トップページ >> 技法体系 >> 西郷派大東流槍術(三) >> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
●槍の働き 槍術は平安時代の後期の頃、中国から移入されて物であるといわれる。それまで「長物」としては薙刀が主体であった。
槍術の特徴は、敵から見て遠く、自分から見て近い間合にあり、単に、単発突きだけではなく、追い廻(まわ)すように繰り出す、「三段突き」あるいは「五段突き」である。そして、繰り出す突きが早いというだけではなく、退(ひ)きも非常に早いということである。 ちなみに、三段突きや五段突きの「三」や「五」の奇数の回数を表す数字は、単に語呂(ごろ)合わせだけではなく、剣術における太刀受けの回数が「一之太刀」からはじまり、「五之太刀」で終わるという剣術型によるもので、この回数に併せて「突き」の回数を定めているものと思われる。また、「三」や「五」の奇数はリズムも取り易いようである。 つまり、第一の「一の突き」 で躱(か)わされた場合、一気に「三段突き」から「五段突き」へと変化させ、素早く付き捲るのである。また、三段突きや五段突きといわれるつきは、これだけの回数を繰り出すのであるから、同時に「退き」も素早くなければならず、「突き」が早いということは、「退き」も早いということである。 特に、槍の場合、剣を持つ敵に対し、遠くから繰り出すことが出来、槍と対峙(たいじ)した場合、長太刀や長巻は別にしても、一般に定寸といわれる2尺3寸5分程度の中太刀と謂(い)われるものは、この立場からすれば槍に対峙したがけで不利であった。
剣術の剣士から検(み)て、長物と称される槍術者と対峙した場合、槍はどのように映るのであろうか。 槍術を稽古するには、単に槍術だけの稽古では駄目であり、また剣術を稽古するにしても、剣術だけでは駄目である。自分と敵の立場を入れ替えて、稽古することが肝心であり、槍術者は槍の稽古と倶(とも)に件の稽古もする必要があろうし、剣術者も剣だけに止まらず、槍術も十分に稽古を積まねばならない。
●変化の槍 槍は千変万化するものである。槍の特徴は、遠い間合から敵を襲うことであり、更にその繰り出しにおいては、二段突きや三段突きが繰り出される。そして、剣術者が槍術者に付け入るのは、一瞬の隙(すき)の乗じるチャンスがなければ、勝利は覚束無(おぼつか‐な)い。
さて、槍の長さについては矛先から石突まで、全長9尺(約2m70cm以上)を超えるものもあり、この長さの槍を長槍という。更には6尺以下の槍を手槍(て‐やり)という。また更に短い、籠槍(かご‐やり)というものがある。 これらの槍は、一段突きや二段突きばかりでなく、「三段突き」や「五段突き」といった、繰り出してくる回数を連発し、刀と同じように斬りつけ、あるいは薙刀と同じように、三角形裏地平造りの槍は、水平に、横に薙ぎ払うという効果を持っていた。 人体は直立したとき、縦の上下動静脈は通ずる仕組みを持っている。動静脈の血流は「縦の循環」を行っているのである。また、縦の循環をしているのは、血流だけではない。気も、また縦を循環しているのである。つまり、直立歩行をする人間の人体の「気血の運行」は、縦循環をしているのである。 その為に、裏地平造りの槍を水平状態にして突くと、動静脈を切断することが出来、敵に対し致命傷を負わせることが出来るのである。「三段突き」や「五段突き」を浴びせると、それだけ疵(きず)の箇所も多くなり、喩(たと)え急所が外れたとしても、「二の突き」以降で致命傷を負わせることが出来るのである。 人間の表情には、表面的なものばかりでなく、その内面には虚実様々な心の動きが隠されている。そうした虚実と、敵の心の動向を見抜くことは中々難しい。しかし、戦いに臨み、自他の間には武儀を通じた虚実の駆け引きが起る。 例えば、敵と対峙しての無言の虚実から伝わってくる波動は、一つは、まず「間合」といえよう。この間合を巧みに計り、敵が遠間の時機(とき)は、剣術者はその多くが「八相」、または「大上段」に構えることが多い。 一方、近間の時機は、だいたいが右足右手前の「半身正眼」である。この半身正眼は、剣術者の動向として心の裡(うち)を読み難いものである。敵の攻撃の的が絞り難く、また「目付」は主として剣術者の両方の拳の動きにあると見てよい。それと同じように槍術者も、左右両方の拳にあり、その時機の目付は姿全体から両方の拳の動きが重要になる。 剣術者の心理と槍術者の心理を比較した場合、槍術の突きの繰り出しや、退きの速さは、何れも乱戦となって大きな効果を表し、まず穂先と石突を自在に操って、突き、払い、叩き、繁(しげ)き(【註】間をおかずに何度も繰り返す)などが行われる。 この場合、剣術者は槍術者の槍が、秘点の構えから突いてくることを覚悟し、次に太刀で槍の千段巻の箇所を斬り払おうとするのが常である。だが、槍術者の突きはこれだけではない。一旦払われれば、直ぐに退(ひ)き、その素早い退きから再び、「三段突き」や「五段突き」が繰り出されるのである。
●槍術者の心得 槍術者は「緊張」を旨としなければならない。人間の持つ緊張とは、「魂の香気」を持っている人であり、この人は柔軟性を魂の中に持ち、香気が漂っている人を、「高貴な緊張の人」と呼ぶ。 自らを律し、自らを励まし、緊張を続けるということのみが、香気を保つことが出来、決して自身を、緊張が欠いた位置においてはならない。 では、「緊張」とは何か。 動物は、他者の姿を認識したとき、そこには一瞬の緊張が疾(はし)る。これは極めて自然なる動物的な反応である。 相手を知っているのであれば、この緊張はある程度和らいだものになるし、知らなければ、初対面に相応しい緊張が疾る。また、若年者と年長者との緊張も、その出会い頭では、それぞれに異なるだろう。しかし、何(いず)れも緊張であることは間違いない。 更に「緊張」を深く突き詰めると、単に警戒するばかりでなく、緊張は、自他の違いも明確にさせてしまうものである。その違いの中に、他者との関係において、相手の長所を逸早く発見するという、「人を活かす」確認も出来るのである。 つまり、人間は緊張を通じて、他者が、どれほど自分を育てるかという役割の担っていることに気付くのである。 人類の歴史を振り返れば、私たち人間はその歴史の中で、あるときは拒否され、あるときは嫌われ、あるときは積極的に排他的に意地悪をされ、時には愛され、時には救われ、時には賞賛されて、その中で、どうにかこうにか、「一人の人間」を創り上げてきたのである。則(すなわ)ち、これも緊張が為(な)せる業(わざ)であった。 一方、緊張が欠如した人間はどうであったか。 他者を観察する眼は、自分以外の世界を観察するのであるから、程度は別にしても緊張が無いと、他者の存在を見抜けなくなる。また、弛緩型の精神により、イザという時機(とき)に不覚を取って、朽ち果てる運命が免れない。 イザという時機には、その「時」と、その「場」との状況判断を的確にし、これを合わせて、決断をするという努力が、則(すなわ)ち緊張である。つまり、時と場所におい、て自分が何処に居たらいいか、何をしたらいいかということが瞬時に決断できるのである。これが出来れば、過剰な疑心暗鬼は起らないであろうし、また、でしゃばることもあるまい。それは「見極め」がつくからである。あるいは「見通し」といってもよいであろう。 人間は至る所に起居(たちい)振る舞いがあり、行動や行為がある。例えば食事をしているとき、風呂に入っているとき、寝ているとき、朝起きたとき、就寝のとき、自分はどのように振舞うべきかの行動原理がある。この行動原理こそ、まさに「緊張」なのである。 行動原理においては、歩行の仕方、走り方、立ち止まり方、屈(かが)み方、目配りなど、これを怠ると、放心になり、危険で覆われているこの社会では、一種の社会的罪悪となる。人間は、怪我をしたり、傷を負わされたり、殺されるような局面に接するのは、これは偶発的に、偶然に起っていることではない。総て必然的である。隙が狙われるからだ。 これは病気の場合も同じであろう。現代は、ストレス病が成人病を生むとか、生活習慣が現代病を生むなどと称されているが、その元凶は、やはり自分自身の緊張に未熟があったといえる。放心すれば、生活習慣の誤りや不摂生から、即、成人病が忍び寄るのである。 こうした病魔に襲われるのは、単に日頃の緊張なさから起る「隙」である。隙のある人間は、高血圧症や動脈硬化症など、その他の成人病にも罹(かか)り易い。そして、これらは殆ど完治することが無いから、後は無慙(むざん)な死を待つばかりである。これは人間の愚かしさと、緊張なさと、隙が招いた結果からであった。 また、ストレスから病気になる人は、むしろ幼児期から緊張をすることの訓練を受けなかった人で、これが成人になっても、未熟なままで、「緊張の訓練」を受けなかった人は、晩年が無慙な死だけが待っている余生を背負う人である。 さて、真の緊張は、必ず自然な弛緩を伴うものである。緊張していても、緊張しっ放しということはない。むしろ起居振る舞いに隙を作らず、「弛緩の法」を知っている人は、賢い方法で、適度な緊張を保つことが出来る人である。これは、柳生宗矩(やぎゅう‐むねのり)が説話として説いた、『牡丹下の猫』でもお馴染みだろう。 また、絶えず緊張して、人間と世の中の観察をしていれば、それを本気で見詰めて、その動向を観察することが出来、そこに自(おの)ずと、一切の動きが把握できるようになる。しかし、これには個人差があり、緊張の欠ける者には、やはり観察眼が疎(うと)いようだ。個人の観察する能力と、緊張を持続させる能力には、個人差と限界があるということである。 また、個人差や限界というものも、緊張という観察眼から生まれたもので、自他との比較を、この眼が物語るのである。そして、そのとき、人間は初めて、自分を解き放ち、あるいは時には周囲の現状を見て、自身を締め上げることが出来るのである。この二種類の「緊弛の操作」を会得した者だけが、適度な緊張を常に保ち、決して隙を作ることもなく、快適な、それでいて卒の無い人生を送ることが出来るのである。 それに比べ、緊張の訓練を受けなかった人は、人間的に言って、「病的」である。また、この訓練を受けなかった人は前頭葉の未発達もあって、晩年からの人生では成人病を抱え込み、それに負けて死んでいく。高血圧症から脳梗塞となり、植物人間などになるという、このお決まりのコースこそ、実は、幼児期から緊張の訓練を受けなかった人の典型的な見本である。 また、緊張の無い人間は、本質的に言って、精神の為にゆったりとしたスペースを自分の中に作り出せない人である。こうした人は、直ぐに腹を立て、短気で、せっかちである。また、寿命も尽きてないのに、死に急ぎをする人でもある。成人しても、前頭葉が未発達であるからだ。 このような人は、病気に殺されるか、傷害事件に巻き込まれるか、事故や怪我をして致命的な後遺症を負うか、植物人間になるか、経済的に困窮して借金地獄に追い詰められ自殺するか、あるいは殺人事件に巻き込まれて殺されていく人である。つまり、緊張の欠如が不幸現象を招くのである。 その一方で、こうした人に共通することは食生活も間違いだらけで、食べ物も甘い物が多く、アルコール、タバコ、白砂糖中毒になりやすいコーラなどを一日に、大量にがぶ飲みし、低血糖症となり、神経の緊張を弛(ゆる)め、また、テレビの低俗なお笑い番組などを何時間も視聴して、精神を腐らせている人である。 槍術者の心得として、柔軟なる緊張を生涯保ち続けていきたいものである。
また、緊張は「死を疑似体験する」ことができる。 そして、多くの日本人は戦後、物質的には世界有数の発展を遂げ、経済的にも幸運に近いものを手に入れた。更に、これらの相乗効果から、「死」について、余り考えない社会システムが出来上がってしまった。教育現場でも、「死」については殆ど教えることはない。ただ生き延びる、安全第一の安全教育(セイフティ・エデュケイション)が前提となっている。危険なものを総て取り払い、安全なものだけを競技化して闘わせ、スポーツ化、あるいはゲーム化したのである。これは所謂(いわゆる)、死から遠ざかる「生の概念」を奨励しただけだった。 死は、現代人から遠ざかりつつある。したがって、現代人が抱いている最も多い概念は、幸運にして、まだ若いという理由で、自分はまだ死を約束されていないと思い、死について全く考えないことである。死の用意について、その準備も何も無いことである。 しかし、人間の「生」は、「死」と渾然一体である。 生と死は表裏一体なのだ。 日常というのは、これが非日常に変化するかも知れないのである。自分で若いと信じる人でも、若者の死は日常茶飯事に起っている。難病奇病に置かれる、ガン発症を筆頭とする種々の成人病、交通事故や殺人事件など、若者が巻き込まれる事件は、挙げればきりが無いであろう。 もともと非存在である人間は、今の存在が、いつ、非存在に変化するかも知れないのである。そして現代人が、いま認識しなければならないことは、死を引き当てなければ、生の意味は解らないということである。
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