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●捨てる剣 さて、西郷派の剣術は、「捨てる剣」であり、「拾う剣」ではない。わが流の剣法は、勝つことより、負けないことを教える。したがって、勝つことと、負けないことは同義ではない。 つまり、勝つことだけを目的とする武道技術は、一旦損をしたところは、何が何でも取り返そうとする挽回精神が働いている。ところが、西郷派の武術観は、損したところが挽回せずに、その部分は捨てるのである。 普通の武道観は、損したところは、何が何でも取り返さなければならないと、もがくことが少なくないようだ。相手からポイントを取られたら、それを今度は取り返す為に必死になって、挽回しようとする。挽回し様としてもがくうちに、更に、また別の箇所を取られ、結局、墓穴を掘っていって最後は自滅してしまうのである。 こうした、自滅の愚を冒さない為には、まず損したところは捨てる。それを決して取り返そうとしない。失ったところは惜しいとは思わない。この戦闘思想が、つまり、わが流の「捨てる剣」である。 人生の根源、あるいは現象人間界のこの世界は、何事も「捨てて行く」ところに物事のとの真理がある。溜め込まずに、捨てるのである。 自由自在に動くことが制限され、縦横無尽に駆け抜けることが出来ない。 このようにして、「捨てる剣」の極意が会得できれば、剣を使わない剣によって、新たなる剣術を展開できるのである。この剣術の展開こそ、「無刀捕り」であり、ここに剣を持たない剣術が誕生するのである。
●剣を捨てた無刀捕りの発想 さて、剣をもって敵または相手と対峙(たいじ)したとき、一方的に敵から攻撃を仕掛けられることがある。執拗な攻撃を受けることがある。これは敵が一方的に攻撃してくるのではなく、こちらにも問題があるからである。 敵から見れば、逃れようとする自分の体制は隙だらけに見え、その隙を敵が衝(つ)いて来ているに過ぎないのである。則ち、逃げようとすれば、あるいは逃げようすると気持ちが働いたとき、そこには敵の攻撃を背負う運命を抱え込んだことになるのである。 こういう局面に陥ったときには、これから逃げようとするのではなく、逆に、こうした攻撃の中に飛び込んでいけばいいのである。身を突っ込んでいけばいいのである。逃げれば敵の攻撃と、吾は二つになって、追われる運命を背負い込むことになるが、反対に敵に向かって飛び込んでいけば、逃げる心から解放され、逆に敵の付け入る隙を窺うことが出来るようになる。 つまり、敵と一つになることが出来、一つになれば、もはや敵から追われることはなくなるのである。これが、「捨てる剣」の極意であり、また、窮地から脱出することが出来る極意なのである。この極意を会得することによって、「抜ける術」が授かるというわけである。一箇所に捉われていては、全局面を見通す目が失われてしまう。この目を失わない為には、損したところや、取れたところは取り返そうとして、「拾うことばかり」を考えず、損したところを捨てる方が、より賢明な行為なのである。 武術とは、則ち「賢明」な行為を学ぶ為に、人間は修行という言葉を借りて、この人生道を生き抜く「道」の法則を学ぶのである。
●西郷派の剣は「他力一乗」に回帰される 剣術の流派には、「真陰」あるいは「真影」という流名を名乗る流派がある。この「陰」あるいは「影」という文字は、大きな意味を持っている。則ち、ここでいう「かげ」とは、「他力一乗」を顕しているからである。 「陽」は、本来、自力とか自我とか、我を顕すのに対し、「かげ」は「陰」を顕しているからである。恩恵を受けるとか、世話になるというのは、結局「お陰」という言葉に回帰される。この「お陰」の持つ意味合いは大きい。それは自分の力でないからである。第三者の別の力が、「お陰」の意味を持っているからである。 この第三者としては、自分以外のものであるから、「神の助け」とか「冥助」というものである。つまり、「かげ」の背後から、自分を助けてくれるという意味なのである。あるいは「神のご加護」とも換言できるであろう。「かげ」の背後から、自分を助けてくれるのだから、行動に出る自分は無敵である。 人間の目の前に映る現象は、人間の肉の眼から見たものだけしか捉えることが出来ない。したがって、神の力は、肉の眼では捉えることが出来ない。かみのは、現象が肉の眼では確認できない。三次元だけしか見ることに出来ない肉眼は、一切の「かげ」の力を感知することが出来ないのである。 したがって、肉の眼には神の現象は映らない。肉の眼を超えたものでなければ、「かげ」の力は分からないのである。
それは、本物というのは「表」になく、「裏」にあるという意味である。つまり「陽」ではなく、「陰」である。陰とは、「かげ」である。また、本当の「栄え」というものも裏にあるのである。 「陽」は易でも「剛」である。剛は、力を使う積極を顕し、能動の道具である。自力であり、「自我」の最たるものとなる。 この「柔」は、押されれば押されたままで、それに応じて次なる動きを転ずることが出来る。競って、跳ね返そうとしない。ただ受け流すだけである。引かれたら、引かれたことに応じ、その流れの中で業(わざ)が出る。これこそ、「他力一乗」である。逆らい所がないからである。 相手の動きに応じて自由自在に業が出る。これが「他力一乗」である。この自在の動きこそ「柔」である。「やわら」である。「やわら」は耶和良(やわら)の文字を書く。これは「陰」の流れを顕している。 この本当の意味は、敵と対峙した場合、当方は「表」に立って、主とならず、敵に主なる立場を譲って、自分は「陰」に引っ込むことをいう。つまり、戸口に立つならば、表口に立たず、「裏口」に、控えめに立ち、主は敵に譲ってしまうのである。そして自分は「従」となり、「陰(かげ)」となるのである。 柳生新影流の祖・柳生但馬守宗矩(やぎゅう‐たじまのかみ‐むねのり)の著した『新影月見伝』
には、次のような道歌を記している。
この道歌を、人間行動学の王陽明の陽明学に求めれば、「天に憑(よ)れば人謀に非ず」と。 相手はどう出てくるか、こちらの知らぬことである。こちらの計らいで考えることは出来ない。どうでるかは、その時、その場に応じて手当てすることであり、これを一々考え抜いても仕方のないことである。頭の中で、長々と考え抜いたところで、適切な解決策は出てくるものではない。むしろ悩みぬかず、「出たとこ勝負」に出るのが一番よいのである。計算しても、何もならない。 いらぬ計算を立てると、無駄な作業に追われてしまう。また、肚(はら)の中には、何もない方がいい。なまじ肚などがあると、その肚に躓(つまず)くことになる。ああだ、こうだと肚に思うと、敵がそうでなかったとき、わが方は躓いてしまう。行き詰ってしまう。行き詰れば、肚によってた斃(たおれた)れたことになる。愚かなことである。 柳生但馬守は、「つくにぞいらぬ月のいづれば」と言い切っている。 雨が降れば傘を差す。寒ければ羽織をひっかける。家の中で炭を熾(おこ)す。暑くなれば、単衣(ひとえ)にすればいいことであって、まだ、やってきてもいない明日のことに、思い悩む必要がないのである。つまり、「天に任せる」というのが、他力一乗の真なる意味である、自由自在の応じ方を柳生但馬守はいっているのである。 「他力一乗」の詳細に関しては、daitouryu.netの「合気武術概論」の剣術を参照下さい。
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