トップページ >> 技法体系 >> 女子小太刀術(二) >> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
●二、三尺突き入れた時機の気魄 一般に、長物の方が、短い物に比べて有利と言う固定観念があります。剣道でも、薙刀(なぎなた)と試合をして見ますと、剣道の猛者(もさ)でも、薙刀を使い慣れた女流の使い手には、度々敗れるという事実があるようです。 しかし、「長物が有利」という概念は、間合と大きな関係があり、その概念は、「アウトレンジ戦法」にあるように思います。つまり、「遠い間合」から、遠い間合から攻撃を加え、敵を斬撃できるという優越的な考え方です。これが射程距離であり、また空手などの個人闘技で言う、「制空圏」です。つまり、制空圏内に存在する相手は、制空圏内にいる限り制する事ができると言う概念です。 これは武器の比較においても、明確になります。 42cm砲の戦艦が、幾ら大砲の弾をボカスカ撃っても、50km先に居る戦艦には掠(かす)り傷一つすら負わせることは出来ません。一方、射程距離が50kmある47cm砲の戦艦は、アウトレンジ戦法で攻めまくれば、42cm砲の戦艦は一溜まりもないことは、容易に想像できます。 ところが、これにも落とし穴があります。確かに平面上での戦闘ステージでは、射程距離が長い方が有利に思えますが、これが立体戦であったらどうでしょうか。上下や高低差に揺すぶられる攻撃が加われば、平面戦闘での戦局の優位は一転します。 例えば、6尺の長さの薙刀を例に挙げるならば、薙刀の術者は、何も6尺まで届く、薙刀の鐺(こじり)を握って戦うのではないことが分かります。術者は、やや中心部に近いところを握り、敵と対峙します。すると術者と薙刀の尖先(きっさき)までの制空圏は、約3尺前後と考えられます。これは2尺4寸前後の剣と対峙したときと、約6寸の開きがあるだけになります。制空圏が、いずれも近付いたことになります。こうなると、長い短いの問題ではなく、「伎倆(ぎりょう)の差」ということになります。 更に「伎倆の差」に上乗せされるものは、短い武器を持った場合の「漆膠(しっこう)」という、一種の「ねばりつき」の妙儀(みょうぎ)が、小太刀や短刀などの短い武器の、軽さから来る、「片手で振り回せる」という特性に優越を与えます。 これは「小が大を倒す鉄則」ですが、図体の大きな巨漢ほどエネルギーの浪費が激しく、小さいほどその消費が少ないと言うことです。 これは大儀の兵法であっても、個人的な闘技であっても同じことなのです。ひ弱で、小さな力しか持ちえず、これで戦うという局面に遭遇した場合、特に婦女子は、この裡側(うちがわ)のエネルギーで防禦の一切を賄い、省エネ的な戦いを強いられることは必定で、この根本には、「小が大を倒す気魄と伎倆」がなければならないのです。 本来、剣儀(けんぎ)としての奥儀は、単に敵の間合に何とか届くと言っいた具合ではよくないのです。何とか届くでは、致命的な打撃を与えることは出来ません。一撃必殺を目的とするならば、敵を打って出たり、撃刺に転じた場合は、その突き入れた一撃が、裏へ抜け、更に2〜3尺程度突き抜けるというものでなければならないのです。この「突き抜く」という気魄(きはく)を以て、激しく突くことが肝心です。 この気魄は、例えば柔術の場合、単に投げるというばかりでなく、投げても受身が取れない程度に投げるということが肝心で、畳の上に投げるというのではなく、畳の根太(ねた)をぶち抜き、畳の下の根太をつき抜け、更には、根太の下の根太を支える土台に直接投げつけ、その土の中に叩きつけ、埋めると言う、激しい気魄が必要です。つまり、土の中に2〜3尺も没すると言う、「投げ込み方」が大事で、この気魄に欠けていれば、投げた相手も、再び立ち上がり、反撃を食らうことになります。 かつて一刀流の打ち斬りは、上段より振り被れば、それを躊躇(ちゅうちょ)無く一刀の下(もと)に斬り下げ、必ず敵の頭上から肛門まで真っ二つに、一刀両断することが要求されました。これを「真っ向唐竹割」と言い、乾燥しきって堅くなった唐竹ですら、一刀両断にする激しい撃剣の妙儀でした。 しかし、初心のうちは中々このようにはいきません。「位負け」をすることもあるし、あるいは相手の気勢に押されて、押し捲(まく)られることも度々であり、打つ時機(とき)、あるいは突く時機に、思わぬ躊躇(ちゅうちょ)が趨(はし)り、力が抜けるということになりやすいものです。また、心根の優しさは、思い切りを悪くし、手加減を加えるなどの中途半端の状態に陥り易いものです。 何事につけ、思い切りの悪さと、相手のことを考えた踏ん切りの悪さは、しいては自らが墓穴を掘る結果になり易いものです。生きるか死ぬかと言う最悪の窮地に立たされているのですから、躊躇(ためら)うことは禁物であり、無駄な配慮の上に、更に無駄の上塗りをしないことです。 こうした無駄は、稽古を重ねるにつれて、打つ瞬間、斬る瞬間、刺す瞬間に「刹那の疾(はし)り」が起こり、無駄な配慮や無駄な力が徐々に薄れるものです。
●小太刀の道小太刀術には、「小太刀の理(ことわり)」というものがあり、「小太刀の道を能(よ)く知らざれば、小太刀の道の心、儘(まま)に振り難し」とあります。その上に、「太刀の峯(みね)と平(ひら)を弁(わきま)えずに、遣(や)っていては、敵を斬る時に、その“斬る心”に出会い難し」とあります。 武の道で用いる武器は、大小・長短の長さを問わず、太刀心を弁(わきま)えていなければ、思うように遣(つか)えず、まず、力まずに、静かに遣えというのです。静かに遣えば、小太刀の特性と言うものが次第に分かってきて、刀というものの遣い方にも慣れてくるし、打ち方や斬り方も分かってきて、その特性に適合した道を会得することができると言うのです。 そしてその、「太刀心」を集約している要(なかめ)が、「握り方」であり、この握り方において、打ち方や、斬り方が定まってくるといっているのです。つまり、小太刀の修練では、握り方が打ち方を決定し、あるいは斬り方を決定するというプロセスの中に、小太刀術の奥儀があるといえます。 太刀においても、あるいは小太刀においても、「刀の作用」と言うものを分析すれば、おおよそ三つに区別することが出来ます。その第一は、「打ち」、あるいは「斬り」、次に「突」き、更には「払う」というものに区別されます。 基本の打ち方を正しく身につける為には、まず徹底した「素振り」を行い、その定着度に併(あわ)せて、「居合い」や「試し斬り」などを順を追って稽古していきます。 「斬り覚える」ことができなければ、切断媒体に強く当たっても、切り割(さ)くことが出来ません。これは試し斬りの竹や、濡れ藁(わら)などでも、あるいは実際の人間であっても、斬ることが出来ません。こうした斬ることの出来ない状態を、「当たり外し」と言います。真の打ち方を会得してないからであり、また手足の動きを疎(おろそ)かにした結果から、こうした状態が起るのです。 つまり、打つ積りで打っても、刃筋が正しくなければ、打ち通すことは出来ません。「打ち通す」ことの出来ない原因に、「峯(みね)打ち」や「平(ひら)打ち」があります。峯打ちは真っ直ぐに切り込んだと思っても、いつの間にか力んで、峯の部分が切断媒体に当たることであり、平打ちは、やはり力み過ぎて刃でなく、刃の横の平たい部分が、直接切断媒体に当たり、「当たり外し」を生じさせてしまうのです。 昨今の竹刀剣道や古流剣術と称していても、実際には竹刀を用いたり、あるいは木刀を用い、これを修練するのですから、実際の、真剣の場合と大きな隔たりが出来、本来ならば打ち方を充分に研究するのですが、この研究が軽んじられ、ただ速い業(わざ)、巧妙な業ばかりに目が向けられているようです。しかし、このように軽快なものばかりが求められると、ポイントを取るばかりの研究が主体となり、そもそも、誤った打ち方の不完全に気付かなければ、それは実戦で役に立つものではありません。
小太刀術での正面の打ち方
小太刀術での横面の打ち方
小太刀術での小手の打ち方
小太刀術での左右の胴の打ち方
小太刀術での「刺し」の突き方
●太刀を用いて人を殺さず 沢庵禅師(たくあんぜんじ)の著した『太阿記(たいあき)』には、次のようにあります。 つまりこれは、小太刀術の極意とは、技術的なうまい、へたを指すのでなく、心の用い方を説いたもので、「心を以て、心を打て」と示唆しているのです。敢えて言えば、技術としての技を必要とせず、心の用い方如何を説いているのです。 しかし、本来はこのように心を以て、心を打つのですが、基礎的な基本段階を踏まず、また順序階梯(かいてい)というものも無視しては、その道に至ることも出来ず、極意は基本の会得ですから、一足飛びに山の頂上に至るということも現実にあり得ません。基本を丁寧に、じっくりと研究すべきです。 また、得意技を作り、得意技ばかりに固執すると、技自体が偏頗(へんぱ)に趨(はし)り、結局拙劣なものになってしまって、得意技の墓穴に落ち込んでしまいます。つまり、「偏らない」ということであり、わが流の小太刀術は、単に右手のみで戦う小太刀ではなく、変化に応じて左手にも持ち替えますので、左右が対照に、同じように使えるように修練します。
●強力な護身術としての小太刀術 護身術とは、本来が速成的な要素を持った技術面の一部をいいます。
さて、護身術の面から小太刀術を考えると、小太刀に匹敵するものは警棒であり、警棒を小太刀に見立てて修練をすることが出来ます。 また、こうした兇悪犯罪者に対して、日本では直ぐに支援団体が出来て、加害者の人権の擁護(ようご)と人命保護に当たり、被害者の人権は全く無視されてしまいます。これでは「凌辱損」で、「殺され損」ということになってしまいかねません。 ナイフなどで脅された場合、多くの人は、それを見ただけで竦(すく)みあがってしまいます。その為に屈し易く、凌辱に対しても、為(な)すがままになり、抗(あらが)う護身の「術」を知りません。これは何も女性だけでなく、男性の場合も同じで、自分だけは危険な事件に遭遇しないなどを高を括(くく)っている人は、以外にも、こうした兇悪事件の遭遇することがあります。そして、筆舌に尽くし難い凌辱を受けた後、刺されて、命まで失う結果になってしまうのです。 人として生まれた以上、こうした最悪の事態だけは避けたいものです。そこで、刃物に対処できる小太刀術を学び、警棒を、小太刀に見立てて修練しておくことも、万一の場合、大いに役に立つ防禦策です。 犯行にナイフなどの刃物を使う兇悪犯罪者の心理を考えると、その使い方は、刃物の刃で、「切る」というより、「刺す」ということに重点をおいていることが窺(うかが)えます。切る為には、それ相当にナイフ術に熟練していかなければならず、最も手っ取り早い方法として、「刺す」ことが速成的に達成され、実に「刺す」ことが多くなったと思われます。つまり、簡単に「刺す」行動が、一番容易であるという理由が、これらの犯行の主体になっているようです。 常に、ナイフを携帯して、他人の隙(すき)を窺(うかが)っている犯罪者は、携帯に便利な、小型の折り畳みナイフや、それに類似するバタフライナイフなどを携帯していることが多く、刃の部分の長い、大型のコンバットナイフなどの携帯は、そんなに多くないようです。 つまり、「刺す」ことを目的に、ナイフを持ち歩いているということになります。したがって、刺す場合の手法は、「突き手」であり、拳の突きのような形で突き出してきます。こうした場合の防禦法として、最も有効なのが、小太刀術の術者から見て、間近に迫ってくる、「拳型の小手」です。この小手を、小太刀術の要領で、鋭く打ち込みます。小手を打たれれば、拳を握る場合の手の手根骨から、肘の間の上側の橈骨(とうこつ)が、警棒で鋭く打ち砕かれるので、警棒がそこに当たれば、打たれた箇所は、骨折するかそれに近い状態となり、それだけで犯罪者は戦意を失ってしまいます。
これまでにも、もし、襲われる女性の側に、小太刀術の修練の跡(あと)が少しでもあれば、殺されずに済んだと思う兇悪事件が幾つもあることが、何とも残念でなりません。 さて、ナイフを持った兇悪犯罪者に、最も有効なのは、犯行者の戦意を削(そ)ぐ為の、「鋭い小手打ち」のみが、犯行者の命も奪わず、また自身も最悪の状態を免れるというベストの策であり、上段から振り下ろす小太刀の「小手打ち」だけでもマスターしておけば、万一の場合、最低限度の防禦が出来るはずです。 また、ナイフを持っての「刺し」に有効なのは、コウモリ傘や折り畳み傘などを利用しての「小手打ち」も、非常に有効であり、「橈骨を痛烈に叩く」という護身の術だけでも会得しておきたいものです。 さて、同じ小手を打つにも、「内小手」と「外小手」の2種類の小手の打ち方があります。 これは外小手が、亀などの甲羅(コウラ)を持つ爬虫類の甲羅側を打つのに対し、小太刀術の内小手は、甲羅爬虫類の腹の部分を打つ小手の打ち方です。亀の装甲を真似たのが、近代戦では戦車ということになりますが、その強硬な装甲を持つ戦車でも、俗に言う、腹の部分に当たる裡側(ウチガワ)はそんなに外側の装甲より強くありません。 したがって、「内小手を打つ」という撃剣の用い方は、急所なる部分を打つ打ち方であり、外小手より、内小手を打つ方が、より効果的であるということは想像に難しくありません。
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||