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●水走りの大事 剣技の動きは「水走り」が大事である。「水走り」とは、流れるような美しさを云う。流れるように循環していて、途切れないさまを云う。 昨今、青少年に流行している格闘技の大半は、肉体美を売り物にして、体力に物を言わせ、厳(いかめ)しく、武張ったところがあり、猛々しさを表出させて、強(こわ)持てであることが、強さの象徴であるとしている。 しかし、肉体は有限であるが、これを決して蔑(ないがし)ろにしてはならない。肉体を蔑ろにしては、人間の存在理由はない。 だが素人の、手の早き者にも弱点はある。それは、武張って、愚かしい、熊が人間を襲うときのような、両手を挙げたポーズを作ることである。これは弱者を見下すポーズである。威圧を与えるポーズである。 総(すべ)ては、「強がり」から為(な)る。「ごとごとしさ」から為る。こうした穴だらけに眼を向ければ、欠点は幾らでも見えてくる。これと同じ現象は、中途半端に、武道をかじった者にも見られる。 段位などという、紙切れに固執した人間の実力は、低段者に行くほど、からっきし駄目で、意地と意気込みだけが猛々しい。鼻息も荒く、驕(おご)りも烈(はげ)しい。素人の手の早き者と何ら変わるところがない。 また、素人の中には、武道経験は全くないが、刃物を持たせると矢鱈(やたら)強い者が居る。このタイプは、実に手ごわい。武道の有段者などでは、全く手が付けられない。刃物を持つことで強さが増す者が居る。 しかし、こうした武術的訓練の成されていない手の早き素人も、よく見れば、「ごとごとしさ」がある為、こうした点において、自分では気付かない弱点をさらけ出している。「水走り」がない為である。 「水走り」をよくする為には、途切れることがなく、ごつごつと引っ掛かるところがなく、肩で風斬る意張りがなく、夜郎自大(やろうじだい)の傲慢(ごうまん)から抜け出して、「流れる動き」がなければならない。 かつて、奈良柳生流の祖・柳生十兵衛三厳(みつよし)は、沢庵禅師(たくあんぜんじ)から、「滝の水を止めてみよ」という公案を授けられたことがあった。 それからというものは、十兵衛は「動揺しない心」を求めて、この探求の励む。日々精進の為に打ち込む。 心は揺れ動くものである。落下物を見れば、落下物とともに心も落下していく。此処にこそ、問題があるのである。滝の水を止めるのならば、「心を静止」させれば済むことなのである。心が静止しないから、滝の水とともに心も動き、落下していくのである。十兵衛は、こうした「心の静止の術」を、遂に会得するのである。 一瞬ではあるが、敵の剣の動きは止まり、そこに打ち込む隙(すき)が見えるという。あるいは滝の水を、「心法」により、止めてからというものは、敵の動きがスローモーションのように見てたという。遅い動きは、速い動きに勝てないわけはない。幾ら速くとも、あるいは瞬時の動きで連続していても、それは例えば、映写機で映して、フィルムの一コマずつを見れば、総ては静止画像である。高速度カメラで捕らえれば、それはスローモーションである。そして、一枚の画像の、その一コマは、どこにも動いている形跡が見えない。みな止まっているのである。これを「心法」により、十兵衛三厳は会得したというのである。決してあり得ない話でない。 この裏返しの考え方が、実は、流れるような「水走り」なのである。ここに途切れた、一コマの刹那と、流れるような動きの「水走り」が同居しているのである。実は、二つは同じ処からの同根から発したものであった。一瞬の「一コマ」も、流れるような「水走り」も、見る者が見れば、同根だったのである。
●捨てることの大事 一部の大東流では、この流れる動きを否定して、本来なかった大東流の動きの中に、近代居合道の「きびきび」した動きを模倣し、「ごとごとしく動く」ことを、よしとする流派がある。 まさに「ごとごとしさ」の悪態である。こうした芝居的演技を、公衆の面前で行うのであるからには、この流派の演技者は、飛び道具の本当の怖さを知らない為であろう。 「見得を切る」などの演技が、ただの骨董品であれば、これでもよかろうが、伝統武術と自負するならば、伝承の上に「道」を求めなければ、それは時代遅れの骨董品に成り下がってしまうだろう。修行とは、伝承を転写する考え方では、修行とならない。伝承を改良してからこそ、それは修行の「道」となりうる。則ち、武術の儀法は、「道」を求めて、はじめて修行の価値を見出してくるのである。 修行に求められるものは、わが身の「我(が)」を、すっぱり捨て切るところにある。我執(がしゅう)を捨てることこそ、修行の第一の目的である。「我を捨てる」ことを知れば、修行の根本を取り違えることはない。我が捨て切れないから、次元が低くなって傲慢に陥るのである。 さて、不義を憎み、また、正義を愛することは非常に難しいことである。しかし、正義を愛しただけでは、今日のアメリカのように、民主主義を押し付ける傲慢国家になってしまう。力で相手を屈服させる、「軽はずみな正義」に偏ってしまう。アメリカの民主主義思想がイスラム圏に、理解されないのは此処にある。自国の民主主義が賛同されない元凶は、アメリカの押し付けがましい、力でねじ伏せる正義であるからだ。 それは、欧米人が「正義」を最良と思い込むことに、よく似ている。しかし決して、正義は、最良・最高のものではない。正義だけを強引に押し通せば、その背後には必ず腕力が必要になってくる。正義は力の裏付けがあって、初めて効力を発揮するものである。力がなければ、幾ら正義を喚(わめ)き立てても、絵に描いた餅(もち)である。正義を押し通していると自負している人間は、その行動の至る所に、武張ったところがあり、猛々しいところがある。あるいは傲慢も漂っている。そんな力での屈服を迫ることで、人は靡(なび)かない。靡いた振りをするだけである。 また、これとよく似た現象に、「自分の流派が一番」と過信している武道愛好者も、これと同じ過(あやま)ちを犯している。宗教を信仰する者の如きで、自分の宗派を最高と思っているところと酷似する。 つまり、正義の上に、「道」というものが存在することに、多くの武道愛好者が気付いていないのである。では、「道」とはなにか。 そもそも、「道」とは、「悟る」ことである。しかし、「悟る」ことほど、難解なものはない。非凡でなければ中々悟れない。悟りの境地からすれば、正義や正統といわれるものは、一段も、二段も格が落ちる。これは自分で悟った人間でないと分からないからだ。 ところが、自分で悟らなくても、「道」の境地に達することは出来る。自分に悟りが訪れなくても、「道」は客観的な思考を持つことで、横から見えてくるものである。第三者の眼として、物事を客観的に見渡せば、「道」は、その側面から見えてくるものである。 非を知るには、優れた書物を読んで知ることも出来るし、人との語らいの中で、自分の独善的な考え方に気付き、これを改めることも出来る。また、古人の客観的な考え方を取り入れて、自分の殻(から)を破ることも出来る。人間とは、それぞれがそんなに大きくない存在なのだ。これを大きな存在に見せるのは、第一が金の力であり、第二が権力による力である。この二つを取り除けば、人の持つ力は、ほぼ対等である。 ある剣豪が云った言葉に、「修行には段階がある」と、述べたことは非常に興味深いものがある。この剣豪曰(いわ)く、「人間の悟りに向かう修行にはランクがある」ということだ。 次に、初心者段階を超えて、次の第二段階に入ると、まだ物の役には立たないが、自分の下手さ加減も、他人の下手さ加減も充分に分かってくるという段階である。初心者と競えば、勝負には勝てるが、同輩には勝負を分け、上位者には負けるという不十分さを残している。 この不十分さを克服して、その上の第三段階に至ると、学んだことの総(すべ)てを自分のものにして会得し、また自分の腕を他人にも自慢でき、人から褒(ほ)められると喜々として喜び、些(いささ)かの武勇伝をちらつかせて、天下を取ったように、思い上がってしまう。自身が舞い上がってしまっている、この段階が、上・中・下の三段階に分類すれば、その「上」の段階である。 しかし、このランクでは、所詮(しょせん)この程度のレベルで落ち着き、結局、武張る、猛々しいと、まあ、これだけのところで止まってしまう、有頂天のランクである。 これを論じた剣豪は、多くの武芸者の大半が、「幾ら出きる」といっても、これ止まりの名人・達人が如何に多いかということを嘆き、この点を厳しく指摘している。世に名人といわれる人も、また、達人といわれる人も、総て此処まで止まりというのである。「上」の上に、まだその上があることを気付いていないと嘆くのである。 しかし、剣豪曰(いわ)く、その上に、更に特上なるものがあり、これをもう一段飛び越えると、此処で道は終わっておらず、そこからまだ延々と続いているというのである。そして更に突き進むと、また関門が控えて修行者を阻んでいるというのである。 この深遠なる境地に至ると、自分の不十分さが、更に分かってきて、一生涯かかっても、これで完成したと思われず、その一方、心から驕(おご)りが消え、自慢の心も起らず、吾(われ)に勝つ道の糸口を知り得たりとなるそうだ。 今日は昨日より精進の心を深くして、明日は今日より更に精進の心を深くし、一生、日々、自己の完成に向かって仕上げていく「道」が、武芸に課せられた「道の世界」だというのである。此処に至って、初めて「道」の糸口を掴むのであって、この「道」を完走したことにはならない。果てもなく奥深い世界であると、この剣豪は切々と論じている。 「水走り」も、この剣豪が論じたように、自らの「ごとごとしさ」を抜き、自己に絡みつく毒気を抜き、知識に振り回されない、自己を探求しなければならないとするのである。 武道愛好者、とりあえず、大東流コレクターといわれる連中の中には、高級儀法の知識・論法ばかりを詰め込んで、複雑なテクニックを使って、これこそ真の大東流という者が居るが、これなどは笑止千万であり、単に江戸時代末期から明治・大正の骨董品を蒐集(しゅうしゅう)しただけに過ぎない。この程度のものが、死に物狂いで、命を捨てて掛かる者に対して、通用しないのは明白であろう。 つまり、知識の蒐集は、これまで止まりという観(かん)がある。それは「道」から外れる為である。知識として、物を知れば知るほど、「道」からは遠ざかっていく。 「道」というものは、謙虚に自分の欠点を知ることである。常に反省して、悪いところを直す為に、日々、精進努力することである。これにも気付かず、いつまでも骨董品の悪い面を引きずっていても仕方のないことである。ここに本当の意味で、骨董品たる伝承武道と、常に至らない面を反省して、欠点を克服していく伝統武術の違いがある。 大事なことは、「一生、精進努力して」というのがミソである。 これを「水走り」で説明するならば、他武道には見られない独特のスタイルと、美しさと、スピード感などという、最初から精巧に作られた技術を演じるのでなく、遥かに演技を超越して、「流れるような動き」が自然でなければならないことだ。作られた、演武の為の演技であってはならないのである。 そもそも武術といわれるものは、スポーツ競技や格闘競技と違って、テクニックを競い合うものでもないし、あるいは骨董品的武道のように、ただ技の多さを誇るものでもない。武術の本当の目的は、敵に襲われた時機、敵を確実に倒す事のみが、その本分である。これ以外に、武術の本分はない。 倒すに必要な限りの、あらゆる儀法を学ぶのであって、命賭けの死闘の中で生き残る為に技数が必要になる。しかし、技数が多いからといって、それが必ずしも役に立つとは限らない。取捨選択が必要であり、実戦での適応力のあるものは拾い、役に立たないものは捨てていくということが必要であろう。学んだ分だけ捨てることだ。
●生者必滅の理 生ある者は、必ず滅ぶ。これに何人(なんびと)とも例外はない。これを「生者必滅」という。 死に近付くが故に、かつては肉体美を誇っていた体躯(たいく)も、やがては老い、病に臥し、確実に死に近付く。万人の定めとして、何人(なんびと)も生との訣別(けつべつ)を強(し)いるものである。これが運命(さだめ)であるならば、万人に等しく訪れる、「死」に対して、謙虚にこれを受け入れる。そして、それぞれは静かに、己(おのれ)が老いと向き合い、如何にしたら、事故死などの横死(おうし)から免れられ、更には自然死に至り、静かに、安らいだ臨終(りんじゅう)を迎えることが出来るか、真剣に探求しなければならない。これが無常観であって何であろう。 死は、人間を確実の襲うものである。人間こそ、この世に存在すべきものではなく、滅ぶべき非存在的な、生き物である。その滅びに襲われる最中に、「死生観」を解決しようと、大慌(おおあわ)てしても間に合わない。大慌てすれば不成仏が免れないのだ。 したがって、人間の「死」というものを素直に受け入れ、「生」を獲得する為に足掻(あが)くのではなく、静かに、心を掻(か)き乱さず、少しでも健康に、長く生きして、更に自己を探求するというのが、武人に与えられた最終課題である。この課題に取り組むことこそ、本来の武人の使命なのである。試合に勝って、勝ち誇り、有頂天(うちょうてん)に舞い上がることではない。謙虚に「行い」を慎(つつし)む事なのである。 慎みのない者は、自分が老いるということを知らず、自分の裡側(うちがわ)に、死が内蔵されていることを知らない。したがって、傲慢(ごうまん)になり、横柄(おうへい)になり、更に知性が低ければ、有頂天に舞い上がり、自らで墓穴を掘る事になる。現代はこうした輩(やから)が、決して少なくない。 一方、「心眼」というものは、益々廃(すた)れるばかりである。 武の起りは、自己の「死」を見詰める事から始まったといっても過言ではない。 捨てるものが多くある者は、「死生観」を解決してない証拠である。また、柵(しがらみ)を残す者も、この類(たぐい)であろう。 一方、武人面(づら)した似非(えせ)武人も居る。こうした類(たぐい)は、武人といっても、知性が低く、罷(まか)り間違えば、世間から「勝負師」と侮蔑されやすい。人と争い、技を競い、好戦的で人に挑戦し、人を見下すことしか知らぬ上昇願望の人間にとって、死は単なる敗北か、事故でしかない。 「生者必滅の理」を知らない者は、人の命を軽々しく扱う。人を恫喝(どうかつ)し、怯(おび)えさせて、強(こわ)持てで縛ろうとする。そして、権威に服従させることを押し付け、下には過酷で、上には奉仕することを覚えさせる。昨今は、こうした人間で溢れている。権威主義では、到底、「生者必滅の理」に迫ることは出来ない。 その証拠が、人命を軽視する軽薄な考え方である。 そこには、先の大戦の軍隊に見られたような、大勢を並べ立てておいて、権限を笠(かさ)に着て、頭ごなしに下級兵士を罵倒(ばとう)するようなことはなかった。こうした考えは、用兵の世界には通用したであろうが、武術修練の世界では通用しなかった。武人は、こうした方法で、人は育てられないことを知っていたからである。根本は人格教育であり、人格を有した人間こそ、心は穏やかになることを知っていたからである。かつての武人の教育は、此処に帰着した。 「生者必滅の理」を知らない者は、その見構えが猛々しく、また剣遣いが荒々しい。粗暴というべきだ。何処もかしこもが武張って居る。このように頭ごなしに他人を扱う者こそ、鄙劣(ひれつ)な態度というべきである。 昨今は試合中心の、武技格闘の個人的闘技が流行している為、単に「勝てばよい」という考え方が主流になっている。人格だの、品性だの、知性だのは、無用の長物と言い切る者さえいる。したがって、温情味は一切無用で、非情に闘うことこそ、勝負師には求められる態度などと嘯(うそぶ)く者も居る。 この程度の次元で止まっている人間は、結局、「生者必滅の理」を知る機会が失われる。 本来、清潔、質素、機能的というのが、「武人の身だしなみ」といわれてきた。これは「生者必滅の理」を知るからである。この姿こそ、死生観を解決した証拠でもあったのである。しかし、これを理解する者は少ない。
●左足の第一歩 禅の公案(きうあん)に、『左足を踏み込み、鉄の壁を通れ』というものがある。 左足を大きく踏み出せねば、右の抜き打ちで、相手の懐(ふところ)近くに飛び込むことは出来ない。行き詰るわけだ。その場で出来ないことは、一生懸(か)かっても出来ないのである。したがって、その場から先へ進むには「左足の第一歩」が肝心なのである。右足ではない。左足である。 その場から前に踏み込むには、踏み込みの大地を揺り動かすような「大一機」が大事である。一種の「大気合」とでも云おうか。 陰陽の足運びは、「静」の状態のとき、左足が「陽」であり、右足が「陰」である。ところが、「動」に変転すると、陰陽が入れ替わり、左足が陰となり、右足が陽となる。静と動では、陰陽が入れ替わることに注意しなければならない。 一般に、凡夫(ぼんぷ)は「明日がある」という。しかし、「今」には明日などなく、今しかない。今日出来ないことは、明日に先送りする習慣が世間に蔓延(はび)っているが、今日出来ないことが、明日にも出来るわけがない。遣(や)るなら、「今」しかないのである。これが「今」という現実だ。 人間は、今日一日の、「今」の枠(わく)の中に生きている。したがって、実体のあるのは、「今」ということになる。今できない事が明日になっても出来るわけはないのだ。これを遂行するのは、「今」であり、難事を後回しにしてはならない。「今」をもって、解決しなければならないのである。 斬り結ぶ 太刀の下こそ地獄なれ 踏み込み見れば あとは極楽 一心一刀をもって、突き進まなければならない時機(とき)、躊躇(ためら)ってはならない。最も大事なものは、まず、左足の第一歩と、踏み込んだ刹那に相手の腹を突くか、肩を袈裟斬りにするか、頸(くび)に一文字をくれて叩き落とすか、電光石火(でんこうせっか)の早業(はやわざ)しかない。この時機に、決して躊躇(ためら)うなという教えが、「左足の第一歩」なのである。右に足ではない。左足なのである。 本来、道に通じた達人の動きというものは、決して速くない。むしろ肉の眼で見る限り、決して速くは感じられない。それでいて、敵は動けぬ形に追い込まれ、機先を制せられているのである。つまり、遅い動きを見せるのは、スピードに頼らなくても、行動線が最短距離を通って、機先を制するからである。
凡夫(ぼんぷ)のスピードに頼った、一見速い動きと、達人の遅い動きの間には、時間や空間を越えて、「間(ま)」の遣い方に決定的な違いがあることだ。「間」の取り方に特徴があり、三次元での時間や空間に制約されていないからである。 これは観察眼が確かということに尽きよう。観察眼が確かであれば、「出足」を損することはない。見逃しや聞き逃しがある人間ほど、「出足」は遅れる。 一方、余裕のある動きは、「ごとごとしく」見えない。「水走り」としての流れる流麗(りゅうれい)さがある。未熟者がバタバタと騒がしい振る舞いに対し、達人は余裕がある為、その行動線は最短距離を通り、機先を制することが出来る。ツボを心得ているからだ。 「左足の第一歩」が出遅れる者は、万物が流転し、形あるものはやがて滅ぶという現実を、実感として自分のものに感得していない。他人事である。自分は「死」とは無縁と考え、自分だけは例外と思っている。しかし、死は確実にやって来る。 「死」というものが、自分の人生の何処でピリオドを打つかは、天命の定めるところで、人は誰も予測し得ないが、しかし、それも僅か百年以内には決定される。そして、人は、こればかりは、死に方も選べないのである。だからこそ、「死生観」は、生きているうちに解決しておかねばならないのである。
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