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誇りの裏付けとなる数々の技法
山頂で行う呼吸法は、清く澄んだ綺麗な空気の中で行う、「気の流し方を意識する仙人呼吸」である。自身が山頂で仙人になった感覚で、下界を見下ろしつつ、行う呼吸である。そして、臍下三寸にある「丹田」を鍛え、肚(はら)を据える境地を会得するのである。

西郷派大東流の呼吸法概論
(さいごうはだいとうりゅうのこきゅうほうがいろん)

●絶対禁煙

 呼吸法を修行するのに一番大事なことは、まず「禁煙を徹底」しなければならないことである。呼吸法を修行する場合、基本になるのは「呼吸の吐納」であり、この吐納の順は、人間が生まれてから、生涯を終えるまでが、人生の基本になる。

 したがって、人間の生まれる瞬間は、母親の胎内から出るということは、これまで胎児がしていた胎息が、現世に生れ落ちることで、調息呼吸に変わるということである。
 この瞬間に、生まれ出た胎児は、胎息から一気に調息呼吸に切り替えねばならず、この呼吸の最初は、産声である、吐く息の「おぎゃー」という泣き声であり、これは紛(まぎ)れもなく、「阿吽(あうん)の呼吸」の、「阿」であり、この「阿」をもって、三焦(さんしょう)に命を燃やし、乳児として、また社会に一員として生きていくということになる。また、その瞬間に、これまで母親の胎内で行っていた、胎息という特殊な呼吸法を一切忘れてしまい、現世の一員として仲間入りをするのである。

 呼吸法を行うに当たり、わが流は絶対禁煙を説き、タバコは本来人間の吸うものではないと思っている。大東流や合気道の著名な指導者層にあって、喫煙をする人がいるが、この人は既に修行法を間違っており、禁煙一つできずに指導者面しているのであるから、笑止千万である。

 喫煙の呼吸法は、吸い付きから始まっており、これはもともと、臨終間際の、息を引き取るときの呼吸法である。
 「阿吽の呼吸」で言えば、息を引き取る「吽」であり、「吽」は生涯を終える最後の瞬間の「ひと呼吸」である。つまり喫煙者は、行きながらにして、自分で「息を引き取るときの呼吸をしている」ことに全く気付かないのである。

 更に、禁煙を絶対徹底させねばならない理由は、タバコに含まれるニコチンが、非常に毒性が強く、ニコチンの毒は心臓を傷めるからである。特に高血圧症の人などは、動脈硬化を併発させているだけではなく、心臓を極端に傷め、身体の各部位の毛細血管まで血液を送ることが出来ず、毛細血管の先端では目詰まりを起こし、また、壊死(えし)状態になっている。
 この元凶の背景には、物理的、化学的ストレッサー(刺戟)があるようだ。例えば、暑さや寒さ、臭いや痛みに加えて、アルコールやニコチンもその類(たぐい)であるからだ。これらは血管を目詰まりさせる要素であるからだ。脳梗塞は高血圧の人には要注意だ。

 この血管の目詰まり状態が脳梗塞や脳血栓であり、この病気で過去に一回でも斃(たお)れた経験のある人は、呼吸法をする「下地である基本呼吸」が出来ていないので、もし呼吸法を実践する場合は、禁酒・禁煙を徹底した上で、慎重にこの修行を始めなければならない。そして、忘れてはならないことは、一度でも脳の病気になれば、運良く死は免れても、その後の余生の「生活の質」は、これまでと違って、著しく低下させねばならないことである。ある意味で、脳の病気は、ガンよりも恐ろしい病気といえるだろう。

 飽食の時代、美食の追求と倶(とも)に、人間関係から起る外レスに絡み、脳梗塞予備軍という人は、3人に2人ともいえる衝撃的なデータが出ている。三大成人病の一つは、脳卒中で、その中には蜘蛛膜下出血(脳動静脈畸形と脳動脈瘤)、脳梗塞(脳血栓と脳塞栓)、脳出血が含まれていて、これを総称して脳卒中という。

 頭の病気には、血管障害による、腫瘍、外傷、髄膜炎の炎症、パーキンソン氏病、小脳変性症、癲癇(てんかん)、痴呆症で特にアルツハイマー型痴呆症などがある。そしてこれらに絡むものは、美食、タバコ、アルコールであり、特にタバコは内装や消化器に炎症を起こしている場合は、脳に転移して脳腫瘍【註】脳そのものから発生する神経膠腫と、脳を覆っている髄膜から発生する髄膜腫、脳下垂体腫瘍、また脳神経から出る神経鞘腫などがあり、これらは良性の腫瘍といわれ、反対に脳からの神経膠腫は悪性腫瘍であり、「脳のガン」とも言われる。これらは初歩の状態は血管障害から始まり、やがて脳に及ぶといわれる)になることが、脳神経外科医らのレポートで報告されている。

 脳神経外科医らのレポートによると、脳卒中には遺伝因子と環境因子があるという。環境因子の中には、美食による肥満、ストレス、タバコのニコチンの毒、アルコールの中毒性、運動不足、冷え性からの寒暖の差の切替不能などであり、脳卒中の危険性を高めているのは高血圧症と動脈硬化症であるという。

 また、タバコのニコチンの毒は、体内に残留して、殆ど排泄されることがなく、禁煙して2年や3年では、決してその毒が抜けるというものではない。喫煙者の体内には、ニコチンの残留物質が、抜けきれずに、いつまでも蓄積しているのである。

 さて、ここでタバコはニコチンの毒が常習性があるというばかりでなく、実にニコチンの毒が、心臓発作などを起こす元凶であることを述べよう。
 これは筆者が満洲引揚者から聞いた話であるが、一時満洲にいた日本人開拓民や商売などで、満洲に渡った人が、日本の敗戦で日本に引き揚げてくる際、彼等の多くは、首から小さな瓶(びん)を紐で縛って、それを首に架けていたいたという。その小さな瓶の中には、一昼夜ほど煮詰めて凝縮されたタバコから採取したニコチンが入っていたという。この小瓶を誰もが紐に吊るし、首から架けていたというのである。

 昭和20年8月9日、ソ連軍(バイカル方面軍並びに外蒙騎兵軍団は吉拉林から、第二極東方面軍は鴎浦と金山鎮、黒河、鳥雲から、第一極東方面軍は虎頭から侵入した)は、これまでの日本との不可侵条約を破棄して、満洲国に雪崩れ込んだ。それを知った関東軍司令部は、邦人を置き去りにしたまま、我先にと、敗走を始めたのである。各地の飛行場では敗走する高級将校で溢れたという。この突然のソ連軍侵入と、関東軍敗走は、満蒙開拓民の彼等にとっては「寝耳に水」だった。
 満蒙開拓民の彼等は、「大日本帝国の“国策” と呼ばれた至上命令」を信じて、満蒙の各地に渡った人達であったからだ。

 この当時、満洲(現在の中国東北部)に渡った満蒙開拓民のうち、8万人が日本の敗戦の混乱により無慙(むざん)な死を遂げた。昭和20年の当初頃、日本人開拓民は27万人に及んでいたが、この時、無慙な死を遂げた人が8万人であるから、開拓民総数の「3.3人に対し1人」が死んだことになる。

 第二次世界大戦当時、最高の死亡率を記録した、ポーランドでは、「5人に1人」という惨状であったが、満洲ではそれを上回る死亡率であった。

 昭和20年8月9日のソ連軍の突然の侵攻作戦は、全満洲の日本人開拓民の大きな混乱と動揺を与え、更に関東軍が邦人の生命と財産を守ることなく、我先に逃げたことは、開拓民の彼等に大きな衝撃を与えた。

 関東軍の敗走は、布陣する全軍を全満洲から、朝鮮防衛の作戦に切り替えたという名目であったが、これは明らかに詭弁(きべん)であった。要するに、関東軍司令部の高級将校らの、敗走する名目に使われただけであった。
 一口に「全満洲からの撤退」といえば聞こえがいいが、要するに司令部付きの高級将校らの敗走する大義名分を、朝鮮防衛に切り替えただけだった。そして、その実情は、「われ先の高級将校らの敗走」だった。

 全満洲からの脱出は満蒙開拓民達にも、自力で脱出する状態が課せられた。開拓民達は完全に見捨てられたのである。こうなる以前に、善後策の講じ方は幾らでもあったのであるが、関東軍司令部の考え方は、全満洲の日本人開拓民が、いま大量移動すると、「ソ連軍を刺激する」という懼(おそ)れから、「軍規に遵(したが)い、対ソ静謐(せいひつ)保持の為」という理由をつけて、戦略的に開拓民を見捨てたのであるが、実質上は、司令部の高級将校らが、わが命を惜しむ余りの敗走する口実に過ぎなかった。
 そして、この瞬間に、日本人開拓民の大悲劇が始まるのである。

 ソ連軍が満洲の防衛国境を突破して、満洲に雪崩れ込むと、関東軍もこれに応戦せず、開拓民を捨てて敗走を始める。残された開拓民は、自力で脱出するしかなかった。開拓民の多くは、満洲国から日本への脱出先である大連へと向かうことになる。それぞれの開拓村を脱出し、大連(ダイレン)に向けて脱出行を図るのであるが、ソ連兵の包囲され、いよいよのときに、婦女子は拉致されて強姦される懼(おそ)れがあり、いざというときは自決用に、タバコから採集したニコチンを用意するようにとの通達が出された。タバコを一昼夜に詰めて凝縮すると、そこには黒褐色の、とろりとした液体が採取できるのである。これこそが、タバコから採取されたニコチンの猛毒である。

満蒙の地から引き揚げる満蒙開拓団の村民達。

 ニコチンは、タバコの毒である為、これを煮詰めて凝縮させれば、毒性の強い致死量に相当する猛毒となるという。彼等は身近にある毒物としては、タバコから採集したニコチン以外にはなかった。開拓団の団長は、開拓村民に対し、最後の最後で、自分の身辺に危害が及ぼうとするとき、婦女子に対し、自決用の毒薬の作り方を教授した。

 当時の指導法は、市販されているタバコを買ってきて、20本分のタバコの外紙を剥(は)がし、水から煮詰めるのである。これをトロ火でコツコツと、一昼夜煮詰め、それでニコチンの猛毒が凝縮できるという。

 このようにしてタバコを煮詰め、一昼夜煮込んで凝縮させた凝縮させたタバコのニコチンには、猛毒性があるというものだった。こうした作り出したニコチンの毒性溶液を小さな小瓶に集めて、小瓶の口にコルク栓をして、この瓶を紐に繋ぎ、これを首から架け、万一の場合、ソ連兵が押し入ってきたときは、この小瓶の毒を飲んで自決すると言うものであった。

 実際にニコチンから採取した毒が如何ほどの毒性をもって致死量に相当するか定かでないが、戦後もこのニコチンの毒がかなりの有害性をもって、人命を殺傷することが可能であると証明されている。

 例えば、高血圧症や動脈疾患があり、何らかの形で心臓障害を起している人の胸部に、煮詰めたタバコから採取したニコチンは、その患者の胸部の皮膚に塗布すると、心臓麻痺などの障害を起して死亡するというデータが出ている。この心臓麻痺を起こす致死量は、タバコ5本分を一昼夜煮詰め、これをもって胸部の皮膚に塗布すると、人が殺せるというのである。

 また、こうした情報は当時満洲に悪名高い731部隊という、石井四郎軍医中将の細菌部隊【註】隊員は東大・京大医学部出身者ら、約2600名で構成され、捕虜になった反日中国人、反日朝鮮人、モンゴル人で大半はロシア人ら、約3000人以上が「丸太」として人体実験をされた。人体実験内容はペスト菌が発病したから死亡するまでの記録や実験、凍傷実験、梅毒実験、火災放射能実験、空気静脈注入実験など。日本の敗戦後、実験記録の一切はアメリカか押収。この実験に携わった石井四郎軍医中将らは戦後、連合軍から一切を罰されていない)が存在していて、「丸太」という人達を使って、人体実験をしており、こうした実験データが満洲開拓民の団長クラスに情報が流されていたのであろう。

 また、中国大陸侵略で細菌戦を目論む当時の日本陸軍は、731部隊という細菌部隊を使って、大量殺戮の方法を研究したことで知られ、ニコチンの毒性についても、当然研究課題であった。その研究成果から導き出したのが、最後の最後に首から吊るしたニコチンの毒を服用して、自決を遂げるとか、あるいは敵の隙(すき)を窺(うかが)い、敵兵の胸に塗布することで、心臓麻痺に至らしめるということであったらしい。

 要するに、タバコの持つニコチンの毒性は、既にこの頃から知られたことであり、このニコチンが喫煙者に常習性を持たせ、ニコチンの毒は猛毒の一種であると判断されていたのである。
 則(すなわ)ち、タバコに含まれるニコチンには、人間の心臓を停止させる強い毒性があるということである。
 この毒性が有効的に働くのは、皮膚から吸収されたニコチンは、皮膚の内部に浸透し、血液の中に溶け込み、心臓機能に重大な障害を与えるのである。

 つまり、今日でもタバコ喫煙者は、こうした毒の危険に常に曝(さら)されており、何らかの形で、高血圧を初めとする合併症を併発しており、呼吸法を行うには不向きの体質をしているということである。

 一般に、ニコチンが胸部に塗布し、万一、心臓発作で死亡した場合、どうなるだろうか。
 医師の発行する死亡診断書には、心臓発作と記され、「自然死」として処理されるのである。タバコのニコチンの毒だけで人間が死ぬという現実は、実に怕(こわ)いものであり、タバコを喫煙する現代人は、この恐ろしさに全く気付いていないのである。
 胸部に付着して、心臓発作で死ぬまでの時間が20分程度というから、実(げ)に恐ろしき、ニコチンの毒性というべきであろう。

 

●中庸体質を造る呼吸法の「妙」

 東洋医学の養生訓には、「中庸(ちゅうよう)が繰り返し説かれている。その要旨は、「人間の用いる感情の度合いが内臓を左右している」と説いているのである。感情は内臓を左右するので、要注意としているのである。
 要するに「過ぎたるは及ばざるが如し」あるいは「覆水(ふくすい)盆に返らず」という俚諺(りげん)が適切かも知れない。

 養生訓に説かれている要旨は、次の通りである。
 くよくよすれば胃が悪くなる。何事かに懼(おそ)れたり不安を抱くと、腎臓が悪くなる。悲しむと肺を傷(いた)める。喜び過ぎたり、笑い過ぎると、心臓を傷める。テレビの白痴番組が横行する時代、馬鹿なお笑い番組や、喜劇コントに笑い過ぎて馬鹿笑いしても、確実に心臓は弱るのである。「笑う廉(かど)には福来る」というが、馬鹿笑いのような状態では、折角近くまでやってきた福すら逃げ出すであろう。

 怒り過ぎると、肝臓を損傷する。寔(まこと)に言い当てた言葉であり、高血圧患者はこれを肝(きも)に銘ずるべきであろう。自分が損(そこ)なっているのは何も、血圧が高いことばかりでなく、肝臓までもが蝕まれているのである。

 胃が弱ると、甘いものが欲しくなる。甘党の人は、糖尿病を患(わずら)う前に、胃に危険信号が出ているのである。つまり、甘いものは胃が欲しがる甘味で、胃を助けているのであるが、摂り過ぎると胃を壊すから要注意であり、胃ガンも糖尿病も、これが出発点となる。アル中患者で、日本酒が好きで、手に中風ちゅうぶう/半身不随または腕や脚の麻痺などで、脳や脊髄の出血、炎症、軟化など。一般には脳軟化症などで知られる)という震(ふる)えが顕れている人は、脳軟化症などの器質的変質ばかりではなく、胃ガンや糖尿病も、かなり進んでいるといわねばならない。

 腎臓が悪くなると、塩気の物が欲しくなる。則(すなわ)ち、塩気の物は腎臓を助けるわけである。ところが度が過ぎて、摂り過ぎると腎臓を破壊していく。その末路は、腎臓の機能不全であり、尿毒症などを起こして、人工透析でお馴染だろう。

 肺が弱ると、辛いものが欲しくなる。辛いものは肺を助けるわけである。しかし、過ぎたるは及ばざるが如しで、摂り過ぎると肺を損傷するのである。唐辛子は、カロリー発散にいいなどと称して、キムチなどの辛いものを食べる痩身マニアがいるが、これは痩身に役立たないばかりか、知らず知らずのうちに、肺臓を傷め、最後は肺炎などを起こして、人生を終わる暗示がある。

 また、悲しむと肺を病むとあり、悲しみは肺病の代名詞と昔から相場が決まっているようだ。かつて肺病が大流行した頃、この病気に罹った人は、青白い表情をした人が多かった。そして、何よりも、その貌(かお)は悲しみで溢れ、ひ弱で、華奢(きゃしゃ)で、手を差し伸べねば斃(たお)れそうな人たちであった。

 竹久夢二の女性を描いた作品には、この手の肺病を暗示するような女性が描かれていて、これを大正ロマンなどということで賛美の対象になっているが、結局、その裡側(うちがわ)には、肺を病んだような女性像が描かれているような気がしてならない。女遍歴の中で、夢二が観(み)たものは、単に女性の憂愁だけの止まらず、その裡側に潜む病魔を覗いていたのではななかったのか。そして、女性が華奢なのは、肺病を患っている為だろう。
 そこに観たものは、健康的というよりも、病魔に取り憑(つ)かれた憂愁ではなかったのか。

竹久夢二の「冬の夜の伝説」

 肺を病んでいる人は、貌(かお)が青白いのだが、一方赤ら顔の人は心臓を病んだ人である。
 それは心臓が弱ると苦いものが欲しくなり、苦いものは心臓を助けるけれども、苦いものを摂り過ぎると心臓がやられてしまう。

 肝臓が弱ると、酸っぱいものが欲しくなる。怒る人、ならびに何事にも直ぐ立腹する人は、肝臓という自分の限られた場所を使っている為、つい使いすぎて、トラブルを起こし、そのトラブルによって憤慨し、あるいは激怒し、相手の非を指摘して、自分に非(ひ)なきが如く主張し、ついに肝臓を傷めてしまうのである。

 ここに述べた、心身の因果応報(いんが‐おうほう)こそ、実は高血圧症や糖尿病やガン発症などを招く元凶だったのである。そして、その多くは心因性のストレスが絡んでいることも少なくない。

 東洋医学は病気そのもの、あるいは病気の部分のみを凝視してそれを診断する医学思想ではない。病気よりも、病気に罹(かか)った人の体質を診(み)る特異な医学思想であり、心のバランスや、左右・陰陽の、どちらに偏っているかの心身のバランスを診るのである。つまり、ここには心身のバランスが浮き彫りにされ、弱っている箇所が指摘されるのである。
 こうした「養生訓」を知っているのと、知らずに見逃すのとは、日々の体調を管理する上で、雲泥の差が出ることは明白であろう。

 呼吸法は、体質を中庸(ちゅうよう)に近づける行法である。右にも左にも偏らず、また陰にも陽にも偏らない、中庸に位置する呼吸の吐納を訓練する「術」であり、その吐納は、吐気も吸気も、何(いず)れも同じであり、その目的は「陽気」を発生させる為である。

 

●陽気の発生

 陽気を発生させる方法には「武息(ぶそく)」という呼吸法があり、これは下腹である丹田に意識を集め、「吐く」「止める」「吸う」の3つの動作を繰り返し、丹田部の気海に陽気を発生させる術である。
 これは空気中にある「気」を、下腹に入れる呼吸法で、陽気が発生すると丹田力が目覚めるのである。

 陽気の発生は、また熱の発生でもあり、この熱源は下腹の運動を継続させる為の、無理のない持続力である。陽気の発生は不思議な力が出現したというよりは、下腹運動により熱エネルギーが発生したという方が適切であり、この陽気は、丹田部から直接男根に送り込むことも出来るし、会陰(えいん)を経由して尾閭(びろう)に送り、更にそこから命門(めいもん)に至って脊柱を登らせ、夾脊(きょうせき)に入り温養することも出来る。あるいは更に玉枕(ぎょくちん)まで引き上げ、ここで温養することも出来る。

 さて武息による陽気の発生は次の通りである。

吐 気
調息の吐気と同じ方法で、まず吐ききる。但し、この場合は口から吐くのでなく、鼻から吐くのである。下腹をへこまし、肛門を弛(ゆる)め、上肢を直立に起こした上で、息を静かに吐いていく。この際に吐き方は、一息一息区切るようにはいていく。さらに肛門を少しずつ弛め、下腹を膨らませつつ、呼吸の回数(例えば、1、2、3、4、……10と数えながら)に合わせていくこと。
停 気
吐気を目一杯吐ききった後、調息のように直ぐには吸気を行わず、そのまま暫く止めておく。この時、下腹は膨らみ、肛門を弛め、上肢・上半身はやや前のめりにして、意識下を下腹に集中する。下腹を踏ん張るような状態にしておいて、吸わない状態を数えていく(吐気と同じく、1、2、3、4、……10と数えながら)のである。
吸 気
回数を数え終わったら、次に吸気に入る。意識は下腹に降りていくようなイメージを抱く。この時、下腹を膨らませ、肛門を締め上げ、停気と同じように数えていく。切れ切れに息を吸い、吸い込む音がしても構わない。そして、陽気の発生をイメージする。

 この武息を行うと、呼吸回数が少なくなっても、下腹に力が溢れ、全身に力が漲(みなぎ)るのが知覚できる。
 高血圧症の人は、血圧が安定し、低血圧症の人も、低血圧から起こるふらつきがなくなる。元気が出ていることが知覚できるのである。

 武息は、調息呼吸によく似ているが、息を止めて「停気」を行うというのが武息の特徴で、気を流動させ、気海の一箇所に蓄えることで「陽気」が発生するのである。

 さて、停気のときであるが、「気」が此処にあるときは、二つの行法を行う。その一つは「内視法」である、もう一つは「返聴法」である。この行法は非常に大事な行法であり、意識の集中法である。

内視法
この行法は、武息を行う際の停気の時にやる行法で、目を軽くつぶったまま、臍や下丹田を凝視すつ法である。この場合、衣服を通した皮膚の表面であっても、腹の奥の中ほどであっても構わない。まず、そうしたところに意識を傾け、そこを覗こうとするイメージ力が必要である。そして、単に睨(にら)んで凝視するのではなく、暗がりの中で、何かを見つけようとする、探し物をする感じの裡側を視る見方である。頭はやや垂れ気味でも構わないが、背筋はしっかりと伸ばし、息を吐く時に、頭は戻すようにする。
返聴法
この行法は、わが耳で丹田から発する音を聴く法である。音は勿論聞こえないのであるが、それを更に何かの物音を聞くようなイメージ力を旺盛にさせる。何かを見つけ出して、聞こうとする努力が大事で、必ず何かが聞こえるはずだという、強い意識をもって聞くことが大事である。

 武息を行う際、まず大事なのはイメージ力であり、その力は停気の時に発揮されるものでなければならない。
 内視法も、返聴法も、何れかの一方だけに重点を置くのではなく、両方を併用して、停気のときの用いるのである。更に、この方を用いる場合はただ平然と用いるのではなく、何かを見つけ出す、あるいは何かを聞き取るという切なる探究心が必要であり、そこに意識を集中させることが大事である。

 まず、呼吸の数を数え、あるいは時間の長さを検討したり、更には内視法や返聴法を行えば、注意が散漫になって精神統一など、できるものではないと考えるのが、素人考えのようであるが、実は、むしろこうした、数や時間の長さを数えたり、計ったり、裡側を覗いたり、その音を聞いたりする方が、却って精神統一は容易になり、気が散るどころか、精神統一能力は旺盛になるのである。

 これは、ひらすら「無」になろうと調息法をする、調息呼吸をするときの呼吸法とは対照的であり、この時の精神統一の方が、極めて集中力は高いのである。
 但し、慣れてくれば、統一力は失われるので、油断は禁物である。

 

●一寸先の闇を、どう捉えるか

 人間は、「非存在」の生き物である。その為に、非常に不安定であり、現世という、「一寸先は闇(やみ)の世界」を生きていることに回帰する。一秒先に、何が起こるか分からない。そして、この一秒先に人の運・不運がある。この「一秒先」を蔑(ないがし)ろにしてはならないのである。

 感染症や慢性病などの病魔に襲われる人。突然の交通事故で事故死する人。事件に巻き込まれて、無慙(むざん)な死に方をする人。地震の直撃に襲われたり、サイクロンに見舞われて、災害死する人。世の中に失望して自らの命を絶って、自殺する人。人間の周囲には、こうした様々な、不幸現象が横たわっている。

 それでも人は、こうした不幸を乗り越えて、死んでいった人に代わり、生きていかなければならない。
 誰もが、病気や事故に巻き込まれず、健康になりたいと願っている。しかし、健康になりたいと願うだけであり、また、頭の中でこのように考えるだけで、実際には何も行動をしていないことが少なくない。

 例えば、腰を病んでいる人が居たとしよう。この人は、どうしたら腰がよくなるか、病院に行って医者に、その治して欲しいことを懇願するだろう。そして、「どうやったら治りますか」などと質問するだろう。

 この時、良心的な医者は一切の治療もせず、薬も与えず、「どうやったら治るか、自分で考えろ」というだろう。これを聞いた腰痛患者は、「何と、この医者は不親切な医者なのだろうか」と腹を立てるだろう。そして、診察室の椅子を蹴飛ばすなりして、出て行くだろう。

 そこで、今度は親切そうな病院を電話帳やネットから探し、親切な医者に出合うことを願って、次へと移動するだろう。
 直感で、今度こそ、前の病院の医者とは違い親切であることを確信して、診察室で、こういうだろう。
 「先生、腰が痛いのですが、どうしたら治りますか。是非、治して欲しいのです。痛くて困ります」と訴えるだろう。

 此処の病院の医者は「それでしたらまず、レントゲン検査をやってみましょう。その結果、椎間板ヘルニアだったら手術をして、椎間板が飛び出して神経に触る箇所を切除しましょう。勿論この手術は、麻酔を使い、充分な措置をしますから、一切痛いことはありません。術後も、痛みは消えうせますから、もう二度と、腰痛などにはなりませんよ」という言葉に、腰痛患者は直ぐに飛びつくだろう。

 しかし、椎間板ヘルニア手術に承諾した腰痛患者は、実はとんでもない間違いをしているのである。一旦腰痛手術を始めれば、飛び出した椎間板は削られて、今まで神経に触っていた箇所は削ることによって、もう触れなくなるだろう。痛みを、これで消えたように思える。ところが、外科手術で削るということは、それだけ骨が細くなり、腰骨は弱くなったということである。
 もう、その後、この腰痛患者は、激しい運動などは一切出来なくなるだろう。常に大事をとり、無理なことは出来なくなって、安静第一の躰にされてしまうだろう。

 最初の病院で、医者が言った言葉は、「どうやったら治るか、自分で考えろ」という言葉は、実は冷たいようで、様々な教訓が含まれているのである。
 それは、腰が痛ければ、まず自分の生活の活動線を考えて、その視点で再点検して見なければならない重要な秘密が隠されていたのである。だから、「医は算術ではない医者」は、「自分で考えろ」といったのである。

 ところが、「医は算術と心得た医者」は、痛くならない椎間板ヘルニアの削除手術を奨め、大事な椎間板を神経に触るからという理由で削り落とすことを奨めたのである。そして、この手術は、結果的に検(み)て、腰痛患者が大きな損をしたことに、全く気付いていなかったのである。

 世間には、患者と医者の遣(や)り取りで、こうした話はゴマンとあるだろう。
 患者が、病院任せ、医者任せになったとき、その患者は、その後、不幸の大きな翳(かげ)りを背負い込むことになるである。
 そして、具体的な自分の生活態度に振り返らない人に限って、安易に薬に頼ったり、医者の言に何の疑いも抱かずそれを信じてしまうのである。

 よく考えれば、「病気」と「健康」は表裏一体であることに気付くであろう。この両者は、どちらに転んでも精神的な影響を与えるという点では、何ら違いを持たない。そして、健康は何かを行えば、手に入るかというと実はそうではない。
 少なくとも、自分の抱えるストレスに気付き、少しずつストレスを消去していかなければ、健康には近づけないだろう。「ストレスを少しずつ消去する」というのが、実は健康の秘訣なのである。

 しかし、ストレスというエネルギーが強大なものであり、消去するということよりも、何かに変換させるという強い意識がなければ、これは中々消し去ることは出来ない。その為には、自分の生活に気づき、不摂生などの間違いを、一つずつ消去させていく以外ないだろう。

 また、「病気」と「健康」は表裏一体であるということは、次のようなことで証明される。
 例えば、誰かが睡眠薬などの摂取量をオーバーして、瓶の丸ごと睡眠薬を飲んで自殺を図ったとしよう。これが健康な人ならば、大量に飲んだからといって、そのまま永遠の眠りに付くことはない。そのまま眠りにつく人は、心身ともの病弱な人で、殆ど反応が出ない人が、そのまま眠って死に至るのである。

 健康な人の場合は、「大量に飲んだ」と躰が感知すれば、まず激しい拒否反応が顕れて、吐き出すなどの、健康である証拠が顕れる。それは分量にもよろうが、一瓶丸ごとの、大量に飲んだ場合は、必ず健康な人は拒否反応が顕れる。こうした人が病院に担ぎ込まれると、嘔吐(おうと)や下痢状態から、脱水症状を起していると医療側は判断する。その上、急性胃腸炎と診断され、治療には点滴が施される。
 これは、「病気」と「健康」は表裏一体であるという、病気に対する逆転現象である。つまり、本当は、医療側が観(み)た病気の症状は、実は健康な人が自然治癒力の結果、自分で治している状態であったわけだ。
 そして、病院に運ばれ、医療側が患者に施す治療法は、単に「対処療法」でしかないということである。

 この対処療法で、救急医療の外科手術を必要としない、慢性病も、現在は診断が下されているというわけだ。
 例えば、高血圧の人が居たとしよう。この高血圧症の患者に対し、病院と医療側は、対処療法である為、診るのはその人の「高血圧値」であり、高血圧のその患者は殆ど関係なくなってしまう。高血圧の患者を診るのではなく、高血圧値だけが終始問題にされるのである。

 しかし、高血圧症患者は、自分の高血圧を診て欲しいと思う。そこに高血圧値を診る医療側と、自分の高血圧を診て欲しい患者側とに、大変な格差が出来るわけである。今や医者は、患者を診ずに、数字だけを見ているのである。

 その上、高血圧症の患者はその体質や生活習慣により、百人百様の生活をしてきたのである。それぞれに違っていて当たり前である。ところが、医療側が出す薬は、百人一様の「血圧降下剤」だけである。そして、ボケの元凶となる血圧降下剤を服用させる医療側も医療側だが、これに一切の疑いを抱かず、これを安易に受け入れる患者側も患者側である。
 患者自身も肝心な、自分の生活管理の仕方の誤りや、精神面の保ち方という肝心な箇所を、一切飛ばしてしまっているのである。

 更に患者の馬鹿に輪を掛けているものは、病院任せ、医者任せ、薬任せで、病気は治せないということに気付いていないことであり、自分自身の躰(かだら)に対する権威を、総て病院側、医療側に預けてしまって、自分の手に取り戻そうとしていないことである。これこそ、馬鹿に輪を掛けた、最たるものであろう。
 多くの慢性病は、こうして医療側の好き勝手にされ、益々悪化していき、一生病院通いが続き、ついに終末治療の枠組みに、しっかりセットされ、最後は病魔に取り殺されてしまうのである。

 今日の現代医学をベースにした、現代の医療システムは、単刀直入に言って、「病気を治すシステムではない」ことである。特に慢性病は、これが顕著に顕れているだろう。
 病院経営は、勤務医を抱えている病院ならば、病気を治しても一銭もならないからである。病院は慈善事業ではない。
 病院というところは、種々の検査であらゆるところを探し出して、多くの奇妙な病名を付け、特に慢性病においては、来る死で病人を一生繋ぎ止めておくところなのである。この枠組みに組み込まれた患者は、終末治療で、一生食い物にされるだろう。

 現代社会は、「一寸先は闇」の「一寸先」に、終末治療の枠組みの中に組み込まれる「闇の部分」が隠されているのである。
 健康か病気か、それは医療の権威筋が決定することではなく、患者自身が自分の状態を出来るだけ正確に知り、生活習慣の間違いを自分自身で改めていくことである。

 喩(たと)え、ガン発症であろうと、また高血圧症、動脈硬化症、糖尿病、肝臓病、腎炎など、どんな病気であろうと、医療側から勝手に着けられた病名は度外視して、これらの病気を病気として扱わず、躰の健康度として健康管理することが大事であろう。
 そして、現代社会での日常生活は、心の躰のバランスを崩しやすい構造になっていて、その背後の至る所にストレスが隠れ潜んでいる。しかし、この事に殆ど気付かず、安易に見逃している人も少なくない。
 つまり病気とは、躰が病気と闘っている健康の顕れであり、その代償としての作用が、また、病気なのである。

 病気は罹(かか)らないように予防するばかりが、病気からの回避ではない。病気に罹っても、直ぐに治る「体質」が問題なのである。
 予防するばかりで逃げ回っては駄目である。どんな難病でも、一旦病気に罹ったらこれを素直に受け入れ、自分の人生と仲良く共棲していく人は、病気とは無縁の豊かな人生が送れるわけである。

 逆に、痛みや苦しみを露にして、「早く治して欲しい」とか、「楽にして欲しい」と連呼する人は、この満たされない、何処までも悲痛な叫びを上げて、自分の生涯の意義を見失わなければならないのである。

 同じ人生を生きるにも、両者は天地の違いがあり、そこには豊かさと、満たされない気持ちをどのように処理していくかの違いがあるように思われる。

 そして人間の寿命というものは、人間が生まれた時に、天の命(めい)として既に決定されていることであり、決定された生きる時間は、その人が生きられるだけ生きるようになっている。それが「寿命」というものである。
 だから、その人が人生半ばにガン発症で斃(たお)れようと、また、その善後策として、ガンの摘出手術を行おうと、あるいは抗ガン剤を投与して、ガン細胞の撲滅を図ろうと、それはその人の寿命に何ら変わりない。そのことで、寿命が長くなったり、短くなったりしないのである。貴重な時間を潰して、病気から逃げ回るだけが能ではないだろう。

 こうした不治の慢性病に侵されたとき、逃げ回るだけ逃げ回り、今できることをしない方が問題なのであって、いつまでも「やれば出来る」と、明日に伸ばして先送りするのでなく、「今やろう、そうすれば出来る」の「今」に、真剣に取り組まなければならないのである。

 そして、もう、やりたいことがなかったら、その人は、もうそろそろ終わりである。これこそ、「直ぐ死んでもいい頃」なのである。
 人間は、死期が近付くと気力が失せる。僅か、文庫文一冊を読む気力すら失われる。筆者は、毎日文庫本を一冊読み上げるというノルマを自分自身に課しているが、このノルマを満たし、速読であらゆるジャンルの小説を読み、あるいは哲学書などを読んでいる。そして、まだ気力が失われていないことに気付くのである。つまり、「自分の寿命は満了してない」と感じるのである。

 そこで、一日のうち、早朝の精気の充(み)ちた時間帯に「呼吸法」をやるようにしている。これが、筆者にとっては、またいいのである。
 人間は、「気」が練れておらず、「気」の威力が弱いと、とんでもない間違いを犯すものである。つまり、「下腹の鍛錬」である。ここの鍛錬が出来た人を「肚(はら)が出来た人」といい、出来ていない人を「肚が出来てない人」という。現代は、実に「肚が出来ていない人」が多すぎるのである。

 昔から、「肚を据(す)える」などといったが、「肚を据える」とは、「下腹の鍛錬」を指したのである。武術などは、今日の競技武道と異なり、下腹の鍛錬をしたものである。では何故、下腹を鍛えたかというと、繰り返し述べたように、此処には「丹田」という場所があるからだ。
 丹田は、「気」を生み出す場所である。そして、此処で鍛え、練った気は「陽気」になる。この陽気が全身を巡り、人間に活力を与えるのである。

 逆に、丹田を鍛えてない人は、体内から「気」を取られると、次に、容易に「気」が補給できず、虚脱状態に陥る。つまり、病気とは、この虚脱状態に陥った状態であり、だから「気が病む」という。「気」は、虚脱状態を起してはならないことは、これでお分かりだろう。

 

●現代栄養学は正しいのか

 「55年体制」という言葉は、特に政治の世界で遣われてきた言葉である。この1955年、つまり昭和30年を境に、日本は高度経済成長により、急激な変化をし、政治のみならず、食生活も、この時代を境にして、急激な変化が起ったのである。そして、この時代を境に、日本人はこれまで稀(まれ)であった、食肉や肉加工食品、牛乳、乳製品などを欧米人並みに摂取するようになり、外国の食べ物も多くなり、ある意味で日本人の食生活は豊かになったといえる。

 しかし、これにより健康になったかといえば、実に疑わしい限りである。
 そして権威筋やこれに同調する進歩的文化人たちは、二言目には「科学的」という名目の許(もと)に、食生活の中に「現代栄養学の理論」を持ち込み、栄養学という学問により、こじ付けがましい理論武装をし、これによって日本国民の食生活を急激に変化させてきたのである。

 しかし近年、この学問も翳(かげ)りが出てきて、現代栄養学に疑いを抱く栄養学者も増えてきた。その一方で、「これまでの戦後栄養学に対する固定化した常識を変えたくない」とする栄養学者の権威や、これに加担する大手食品メーカーの食糧経済戦略やご都合主義により、その古めかしい旧態依然の常識は、まだ維持されているのである。

 現代栄養学者やこれに加担する大手食品メーカーの大資本は、「戦後の栄養革命により、子供たちの体格は立派になった」とか、「現代栄養学のお陰で、日本は世界一の長寿国になった」と嘯(うそぶ)いている。その証拠として、過去から現代までの魅惑的なデータや数字【註】特に国連FAOのケミカルスコアーの蛋白質比較に見られる。大東流霊的食養道・「人間に許された食べ物」参照)などを上げ、現代人の体格が散ったになったことを強調している。

 しかし、戦後生まれの現代人たちの体格が幾ら立派になろうと、その優越性は“もやし”のような長身の体格においてだけであり、病気に罹(かか)っても直ぐに治る「体質」を考えれば、殆ど未熟状態であり、特に現代病や成人病に冒されやすいという実情は、由々しき問題であると考えなければならない。健康を真剣に論ずるならば、体格より「体質」を問題にするべきであろう。

 そして、多くの現代人は、「肉はスタミナの元」 とか、「牛乳は完全な栄養食」という、牛乳神話を信じていることである。その意味で、「肉」と「牛乳」は、栄養信仰の代表的なものであるといえよう。

 筆者は個人的な趣味で、アメリカ大リーグが大好きで、このテレビ放送をよく観戦する。また、夕方からは日本のプロ野球も欠かさず見るほど、野球に興味を抱いている。それは、これも個人的な見解であるが、ピッチャーとバッターの心理が、そのまま、日本刀を抜いて太刀合う真剣勝負を思わせるからである。これを武術の眼で検(み)て、その心理を研究しているのである。

 さて、この野球であるが、いつも不満に思うのは、スターティング・メンバーが、日によってコロコロ変わることである。いつも、どうして選手がこのように変わるのだろうかと思う。その多くの理由は、これまで順調に成績を伸ばしてきた選手が、突然怪我や故障して、故障者リストに加えられ、メジャー登録を抹消されるからだ。どうして、こんなに怪我や故障が多いのだろうかと思う。

 怪我や故障を起す選手が、その理由が硬球という鋼鉄のボールに当たったり、バットに当たって怪我をしたというのならともかく、全力疾走をしていて肉離れを起したり、アキレス腱を傷めたとか、フライを追いかけて顛倒(てんとう)しただけで骨折をしたという理由から、故障者リストに加えられ、登録を抹消されてしまうことである。

 この怪我や故障の原因を考えると、野球も含めであるが、その他にも大相撲、プロレス、柔道、競技空手、競技剣道などの格闘技の選手を含め、こうした選手の中には「根強い動蛋白信仰」があり、これが怪我や故障と大きく絡んでいるように思える。
 彼等の頭や、トレーニング・コーチの頭の中には、「肉をもりもり食べて、パワーアップ」という動蛋白信仰が働いているからであろう。今日のスポーツ界や格闘技界には、現代栄養学の動蛋白信仰や牛乳神話がそのまま持ち込まれているのであろう。

 古代ギリシャの食思想の中には「速く走りたければ、カモシカの肉を食べよ。高く飛びたければ、ヤギの肉を食べよ。剣闘士などのレスラーには、雄牛の肉を食べて力を付けよ」という信仰があったが、今日のスポーツ選手などは、現代栄養学の「アミノ酸教」で、動蛋白信仰と牛乳神話を頑(かたく)なに守っているようだ。

 これらのことを考えていけば、果たして現代栄養学は、いったい何だろうかと思うのは、筆者一人ではあるまい。
 今や、現代人の多くは、日本人には不向きの欧米食に首までどっぷり浸かり、自らの躰を、美食と引き換えに、わが魂を、病魔に売り渡しているとしか思えないのである。

●呼吸法の大事

 これまで筆者は、よく働く為には、好き嫌いせず、何でもバリバリよく食べて、それを体内に取り込めば、滋養も付き、益々健康になれるという、現代栄養学の食指針を大いに信奉していた一人である。また、その熱烈なる信者でもあった。

 ところが、この「入れる栄養学」は、入れれば入れるほど、健康は益々損なわれ、その上、過剰な動蛋白摂取、更には「一日30品目のおかずで、肉と野菜をバランスよく」などの言に唆(そそのか)されていたことに、近年気付いたのである。「これは、どうも訝(おか)しいぞ」と思うようになったのである。

 現代栄養学の特徴は、まさに総花主義であり、「何でも偏食せず、満遍(まんべん)なく食べよう」という西洋の食思想によって組み立てられたものである。更に、科学的弁証法という実証主義に基づき、具体的な数字を、カロリーという数値で表すことにより、栄養のバランスを考える「数値学問」である。
 しかし、この「数値学問」は、今日の現代医学と酷似しているところがある。それは、病院では、医者は患者自身は殆ど診(み)ず、患者の検査結果のデータばかりと睨(にら)み合っている実情と酷似しているからである。

 現代は、こうした誤った、人間を軽視した時代であるといえる。また、この誤った考え方は、国民全体に広がり、然(しか)も、しだいに固定化されてきた。誰も、これを疑おうとしない。思考は固定観念が段々強くなり、一度思い込んだら、先入観から抜けきれないのが、また現代という時代の特徴でもある。

 筆者は、品数の多い、美味しい料理を毎日三度三度、これを欠かさず、好き嫌いせず、一日3食主義を実践していたら、決して病気などなるものではないと信じていた。現代栄養学の食指針によるところである。
 また、現代栄養学や現代医学がいう、「朝食はしっかり摂る」という厳命も、ちゃんと実行してきた。朝食は、しっかり抜かず、ちゃんと食べてきた。

 ところが一方で、日本の食体系を連綿と守った食養道があった。食養道の「正食」に帰すれば、毎日毎食、主食の「玄米穀物ご飯」の内容がしっかりしていて、おかずは「味噌汁、沢庵と梅干、芋野菜のにっころがし」などのシンプルなメニューでも、決して栄養失調になるものではないという、「正食論」が説かれていた。これを遂に、近年知るところとなる。

 しかし、それまでは現代栄養学の言う総花主義にほだされて、長い間これを実行してきた。
 そして、気付いたときには、食べ過ぎの為に、食傷に犯されていた。もはや早期治療では不可能に近い、末期症状の進行ガンを体内に作り出していたのである。これが現代栄養学に、不信を抱く切っ掛けとなった。

 そして、この総花主義に騙(だま)されていたことに、ガン発症してから分かったのである。
 現代栄養学とは、西洋の骨子に、栄養学の論理を並べ立て、往年の権威筋がそれに注釈を付け、「数値学問」としたところに、大きな特徴を持ち、「カロリー」という食品燃焼率を掲げている。しかし、こえれは一般大衆に混乱を齎す学問としても知られている。
 現代栄養学は、差し詰め「カロリー計算」で、お馴染みの学問となった。

 最近は、現代栄養学も「腹八分」などの、これまでの日本人の食体系の俚諺(りげん)に振り返り、「食べ過ぎはよくない」などと言い出した。しかし、これは近年、取って付けた詭弁(きべん)に思える。

 また食肉について、現代栄養学者たちは、不思議なことを云い出した。それは次のようにである。
 「肉が悪いのではなく、肉に含まれる動物性脂肪が悪いのであって、蛋白質は必要である」といっているが、実際には脂肪と同じく、あるいはそれ以上の有害性があって、肉の蛋白質は有害なものである。食肉自体が、健康にはマイナスの影響を与える元凶であることを教えられた次第である。

 つまり、「肉」という食品自体が、有害な食品なのであるのだ。その有害性の最たるものが、肉食によって齎された、今日、現代人に蔓延(まんえん)するガン発症である。これについては、大型高級魚のトロ身も同じだろう。

 そして、こうした食品に、「三白ガン」という、白米、白砂糖、精製塩を含む化学調味料などが加われば、有害相乗効果は更に増幅され、悪影響を及ぼすことは想像に難くない。
 率直にいえば、現代栄養学の「食物観」は全く正しくない。間違いだらけである。

 最近では、一般的な考え方として、慢性病の多くの治療には、食事療法の大切さが強調されるようになった。しかし、その内容の主旨は、現代栄養学の食指針思想が貫かれている。
 その最たる言が、次のようなものである。

 「組織の修復に対し、充分な蛋白質が必要であるから、慢性病患者には高蛋白食品が必要である。肥満解消には、カロリー制限する必要がる。ただし、バランスをとることが大事であるから、量さえ控えれば何を食べてもよい。むしろ主食への偏りをなくして、より多種類の食品を摂るように心掛けよ。カルシウムをしっかり摂るために牛乳をたっぷりとるべし」(医学博士・森下敬一著『浄血』より。森下博士は現代栄養学のこうした食物観の間違いを鋭く指摘している)

 以上の現代栄養学と現代医学の「食事療法の食物観」は、間違っていないだろうか。
 「肉と野菜をバランスよく」の食思想は、野菜という、部分的な食品の中に、食物繊維とか緑黄色野菜とかを奨励し、その一方で、食肉や牛乳などの乳製品を奨励するこの矛盾は、全体的に検(み)て、マイナス要素の方が大きいと思われる。このマイナス要素の大きなものを、病弱な患者に与えたら、その結果はどうなるか、想像に難しくないだろう。

 そして慢性病の病弱患者は、その上に化学薬剤を投与されているのであるから、特にガン患者のような人は、抗ガン剤などで、一時的にガンの進行は止められるかも知れないが、その後の激しい副作用により、正常細胞までが破壊されて、猛烈な副作用に苦しめられながら、「肉と野菜をバランスよく」の食事療法をやらされるのであるから、体力は衰え、気力は失せ、後は、ただ死を待つばかりの運命は免れないだろう。

 筆者は、これまでに多くの病人と、その病人の死を見てきたが、死を間近に控えた人は、体力の衰えもさることながら、気力の衰えが非常に甚だしいのである。
 既に、記載した筆者の知人の60代後半の女性は、かつては、わが流の網武出版が発行する『志友会報』と『大東新報』 の熱烈なる読者だった。

 ところが最近、「気力が失せたので」という理由で、購読を打ち切ってきたのである。つまり、皮肉なことだがこの女性は、この時点で「精神的植物人間」になったということである。何とも気の毒な限りである。物事を理解したり、人生の目的に向かって、探求する気持ちが萎え、気力が失せれば、もう、その時点で人間は「精神的植物人間」になってしまうのである。

 終末治療期にあって、後は死を待つこの女性は、まさに死刑を待つ死刑囚のような感じで、「今は静かに、何も考えたくないので……」というような考え方に落ち着き、結局、気力が衰えたことを自分で吐露(とろ)したようなものだった。こうした状況から検(み)れば、もう、生きている時間は、そんなに長くないだろう。
 そして、筆者は思うのである。人間は、死を間近に控えると、もう何も考えられなくなり、物事の理解力が薄れ、気力が失せてしまうものだと。

 多くの現代人は、こうした「何も考えずに余生を過ごす」という道を選択するようだ。また、これこそが、近いうちに死ぬ暗示ではないのか。そう思うと、人間は、気力さえ失わねば、まだ、どんなに激しい痛みが襲ってきても、寿命は尽きていないのであるから、死ぬわけがないと思うのだ。死ぬのは、痛みの激痛に負けて、死んでいくのではないかと思うのである。
 寿命の尽きていない人が、激痛に耐えかねて、安易に、安楽死を選択するのは如何なものか。

 こうして考えてくると、人間は産声(うぶごえ)を発して、この世に「吐気」で、存在する肉体を有するのであるが、この肉体は単に物質の塊(かたまり)でないから、精神面の向上も、生きている間に磨くべきであろう。
 死ぬ間際の呼吸である、「息を引き取ってから死ぬ」という、生まれてから死ぬまでの吐納を、現代人はよくよく考え、再検討しなくてはならないと思うのである。
 つまり、吐納は、まさに「阿吽」であり、此処に「呼吸法の大事」がるのではないかと思う次第だ。

呼吸法実践篇については、大東流ドットネット・《合気武術概論・西郷派大東流の呼吸法実践篇》を参照下さい。


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