■ 兜割術 ■
(かぶとわりじゅつ)
●眼を突くように敵を怯ませる
兜割りの尖端は尖(とが)っている。これは「眼を突く為」である。眼は人間の限らず、総(すべ)ての動物の急所である。眼を突くようの襲い、その怯んだ隙(すき)に、敵の頭上に一撃を叩きもむ。これが兜割術の極意である。
兜割術を用いる場合は、「兜割り」対「太刀」ということになる。兜割りの方が随分と短いので、長さの面からすれば不利なように思える。
ところが、兜割りで太刀を躱(かわ)すには、まず三つの方法がある。
その一つ目は、敵が打ちかかる太刀を入身(いりみ)で捕らえ、懐(ふところ)に入っていく時に、兜割りの術者は敵の右目を突くようにし、あるいは敵の太刀を右側に外して受け止めた後、敵の兜の頭上を叩き割る。
その二つ目は、「突き受け」を行う。「突き受け」というのは、敵が打ち込んでくる太刀を右側に外し、敵の右目または、首を挟んでおいて突きかけるように見せ掛け、受け止めた後に、敵の頭上の兜を叩き割る。
その三つ目は、敵が斬り込んで来て、それを入身で懐に飛び込み、同時に兜割りの柄部(つかぶ)で顔面攻撃を行う。顔面に攻撃をした後、その返す兜割りで、敵の頭上を叩き割る。あるいは敵の左手を握り、肘で顔面に一撃を食らわせる要領で、返す兜割りで頭上を叩き割る。
「入身」というのは懐に入る為に、見た目は「受動」に映る。しかし、懐に飛び込む事態は、受け的な受動でなく、急所を打つことにより、能動化するのである。
また、兜割術の「懸(か)かり」は、素早いものでなければならない。素早く懸かる事を旨とするのである。素早く懸かる上で、長物はそれだけ使うのに手間取る。手間取っている間に攻め込み、懸かるのである。素早く懸かっていけば、敵は矢をつがう暇もなく、また鉄砲を構える暇もない。更にや、槍や薙刀も、素早く攻め込まれれば、それに即座に対応は出来ないだろう。
また、兜割術で大事なことは、「踏みつけて勝つ」ということを旨とするのである。この「踏みつけて勝つ」というのは、何も足で踏みつけるばかりのことを言うのではない。足とは限らず、躰(からだ)でもよいし、心でも、また、兜割りでもよいのである。つまり、敵の出鼻を挫(くじ)き、即時に圧倒させることを言う。
それは飛び道具であっても、「懸かり」をもって、一気に攻め込むことである。それには、素早く懐に入り込み、入身を以て、敵の素性を叩き割る位置にまで迫るのである。
強固に構えた敵、強そうに見せかけた敵、あるいは正攻法において真っ向勝負を挑む敵は、見掛け上は確かに強い一面を持っているが、それだけに他では無理をしている。その「無理をしている箇所」を見抜くのである。戦力の合計は、陰陽における総力は互いに相殺しあうから、「プラス・マイナス・ゼロ」である。長じたところがあれば、その分たけ短くなった箇所が存在するのである。
人間の強さというものは、強弱が表裏一体の関係にある。強い一面が極度に顕れている場合は、「山高ければ谷深し」であるから、深い谷の箇所を探せば、反面、無理している弱点は幾らでも見つかるのである。
そして「無理している弱点」を見抜いたら、こうした敵に対しては「ひしぐ」という方法で攻め入るがよい。強さの反対が弱さであるから、この弱さを見抜いて、一気に押し潰すのである。この場合、「押しひしぐ」という捨身懸命(すてみけんめい)の心と、体当たりするという呼吸が大事である。捨てているのであるから、これ以上失うものはなく、これこそが一番強い体勢だと言える。
「押しひしぐ」という人間の行動律は、単に腕による腕力だけではない。これは丁度、拳銃に引き金を引くときの要領と酷似している。外国などで拳銃を試射した経験を持っている方ならご存知であろうが、最初に射撃を教わる場合、必ず教官から、「拳銃の引き金を引くのは指の力だけではない」と教えられたはずである。確かに引き金を引くには、指の力は必要であるが、それ以上に、自分の行動の目的が明確になっていなければならないと教える。それが適っていなければ、標的に命中させることは覚束(おぼつか)無い。
これは目的意識と行動が一致していることを表している。兜割術もこれと同じである。腕力だけでは、敵を討ち取ることは出来ないのである。自分の行動に命を賭(か)けられるか否かに懸かる。つまり、敵の懐に躊躇(ためら)わずに飛び込み、この行動に命を賭けられるかどうかだ。
入身を行うのであるから、わが行動は疑ってはならないだろう。喩(たと)え、それは斬り捨てられる結末であっても、それに後悔せず、わが行動を疑うことなく飛び込んで行かなければ、兜割りの術は敗れることになる。
したがって、入身には己の行動に命を賭けられるかどうかだ。また、その思いの強さが必要だろう。ゆめゆめ迷うことなく、自分自身を信じるか否かで、明暗が分かれてしまうのである。
武術に賭ける、「他力一乗」とは、そうしたものである。
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▲鎧武者の武装攻防術に使う武器。上・短刀槍穂先、中・鎧通し、下・鎧通し外装(クリックで拡大) |
兜割術は最後の「詰めの儀法」である。矢が尽き、太刀が折れて、白兵戦に至った時に、この術が必要となる。そして、最後の最後に勝ちを得る為には、兜割術の心得がなければならない。
武術で云う「物事を知る」とは、取りも直さず、弛(たゆ)み無い「人間研究」に他ならない。
人間研究が至らなければ、物事の道理を知ることは出来ない。
兵法の道を極めようとすれば、修行を積み、智力と気力を磨かなければならない。此処で云う智力とは、「智慧(ちえ)」のことであり、これは古人の教訓と、自身が体験した判断力と注意力である。その上で、一切の迷妄(めいもう)を拭(ぬぐ)い去っていなければならない。こうした状態に自己を高めておいて、はじめて「真の道」に到達することができる。
この道に到達しないうちは、悟りを得るということがなく、体力重視の格闘になってしまうであろう。つまり、「肉主霊従(にくしゅれいじゅう)」である。肉の世界から抜け出し、この次元を解脱(げだつ)して、精神の次元を高めていかなければならない。霊的向上を目指さなければならない。
日々の鍛錬とは、安易に肉体を酷使することではない。肉体の酷使は、怪我や故障の元凶になり、肉のトラブルだけは極力避けるべきである。今日の体力主義は、肉体の酷使の上に成り立っているので、肉体を酷使すれば、呼吸法から云っても、激しい酸欠状態に陥り、また心臓に大きな負担を掛けて、心臓肥大症になる懼(おそ)れがある。
人間の躰(からだ)というのは、酷使することではなく、「肉体の虐(いじ)め」から解脱して、躰をよく動かす」ことが大事である。スポーツ選手や格闘技選手の中には、自分の肉体を虐めるのが好きという人間がいるが、単に精神的幼児者の考え方である。酷使した躰は、必ず障害を起すからだ。若い時に顕れなくても、歳を取ればその報いは必ずやって来る。
躰は酷使するものではなく、「よく動かすもの」なのである。躰をよく動かすということは、歳をとっても肘や腕、脚や膝が軽やかに動くということであり、更には、重い武装を背負って、野山を縦横に駆け抜ける身軽さを保っていなければならない。戦国時代の武士達が、40キログラム以上の鎧兜を装着して、太刀や槍を持ち、野山を軽快に駆け抜けたあの力は、一般には体力だと思われがちだが、実は、これは体力などではなく、「体質」なのである。体質がいいから、軽快に駆けられるのである。したがって、体力と改質は根本的に異なり、「体質の良さ」というのは、肉体力が造るのではなく、食べ物が造っているという事なのだ。
その為に当時の武士達の食べ物は質素であり、少食で動ける「省エネ体質」をしていたと考えられる。また、省エネ体質の為、刀傷や槍傷も直ぐに治ったと謂われている。この事は、当時、日本に布教のために来ていたポルトガルのイエズス会の宣教師・フロイスの執筆『日本史』に克明に記されている。つまり、当時の武士達は体質が非常によく、また重い装備を装着して野山を縦横に駆ける軽快さを持っていたと思われる。
わが流が、偏(ひとえ)に山稽古を奨励するのは「足腰の鍛錬」であり、腰痛の愚を冒すことなく、足腰が充分に稼動するということである。足腰を鍛えるには、平面な平地を幾ら歩いても、その鍛錬にはならない。むしろ、三次元的な高低差のある山地を歩く事である。
兵法を志す者は、単に術理における剣儀や体儀を磨くだけでなく、広汎(こうはん)な智慧と深い教養を磨かねばならないのである。更には、兜割術が、単に、敵の頭上に兜割りの一撃を加えて討ち取るという殺人の技術の域から解脱して、兵法者としての踏まなければならない道、あるいは人間として踏まなければならない道に到達しなければ、この「人間道」の修行は、一切無に帰してしまうのである。
兵法は実践的な精神の求道(ぐどう)に生まれた術理であるが、その究極は、「武士道の理念」に到達することであろう。武士道の理念に深く迫れば、一般人が普通持ち合わせている「欲心」は、次第に薄らいでいくものである。年とともに薄らぎ、物欲から離れ、俗人では至難(しなん)の業(わざ)とされる物欲や色欲、金銭欲や名誉欲などからは解放されていくものである。
本来兵法の非常なところは、自分と対峙(たいじ)した相手を一刀の下に斬り捨てることである。それは敵に悲惨な最期を遂げさせるという非情なものであり、それ故に、下す判断は慎重なものにならざるを得ない。願わくばこうした術は、一生涯遣わず、自分の懐の中で「玉(ぎょく)」として暖める「切り札」としたいものである。
また、現代の世では、非情な殺人というのは赦(ゆる)されるべきものでないであろう。したがって、わが流では武儀の術理を、人を活かす「人生の課題」に掲げているのである。人を殺すものではなく、人を活かすものにしたいと考えるのが、わが流の理念である。
人を活かすことを極限にまで追求・求道していけば、結局、人間の争いの元を作る「慢心」や「我執」は排除しなければならないということが分かるであろう。
慢心や我執があっては、「蝸牛(かくぎゅう)の世界の争い」になってしまう。小さな弱い者同士が、角を突き合わせて争うようなものである。所詮(しょせん)蝸牛の世界の角の突合せに勝ったところで、高が知れているのである。小さな蝸牛の世界の勝者になったところで、これを英雄視しても高が知れているではないか。
一般人は、これを英雄と崇(あが)めるであろうが、この英雄すら、墜落する飛行機の中では如何ともし難いのである。墜落する飛行機に同乗すれば、英雄といえども死ぬ運命からは免れない。則(すなわ)ち、蝸牛の世界では、人間とは、高々この程度の生き物なのである。
むしろ、真摯(しんし)に武儀の術を極めんとするならば、こうした運命の陰陽からも逃れられるだけの境地に達するべきであろう。未来予知の勘も、一つの大きな防禦力となる。
そうすれば、墜落する飛行機からは、運命の方が寄せ付けないであろうし、また、それを事前に察知して、安全か危険か、そうした究極の判断も可能になろう。兵法とは此処まで探求して、やっと、ささやかな完成を見るのである。
則ち兵法とは、敵を殺傷する技術から入って、まず、「必至三昧(ひっしざんまい)」を修行し、生死を明らかにして、その後に、独立自在の境地を得ることなのである。
敵の施すところをなからしめ、これにより「勝機の気」を得て、生々発展する健康で長生きできる「大正の気」を得、ついには天地同体の「悟りの境地」を目指すものである。この境地を古人は、「神人合一」と称したのである。
しかし、この境地は、一朝一夕にはなるものではない。長い歳月を必要とする。また、これに関わってくるものは、肉体的強化や体力の養成ではない。況して、パワーやスピードなどでもない。必至三昧の死生観を超越することであろう。
兜割術は、鎧武者を討ち取る技術である。完全武装した鎧武者を討ち取る為には、単に技術的な肉体力を駆使しても、容易に討ち取れるものではない。何故ならば、太刀や槍を持つ武者を兜割り一振りをもって討ち取るのであるから、そこには敵を飲む度量が必要になる。あるいは胆力が必要になる。そして、最終的に「懐に入り込む」という伎倆(ぎりょう)がなければ、この術は難しいのである。
つまり、心の度し方であり、武術は「この一点」に回帰されるのである。技術があっても、「この一点」が欠けていれば、兜割りは実戦不可能な「型武術」となってしまうのである。
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