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槍術を含み独特の体捌きを錬成する

大東流槍術と白兵戦
(だいとうりゅうそうじゅつとはくへいせん)

●白兵戦術における大東流槍術

 戦場において両軍の戦術が展開されるとき、最初は弓矢や鉄砲の弾丸の応酬となり、次に長槍隊の登場でジャブを打ち合った後、その後、本格的な白兵戦となる。そして白兵戦もなると、侍大将同士の一騎討ちの形が取られる事がある。
 また、その白兵戦の中でも、稀(まれ)に「騎馬武者(騎士あるいは騎兵)」対「徒侍(歩兵)」の一騎討ちが行われる事がある。

 大東流にも槍術において、騎馬侍(きばざむらい)と徒侍(かちざむらい)の一騎討ちを想定して、「騎馬侍」対「徒侍」の関係で、互いに鬩(せめ)ぎ合いをする形の攻防は存在している。上士(じょうし)の乗った騎馬侍を追い落とし、下士(かし)がその馬を奪ったり、逆に、上士は下士である徒侍に「抜手(ぬきて/騎乗柔術)の術」を掛けて、追い落しを防ぐのである。
 この攻防は、人類が戦いをはじめた古来より存在する。

 徒侍(かちざむらい)とは、下級歩兵の意味で、家録(俸禄)が十人扶持(じゅうにんぶち)以下の足軽(あしがろ)や中間(ちゅうげん)の下級武士である。この身分の者は、普段は騎乗が許されず、徒歩戦において、白兵戦になった場合に配備された特異な槍術、あるいは薙刀や太刀を振るう抜刀集団である。
 この集団は、戦いが、最初は飛道具の弓矢や鉄砲のが打ち込まれた後、柄長槍(えながやり)の雑兵(ぞうひょう)同士の槍術戦が行われ、次に騎馬武者の突撃が行われ、こうした展開後、白兵戦となり、「騎馬侍」対「徒侍」の攻防戦が展開された時、徒侍の槍と、騎馬侍の馬上からの太刀との戦いが展開されるのである。
 白兵戦とは、「白刃」(はくじん)をもっての斬り合いを意味し、あるいは槍や剣で突く事を意味する。白兵はこうした、あらゆる武器の総称であり、白兵戦は白兵を用いての肉薄戦の事を指すのである。

 また槍は、徒歩戦に於てのみ行われるものではなく、騎馬同士の槍騎兵による槍術も展開された。騎馬武者同士が槍を持ち、互いに突撃して、鉄製の胴丸を貫通させる戦術である。この戦術は、源平時代には見る事が出来なかったが、鎌倉期を経て、「元冦の役」の頃になると、日本人は蒙古軍槍騎兵の突撃戦術から、これを学ぶ事になる。

▲蒙古軍槍騎兵の図

 さて、徒侍は騎馬侍の太刀に対抗して、槍をもってこれに応戦し、騎乗の武者を「薙(な)ぐ」、あるいは「突く」のである。徒侍が六尺か、または八尺の槍で突き上げる場合、捻りを入れるのは勿論の事であるが、わが西郷派大東流では、突く瞬間の刹那(せつな)に、「エイっ」と気合いをかけて息を吐くのではなく、その瞬間に「吸う」技術を行う。吐かずに、吸う独特な吐納法は、逆腹式呼吸を持って行い、この呼吸法を丹田呼吸という。突きの瞬間に気合もろとも吐くと、「腕(かいな)捌き」と、突きの捻りの際に加える「撃(う)ち」の発気力が半減するからだ。

 一般に呼吸は、「吸う」より「吐く」方が気合いが入り、威力が或ると信じられている。
 ところが吐いた場合、気合いの大声に反比例して、効果的には半減し、胆力の気勢が漏(も)れているのである。その結果、思ったより威力的でなく、衝撃が小さくなる為、気勢が対象物の媒体の反動に負けた場合、一気に腰砕けとなる。

 つまり、目標に命中しながらも、作用と反作用の関係から反動を受けて、逆に押し返されてしまうのである。媒体を突き刺した場合、しっかりと捻りを加えておかないと、自らも突いた媒体から反動を受け、跳ね返されるので、槍の穂先は回転しながら、捻りが加わるというのが槍の突き方である。だから「撃つ」時の呼吸は、発気と共に「吸う」ことが肝心であり、決して「吐く息」であってはならないのである。
 この腰砕け状態を度外視して、吐く方が気合いが入り、気勢によって、敵を殲滅(せんめつ)させる事が出来るのでは?、と信じられているのである。しかし、これは非常に大きな誤りである。

 気勢で敵を殲滅(せんめつ)できる場合は、敵は大声に驚き、心理的に動揺した一瞬だけであり、一旦大声に慣れてしまえば、同じ手は二度と喰(く)わないのである。したがって古来の秘伝によれば、気勢は「内なるところ」に秘めるもので、外には出さないものとされている。
 この呼吸が、出る際の陽(よう)の行動の裡側(うちがわ)として、陰陽相反する「吸う呼吸」である。吸う時に繰り出される威力は、吐く時の衝撃の二倍であり、これに「捻り」を加えれば、相乗効果によって、「2の二乗」となる。

 大東流槍術に見る戦術は、単に直線的な運動をして前後の動きのみをしない為、これに捌きが加わったり、槍を前後にしごく際に「捻り」が加わえる。また連射状態で敵を襲う事になり、「2の二乗」効果を、充分に発揮できるものとなっている。

 古人はこの呼吸を実によく知っていて、突き出す際、決して気合いで突くなどの愚行を行わなかった。白兵戦が展開された場合、気合いの掛け合いで戦っていては、体力を益々消耗してしまい、最後は腰砕けになってしまう。したがって突く際は吸い、伊吹(いぶき)としての息継(いきつ)ぎを行うのである。
 ただこの場合、徒侍は騎馬侍を突き殺す事が目的ではなく、騎馬侍の後ろから廻り込み、飛び乗って敵馬を奪い取るのが目的(馬術を稽古するのは騎馬侍に限らず、徒侍も普段から馬術を稽古していた)であった。

 また合戦の場合、一人の騎馬侍が常時乗る馬は一人に対し、約三頭くらいが平均である。したがって、こうした騎乗しない馬を曳(ひ)くのは身分の低い徒侍だった。彼等が馬を曳き、そして事あるときは、主人に代わり馬を馭(ぎょ)したのである。
 また彼等は、「腕(かいな)を返す」ことに長じていたのである。「腕を返す術」は、これを鍛練する事により、馬をねじ伏せる事ばかりでなく、馬の巨体を、一人で制すると言う術に長(た)けて来るのである。
 西郷派大東流で言う、「八人捕り」もしくは「十人捕り」という多数之位は、こうした基本的な「腕を返す術」が、その母体を為(な)しているのである。多数捕りの由来は、ここより発する。

 また徒侍が槍を携帯した場合、白兵戦に於ては、下から上へ突き上げると言う儀法(ぎほう)が前提となる。しかし敵の騎馬武者と遭遇した場合、下から突き上げると言うことよりも、一種のフェイント的な行動律に従って突くのが目的であり、この場合、槍の長さ(五尺状の棒先に一尺の穂先(ほさき)きに袋槍(ふくろやり)を被せたものなにか、八尺か、一軒か)が問題になる。
 袋槍の発明は、槍の柄が折れた場合や、切られた場合に、臨時に槍を仕立てる方法であり、普通は五尺くらいの長さの柄や、棒に袋槍を被せ、これを槍にするのである。

 古来より、「槍」(やり)と「戈」(ほこ)は異名にもかかわらず、同種のものであると考えられてきた。古期時代に至っては「戈」(石製や銅器製)と呼び、後世に至っては、これを「槍」(鉄製)と呼んだ。つまり「戈」の名称は、最古の武器として、上古時代のみ盛んに用いられ、鎌倉時代に至れば、「戈」の名称は使われなくなった。異名同種のこれ等のものは、今日では総称して「槍」と言う。
 そして槍は、主として刺殺用に用いられる、長柄の武器を言うのである。

 穂先きが一尺までのものを「定寸」とし、一尺以上のものを「大身」の槍と言う。
 「大身の槍」は刃渡りが長い為、槍の操法に於ては、単に「突く」と言うだけの目的ではなく、「薙ぐ」という目的も兼ね備え、薙刀(なぎなた)のように振り回し、敵を薙いだ後、突くと言う動作に至るのである。これが「定寸の槍」と「大身の槍」との操法の違いである。


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