トップページ >> 技法体系 >> 西郷派大東流の呼吸法概論(四) >> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
この事は、「発病するか発病しないかの決定権」は、実はウイルス側にあるのではなく、それぞれの個人の体質の良し悪しに関わっているということである。要約すれば、「体質の良し悪し」が発病するかしないかの真因を決定しているのである。 つまり、ここでいう体質とは、「体細胞の質」のことを言うのである。この「質」が問題なのであり、体細胞の質をよい方向に高めていく為には、まず食事内容が、血の良し悪しである「サラサラ」か、「ドロドロ」かを決定し、サラサラの血液は良き体細胞を造り、悪きドロドロの血液が悪しき体細胞を造るということである。この流れの構造の中にこそ、病気が潜んでいるのであり、人間の躰(からだ)の基本構造は、これに由来し、食物こそ、人体の化身なのである。この構造を凝視すれば、食物によって血が汚れるか、汚れないかに懸(か)かり、その食物が腸内で腐敗するかしないかに懸かるのである。 したがって、食肉や乳製品や鶏卵などは、腸内で腐り、酸毒化し、それが腸壁の絨毛(じゅうもう)から吸収されて、血液に乗り、全身を巡ってそこで体細胞になるのである。この構造から考えると、腸内で腐る動蛋白食品は、人間向きではないことが分かる。肉は腸内で腐り、酸毒化するからである。
●呼吸法をする為には、動蛋白食品や精白食品は有害である現代人の多くは、自分で腸内で腐敗するような食物を取り込んでおいて、病的な微生物を発生させ、これを繁殖させ、自分で病気になっていくという生活習慣の間違いに気付かないまま、「食肉スタミナ信仰」や「牛乳カルシウム神話」を有り難く拝んでいるのである。また、成人病や現代病といった病気は、現代ならではという、発病の真相が時代の背景に隠されている。 世の中は金銭至上主義であり、また科学万能主義であるが、これらは未(いま)だに眼に見え、手に触れられる物体化したものだけを相手にする三次元どまりの、科学的論拠を主体に置いたことが推し進められている。したがって、現代医学にしても、発病の真相を病原体に求め、その退治に躍起になっている。しかし、本来病原体というものは存在しないのである。 時として、病変組織に病的なバクテリアやウイルスが発見されることもあるが、それは腸内から吸収されて侵入したか、自然発生したかの何れかである。病変組織が崩壊する時に、体細胞がバクテリアやウイルスに姿を変えることがあるのである。この場合、腸内で腐敗を起こすのは、その代表格が動蛋白食品と精白食品である。
以上の食品と食生活で縁が深いほど、慢性病の病根は深くなる。現在慢性病で苦しんでいる人は、食生活の中で、以上の有害食品を多く食べ、多食し、食傷に冒(おか)された人である。更に、現在は健康体を自負している人でも、以上のような食品を好んで食べていると、必ず近い将来に有害食品の弊害(へいがい)が顕れてくる。遅かれ早かれ、時間の問題であろう。 既に述べた中で、食肉は人体にとってスタミナの元になり得ないばかりか、腸内で腐敗する有害食品であることは既に述べた。何故、腐敗するかは、もともと人間が穀菜食をする生き物(【註】人間の歯型が、穀菜食の水冷式哺乳動物である裏付けをしている)であり、肉食獣などの動物と違って、動蛋白を摂取した場合、これを還元する酵素を持たないからである。 現代人の食事回数は、常識的に「日に三度」であるが、もし日に三度の食事をするのであれば、排便も日に三度起らなければならない。ところが、肉や白米などの雑食をする現代人の多くは、便秘に悩まされ、排便が毎日一度はきちんとある人でも、一日3食の食事をしながら、この三食分が完全に排泄されている人は殆ど居ないのである。つまり、一日3食という食事回数は、明らかに過食であり、過食状態が便秘を惹(ひ)き起こす元凶になっている。つまり、「食べ過ぎ」が便秘を惹き起こしているのである。 ということは、日一度しか排便できず、便意を催さない人は、残りの2食分を腸内に少しずつ蓄積し、停滞し、それが腐敗して酸毒化していると考えられる。これが過食と便秘の因果関係を持っている。一日3食では食べ過ぎであるからだ。 ちなみに筆者は、平成20年4月20日(日)夕刻 〜同年5月3日(土)夕刻まで、13日間の断食をしたが、断食をはじめて7日目頃から、真っ黒い宿便が出始めたが、13日間の断食を終了し、捕食期間に入ったその後も、まるで雑巾を絞るように、一日3回以上の排便があった。 特に、宿便の中でも、動蛋白(四ツ足動物が食べる家畜用飼料には水銀入の物が多い)より摂取した、農薬に含まれる水銀などの重金属は一旦体内に入ると、殆どは排泄されないのである。 四ツ足を食べているということは、農薬成分までも食べていることになり、白米なども農薬が含まれている。それに半信半疑の疑いを持ちながらも、これらの食品を食べるしかない、食生活を現代人は余儀なくされているのである。 したがって、これまで生まれてこのかた、一度も断食経験のない人は、仮に今が20歳としたら20年分の、30歳としたら30年分の、更には60歳としたら60年分の宿便を体内に溜め込んでいることになる。 何故ならば、絨毛の一本を形成しているのは、約5000個の六角形である。栄養を吸収する細胞は、全部で1兆5000億個にものぼるからだ。この絨毛を表面積として引き伸ばせば、テニスコート2面分までに拡がるというのである。 毎日必ず、一度は排便があるという自称・健康体な人でも、一日3食主義を実行し、「朝食はしっかりと摂る」という現代栄養学式の食事法を実践している人でも、一日のうちで3食、食事を摂っているのだから、その都度の24時間後のそれぞれの朝・昼・晩の食事量相当分が排便されねばならない。それとも、3食分の排便量は、一纏まりになって、朝か昼に固まって排便されているとでも言うのであろうか。 もし、一塊(ひと‐かたまり)になってこれが排便されるという論理を持ち出せば、現代医学の言う、人間が食事をしてそれが消化され、吸収されて残りカスは24時間かかって排泄されるという「24時間排泄論」が訝(おか)しなことになってくる。 程度の差こそあれ、現代人は現代医学や現代栄養学を過信する余り、確実の宿便を体内に持ち、それがいつ病変するとも知れない、危険に曝(さら)されているのである。 かつて筆者も、厄年の42歳まで、「肉大好き人間」だった。現代栄養学の熱烈な信者だった。肉を好んで食べ、肉に併せて白米主義者だった。肉をよく食べ、アルコールをそれに併せて、よく飲んでいた。一日3食では空腹を満たすことが出来ず、一日4食をやった上に、夜食まで食べていた。それが祟(たた)って、その十数年後、それが酸毒化し、ガンが発症した。食傷であった。しかし、食傷に気付いたその時は、手遅れ状態の末期ガンで、余命6ヵ月と告知を受けた。「過ぎたるは及ばざるが如し」だった。 末期ガン患者の筆者の持論だが、人間が、若い時には性力もつけなければならないし、異性も惹(ひ)き付けねばならないので、どんなに肉を食べても、それを辛うじて消化される内臓力は持っていると思う。 何故ならば、人間の肉体には、年齢に応じて免疫力というものがあり、医学的に検(み)て、20歳をピークに徐々に低下するという。20歳で免疫力が100%とすれば、80歳代で0%になるという。つまり、免疫力低下では、30歳代では70%になり、初老の40歳代で約50%、50歳代で約35%、60歳代で約20%、70歳代で約10%、そして、80歳代で遂に0%となるという。 つまり、40歳の初老の声を聞くと、もう免疫力が半分になるのである。だからこの歳になれば、アルコールの摂取量を減らし、喫煙者は禁煙をし、動蛋白摂取量を極力減らし、折り返し点に向かう覚悟を明確にしなければならないのである。 ところが、50の折り返し点を過ぎ、60の「還暦」になっても、若者と同じ、焼く肉や牛丼や、脂肪分たっぷりのトンカツ定食を食べたり、焼き鳥で一升酒を喰(く)らったり、ヘビースモーカー並みに、タバコを一日20〜40本以上も喫煙する馬鹿者が居る。そしてこうした馬鹿者に限って、現在、高血圧症で悩まされたり、ガン発症で「虫の息」という哀れな末路を辿ろうとしている。早く気付いて欲しい限りである。 たいてい、脳溢血や脳血栓で斃(たお)れ、夜中、救急車で運ばれる人間は、大方このような、間違いだらけの食生活をしてきた人間である。アルコール摂取量は殆どないのに「血圧が高い」という人は、まずタバコの喫煙を疑い、動蛋白摂取過剰を疑うべきであろう。不必要なものを喰(く)らって、何も、死に急ぐ必要はないだろう。 筆者が思うには、50の五十路(いそじ)の折り返し点に達した人は、もう既に、「死生観を考える歳」ではないかと思うのである。「生」に縋(すが)りつくのではなく、「生」から離れ、「死」のことについて考える、精神世界に入っていかなければならないのである。やがて、生命の火は、肉体から離れるときがやってくる。このことを、念頭に置くべきであろう。 この時期を安易に見過ごし、その準備行動に怠りがあれば、その後の人生は病魔に襲われる哀れな余生が待っているのだ。死の覚悟を迫られて、慌(あわ)てる以外ないのである。筆者も、この哀れな余生を選択しなければならなかった一人だった。そして、自分がガンを発症して、余命6ヵ月と告知されたとき、自分の非に漸(ようや)く気付いたのである。 結局、筆者はガン発症に気付く前は、現代栄養学の「肉と野菜をバランスよく、一日30品目以上」を摂るという、近年の厚生労働省の食指針と、現代栄養学の食理論に騙(だま)された一人だった。また、食品を多く摂ることは、そのレシピに大量の白砂糖が、隠し味として遣われていることだ。 実際に長生きした人は、その食生活に秘訣があった。玄米菜食を中心にし、主食のご飯は、玄米を中心にした、雑穀としての玄麦、粟(あわ)、稗(ひえ)、黍(きび)などであった。また、副食としてイモ類や、野菜や山菜などであった。それに少量の小魚介が動蛋白として加わるだけである。 これは一見「粗食」に見えるが、例えば、女性でもこうした食事だけで、母乳が出ないという人は殆ど居なかった。それ何に最近では、白米一辺倒主義で、肉、鶏卵、乳製品、肉や魚の加工食品などの動蛋白中心の雑食をして、それでいて母乳が出ないという女性が多い。また、食事は動蛋白中心にしてきた人に限り、成人病になる人が多く、死亡者も増加しているというのが実情だ。 これまでを振り返ると、現代栄養学を過信していたことが、今は大いに悔(く)やまれるのである。そして、躰は酸毒に蝕まれ、衰弱して行ったのである。後戻りできないところにまで来てしまったのである。 また、この酸毒物質が、「宿便」(【註】眼に見えるものだけを相手にする三次元現代医学では、死体解剖により、宿便は存在しないと考えるのが定説になっている。しかし、生体と死体とでは、異なることは明確であろう)といわれるもので、断食療法などで謂(い)う、黒便、砂便、結石、脂肪塊(しぼうかい)、寄生虫、各種細菌、仮性糞石、粘液毒素、農薬に含まれる水銀などの重金属類などの、何年も、何十年も体内に停滞した病原群なのである。病原群の多くは、動蛋白食品と精白食品によって齎(もたら)される。 更に、肉および動蛋白食品の常食者は、その多くが短命である。その原因は、動蛋白食品を主体的に摂取する為、生活習慣から慢性化する病根を引き出す為である。心筋梗塞、動脈硬化、狭心症、肝炎、腎炎、前立腺肥大症、子宮筋腫、ガン発症などは、総て動蛋白が齎(もたら)す疾病である。 下記の食品の顕す、「還元力と酸化力の食品分布表」をみれば、動蛋白のみならず、果物や野菜においても、酸化力ばかりが旺盛で、還元力がない食品が多くあることが分かるであろう。 此処にきて、日本人はあらためて「身土不二」という言葉を振り返る必要がある。日本人には日本人の食餌法(しょくじほう)がるのである。自分の生まれた土地と、肉体は同根であるということだ。そこで育った無農薬野菜や穀物を食し、「正食」を心掛けるべきであろう。また、動蛋白にしても、養殖などで汚染されていない、近海ものの、骨ごとと食べられる、掌サイズの小型の魚介類を少量、食するべきであろう。 現代人の多くは、自分の血が汚れていることに、余り気付いていない。しかし、血液の酸毒化により、代謝機能は根底から狂わされることになる。その結果、肉常食者に多く見られる、体臭が肉食をしている欧米人並に臭い。更には、性的な病的興奮を早い時期に経験し、深刻な排泄障害を起すなどの異常性欲に煽(あお)られている若者が少なくない。 動物の中でも、人間だけが、一年365日、発情をしているのである。毎日が発情期といっても過言ではない。それは昨今の性情報に群がる老若男女の「発情」を検(み)れば一目瞭然であろう。 これは肉などの動蛋白を過食することで、動蛋白が所有する興奮性物質のプリン塩基が吸収されて、更には肉などの蛋白質が分解されて毒素が生じた為である。そしてこの毒素は、血液中に過剰な酸類を生成させて、性腺(せいせん)を刺激し、この刺激が以上興奮を起こし、この年齢が少年少女の十代中半から後半である場合、早期に異性関係を持ってしまうというものである。 また、こうした少年少女を子供に持つ親は、子供の夜遊びや不順異性行為を注意したり、忠告することもなく、自らも不倫に趨(はし)ることに余念がなく、亭主も女房も、夫や妻以外の異性を探して虎視眈々(こし‐たんたん)とし、風俗産業に首を突っ込んだり、夜の巷(ちまた)を徘徊(はいかい)している。親も、子供の前で襟(えり)を正す時期が来ているのではないか。 また、こうした少年少女に及ぼす社会現象は、大人の性の世界が、子供の早熟により、子供の世界まで及び、蝕んでいることである。つまりこの元凶は、肉などの動蛋白摂取過剰や、白米などの栄養価の低い澱粉質が、動蛋白と複雑に絡み合い、早熟や早老を招いているということである。 その為に現代人は老若男女を問わず、深刻な排泄障害を起し、排泄機能を司る腎臓は、アルカリ性の条件下で活発に働くのであるが、食肉により血液が酸性化して、著しい機能失墜を起こすのである。その最たるものが、腎臓病を患い、それが遂に完癒せず、人工透析などを受けねばならない中高年層の疾患の現実である。 肉食などの動蛋白が、実はその正体が、心身ともにバテ易くなる有害食品であることは、これでお分かりいただいたことであろう。また、この有害食品は、単に肉体ばかりを酸毒化してガンを発症させるばかりでなく、肉常食者自身の思考までも、「酸毒思考」に陥れる怕(こわ)さをもっている。 むしろ危険なのは、肉体が酸毒化されて血液が汚染され、その汚染が炎症や腫瘍を作るといったことよりも、酸毒化された思考に陥って、考え方が単純になり、複雑な読みや、その背後にある正体が見抜けなるという、皮相的なものの考え方しか出来なくなることである。 つまり、皮相的な物事の見聞しか出来なくなると、権威筋の遣(や)ることを悉(ことごと)く正しいと信じてしまい、それに反論の意見を加えることができなくなることだ。 例えば、自分が医者から「ガンだ」と告知され、それを100%、間に受け、「もう助からないのでは……?」と、まず最初に思い悩むことである。そして、頭の中には「ガン」イコール「死」という架空の単純方程式が出来上がっているから、何とか、死だけは回避する考えが先行する。死なずに済むのなら、それに越したことがないと思う。遂に、死からの逃亡劇が始まるのである。 更に依頼心ばかりが強くなり、病院任せ、医者任せ、投薬任せで、医師が半ば強引に助言した摘出切除手術が最もよいなどと云われると、安易にその手術を受け容れたり、あるいは抗ガン剤投与で叩くことが一番よい方法だと聞くと、それに信頼を寄せ、依頼心が強くなり、医者任せの「縋(すが)りの眼」を向けることである。しかし、医師の助言が何も功を奏するとは限らない。 末期患者は、自身の抱える病気が、もはや現代医学の治療法で癒(なお)らない事を知る。あるいは手後れであった事を知る。 末期患者の特長は、最初、自分が「ガンである」ということ否認する。それはガンが完治しない「死病」と思い込んでいるからだ。自分がガンであると云う事は、「もう直(じき)死んで行く人間」ということを認めなければならないからだ。 しかし、数週間が経ち、落ち着いた頃、遂に否定できなくなり、主治医のすすめで、二度三度と手術を行い、あるいは入院加療を受けて、「生への延命」を試みる。しかし、その後の容態は以前にも増して芳(かんば)しくないことを知る。手術を受けても、あるいは延命効果のあると言われる、ガン疾患に有効な種々の療法を受けても、その後の華々しい決定的な治療の効果の痕跡(こんせき)は殆ど顕われないからだ。 そればかりか、無理な治療が加わった為に、幾つかの合併症が顕われ、体力は衰弱し、延命に賭(か)けた期待は、一層大きく裏切られる。その時のショックは、計り知れないものであろう。それは多額な治療費を注ぎ込んだ上での「延命効果」を期待しての、裏切りであるからだ。 しかし、多くはこうした形の治療を受け、ついには集中治療と入院には、莫大(ばくだい)な数字に上り、多くの患者はその人が老後の生活プランとして蓄えた、唯一の持ち物すら手放さなければならなくなる。老後の為に建てた家屋も、もはや維持できなくなるだろう。 こうした失意のうちに、更に襲って来るのは、集中治療と長引く入院によって、相当額の経済的な負担の重圧が、次々にのしかかって来ることだ。 その結果、皮相な思考から抜け出すことが出来ず、依頼心の命ずるままに安易な、単直な解決方法を選ぶことである。こうして最終的には、多くの末期ガン患者が、「酸毒思考」に汚染されてまま死につくことである。
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