■ 白扇術 ■
(はくせんじゅつ)
●白扇操法・「風に乗る」という大事
西郷派白扇術の白扇操法に「銀杏(いちょう)廻し」なる妙儀がある。この儀法は、手頸(てくび)部分の手根骨(しゅこんこつ)の甲(こう)を左右に自在に回転させながら、廻す方法である。
この「廻し」は、白扇の100gの重さに逆らうことなく、その重みのままに、重力に従い甲を回転させながら廻す方法である。
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▲1.白扇を水平の位置に保つ。そして「風に乗る」イメージを作り上げ、心を穏やかにする。
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▲2.手頸を廻しながら、白扇の右端を上部に上げ、 |
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▲3.「横8の字」を切るように左へと導き、風を横に、水平に切るように扇を横一文字に動かし、
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▲4.更に導いたものを一旦立てて、切り返す場合の手頸に滑らかな動きを重視しつつ、 |
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▲5.手頸を返しつつ、甲を滑らかに回転させて、 |
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▲6.再び許(もと)の水平の位置に戻る。そして、許の位置に戻ったならば、これを数回切り返しつつ繰り返し、「風に乗せる感覚」を掴む。 |
銀杏廻しの術は白扇術の妙儀(みょうぎ)であり、手頸の手根骨の8個の骨(【註】舟状骨、月状骨、三角骨、豆状骨、有鈎骨、有頭骨、小菱形骨、大菱形骨)を滑らかに動かす動作が基本となる。
また、白扇の要(かなめ)部分を握る際は、やや中央部の要より左側を取る。この場合、手頸(てくび)を回転させながら、滑らかに動かすことが肝心である。その際の動かし方は、風を横に切るようにして、扇を「横一文字」に切っていき、扇の浮力を利用して素早く水平に切っていく。つまり、これを白扇術では「風に乗せる」という。
ここに「風に乗る大事」が在(あ)る。
この水平に切っていく操法は、敵対する相手の眼に向けて切るのが本来の目的であり、扇の先端部分で、相手の眼を横一文字に掻(か)き切ることが白扇操法の主目的である。
人間は、眼に向けられて何らかの物体が接近した場合、それを防禦(ぼうぎょ)しようとする働きが起こる。まず、五体健康な人ならば、一旦接近物を躱(か)わす為に、「後ろに仰(の)け反る動作」をするはずである。
眼に軽い埃(ほこり)が入っても痛いのであるから、況(ま)して白扇の先端部分が眼に接触すれば、その激痛は並大抵のものではない。その為に「仰け反る」という動作を反射的に起す。この仰け反る瞬間に、ほんの一瞬に、体勢が崩れる刹那(せつな)が顕れる。この刹那を狙って、一気に「崩し」にかかるのである。
以上述べた操法は、単に小手先の技に捉(とら)われることなく、総ては心より発する法に則って行わなければならない。
白扇の操法を行う時に、うまく遣ってやろうとか、技術面ばかりに捉われて、演武などで観客が見ているから上手に見せようなどと思ってはならない。総て、心の発するままに、在(あ)りのまま、等身大の心法の成果を表出すればよいのである。
愚かな人間、修行の浅い人間、自分は高次元・高域に達したと自惚れている人間は往々にして、演武会などで観客受けを狙うものである。しかし、こうした心で掛かることは、そのこと事態が心の病気であり、こうした愚者に属する病は取り除いておかねばならない。つまり、迷いや見せ掛けの優を捨て去った「虚空(こくう)の心」で修行する必要があるのである。
世の中には、雑誌や映画、ラジオやテレビなどのマスコミに取り上げられたことで有頂天に舞い上がり、それで自分はその道の権威であると自惚れる武道愛好者が少なくない。そして得意がり、一端(いっぱし)の御託(ごたく)を並べ、第一人者のような顔をする者が、武道界には実に多い。
ところが、こうした手合いは未(いま)だに未完成であり、口先では秘伝などと称してパフォーマンスを演じて得意がっているが、所詮(しょせん)人間の遣(や)ることである。至る所に穴が開き、隙(すき)だらけである。
物事は、「在(あ)る」ところを充分に知ることが大事である。在るところに、在ることを知り、それ故に初めて「空(くう)」も知ることが出来るのである。つまり、「空」とは、虚空(こくう)のことである。
虚空の存在に気付けば、わが身を省みて有頂天には舞い上がる暇もなく、ただただ未熟を感ずるのみというのが本来の修行者の在(あ)るべき態度であり、迷いを去った「空の心」に到達する為に模索し、探求し、求道しなければならないのである。その意味からすれば、大会や演武会などでのパフォーマンスも一種の心の病気であろう。
この、「心の病気」を超越して、「道」は永遠に無限に広がっているのである。
総ては、「虚空」からなっている。したがって、修養を重ね、知力と気力を磨き、金や物や色に溺れることなく、判断力と注意力を養わねばならない。特に人生の折り返し点の五十路(いそじ)の境を越えた者は、一切の迷いを拭い去らねばならないであろう。
その拭い去った後に、「道」は初めて見えてくる。
この真の道を自覚できぬ間は、芸道の道においても、世間の道理においても、人にちやほやされた生き方をしていては、必ずや「正しい本道」から外れてしまうものである。
人間は、自惚れや傲慢を拭い去り、品格と人格を磨き、人間として最大限の修養を積むとき、初めて人智には及ばない「空の境地」が見えてくるのである。
兵法を志す者は、単に武技を磨くだけでなく、広汎(こうはん)な智慧(ちえ)と、深い教養を身に着けねばならない。また、観察眼を最大限に発揮して、物事をよく観察することである。この観察するという行為の中で、単に主観的なマニアックな考え方でこれを凝視するのでなく、在(あ)りのままの姿を在りのままに心に映すことである。
●白扇捕り・その術の一例
白扇術には様々な儀法があり、軽き物で大きな効果を導き出す為に、敵の崩れを利用して、そこを刹那に攻め込むことを第一義とする。また、軽き物で大きな効果を出す為には、術者と敵との拍子の使い方が大事である。
例えば、敵の一拍子に斬り付けた剣や、掴み取りなどの攻撃に対し、単に一拍子を一拍子で返しても、これにより大きな効果は得られない。大きな効果を得、敵に大きな影響を与えるには、例えば一拍子の場合は、「二拍子」で反撃するという「敵へのたじろがし」が大事である。
ここで言う「敵へのたじろがし」というのは、敵の弱みに付け込み、そこを一気に攻めるということである。
例えば、片手封じの場合、敵の全神経と全集中は、その大半が自分の握った、片手の握りに集中するはずである。そしてこの場合、それ以外の箇所は隙(すき)だらけであり、特に弱点箇所は「眼」である。
剣術における、「敵に当たらない太刀」あるいは「掠(かす)ってしまった太刀」は、「死太刀(しにだち)」というが、それは間合によって起ることであり、間合が詰まった「封じ手」の場合、死太刀になるのは殆ど少ない。これは接近戦であり、漆膠(しっこう)状態にあるからだ。
漆膠に誘い込めば、粘着状態に陥りやすく、眼への攻撃を欠ければ、敵はこれにより「たじろぎ」、遂には弱点を自ら曝(さら)け出すことになる。
これは「軽い物を重く遣う場合の極意」である。
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▲1.白扇を握った術者の手を、敵が「片手封じ」で握りこむ。 |
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▲2.術者は白扇の「一枚扉」を開き、(【註】最初の「一枚扉を刹那に開けるか否か」が、その後の術の展開の上で大きな役割をする。肝心なのは最初の一襞(ひとひだ)を開き切ることである) |
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▲3.瞬時に白扇を全開にする。(【註】白扇全開は、手頸のスナップの強さにかかわり、一気に全開できるか否かが、白扇を「風に乗せる」ことが出来るかに関わってくる) |
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▲4.術者は白扇を外側に返し、 |
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▲5.手頸(てくび)を返して、切りつつ、 |
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▲6.銀杏廻しで手頸に甲を回転させ、 |
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▲7.更に銀杏廻しを展開しつつ、 |
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▲8.一気に眼に攻め込む。 |
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▲9.敵は眼を襲った白扇に対し、防禦(ぼうぎょ)体勢をとるので、仰(の)け反る動作をするが、この刹那(せつな)に一気に白扇の外輪縁(がいりんぶち)の尖端(せんたん)を眼に突き出し、「腰砕け」の状態に誘い込む。「腰砕け」の刹那こそ、「崩れる瞬間の一コマ」なのである。 |
兵法の極意、あるいは有効な護身術というのは、まず、「眼を襲う」ことである。
術者は白扇で眼を襲うことにより、白扇術の「術」は生きてくる。その為には、封じ手を遣(つか)われた場合、手頸の甲で、敵の握る手を絡め捕るというのが大事である。
この絡め捕る場合、敵の手頸の回りを最短距離を通りつつ、螺旋状(らせんじょう)に纏(まつ)わり着くというのが大事であり、敵の手頸からその接点を一時(いっとき)も外してはならない。
外輪縁(がいりんぶち)で敵の眼を突くように絡め捕って行くには、白扇を滑らかに動かす銀杏廻しの動作に熟練しておく必要があり、全開した白扇の外輪縁の尖端(せんたん)は、繰り返し眼を襲うように仕向ける。
人間の行動原理は、その第一が眼への防禦に集約される。守る箇所は眼を第一とする。その為にこの防禦体勢に入った場合、眼こそ最も弱い急所になるのである。
受ける動作は本来、受動的なものであるが、受身は一種の反撃でもあり、急所を襲うことで、能動化するのである。要するに、敵の急所を襲うことが実は最大の防禦(ぼうぎょ)となり、この原則に基づけば、動物は総て眼を急所にしている生き物なのである。そして、白扇術で言う「軽い物を重く遣う」という極意の中には、「眼を襲う」という「術」が隠されているのである。
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