲」、第9は、弩(ど)は「大弓」、第10は、李満弓(りまんきゅう)で「鯨半弓」あるいは「駕篭弓(かご‐ゆみ)」、第11は、刀は「剣術」、第12は、青龍刀は「大長刀」、第13は、戟(ほこ)は「十文字鎌槍」、第14は、鉋(ほう)は「佐分利(さふり)槍」あるいは「鍵槍」、第15は、漂鎗(ひょうそう)は「投槍」、第16は、棍(こん)は「棒術」、第17は、鉄鞭(けさん)は「鉄扇(てつせん)」あるいは「十手」、第18は、拳(やわら)は「柔術」である。
第3に挙げている鎖打ち棒は、分銅鎖に似たもので、捕り物用の小さな隠武器である。この隠武器は、2尺前後の丸削(まるけず)りか、稜(かど)をつけた棒の尖端(せんたん)に小孔(こあな)を開けて2〜3尺の細い鎖を付け鎖の尖端に丸い分銅を付けたものである。
更に鎖鎌は鎖物道具の代表的な武器であり、戦国時代には戦闘用の武器として使用された。
これは1尺8寸の柄(え)に、鎌の刃がつけてあり、刃の寸法はそれぞれに異なるが、大方は2寸前後である。
流派によっては、鎌の刃の他に柄(つか)の頭部に、垂直に突起した別の刃の穂(ほ)をつけたものもある。また鎖も柄(つか)の端につくものもあり、更には両側に二本つけたものもある。そしてその長さは9尺から1丈2尺である。これを行蔵は戦闘用として、効果のある武器として選んでいる。
また刀術における武器の選び方として、太刀と抽刀を別け、更に刀の三種類を挙げている。これが間合による場所などを考慮したものと思われる。戦場は何も広場のようなところとは限らない。密生した森林の中でも行われるであろうし、沼地のような湿地帯もある。あるいは田圃(たんぼ)かも知れない。至る所が戦場になることが多い。また屋外だけではなく、家屋内の接近戦も展開されるだろう。こうしたあらゆる時と場所に考慮して、刀を三種類に別け、その使い勝手を示している。
更に、野太刀(のだち)を太刀とし、中太刀と小太刀を剣術の、それぞれの独立した武儀としている。
李満弓は鯨(くじら)にヒゲで造った半弓で、屋内戦に適する弓として挙げている。弓の全長自体が一般の弓よりも短く、その長さは約半分である。したがって、速射する場合は効果的である。
漂鎗は元来、鐺(こじり)につける銅製の飾りである。中国ではこれを外して敵に投げつけていた。所謂(いわゆる)「ピャオ」のことであり、後にこれは手裏剣となり、平山は槍の穂先を投げるものとして対比させ、「投槍」の発想を持っていた。
投槍の場合、短い槍が有利であり、普通の一般槍とは区別したのであろう。
こうして《武芸十八般》を考えると、日本に起源した武芸の諸流派において、武芸そのものを包含してそれを一流派で編纂(へんさん)したものは非常に少ない。多くは剣術なら剣術、柔術なら柔術と、一種目に止まるところだが、平山行蔵は武芸の一切を包含して、一流派である忠孝真貫流を総合武術としているところである。
そもそも武器の興(おこ)りは、最初、落ちている石を投げたり、棒切れを握った叩き合ったりしていたのであろうが、その発達段階において種々の武儀が生まれることになる。また、日本においては、武器の象徴は何と言っても日本刀であろう。日本刀が、後に「死を嗜む道」の象徴的存在になったのである。
●死は恐るべきものでもないし、憎むべきものでもない
日本では死の覚悟や、自身の決意を日本刀に象徴させる。それは太刀であったり、居合の為の抽刀(ちゅうとう)であったり、脇差や短刀であったりする。そして、これらを総じて、日本刀と称するが、この根本には、日本刀には聖なる魂が宿っていると信じられているからである。
日本刀の製作は、単に刃物を作るという、技術から生まれたものではない。そこには作者の精神があり、霊的なものが宿っている。
日本刀は元来武器として造られたものである。しかし、単に武器の次元に止まらなかった。武器であることを超越し、精神性の高いものになった。
そこには高い伝統技術が存在するだけでなく、日本刀の刀工の“わざ” があり、美術的に優れているばかりでなく、精神面に関わる霊的なものを宿している。その霊的なものが、同時に日本人の心に反応し、霊肉の象徴として、日本刀は神聖視されてきた。
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▲日本滞在中の女革命家・秋瑾(しゅうきん)。短刀を抜いているのは、革命に命を捧げる覚悟と信念の証(あかし)。 |
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▲浙江(せっこう)を拠点に活躍した革命派の光復会の首領・章炳麟(しょう‐へいりん)。革命思想に目覚め、人民を指導した。 |
かつて中国に、革命の嵐が巻き起こった頃、革命派の闘志の中に、光復会(こうふくかい)の章炳麟(しょう‐へいりん)や、女革命家といわれた秋瑾(しゅうきん)がいた。
1911年に起った辛亥革命は時の政府である清朝政府を倒した革命であったが、この革命は屡々(しばしば)、1789年のフランス革命や日本の明治維新と比較されることが多い。
辛亥革命の性格は、封建社会から近代社会への変革という時期に起ったもので、その革命運動には、「西欧列強と手を組み、帝国主義の手先であった清朝を転覆(てんぷく)させる」という意義を持つものであった。
しかし、この革命の実現には前途多難が待ち受けていた。この課題を追った革命家たちは、困難に満ちた長い苦闘の道程を歩かねばならなかったからである。また、孤独なる先駆者たる覚悟を必要とした。
その覚悟の程を、女革命家の秋瑾は、短刀を抜き、その覚悟と信念の証(あかし)として、自らの命を賭ける意志を顕している。つまり、死を心に充て、その後の人生を革命一筋にかける決意の程である。
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▲日本刀はこれまで覚悟と信念の証として、その象徴とされた。(写真提供:大東美術刀剣店 福岡県公安委員会 第10221号)
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さて、日本刀は、日本人の心に反応すると、それが固い決心であったり、揺るぎない覚悟となる。つまり「死を嗜む道」の象徴となったのである。
困難と、世間の無理解の渦(うず)の前に立たされる時、人は、それなりの覚悟がいる。生半可なことでは対処できない。決断する必要があるのである。
こうした時、人はその決断の意識を刃物に回帰させる場合が多い。日本人は、古来より、「つるぎ」をもって、困難に立ち向かい、「つるぎ」によって道を切り開いてきた。その意味で、「つるぎ」は決心や覚悟の象徴とされる場合が多い。「つるぎ」を高く掲げて、大旆(たいはい)の意気を示すのである。その時に、人は変貌(へんぼう)する。
「死を嗜む道」を全うすれば、臆病者も勇者となる。楽天家も一夜にして、使命感に燃えた聖者となる。特にそうした変貌の足跡は、吉田松陰(よしだ‐しょういん)に見ることが出来る。
幕末期、老中・間部詮勝(まなべ‐あきかつ)の暗殺を言い出したのは、吉田松陰であった。ペリーの軍艦へ密航を企ててた以上に、当時の第三者には狂おしいものに見えた。まさに「狂」であった。この「狂」の中には、矛盾や混乱が同居し、時として滑稽(こっけい)なほどの狂おしいものが含まれていた。それを松陰は、易々と実行に移そうとする。
安政五年の冬、松陰は身を挺して戦闘者となる。この時期、松陰の、まさに「死を嗜む道」は機を熟し、最終段階に入っていたのである。また、それは先駆者たるべき、孤独な戦いでもあった。その意味で、松陰が一身を擲(なげう)ち、直接行動に移った彼の目的は達せられたといえるだろう。
松陰の直接行動は、まずペリーの軍艦に乗り込み、密航することだった。しかし、これは達成されなかった。密航に失敗し、国内の止まり、国事犯として幽閉(ゆうへい)の身となることによって、松陰は松下村塾の指導者となりえた。
また、間部邀撃策(ようげき‐さく)を咎(とが)められて、下獄したとき、自分から離れていく塾生達を眺めながら、「吾が輩、皆に先駆けて死んで見せたら観望して起るものあらん」と孤独で悲痛な叫び声を挙げている。処刑されて「死んでみせる」ことは宿命的なものであり、松陰はこの時、確かに「死を受諾する」のである。そして、それは先駆者としての役割を果たすことであった。
それは同時に、歴史を新たに展開させる原動力となり、松陰がその原点に立つことにより、日本の歴史は大きく変化していく。つまり、松陰は教養者でありながら、その選んだ道は西洋の新しい知識を得ることであった。その為に、死をも厭(いと)わないのである。国の掟(おきて)を自ら破り、この可能性に賭けて、命を張ったのである。
その命賭けの根底には、やはり「死を嗜む道」が存在している。新しい西洋の知識を掴(つか)まんとして、知識欲旺盛で、かつ精神的能力の機会を、松陰は何でも喜んで実践した人であった。まさに陽明学で謂(い)う、「知行合一(ちこう‐ごういつ)」であった。その「知行合一」が、松陰を一方で、殉教者とならしめた。
当時の幕府は、松陰を殉教者とならしめたことによって、自ら墓穴を掘っていくのである。それは古今東西に見る、専制政治の末路に繋(つな)がる典型的な現象である。そして松陰の刑死は、明治維新史の起点として歴史に位置づけられ、これを機に歴史は大きく変化を遂げるのである。
松陰の死には、後世に残す大きなメッセージがあったといえる。それは松陰の先駆者としての孤独と怒りが克明に物語っている。その全体像を貫いているのは、松陰の悲しみである。人よりも、一歩先を歩いて先駆者になるという行為は、実は孤独な行為なのである。
これは可視世界の中で賞賛されるよりは、むしろ、霊的世界で礼賛されるものであり、松陰は常に肉眼では確認されない、数歩先の霧に向こうを趨(はし)る人間であったといええる。
そして、松陰が高杉晋作(たかすぎ‐しんさく)に教えた、「死して不朽(ふきゅう)の見込みあらば、いつにても死すべし」という死生観は、死を嗜む道として、寔(まこと)にその意義が大きい。
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▲吉田松陰像
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▲高杉晋作写真
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松下村塾時代、高杉晋作は師の松陰に、次のような質問をしている。
晋作曰(いわ)く、「男子は何処で死ぬべきですか?」と。
この質問に松陰は窮(きゅう)した。即答することが出来なかったのである。
これに答えることが出来たのは、獄中の身になってからであった。
獄中の松陰は、かつて晋作の問いに答えて曰く、「今この獄中になって、死の一字につき発見したことがあるので、いつか君の質問に答えておく。死は恐れるものでもなく、また、憎むべきものでもない。生きて大業をなす見込みがあるならばいつまでも生きたらよい。死して不朽の見込みがあるならば、いつ何処で死んでももよい。要するに死を度外視してなすべきをなすが大事だ」と答えた。
これは晋作自身にとっても、その後の生き方を決定する重要な行動原理の示唆となる。
本来、「鍋島論語(なべしま‐ろんご)」といわれた『葉隠』 や、“武士の美学”は、今日でも、武士道とか、死を嗜む道などといえば、「潔く死ぬ」という風に誤解されやすいが、これは大きな誤りである。
一切合財に、死ねばよいかというと、実はそうではない。また、作法通りに切腹をすればよいというものでもなかった。武士に対するイメージを、「死の美学」と誤って捉えがちだが、これらは総て誤解である。
死を嗜む道とは、どうしても死なねばならない場合の、「人の道」を説いたもので、自決や自刃を指しているのではない。目前に死が迫った場合、どうしても逃れようのない死ならば、これを素直に受諾することを言う。したがって、死ぬ時機や場所が問題になってくる。いま死なんとする時に、「決断を下す」ということを指しているのだ。
問題は、時機(とき)と場所を考えないと、死ぬ効果が上がらないということであり、それには時と場所が要る。時機を得なければ、死の効果は上がらないであろうし、また場所を間違えば、その死は無駄死になったり犬死になる。
これを知り尽くしていた松陰は、死の時機と、死に場所を間違わなかったといってよかろう。
したがって、「潔く死ぬ」という武士の美学とされた行動は、時機と場所を得なければならないのである。
晋作は松陰によって時機と場所を示唆され、その後の彼の大きな生き方を貫徹している。
一方において逃げることを潔しとせず、恥辱(ちじょく)と観じる武士の中にあって、晋作は実に神出鬼没であったが、また、よく逃げ果(おお)せている。彼は逃げに逃げている。
晋作は出来るだけ犬死を避け、松陰の言った「不朽の見込み」を探し続けていたのである。ひとえに、逃げ果せいて生きることは、一方において「死を嗜む道」を全うしたといえる。その背景には、死ぬ時機と場所を充分に考慮しているからである。
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