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誇りの裏付けとなる数々の技法

高齢者の護身術《思想概念篇》
こうれいしゃのごしんじゅつ《しそうがいねんへん》

●あなたの英知が試されようとしている激動の時代

 平和ボケに慣れ、小市民化した大多数の日本人は、レジャーや娯楽、スポーツや芸能などの談義に、エネルギーを投入する事に余念がないようだ。
 またそれ以外の、老後の生活に関しては、これまでの自分の生活の質を落さずに、その生活が継続できるか等のことであり、先を見据える眼は、自己を中心とした主観的な心配事の範疇(はんちゅう)に止まっている。

 その一方で、今日の日本人は、外交や経済政策、資源や食糧対策、防衛や軍備にはあまり眼を向けたがらない。ここに、夏の季節を謳歌(おうか)するキリギリス的日本人の実態がある。
 しかし四季をめぐる季節は、フォー・シーズンであると言うことを忘れてはならない。夏の季節も、やがて過ぎ去るのだ。秋が来て、冬が来るのだ。

 マイホーム固執型の個人生活は、排他的な面が目立つばかりで、「地域ぐるみ」でという共同作業に非協力的な面が多く見られ出した。エゴイズムの表面化である。また、個人生活を上げても、家庭内での防犯や防備に対し、激動の時代を対処しうる態勢が整っているとは言い難い状況にある。
 いや、多くの日本人は、その準備すら、殆ど手付かずの状態ではあるまいか。
 それは賊が容易に、マイホーム固執型の家庭内に侵入する事件を見ても、それがよく分かる。これこそが闖入者(ちんにゅうしゃ)を容易に許す、間接的な無防備である。ドアや窓に鍵を掛けても、心の扉(とびら)に鍵を掛け忘れているからだ。

 この現代人こそ、平和ボケの最たる生き物であろう。「百年の計」など、何処にも見当たらない。今が楽しければ、それでよしとする場当たり的な、キリギリス的人生を誰もが送っているように思われる。
 政治家は、未(いま)だに政争に明け暮れ、国民の関心はレジャーや娯楽、スポーツや芸能情報ばかりに現(うつつ)を抜かし、それを今もなお、追い駆けている。誰もが、こうした物に現(うつつ)をぬかし、国家とか、国防とかの、健全な批判精神を忘れている。戦争も知らず、武器も知らず、戦う術すら知らない。
 この、何処までも、お人よしの日本人は、一体何処に向かおうとしているのか。

 蝸牛(かくぎゅう)的な政治の世界を見ても、某代議士の喋り語った事の言葉尻を捉えて、この追求ばかりに明け暮れる野党の実態と体質しかり。
 粗(あら)探しばかりに奔走する野党の実態は、国民側に存続するようなポーズを取りながらも、自己保身しか考えない代議士の群れが、唯一人気勢を上げ、最早、根本を語る事の出来ない独断論的な要素が強くなりつつある。そこには以前にも況(ま)して、国民不在の政治が展開されている。

 また、経済に眼を向けると、自社の存続しか眼中にない大企業は、自由競争を口実にして、未だに弱肉強食の経済展開のみに終始している。そして、そこにも国民は不在である。
 ツンボ桟敷(さじき)にする国民の家畜化政策が、今なお、企てられている。

 日本は大洪水や、その他の大災害などが起らないと、防備や対策が完全に築かれない国である。常に後手に回り、防衛の意識が薄い国である。
 平成19年の1月、2月は例年になく異常な暖冬であった。日本人はこの暖冬から、いったい何をイメージするだろうか。
 多くの日本人は、「今年の冬は例年になく暖かかった」という、それだけの感想を持ったに過ぎなかったのではあるまいか。あるいは、何かを感じても、「何か気持ちが悪いような季節……」などと、それくらいの感想ではあるまいか。したがって、その先にある「何か」を読み取れる人は少ないであろう。

 暖冬の年は、早くから昆虫などの活動が盛んになる。それにより、昆虫の異常発生も考えられる。本来、冬の間に死んでしまう大多数の虫が死なずに越冬して、次の世代にリレーしていたら、一体どんな事が起るかなどと、ここまで読みを立てる人は少ないであろう。

 暖冬の冬に発生した昆虫類や、節足動物その他の動物ならびに微生物は、必ず初夏から晩夏にかけて、不穏な禍根を大発生させる事が予測される。それは細菌類の大発生であるかも知れないし、葡萄球菌・ボツリヌス菌・サルモネラ菌・大腸菌・腸炎ビブリオなどが介在する食中毒、あるいは伝染病などの、これまで人類が克服したと信じられていた感染症が大流行するかも知れない。O-157などは、その最たるものであろう。
 果たして、こうした細菌類からの防禦は万全なのか。

 また、暖冬により暖められた太平洋の海水温度は、早い時期から暖められ、台風の発生は早い時期から襲来する事になろう。そして単に襲来するばかりでなく、大型化が予想され、多くは大きな被害の爪痕も免れないであろう。
 アジアに於ては、台風の進路を追うと、南シナ海に発生して、アジア大陸・フィリピン・日本列島などに襲来することが報告されている。また台風の定義は、最大風速が毎秒17.2m以上の熱帯低気圧とされている。この熱帯低気圧は日本列島に近づくにつれ、勢力を増大させる。昨今の特長は、この熱帯低気圧が巨大化する傾向にある。そして通過後は、各地に大きな爪痕を残す。

 日本を襲う元凶は、これだけの止まらない。これまで多くは観測されなかった竜巻などが、突風現象として、日本を襲っている事は周知の通りである。
 そして、これに併せた天変地異が襲う事も、大いに予測されることである。

 また、日本の天変地異が発生した時に、日本を襲撃する政治的な思想を持つ独裁国家が、朝鮮半島にある事を忘れてはならない。
 これ等の共通の予測は、日本に大型台風が直撃したその後か、大地震などの異変が直撃して、国内が騒然となっている状態の時に襲われれば、一溜まりないだろう。
 幾ら警察力が世界一の検挙率をもっている日本と雖(いえど)も、大混乱時には、人々のモラルも低下している為に、凶悪犯罪は容易に起こす事が出来る。パニックに乗ずれば、赤子の手を捻るように、簡単に目的を達することができる。

 人間の考える予測や予想は完璧ではない。また、こうした風災害に加えて、同時に地震が発生したらと、悪い巡り合わせを二つ、三つと連続させて考える人も少ないであろう。更に、こうした巡り合わせに、政治的な問題が絡み、外国の好戦的な軍隊が、この隙に乗じて侵入したらどうなるか。
 多くの日本人は、こうした政治的な側面がある事に、殆ど気付いていない。

 経済や政治の動向とともに、国際社会への激動についても、読みを立てる事が、一種の防衛であり、これが防衛並びに護身に繋(つな)がるのだが、この事を知る人は少ない。また現代人は、大自然とは別の空間で生活をしている為に、現代に襲い掛かる大自然からの反撃を知らずに見過ごす事が多くなった。そして、災害に見舞われて、はじめて見過ごしていた事に気付くのである。

 これと同じような意味で、外国の軍隊に再び占領され、支配されてみなければ、日本国民は国際社会が激動であると言う事に気付かないのだろうか。
 しかし国防にしても、防犯にしても、護身にしても、犯罪に巻き込まれ、殺されて、被害者となった後では遅いのである。

 人間は、体験だけでは動くものではないだろう。
 人類は各々の時代、各々の民族の過去の様々な体験を寄せ集め、それを集積して、体系化した「歴史」というものを持っている。歴史に基づいて、物事を考える経験を学習してきた。その経験こそ「教訓」として働き、これがいつの時代にでも機能しなければならない。これによれば、それに基づく事により、未来を予測し、対策を立てる事は不可能ではないだろう。

 しかし、長い歴史を持ち、優れた伝統を持つ日本人でも、危機管理意識に目覚めなければ、単に愚かな国民に成り下がってしまうのだ。
 今こそ、激動に時代にあって、誰もが世の中の不穏を感じ、混沌とする世情の中にあって、これから先、日本民族の英知が試されようとしている時代は、過去の歴史のどの時代にもなかったと言えよう。
 こうした現実下に、あなたの行動は、今こそ、その英知が試されようとしている時機(とき)なのだ。

 

●無抵抗主義に慣らされてしまった日本人

 日本国内には現在、犯罪を専門とする不良不法入国者が非常に多い。更に懸念(けねん)されることは、大地震時やその他の天変位置の動乱の災害時に乗じて、不法入国者が混乱の隙を窺(うかが)って、犯罪を犯すかも知れないと言う、予測不可能な危険性である。
 無防備な日本人は、海外からの不法入国者が、日本人同様に節度を守り、社会ルールを守るか否か、それを注視する必要があろう。しかし不法入国という形で、彼等は既に犯罪を犯している。

 一般に言にわれている、関東大震災時に起こった外国人への虐殺事件の為に、この問題を公に論(あげつら)って、それを公表できないこと事態が、既に問題であると思われる。日本人は、その多くが、外国の本当の怖さを知らない「呑気なウサギ」なのだ。
 この事は、海外旅行をして犯罪に巻き込まれた人ならば、その怖さが、よく分かることであろう。自分の甘さを思い知らされたことであろう。
 しかし、大半は外国人の怖さを知らない。外国映画に見るような、誰も彼も、皆スマートな善人と思っている。

 それはあたかも、ライオンの口の前に、エサを握って差し出す、あのウサギの愚行にも等しい思考である。腹をすかしたライオンは、ウサギの差し出したエサだけを喰うのではない。また、腕だけ、ガブリなどと夢想してもいけない。ウサギごと、丸呑みして喰ってしまうのである。

 現在の実情から考えると、自警団などの防犯組織を準備する必要があるといわれている。しかし、この動きは非常に弱い。更に、大規模災害時に、自衛隊の救急出動要請を拒む地方自治体もある。
 こうした間違った戦争否定論ならびに軍事研究否定論は、大災害時、偽情報で情報パニックが起る事は必定で、そのパニックはまた、外国人不法入国者の犯罪組織の犯行を裡側(うちがわ)から容易にする現状を作り出している。

 阪神大震災で、不法入国した外国人が何をしたかを見れば、それは明白となろう。その為にも、対処は必要である。
 大規模災害時には、自衛隊による保安行動を取らせる手立てが必要である。しかしその前に、災害時に自衛隊を入れたがらない、各市町村の長を取り締まる必要もある。彼等は災害時に遭遇しても、なお、執拗に政治的なイデオロギーや、自分の所属する政党のビジョンを掲げ、住民の意識を無抵抗思考に切り替えておいて、偽善的な無抵抗主義を貫こうとする革新政治家も少なくないのである。
 そして、災害時に怖いのは、一部の心無い者から流される「デマ」である。

 例えば、いま震災が起こったとして、「アラブ人が毒を撒(ま)く」とデマが流れても信用する人は少ないだろう。日本人と顔も形も違うからだ。
 逆に、日本人によく似た東洋人が、何かを働けば、それは即座に波及する。例えば、「中国人の犯罪組織が組織的に、火事場泥棒をやってる」などと言えば、地域住民は警戒して、自警団を組織するかも知れない。
 噂が信憑性を帯びるのは、その人達の「普段の行い」によることが多い。

 こう見ると関東大震災の災害時、「当時から朝鮮人がいかに酷かったか」をつくづく思い知らされる事がある。この事実を学校の教科書で教えない。既に、政治的な圧力が掛かり、イデオロギーとしての抑止力が、日教組を中心とする小中学校の教育現場で働いているからだ。

 以上の事から考えても、今日の学校で教えている無抵抗主義の平和教育が、如何に危険であるか、人命を尊重する立場から考えれば、一目瞭然になろう。
 また、人間の本能は、無抵抗主義でホールドアップしている人間を、何もせず、何も奪わず、「許す」などという心境に慣れるほど、人間はそこまで進化を遂げていないのである。そして、無抵抗な人間ほど、襲い易い種類はないと云う事を肝(きも)に銘ずるべきであろう。

 憲法第九条の戦争放棄の非常識は、既に述べたが、日本だけが世界の中で非常識なる憲法を持ち、これを後生大事にいつまでも懐に仕舞っているのである。この非常識を、常識だと信ずる方がいたら、「日本国憲法の憲法第九条」を世界中に広めてみたら如何だろうか。

 まず、手始めとして、韓国や北朝鮮に、自国の自衛権を放棄するように、是非とも勧めてみたらいい。次にフィリピンでタイで、その他の東南アジア諸国で勧めてみたらいい。更にバルト三国でも、ロシアでもフランスでもドイツでも、現行の日本国憲法に共鳴する人々を探し出し、人民に、国家に、是非とも勧めてきたらいい。こうした日本国憲法のような戦争放棄を掲げる憲法が、果たして通用するかどうか。
 これこそ「非現実な空想」ではなかったか。

 また、日本人の戦後教育を受けた脳裡に、「非武装中立」なる不可解な思考が残留している。もし、非武装中立が人類の普遍的な真理だとすると、何も、狭い日本の国内で、ごちゃごちゃ言わず、世界に飛び出してこれを勧めたらいい。ロシアに行って、エストニアに行って、「同士たち」に向かって、聖者の真理を伝道すればよいだろう。

 また進歩的文化人か掲げる左翼思想もしくは共産主義に対しても、「非武装中立」なる不可解な思考を北朝鮮で、中国で、伝道してみるといい。
 更に、進歩的文化人に限り、自分たちの描く共産主義型の社会主義と異なるのなら、是非とも世界に飛び出して、同じ考え方を持つ同士たちに、その素晴らしい共産主義を説くべきであろう。今こそ、数億の同士、あるいは党員を獲得する、またとないチャンスではないか。

 しかし、日本人のレベルで考える非武装中立は、一種の平和念仏のようなものだから、この非常識にも甚だしい、南無阿弥陀仏的念仏は世界では通用しないだろう。
 平和主義的念仏は、「平和、平和」と口にすれば、極楽に生けると信じている、念仏宗の極楽信仰に酷似する。 果たして、念仏のみで平和は獲得で来るものか。

 

●老後に備える無駄な足掻き

 日本人は、世界的な視野が狭いばかりでなく、世界の潮流や動向に対し、あまりにも無知であり、無関心であり、無防備である。意識下に「防衛」や「護身」の備えが欠如している。その証拠に毎日のように、殺人事件が起り、その被害者は、年金や老後の生活資金などを溜め込んだ高齢者に限られている。

 定年退職を迎える昨今の「団塊の世代」の「年金資金」が、犯罪組織のターゲットになっているのである。年金資金は、単に犯罪組織が狙っているばかりでなく、多くの金融機関も、この資金に興味を持ち、その獲得合戦が始まっている。
 そして、人類は歴史的に見て、未曾有(みぞう)の高齢化社会に突入する時代を迎えている。

 世界の流れは、1980年代から1990年代初頭にかけて到来した冷戦の終結と、国際主義という新秩序に基づいて、あたかも恒久平和に向けて、大きく前進したかのように受け止められている。
 少なくとも日本の昨今の実情を見ると、そのように映る。テレビの、どのチャンネルを捻っても、所狭しと物が豊富であるように宣伝され、テレビコマーシャルの約70%は食品産業の打ち出した宣伝によって占められている。それから窺(うかが)える事は、物資が溢れ、食糧や衣類にも困らなくなった実情が見て取れる。
 物質的に豊かになったことを、多くの日本人は「平和を教授している」と受け取っているようだ。

 庶民の生活も、その水準が向上し、庶民は各々に「自分は富豪とは言えないが、それでも中流である」と自負して多くの国民が豊かさを享受して生きている。先行きの見えない不透明感の中であっても、自分の中産階級の地位は、不動のものと信じ切っている。

 一方、医学の発達により、日本人の平均寿命は世界一になった。これを誇らしく自負するアナリストもいる。但し、長寿と言っても、「長寿村」をイメージできる長寿ではなく、薬漬けになり、生命維持装置の厄介になった老人たちの長寿であるが、それが長寿国・日本の代名詞になっている。不健康の塊(かたまり)が、長寿と自称しているのである。

 こうした今日の飽食に代表される豊かさと、快適さと、便利さの中で、現代の日本人は自分が骨抜きにされている事に、何の自覚症状も持たない。今日の日本の現状は、まさしく霊的に予言された通りに汚染され、日本人の魂は金銭と引き換えに、今日の享楽を楽しんでいると言える。そして日本人の価値観は、心を育む事から、金儲けだけが人生のテーマであるように考えるようになった。

 若い時分は、老後の為を考えての労働だった。若い時に一生懸命に働いて、金銭をしっかり溜め込んでおけば、自分の老後は安泰であるという考えに基づいて、国民の多くはよく働いた。この勤勉さが、日本を物質的に豊かにした。しかし、この豊かさと引き換えに売り渡したものがある。
 それは何か。

 「日本人の心」であり、魂であった精神文化である。身も心も、魂までも、物や金に換算し、その価値観の中で、人生の設計図を引いてきた。その究極的な目的は、「将来、働かなくていいように、働く」というものであった。この行動原理には大いなる矛盾があった。「働かない為に働く」という矛盾である。目的が「働かない」にあるにも関わらず、「働く」という行動である。
 しかし、多くの日本国民は、この矛盾にも気付かず、老後の人生設計に、若い時分の労働を置き換えた。これこそ、無駄な足掻きだったと言えよう。

 しかし、この無駄な足掻きは、「無駄」プラス「アルツハイマー型痴呆症」もしくは「寝た切り老人」などの尾鰭(おひれ)が付き、辛うじてこうした状態を逃れたとしても、「過半身不随」などに悩まされている、老後の生活を送る人も少なくない。
 これこそ、無防備・無防衛の最たるものではないか。
 これは、気付かねばならなかった矛盾点を、何処かで見落とし、無理と無駄の結果からであろう。


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