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槍術を含み独特の体捌きを錬成する


西郷派大東流馬術の軽騎武装束。沓(くつ)は革足袋を用いる。


■ 西郷派大東流馬術
(さいごうはだいとうりゅうばじゅつ)

●西郷派大東流馬術構想

 わが流の掲げる構想の一つに、「馬術構想」なるものがる。これは、わが流がスローガンとして掲げるボランティア構想でもある。
 まず、「馬」という生き物について語らねばならない。馬という生き物が居て、「馬術」は成り立っている。馬が不在で、馬術は語れないのだ。

 かつて武家にとって、馬術は「弓矢の家」と称する以前に、同等、もしくはそれ以上に武門の嗜(たしな)みであった。馬を知らずに、「武士」としての職能集団の真価は認められないものであった。馬こそ、武門にとって、自らの全人格を表面に打ち立てて、士道を表現するものはなかった。また、武家にとって、馬は、単なる道具ではなかった。それは馬自身に感情があり、個性があったからだ。
 こうした、人間と性(さが)を同じくする馬は、信頼関係を保てば、これを裏切ることなく、最後まで義理堅く履行(りこう)し、信頼関係を実行するのが、「馬」という生き物であった。

 こうした信頼関係によって、「人馬一体」という言葉すら生まれた。馬との信頼関係において、人間が馬に託す気持ちを応えるのは、人間以上だとも言われている。馬は、決して知能の高い動物ではないといわれる。理解力も低いと、有識者からは酷評されている。しかし、これは大きな見当違いである。

 馬を酷評する有識者の多くは、馬を知らず、「表皮の状態」で、馬の外見だけを見て、評価し、その評価を権威筋の論理としようとしているのである。全く、愚かなことであり、現場を知らない酷評は、歴史上にも大きな汚点があり、差し詰め、有識者が権威で物を言う、その言は、「机上の空論」でしかない。この空論により、これまで人類が、いかに多くの苦汁を嘗(な)めて来たことか。

 さて、「馬」は、非常の穏やかな動物である。馬の性質と性格は、攻撃的な動物より、非常に謙虚であり、また、草食動物特有の穏やかさは、他の動物に比べて、類がない。
 馬の本能は、五感に優れていて、特に聴覚に対しては、非常に敏感で、学習する反復の記憶力には優れ、一度学習したことは殆ど忘れない動物である。
 人間を洞察することについても、その記憶力は抜群で、自分を可愛がってくれる人に対しては、従順に、どこまでも随(したが)う動物なのである。

 こうした馬の純粋な性格と、従順な性格を利用して、アメリカでは、更正施設に馬を置き、青少年育成・更正の為に、馬の性質を利用して、人間本来の姿を取り戻す作業にかかわり、大きな効果を上げている。
 現代は、物質文明の真っ只中にあり、高速回転をする現代の科学万能主義は、まるで遠心分離機の中から弾き出される、性格粗暴者や犯罪保菌者を多く製造している。彼等は、めまぐるしい時代の高速回転についていけない者達である。

 だが、こうした者達も、もとは穏やかな人間であり、世の中が、こう気ぜわしくなければ、平穏に人生を送れた人達である。心にも穏やかな感受性を十分に持っていて、人情の機微を理解する人達である。
 ところが、加速度的に高速回転(コンピュータの進化がこれと相似する)を続ける「現世」という現代は、こうした人達を、精神異常者として、世の中の「爪弾き」にしてしまった。これこそ、人的資源の無駄遣いであり、人間が等しく、同じ心を共有しているのであれば、これは同胞を、闇の彼方に追放する愚行に他ならないと思料するのである。

 アメリカでは、犯罪者や性格粗暴者を社会に復帰させ、更正させるために、こうした彼等に「馬の世話」をさせ、馬を世話することにより、これまで狂っていた日常が、馬によって、心理的に回復・更正するという論理を見つけ出し、一度は狂った心情も、馬を世話することで立ち直る青少年が増えていることを報告している。
 だが残念ながら、日本にはこうした、青少年を「馬を通じて更正させる施設」がなく、また、多くの有識者は、馬により、馬同様に、人間が従順になるという現実を、未(いま)だかって認めていない。

西郷派大東流馬術構想図(クリックで拡大)

 わが流は、こうした青少年の更正施設(小・中・高校生の登校拒否者らや、自閉症などの心に悩みを持つ青少年、あるいは現代という時代の高速加速度がつく社会の動きについていけない性格粗暴の若者を対象に、純粋な動物を見て、自分を見つめなおす環境)と合せて、これに孤児院(両親の離婚や、両親の交通事故死などで、両親、あるいは片親を持たない遺児が増えている。この施設は、少年少女の特別養護施設である。ここでは、少年少女に年寄りの智慧や経歴に尊敬を抱く思想を育てる)と養老院(老人は少年少女と接することで先生となり、また智慧を教えることで若返る。あるいは、日々、孤独に過し、極端な人嫌いの離人症のような障害を持つ老人)をドッキングさせ、また、リストラなどをされて職を失った中高年層を施設の職員として再雇用し、これら三者が連携を組んで、互いに助け合う構想プランを描いている。

 そしてここで核となるのは、「馬」である。馬は他の動物に比べ、優れた癒しのエネルギーを発する能力を持っている。
 馬は人の心を癒す。ホースセラピーの能力がある。その能力を十分に引き出し、これを人間に当てる。馬を通じて、それぞれの人間の集団は、相互扶助の関係を保つ。

馬には人間の心を癒すホースセラピーの能力がある。

 例えば、高齢期に達した老人は、単に死を待つだけの老人であってはならない。老人の残された晩年の生き方は、まず、子供にかかわりを持つことによって、誇りある晩年の名誉が回復される。
 次に、子供は高齢者に対し、尊敬の心を抱く考え方が生まれ、長老として崇めることにより、そこから人生の智慧を導き出せる。
 更正施設の青少年は馬を世話しつつ、ホースセラピーによって、壊された心の修復を図り、本来の人間性を取り戻す。当然そこには、老人の見る目も変化が起きよう。馬を核として、三者は相乗効果により、より充実した人生を生きることが出来るのである。

 現代という社会は、高度資本主義経済の真っ只中にあり、この社会システムは、一部の人間層に歪(ひずみ)を齎している。社会全体の進歩が高速化し、加速度的な進歩が要求されるようになると、こうした高速回転をする遠心分離機のような社会から、弾き出される人間が出てくる。こうした人間は、「社会の落ちこぼれ」として扱われるだけではなく、社会の犯罪の縮図に閉じ込められ、そこから抜け出せない危険性をはらんでいる。
 これらが起因して、更に社会は混沌とし、不穏な世の中が出現する危険性を孕(はら)んでいる。また、こうした階層を放置すれば、社会の不安や不幸現象は益々増大するばかりであろう。

 アメリカでは、少年犯罪者の殆どが、たった一週間、馬を世話するだけで、犯罪を犯した少年たちが立ち直り、自分の罪の恐ろしさを認識し、真人間に戻っていくという、大きな効果を挙げているという報告がなされている。

 しかしながら、日本にはこうした施設がなく、老人問題も、少子化する未来の子供たちの健全な育成プランもないまま、無能で貪欲な政治家たちに、この日本の未来を、政治家親子の相伝画策で、引き渡そうしている。果たして、こうした我田引水的な、内輪継続で、日本の未来は健全といえるのだろうか。

 そして、見逃せないのは、JRA(日本中央競馬会)で、一回ごとのレースのたびに、相当数の馬が廃馬にされていることである。
 骨折などの事故で廃馬になる馬は仕方ないとして、単に、剥離(はくり)などで廃馬になる馬も多く出ている。こうした馬は、成績不調続きのためか、ひとレース走ると、直ぐに注射を打たれ、次の瞬間には冷凍車に載せられているのである。そして、冷凍車は馬肉にするために、解体工場へと向かう。何と言う、可哀想な事をしているのであろうか。

JRA栗東トレーニングセンターより寄進された障害飛越馬のオンワード・マーチ。(昭和55年、自悠学園乗馬クラブにて)
剥離の怪我を克服し、見事に復活して国体準優勝したオンワード・マーチ。

 単なる剥離だけならば、数ヵ月ほど治療をして、十分に乗馬にも使えるのである。事実、こうした馬が、その後治療して、国体で優勝や準優勝する成績も収めているのである。わが流は、この現実に対し、JRAが廃馬した馬を殺さずに生かすことができないか、また受け皿としての馬場施設などがないか提案をしてきた。

 その【提案内容】 は次の通りであった。
競馬で勝利を得られなかった馬でも、「乗馬」に置き換えた場合、その才能を発揮する馬がいる。

2.骨折などの大怪我を除き、剥離などの軽症の場合、これは短期間で解消し、馬の生命の命を安易に殺傷すべきではない。

3.人間と同じ性(さが)を持つ動物「馬」は、太古より、人間が保護するべき動物であることを、神から義務付けられている。つまり、牛・馬は、人間が地球上で保護するべき動物なのであり、これを「食べる」という行為は、神の意思に反する。彼等の生命を全うさせるべし。

4.人間が保護すべき動物は、人間の友であり、人間が保護すべき責務を全うすれば、彼等もまた、人間に癒しを与え、「人間のあるべき姿」を糺(ただ)してくれる。現に、アメリカの更正施設などでは、犯罪者等の更正と社会復帰に大きな役割を果たしている。

5.馬は、有史以来の人間の友である。同時に、仮に一時的に、彼等を競走馬と使い、それで好成績が収められないからといって、人間側が彼等に、命を殺傷与奪する権利はない。限りある命の燃焼を、人間が考えるのと同様、彼等も、また命の燃焼を果たして、自らの人生を全うする権利がある。

 年間、相当数の競馬馬が廃馬され、殺されていく現実がある。これを救い、人間の友として役立てることは、人間の義務であり、また今日、悲壮な彼等の殺される現実から解放されるためにも、有益に馬を利用する価値があり、現実問題として、日本では更正施設などで利用する足跡が見られない。単に人間側の我儘(わがまま)で、「競馬ゲーム」という、人間の欲望と娯楽の為に彼等が生産され、そして殺される現実は、果たして如何なものか。
 馬は人間の犠牲になり、いけにえになる動物なのか、こうした視点に合せて議論する必要があろう。

 馬という動物に関わり合うことによって、都市型生活に絶望している人、物質至上主義に何も期待しない人、新しき生き甲斐を求めて奮闘したい人などを対象に、生活共同体を構成して、その構想に智慧(ちえ)を貸してくれる人などで組織するのである。
 ここには小規模の産業・教育・芸術を統合した小さなコミュニティーづくりの試案場として、人生を養成する実験の場を築き上げるのである。

 現代という時代は、さまざまな文化活動が、あまりにも専門分化し、しかも、それぞれが排他的で、孤立化し、巨大化しようという目論見がある。その上、統合性を失い、その結果の現われとして、人間疎外の傾向にあり、これが益々深化してしまった。
 このような状況から抜け出す道として、わが流は小規模な共同体を作り、この中で日本人がこれまで培ってきた、文化活動を統合することを試みようとしているのである。

 事始として、馬場と厩舎を中心軸にして、ここに青少年更正施設と、養老院と孤児院を敷設し、三者が互いに助け合い、補うような形を形成して、同時に、これらの面倒や手助け(例えばJRAを退職した調教助手・ジョッキーや厩務員)をする職員住宅を作り、馬育成の基礎を確保した後、次に小さな農園と木工場や、それを管理・運営する会社を設立する。

 更に、馬術展開を中心において、社会への貢献と還元を軸に、これにまつわる陶芸・木工彫刻・織物・絵画などの造形芸術の工房や、音楽・舞踊・演劇などの小劇場を造り、更正施設や孤児院を、18歳を過ぎて、ここから退院する人達の共同住宅も造って、彼等が軸となった後進の指導に当たるという教育システムを作り上げる。

 馬の素晴らしさは、馬自身が表現する「目の美しさ」にある。従順で穏やかな馬の目は、人間の荒(すさ)んだ気持ちを、本来の姿に取り戻してくれる。人が馬を見て、「美しい」と感じる瞬間は、実にこうした時機(とき)ではあるまいか。これこそ、有機的な結びつきの真実の瞬間ではあるまいか。

 つまり、馬と人を通じて、有機的な結びつきを探求していく、人間としてのコミュニティーづくりを、年間、相当数廃馬になる馬を通じて、形成していく生活共同体構想である。これが実現すれば、青少年犯罪も減少し、世相の混沌とした世情不安は解決の糸口を見出し、人の世は、進化に向かって躍進できるであろう。

 よって、わが流は、こうした年間に、多大に廃馬される、彼等の命を救い、また、日本武術の伝統を護るために、「西郷派大東流馬術構想」に、ご賛同願いたいという趣旨を伝えているが、これに関して、耳を傾ける政治家や文化人、有識者は、今のところ皆無である。

 果たして、日本という国は、正しい選択肢が、今日の政治家によって、正しく機能しているのだろうか。もし、政治家にこれが出来ないとすれば、民間人の中から、国政と国運を正常に戻す働きが必要ではあるまいか。

  事実、民主主義には、長年の時代物の為に老朽化し、多くの日本国民が、必ずしも民主主義という政治システムが人民を救うとは決して考えていない。かといって、社会主義や共産主義が、今日の悩める恥部を解決してくれるのだろうか。
 地球上の生き物とは、単に人間の生命の尊さだけを論(あげつら)うものではなかった。地球上の生命は、総て、輪を成しているのである。人間だけの独断と偏見は許されないものなのである。しかし、この事実を真摯に見つめる人は少ない。

 現代人は、自分の生活が不安の上と、不安定の上に築かれていることを承知している。 しかし、こうした現実を思い出そうとしないだけである。
 こうした不安要素は、では、政治が解決してくれるのであろうか。あるいは経済が、それを救ってくれるのであろうか。
 勿論、小市民的な小さな自己の力で、今日の現状を解決できるとも、誰も思っていないだろう。

 では、科学万能主義が、これを救ってくれるのだろうか。あるいは、公害蔓延と、地球汚染と、エネルギー枯渇を目前にして、次なるエネルギーが出現し、一挙にこうした悩みを解決してくれるのだろうか。
 かつての共産主義社会は、人類に幸福を齎(もたら)すか、不幸を齎すかの、一種の模索に過ぎなかった。共産主義はマルクスの頭の中から出た、一種の試案に過ぎなかった。そして、成功を見ることはなく、革命主義者達に、大いに利用され、底辺の人民は権力者達に悉(ことごと)く搾取(さくしゅ)された。

 では、民主主義に期待が持てるのか。
 否、民主主義は老いて老朽化し、至る所が腐り始めている。昨今の各県で多発するゼネコン業界との県知事官製談合汚職(福島・和歌山・宮崎の県トップ)は、これを克明に物語っているではないか。それでも、政治は国民不在のままである。
 民主主義という美名の下(もと)に、国民は騙(だま)され続け、権力者に搾取され、議会制民主主義の転換と模索の中に、解決の糸口も見出せないまま彷徨(さまよ)っている。
 では、新しい力と希望を見出す、根本的な力は、永遠に人類から消えうせたのだろうか。

 20世紀から、21世紀初頭にかけて、人類の夢は、成功致富の夢に、その力を見出すことであった。ところが、国家体制の監視機構が高まると、理不尽な権力は、これに対して反抗の牙(きば)を剥(む)くことを許さなくなった。その現れとして、権力に反して、伸びる有望株は、インサイダー取引の汚名を着せられ、叩き潰されることだった。日本資本主義は、いったい何処へ行こうとしているのか。

 だが、人生は日本民主主義が何処へ行こうと、末端の微生物視されている国民は、「人生とは何か」という命題に対して、正確に答えを出すことは出来ない。
 今からの時代は、自己責任が問われるばかりでなく、自分の所有した智慧(ちえ)も問われる時代となるであろう。そして、智慧の中に、所有した「本当の力」を見出していない者は、自然淘汰や、適者生存の法則により、間引かれていくことだろう。

 人々は、力を失ったのではない。ただ、力を見失っているだけなのである。本当の力の究極の糸口が見出せないだけなのである。それが、自分自身の奥底に眠っているのにもかかわらず、である。
 目を開けて外を凝視するばかりでなく、まず、自分の足許(あしもと)を見るべきである。事業の成功をあてにする前に、「努力する自分」は何者であるか、また、力の根源は何処にあるのかを、何よりも先に、それを探し出すことが先決問題ではないだろうか。

 わが流は、単に、武術の「殺人剣」を修練する殺伐とした流派ではない。人を活かすには、どうしたらよいか、それを真摯に考え続ける流派である。ここに掲げた「馬術構想」もそうした、真摯(しんし)なる概念から派生したものである。

馬は古来より、人間と深くかかわってきた動物である。そして、その中には人間と馬が心を通じ合える「人馬一体」の以心伝心の妙技があった。

 人間という生き物は、何かの生き甲斐を見つけないと、生きられない生き物である。単に、福祉が充実(実際には、こういう世の中は到来しないが)して、安易に生活できるだけの生活が保障されても、これだけでは生きる気力は出てこない。
 一人暮らしの老人も、生活保護だけを安易に貰い、それで物質的にはリッチな一人暮らしをしても、また、身寄りのない子供が、身寄りのないまま大人になり、孤独の中に、わが身を置いても、あるいは心や体に、ある種の障害を持ち、福祉の援助を受けたとしても、それで人生を選択し、隔離された「一人だけの生活」ではどうしようもない。

 人間という生き物は、呼んで字の如く「じんかん」と書く。人は互いに助け合い、寄り添ってこそ、その真価を見出す。これは人間という生き物が、地球上の生き物と「同等」であり、「同格」であるということを意味する。生命の尊さが、「同等」であり「同格」なのだ。
 こうした感覚を意識することこそ、人間に課せられた人生の課題ではなかったのだろうか。

 人は、男女のみならず、多大が助け合い、寄り添うものなのである。だからこそ、人生を通じて、「親密な仲間」が出来れば、孤独な生き方や人生は、直ちに一変する。「人の輪」が出来、ここに人生を全うする大きな意味が出てくる。
 誰でも参加できる、馬との触れ合いのサロンとしての、コミュニティーづくりが、わが流の掲げる「馬術構想」なのである。


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