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その他、西郷派大東流には、当身業の極みとして「大東流点穴術(てんけつじゅつ)」という、敵の骨格のズレや縫合(ほうごう)を攻める儀法(ぎほう)を用い、僅かな力で大きな効果を得ることを目的にしている。人間の顔面への攻撃は、拳の場合、顔面の正面を捉えるような拳突きによる「突き」の業が用いられるが、拳が「拳大」という太さがあるため、大きな力をスピードを必要とする。したがって、弱者向きでない。 当身術の効果を上げるには、拳大の太さで顔面に迫るのではなく、所謂、指先の大きさの「点穴」の方が効果的である。人間頭部の頭蓋骨には、縦横に走る各縫合があり、この縫合は打ち方によっては僅かな力で、「外れる」ようになっている。縫合線上の「噛み合せ」は実の弱いものである。この一番弱い箇所を当身で叩くのである。 場合によっては敵を死に至らしめる要素を含んだ点穴の術であるが、西郷派大東流のそれには、「殺法」と表裏一体となった「活法」があり、仮死状態にした敵を蘇生(そせい)させる術が伝わっている。殺法は、また活法と表裏一体の関係にあり、打ち方や、当てからによっては大きな効果を齎(もたら)すものである。 骨格の縫合を外した場合、その接骨や整骨は困難であり、例え一命を取り止めても、外れた縫合の復元は不可能である。したがって、縫合線上の攻撃はそれほど危険な業であり、特に、縫合は集まる、頭部の側面は各点穴の経穴があり、効果があるだけに危険な箇所でもある。
点穴術は、通常の当身理論に加え、解剖学や東洋医学の高度な知識が不可欠であり、その修得は難解を極める儀法である。
●当身拳法を学ぶ上での心構え人は、常に自分を強くする方法を模索している。自分が強くならねばならないと考えている。何人(なんびと)も、こう呟(つぶや)き、何度かこの事を心の中で繰り返し、掌(てのひら)を握って拳を固めることであろう。 人が、何らかの結末において拳を握り、それを固める時は、決まって自分の描いた功業の虚しい幻滅、あるいは何者かに裏切られて遁走された時機(とき)などではあるまいか。そして、その後の表情として、人はその痛手から立ち直ろうとするとき、自分を励ます意味で拳を握り固めるようだ。 人は苦難の中で、不遇の底で、あるいは長い下済み生活の中で、または心労を和らげる為に、幾度か崩れかかろうとする自らの心を立て直す為に、「強く有らねば」と拳を握り固めるものである。再起して立ち上がろうとするとき、新しい道を、新しい光を、新しい希望を求めようとして、それを拳に掲げるようだ。 さて、生き残り、生きていこうとする行為は、外に向かって抗(あらが)っていく行為である。つまり、「生」とは外に働きかけて、抵抗する行為なのだ。その働きには、当然、力というものが要る。 人間という生き物は、持っているだけの力を隈なく現出させて、自らの存在価値を表示するとともに、これを「生」の意義に全うしようとする。つまり、「生」とは、不断の自らを現実に表現していくことなのである。この表現方法に人は苦慮し、苦悶するのである。 さて、西郷派大東流の当身拳法は、以上述べたような表現方法として、存在する自分自身の中へ、自らの形で、自らの力量を表す得意な儀法を、この拳法に当ている。その表現方法が、あるいは「型」というものが、円であれ、直線であれ、あるいは歪んでいたとしても、それは問うところでない。ただ、ひたすらに「打ち込む」という一点において、絶え間なく繰り出すところにこの拳法の特徴を持つ。それは「自らを顕す」ということなのである。 戦闘思想において、自分を表現できずに、現実に働きかけていく力を失えば、それはまさしく「死」である。ここにおいて、闘いに疲れ、斃(たお)れようとするとき、あるいは悲哀に打ちのめされようとしているとき、その崩れる自分を支え、自らの心を取り戻すのは、「もっと自分は強くあらねば」という反芻(はんすう)であろう。 また、断末魔(だんまつま)に際して、「生」を取り戻し、「死の淵(ふち)」から逃れることが出来る心の支えは、心に吹き抜ける熱い息吹であろう。つまり、火の玉のような情熱であり、心意気である。しかし、安易に「強いぞ」と反復しても効果はない。また、技術的な打ち方や、蹴り方、あるいは突き方というものを求めても、それ自体は何の効果も生じない。 問題は、技術的な進歩を求めるよりは、まず「心の安住」を得ることであろう。 そして、「生」を、何によって生きていこうかという「生の哲学」で考えるのではなく、「何によって死のうか」と考える、依(よ)って以て死ぬべきものを捕まえることである。「死ぬべきもの」を捕まえたとき、人は心の安住を得る。長い動揺をすれることができ、腹が据(す)わり、不安や懼(おそ)れから抜け出すことが出来る。この「安住の心」なしに、拳法修行は成り立たない。 武芸を学び、それを会得するのは、「生きていくにはどうしたらよいか」という建前論から解脱しなければならない。則(すなわ)ち、依って以て死ぬべきものを捕まえることが大事である。建前では、いつもぐらつくのである。また、建前論に趨(はし)ると、駆け引きばかりが旺盛になり、こうしては損になりはしないかとか、こうすれば得に繋がるのではないかというような、目先の勝負に振り回されて、全貌を見抜く大局が疎かになる。 こうなると、明日の利害を考え、近未来の算盤勘定(そろばんかんじょう)が旺盛になる。そして利害や打算に振り回されて、一寸の隙(すき)を作ってしまう。これこそ、墓穴の最たるものである。その上に、心の安住が得られない。心の安住を得ることが出来ない者に、どうして儀法の奥儀を積み上げていくことが出来るだろうか。 安定力がなければ、繰り出した当身は実に弱いものとなり、反対に打ち返される元凶を招いてしまうだろう。これは打算的に生きていこうとする損得勘定が、実は「生」を台無しにするのである。生きていこうとするからこうなるのであって、またその元凶には、「自分だけ」という卑しい心があるからだ。生きていこうとすれば、焦心を起こす為に、かえって自分自身を殺すことになるのである。つまり、それでは「生」を殺すことになってしまうのである。それが、また行き詰る原因となる。 相手に押され、押し詰められて、行き詰まりを見せるのは、「自分だけ」という抜け駆けの気持ちがあるからである。しかし、人間は、このように行き詰って、初めて自分の未熟さに気付くものである。 結局、強くなければという心の裡(うち)を換言すれば、「何と一緒に死ぬべきなのだろうか」ということを、見つけ出しさえすればよいのである。 普段の我武者羅(がむしゃら)な稽古は、自分の向上精神を、より活かし、それを整頓し、能率的に作り上げたとしても、単に練習メニューを厳守しているだけでは、本当に自分に効果的な伎倆(ぎりょう)を身に付けることはできない。また、ハードトレーニングだけでは、逆に肉体を壊す結果になり、本当に生きた稽古は出来ない。 つまり、「武の道によって生きていこう。栄えて行こう」では、本当の道が分からないということである。「道と一緒に死ぬのだ」という心に至って、初めて道の偉大さが分かり、道に準じる醍醐味が理解できるのである。 人は、道とともに滅びようとするとき、人間の心を初めてそこから生還させてくれる。心は明朗になる。そして懼(おそ)れるものは消滅する。動揺はなくなり、心の揺らぎは留まり、心は安住を得る。
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