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誇りの裏付けとなる数々の技法
自然の大気には気が満ち溢れている。人はこの気を取り込んでエネルギー活動を行っている。これは何も人間に限ったことではない。動植物も同じように気を発し、気を取り込んでいる。鉱物においてもそうであろう。万物は「気」の中にあって、大自然における営みを繰り返しているのである。

 人間の気の取り込みは、「呼吸」によって行われる。呼吸は単に胸式呼吸だけでなく、それ以外にも腹式呼吸がる。腹式呼吸は丹田感覚を知覚する呼吸である。これを「丹田呼吸」という。
 丹田呼吸は丹田を知覚する呼吸法であり、丹田を知覚するには、まず脊柱(せきちゅう)を腰骨の上に立て、背筋の伸ばし、おおらかに、ゆったりと、静かに行うことが肝心である。呼吸法を行い際に、騒音に充(み)たされてはならない。

  精気は静寂の中に存在し、騒音の中には存在しない。大気の神聖なる「精気」を取り込む為には、静寂が第一である。この静寂の中にわが身を置いて、静かに、ゆっくりと吐納を繰り返す。吐納が、ある一定間隔によって規則正しく行われるようになれば、これに上肢の動きをつけて、「ひねり」や「指関節捕り」などを行いながら、丹田の位置を動かさないようにして、併せて関節の極限屈曲運動を行う。こうした呼吸法と対独を加えた方法を「躰動呼吸法」という。

 躰動呼吸法は、精気を養いつつ、内気として「陽気」を発生させることを主眼とし、この陽気が、丹田にあっては気海の中枢を為(な)して、自律神経を調整していく。この調整を「自律神経調整法」という。


西郷派大東流の呼吸法概論
(さいごうはだいとうりゅうのこきゅうほうがいろん)

●呼吸法の概要

 呼吸法には、「外呼吸」「内呼吸」がある。そして呼吸法の究極の目的は、まず、「陽気」を丹田(たんでん)内に発生させ、それを気海(きかい)に溜め、その陽気を全身に巡らすことである。

 一口に「呼吸」というが、この呼吸は人間の欲求の中で、他のものとは異なっている。呼吸の大事は、食事をする欲求や、セックスをする欲求と異なり、一瞬でも止めたら生きていけないという現実に陥るからだ。それだけに呼吸は人間の生きる部分をコントロールする重大な動作であり、この動作を通じて、私たち人間は自律神経を調整している。

 この、自律神経系や内分泌系が狂えば、人間が病魔に冒(おか)され、その症状としては心臓疾患や脳障害を起すのである。その最初の前触れが高血圧などの血流障害であり、こうした病気の病魔に冒されている人は、その人の人生の末路が非常に悲惨であることは言うまでもないだろう。

 こうした人の末路は、自分が今まで生きてきたことの、総(すべ)ての否定に繋(つな)がってしまうからだ。
 血流障害は、アルツハイマー型痴呆症や、脳梗塞、脳血栓、脳溢血、脳卒中と、様々な人格否定の植物人間になる懼(おそ)れが充分にある最悪な条件下に曝(さら)されることを言う。そして、その発信源は何処かというと、それは「呼吸法」の誤りから起ったものだ。呼吸がコントロールできないから発症した症状であり、此処に免疫力が失われていく病根の背景がある。

 さて、呼吸をコントロールするということは、自律神経系や内分泌系の機能を高め、それを良好にコントロールすることを言う。呼吸をすると、まず胸式呼吸では、横隔膜が上下して、微細な生物電流が体内に発生する。この電流は、熱量に変換され、熱を発する。この熱が則(すなわ)ち、「陽気」なのであるが、陽気は、単に胸式呼吸だけでは蓄えることが出来ず、発生しても、直ぐに消滅してしまう。

 そこで、「腹式呼吸」というものが必要になってくるのである。
 既に述べたが呼吸には、「外呼吸」と「内呼吸」がある。外呼吸は、生体を維持する為の呼吸であり、これは健康増進に役に立つ。これを「体外呼吸」といい、「凡息(ぼんそく)」の一種に数えられるものである。

 また、内呼吸は生体を維持するだけではなく、体内において「気」を発生させ、「練り上げる」ということが可能な呼吸法である。つまり、人間は本来秘められた能力として、裡側(うちがわ)に封印されているもので、その封印を解き、秘められた力を覚醒(かくせい)させることを言う。
 外呼吸を大別すると、次の3つになる。

胸式呼吸
一般に「凡息(ぼんそく)」といわれるもので、人間は普段意識化あるいは無意識下で行っている非常に浅い呼吸である。肺の部分だけでしか行っていない呼吸であり、こうした呼吸をしている人は、心臓障害はそれに付随する血管障害を起しやすく、その最たるものが高血圧症であろう。その上、1分あたりの呼吸数が多く、軽く、浅い為、殆ど健康増進には役に立っていない。また、突発的な精神衝撃やストレスに対応できない浅い呼吸がこれである。
 例えば、ガン・ノイローゼとか、ガン発症の告知を受けて激しい衝撃に消沈する人などは、こうした凡息の影響である。
 現代人の多くは普段行っている、実に難しくもなく、また他愛のない呼吸である。病人などがしている呼吸もこれであり、特に練習しないで出来る呼吸であるが、同時に、これ以外の呼吸を知らない人の呼吸で、この呼吸しか知らないで人生を終わる人の、人生の末路は実に哀れである。
腹式呼吸
呼吸法の専門用語としては「調息(ちょうそく)」という言葉が充(あ)てられる。この呼吸は腹部を充分に膨らませ、吐く時に腹をへこまし、吸う時に腹を膨らませるという呼吸である。胸式呼吸に比べると、大量の酸素を吸い込むことが出来、これにより血管内に酸素を送り込むことが出来る。つまり、胸式呼吸と違って、「酸欠状態」にならないのである。
 また腹部の血行もよくなり、健康増進には大いに役立つ。更に1分あたりの呼吸回数が少ない為に、「せっかちな性格」や「慌(あわ)てん坊」という過去世(かこぜ)からの習気(じっけ)に、幾らか良い方に拍車をかける副産物もある。
逆腹式呼吸
「逆呼吸」とも言われる呼吸法で、腹式呼吸とは逆になる呼吸法である。息を吐く時に腹を膨らませ、息を吸う時に腹をへこませる呼吸法である。この呼吸法で鍛錬していけば、腹力が増し、腹筋が強くなる利点がある。
 一般に腹筋を鍛える場合、両脚を何かに架け、膝を曲げ、その姿勢で上肢を曲げ起して肉体的な腹筋トレーニングをするが、こうしたトレーニング法は、回数多く、やればやるだけ肉体が疲弊し、疲労困憊するばかりである。その上、腹筋トレーニングは、腹筋だけでは効果不足となり、腹筋と同じ回数だけ、背筋トレーニングをやらなければ、不釣合いの方錐体形となる。
 また、逆腹式呼吸は、高血圧症の人には卓効のある呼吸法である。健康法としてだけなら、大いに役立つ呼吸法であるが、「陽気」の発生を容易にするには、この呼吸法だけでは駄目である。「正呼吸」ともいわれるが、気を発生させる呼吸法としては不向きである。

 次に、内呼吸であるが、この呼吸法は「陽気」を発生させる為の呼吸法である。初歩の段階では外呼吸を延長させた呼吸法であるが、中級以上に進んでいくと、その呼吸は、ポイントとして「停気」というものが調息間に組み込まれる。
 更に、上級者になると、長い呼吸が無理なくできるようになり、深い段階で自動的に、かつ無意識下で自在に切り替わるようになる。普通、長い呼吸をした場合、「気が練れてない場合」は、窒息してしまう。しかし、長い呼吸をしても、気が練れている場合は、窒息は起さない。

 さて、内呼吸を大別すると次の4つになる。

武 息
武火呼吸とも言う。武火とは、「強い火」のことを云い、この呼吸こそ、行法に用いる呼吸法である。行法第一段階の呼吸法で、意識をかけた強い呼吸により、下腹の丹田に陽気を発生させる呼吸法である。この呼吸法は、腹式呼吸である「調息」と同じであるが、吐気と吸気の間に「停気」という「とめ」を入れるのが特徴である。「とめ」を行う際には、強い意識を丹田に掛け、陽気の発生を促すわけである。
 また吐気と吸気の間には、同じ「とめ」でも長短により、三通りの違いが出てくる。(以下口伝につき省略)
文 息
文火呼吸とも言う。文火とは「とろ火」のことをいい、呼吸は調息と同じであるが、これを行う場合は全く意識をかけず、下腹が自動的に動く腹式呼吸である。その動きが非常に幽(かす)かであり、しているかしていないか分からないくらいである。
 この呼吸の特徴は「温養」といって、発生させた陽気を、各経穴で止めて、その箇所を暖め、意識で気を練ることを言う。(以下口伝につき省略)
真 息
一口でい言う「かなり難しい呼吸法」である。この呼吸法は、口や鼻を使わない呼吸法であり、文息で修得した「温養」を遣いながら、各経穴で長く温養を続けていると、光が見えてくる呼吸法である。それがやがて回転を始め、「丹」として練れてくると、呼吸が停止する。「丹」とは、「小妙薬」のことである。あるいは「小周天」を指す。
 この「呼吸の停止」は、首を絞められたような停止でなく、急に止まるというものではなく、徐々に、静かに、だんだん文息の吐気と吸気が長くなり、更に長くなって、最後はしているかしていないか、隔たりがないような次元まで辿り着き、静寂さの中に自分が身を置いている清らかな状態が顕れる。(以下口伝につき省略)
胎 息

難しいという文字の頭に「超」がつけられるほど、難しい呼吸法である。哺乳動物が、母親の胎内にいる時にしていた呼吸法である。これは完全に呼吸器官が停止してしまった、難しい呼吸法である。ふつう呼吸をしていなければ死んでしまうのではないかという思いがするであろうが、実は、この呼吸は誰でも母親の胎内にいるとき、羊水の中で、溺れることもなくしていた呼吸法なのである。しかし、人間を含む動物は胎内から生れ落ちて以来、この呼吸法を全く忘れてしまったのである。
 つまり 、この呼吸は躰全体が天地の間にあり、大自然と倶(とも)に、気を吸収する行為の中で、ちゃんと存在しているのである。一見非科学的に思える呼吸法は、修行の積み重ねた結果、体質が変わり、皮膚呼吸だけでも呼吸ができるという状態まで進化するのである。
 「丹」が練れて、真息が長く出来るようになると、「丹」は「大妙薬」となる。これが「大周天」である。あるいはこれは、合気道の創始者・植芝盛平先生が会得したという「黄金体」かも知れない。しかし、その後、これを会得した人は誰一人居ない。
 人間は此処に至って、不老長寿の域を知る。(以下口伝につき省略)

 人間が吐納をする呼吸法は、上を見上げれば途方もない高次元に達するが、外呼吸にしろ、内呼吸にしろ、「修行」という段階を踏まなければ、到底そこには到達することが出来ない。呼吸法の大事は、呼吸をすることを会得するのではなく、呼吸法を通じて、陽気を発生させ、その陽気を「しっかりと練る」ということが大事なのである。

生まれて間もない0歳児がする、水中の中の不思議な呼吸法。生まれて間もない0歳児は、まだ記憶の中に母親の胎内に居たときの「胎息」が残っていて、水中を自由の泳げるのである。しかし人間は、成長するにしたがい、羊水での、記憶にあった泳ぎも、呼吸法も忘れてしまうのである。

 「気を練る」ことを、呼吸法の真息や武息では「丹(たん)を作る」という。
 「丹」とは、不老長寿の為の妙薬を体内に発生させることを言う。「丹」には、「外丹」「内丹」があるが、外丹は外界にある物質から妙薬を編み出すもので、内丹は体内の裡側で気を練ることによって作られる。
  つまり、呼吸法の奥儀は、裡側(うちがわ)に新たなる「陽気」を発生させ、その陽気を、最後には気を練り挙げて「丹」を作り、それを妙薬として蓄積することを言うのである。

 

●呼吸法が間違っている西洋スポーツ

 競技武道や格闘技愛好者で、「気」など必要ないし、呼吸法など教えてもらわなくでも、生まれながらに知っていると豪語する人は、おおかたが肉体信奉者である。彼等は肉体が唯一の頼り綱であろうが、今日の武道や格技の多くは、「武」という名を借りながら、その実は、西洋スポーツのトレーニング法を借りたものが殆どである。その為に「呼吸法」が欠落している。

 そして、「呼吸法」という次元になると、その競技武道や個人格技で使われている呼吸の吐納は正しくない為、「力む」という現象が起こり、腕力や体力をもって相手を打ち負かそうとする状態に陥り、結局無理をすれば、「心臓肥大」という身体的欠陥が起り、心臓病を患(わず)ったり、血管障害を起したりする。これはスポーツ選手の故障や怪我や事故を見れば明らかであろう。

 この事実が、こうした総ての西洋スポーツや、西洋スポーツのトレーニング法を借りた競技武道や個人格技の総ての分野に起っている「スポーツ障害」である。多くは、肉体を虐(いじ)め、酷使するからだ。
 また、「心」の存在を軽視するのも、こうした「西洋もの」の愛好者に多いようだ。

 つまり、目的とする勝利への道が、西洋と東洋とでは違っていることである。西洋では、物質に趨(はし)る思想が多い。一方、東洋では精神的な内面を充実させようとする。したがって、この違いは、外丹と内丹くらいの開きがあろう。
 西洋では不老長寿を実践するにしても、それを物質的なものに求めることが多い。一方、東洋ではそれを自分の裡側に求める。

 では、西洋では何故、外側にある物質から作ったものを求めようとするのか。それは錬金術の発達からも分かるように、内側にある「気」などという、意味不明で、肉の眼に視ることの出来ないものより、外界にある物質から作った方が簡単であるからだ。したがって、錬金術から物質化学が発達したのは周知の通りである。
 しかし、西洋の不良長寿は、例えば、硫黄だったり、水銀だったりしたわけで、今日の科学に照らし合わせれば、総て毒物ばかりであったのである。

 一方、東洋では「丹」を自らの裡側に求めた。これが呼吸法の始まりであったともいえる。こうして「内丹法」が起り、「光の子をわが胎内に宿す」という「周天法の術」が生まれたのである。

 ところが、西洋は生命とか、その不老長寿とかは、総て外に向けて探求しようとしたのである。生命とか、生命力とかは、生命固有の複雑なもので、メカニズムを知るだけでも余りにも複雑である。更には「科学的」と称する肉の眼で確認することも、不可能に近いことであり、また、今日の科学技術をもってしても、生命の神秘は、西洋科学ではまだ解明できていない。こうしたことから、東洋で言う「気」の存在も、西洋では理解できない不明なものであり、周天法自体が非常に複雑なものと看做されているのである。

  しかし、内丹法の奥儀は、体の外になく、内側にあるのである。
 西洋的なトレーニングの「肉体の酷使」を離れて、呼吸法を重視し、静寂の中で、ロック音楽も流れない森閑(しんかん)とした世界の意識集中にこそ、呼吸法の大事があるのである。その意識集中の究極の目的は、勝ち負けにこだわらない、本当の自己との出合いを求めて、日々精進する「地道な修行」なのである。

 

●本当の自己との出合い

 自分が人生で理解できなかった問題の総(すべ)ては、心の奥底にゴミとしてしまわれている。このゴミが、実は「わだかまり」である。この「わだかまり」は、本来見たくないものであり、臭いものには蓋(ふた)をするという行為で逃げ切るが、実はこの「臭いもの」が、自分の心を病魔に売り渡す元凶であり、この元凶は邪悪なる物と結びつき、邪気となって、心の奥底に「わだかまり」となって沈殿する。

 普通、この「わだかまり」は、実に見たくないものであり、怕(こわ)いものなのである。しかし、ゴミのように沈殿した、本当の自分を覆い隠す「わだかまり」は、払っても払いきれない柵(しがらみ)となって、心の奥底に付着しているのである。そして、あることを切っ掛けとして、次から次へと限りなく浮上して、自分自身を悩ませることになるのである。これが「トラウマ」である。

 これまで、自分自身で解決できなかった総ての問題は、この中に潜んでいる。心の「わだかまり」となって、それを知り、覗こうとすると、それは実に怕(こわ)いものなのである。この心理が、人は誰でも「本当の自分の正体を知りたくない」という恐怖である。
 瞑想法を始め、それと倶(とも)に、呼吸法をはじめた場合、100人中99人までが、一ヶ月も経たないうちに、この行法を辞めてしまうのは、こうした理由によるものである。

 しかし、瞑想法も、呼吸法も、ここから先が面白いのである。
 この先に踏み入るか、それを辞めて退き返すは、個人の力量に委(ゆだ)ねられるが、本来の自分の本性を見、かつ、その実体の恐怖に慄(おのの)きながらも、あるいは辟易(へきえき)を感じ、然(しか)もなお、これを正面から凝視することにより、ゴミのようなものは次々に浮かび上がり、そして消滅していくのである。
 この消滅こそ、「心の解放」である。

 ところが多くの、修行を諦めた人は、この一番面白い手前で辞めてしまい、瞑想法や呼吸法は、「実につまらないもの」と判断してしまうようだ。これこそ、実に短見な愚行といえよう。

 瞑想とは、あるいは呼吸とは、こうした心の中に蓄積する「わだかまり」を浮上させて、これを消去していくところに本来の「心の浄化」がある。したがって「わだかまり」は、「わだかまり」のままに浮上させ、浮かび上がらせればよいことであり、これを無理に払わなくてもよいのである。こうしたゴミは、勝手に浮上し、やがて消滅する。嫌なことも、苦しいことも、あるいは愉(たの)しいことも、永遠ではない

 瞑想法は、ただ眼を半眼に閉じて、そのままの姿勢でいればいいのである。また、呼吸法は静かに吐納を繰り返せばいいのである。この間、「今」の時間を自分の心の中に集中し、それをただ念じて続けていれば済むことであり、「何かを掴もうとする」ことは無用なのである。ただ、時の流れに任せ、瞑想し、静かに呼吸を繰り返し、その流れの中の人となればいいのである。これを知覚したとき、何と、「時間が止まっている」のに気付くのである。呼吸法で、真息や胎息は、こうした次元に至って、はじめて顕れるものなのである。

 この知覚は無論、時間がないのであるから、潜在意識的には「空間すらない」のである。つまり、これは、時間と空間を失った、深層心理下の感覚である。あるいは「安らぎを得た安住(あんじゅう)の境地」とでも言おうか。

 そしてこの感覚の中で知覚できる意識は、ゆったりとした流れの中に身を任す、「α波」のリラックスす状態であり、またこの感覚の中で宇宙意識と触れてアイディアが浮かんだり、閃(ひらめ)きのようなものが発現するのである。これこそが本当の自分に出合う瞬間でもあり、また実に、心が安らぐ瞬間であり、実に気持ちのいい状態でもある。この状態にあって、総ての悩みや苦しみは一層され、自身が抱え込んだ病気までもが消滅しているのである。

 瞑想をし、それと倶(とも)に呼吸をし、静かに吐納を繰り返すことで、総てのゴミが出きったところで、いよいよこれから先が、「本当の自己との出合い」となる。こうすることにより、時間のない世界を垣間見て、心は己(おの)ずと澄んだ状態になる。騒音もなく、雑音もなく、静寂に包まれ、清らかになっていく。しかし、これで総てが解決したわけではない。

 こうした状態に至っても、まだ、心の深層部に鬱積(うっせき)したゴミは浮上してくる。現世という、現象界では、ゴミは決して消えることはない。ゴミが溜まるのが現象界であり、また人間界なのだ。
 三次元顕界では、この「ゴミが溜まる」という現象は、幾ら払っても払いきれるものではない。したがって、ゴミは、溜まる、浮かぶ、それを見詰める、やがて消えるという、この繰り返しが続くのである。

 そして、「溜まる」と「消える」の時間差が、限りなくゼロに近付いたとき、その先の本当の自己との出合いが待っている。その自己との出合いが、実は「生命(いのち)との出合い」である。
 この生命を発現したとき、心が澄んでいて、清らかな自分に出合うことが出来るのである。その出合いで知覚するものは、「生命の源泉」であり、それは「すこぶる清らかなもの」である。この時が、自分自身を感じるときであり、今の自分に、限りなく愛着が湧くときなのである。

 こうして、存在している自分が、その生命の源泉を見詰めつつ、これが神か、あるいは何者であるかは知らないけれど、これが何か基本的な大本に繋(つな)がっている、そんな知覚をするのである。これは否定しても否定し難く、実は自分がその源泉の「ひと雫(しずく)」として、この世に生を受けていることが分かる。

 そして、更に気付くと、釈尊(しゃくそん)の言葉である「小欲とは地位や名誉や金品物財を望むことであり、大欲とは何も望まないことである」という真言(しんごん)に 思い当たるのである。
 更には、「生命(いのち)ある自分」という存在こそが、天から贈られた、「最高の贈り物」であると気付くのである。これこそが、本当の「無我の境地」であり、真息あるいは胎息の境地に匹敵するもので、これを味わえば、これまでの総ての「わがかまり」は消滅するのである。そして、これこそが本当の自律神経調整法への道なのである。

 

●自律神経調整法

 内観の法は、自律神経を調整する働きを持っている。高血圧症の人、心臓に異常があり不整脈の人などは、この調整法を行うことにより、その訓練を通じて正常に戻すことが出来る。こうした異常を体内に抱えながら、「力(りき)む」武道やスポーツをやっていると、心臓に大きな負担を掛け、心臓肥大症となり、心筋梗塞(しんきんこうそく)などで突然死することがあるので、まずは正しい呼吸法を身に付けなければならな

 また、心臓障害の一つに心臓弁膜症という病気があるが、これは心臓が肥大して、血流調整を行う心臓の「弁」が正しく噛(か)み合わないことから起る疾患である。血圧の高い人は、往々にしてこの病気に罹(かか)り易い。

 心臓の弁には4個あり、これが正しく開閉することで血液が出入りする。ところが心臓弁膜症は、心房と心室間にある尖弁せんべん/房室弁)と、心室から動脈への出口(動脈口)にある半月弁(動脈弁)の噛み合せが正しく行われないのである。更には、尖弁には、右房室弁(三尖弁)と左室弁(僧帽弁)とがあり、此処にも異常が起こるのである。

 心臓障害には、心臓弁膜症を初めとして、心臓内膜炎、心筋炎、心嚢炎、心臓肥大、狭心症、心筋梗塞、脂肪心臓症、心臓神経症などがあり、これらの症状としては、息切れや動悸(どうき)、更には貌(かお)がむくみ、眼の下の筋肉が垂れ、胸部などが時折痛むという症状が顕れる。これまで喫煙の経験のある人は、今は禁煙をしていても、過去の痕跡は消すことが出来ず、貌がドス黒い。また、血圧が高騰(こうとう)する症状も、心臓障害に絡み、高血圧症や動脈硬化症などを併発している場合が少なくない。
 そして驚愕すべきは、免疫力が失われてガンを発症し易いことだ。

 何故ならば、人間は毎日6000個のガン細胞が、正常細胞から病変しており、免疫力が弱れば、当然ガンに侵されやすくなる。心臓や血管に障害を抱え、いつ脳梗塞で斃(たお)れても訝(おか)しくない高血圧症の人は、要注意である。こうした人は、例えば、60歳で免疫力が20歳の若者に比べて、僅かに20%しかなく、しかし、これは高血圧でない正常な60歳であり、高血圧で一度でも脳梗塞などを起こした人は、20%の免疫力は10%か、5%か、それ以下になっていると考えねばならない。

 また、毎日6000個のガン細胞は、何も内臓に発症するというばかりでなく、ガン細胞は一番弱っている箇所に取り憑(つ)くので、高血圧症や蜘蛛膜下出血などの前科のある人は、脳腫瘍を最も警戒しなければならないだろう。

高血圧症
全身の動脈硬化があり、心臓を流れる動脈も硬化しているので、毛細血管の尖端が細くなり、したがって、送り出す血液に負担が懸かり、血圧の最高血圧(収縮期血圧)が135mmHg以上になる。
 高血圧は血圧が高いだけが病因でなく、本来は自律神経と密接な関係にある。体質が悪い為に起る病気である。その多くは、喫煙者やアルコール依存患者らであり、一旦こうしたものが必要摂取量をオーバーすると、血圧最高値は中々下がらなない。
 ちなみに日本高血圧学会の定める高血圧治療のガイドラインによれば、「最高血圧(収縮期血圧)135mmHg以上、最低血圧(拡張期血圧)85mmHg以上を高血圧症と定義している。そしてその根源には、心臓障害が隠れている。
肥満症
肥り過ぎは、余分な脂肪や蛋白が心臓に絡みつき、これにより心臓の負担が大きくなって、動悸や息切れが起る。心臓弁膜症の発症などが考えられる。特に体脂肪率が高い人は、単に肥満症というだけではなく、心臓にも脂肪がつくという障害が起っている。
ドロドロの血液

動蛋白摂取過剰で、血液が汚染されている。浄化されないドロドロの血液は、心臓に環流する血液循環がスムーズに行われない。血液のよい状態は、生理的中性であり、弱アルカリ性状態を言う。
 血液が酸毒化している人は、血圧の最高血圧が200mmHg以上と非常に高く、同時に心臓から送り出された血液が毛細血管を通るに血管路が細くなっている為、心臓に戻ってくる最低血圧(拡張期血圧)85mmHg程度で収まっていて、最低血圧値は問題ないように見えるが、実は毛細血管が細くなり、かつ目詰まりをしているから最低血圧値が問題ないようにみえるが、これこそ高血圧症の典型である。問題は、血液が汚染され、ドロドロ状態にあり、こうした人の体形は、肥満体よりも痩身体躯で、一見健康そうに見えるが、血液が汚染されているので、顔色が悪く、またドス黒い。喫煙とアルコールに絡んだ病気である。

心臓肥大と弁膜症
心臓肥大が伴って心臓弁膜症を起こしている場合は、心筋が肥大し、その為に4個の弁が正しく噛みあわないのである。肥大症に問題があり、またこの問題を抱えている人は、スポーツなどで「力む運動」をしている人に特に見られるものである。つまり、技を掛ける瞬間に、気合を掛けたり、息を止めるものに多く見られ、この状態を放置すれば心臓肥大となる。
心臓の動悸と息切れ
心臓は体内の調整を図る機関でもある。速く打たなければならないときは、はたくなるのが動悸であり、息切れもこうした疾患から起る。つまり、心臓をコントロールする自律神経に問題があり、これが心気に反応するのである。
 この時の反応として、心気がドキドキすると心臓もドキドキ状態となる。次に心気が驚くと心臓も驚く。心気が憤ると、心臓も興奮状態に陥る。心気が落胆すると、心臓も緩慢になり喪失状態になる。更に、心気が落ち着くと心臓も落ち着いた状態をする。心気に懼(おそ)れを為すと、心臓も萎縮をする。心気が乱れると、心臓の鼓動も乱れる。総ては自律神経と大きな関わり合いを持っている。

 呼吸法を通じて、「内観の秘法」を会得すると、身体の機能を調整している自律神経に働きかけ、これまで狂っていたアンバランスを正常なものにと引き戻す役割がある。
 自律神経は、興奮したり緊張したりしてストレス状態になると、交感神経が働き、それを緩める働きをするのが副交感神経であり、それぞれには二つの作用がある。

 ところが現代人は、仕事の多忙や人間関係などで烈しいストレスを感じ、自然に調整するバランス機能を損傷し、これらのストレス刺激が慢性化して、自律神経失調症をはじめるする、神経症や統合失調症などの精神分裂状態にあるのである。これは種々の有害な刺激が、慢性化した状態から起るものである。

 現代社会にあっては物質文明優先主義がとられ、これを基盤に経済活動や科学至上主義が展開されている。都会は常に過密状態にあり、都会への人口の一極集中は、種々の精神的病根の病巣となっている。

 また、多くの現代人は自然とかけ離れた生活をしている為、自然から齎(もたら)される弛暖作用が追いつかず、緊張や烈しい刺激の連続状態の真っ只中に置かれ、こうした要因が、その一方で、不眠や頭痛、胃痛や疲労感、無気力や原因不明の眩暈(めまい)、胃潰瘍や十二支潰瘍、腎臓や肝臓障害、高血圧や動脈硬化、心臓病あるいはガン発症などを引き起こしている。こうした病因になるのは、大半はストレスであり、自律神経が的煮に働いてくれないことがその大きな原因である。

 わが流が指導している「自律神経調整法」は、毎日根気よくこの調整法を続けることにより、異常二区つった自律神経を調整して、まともな状態に戻してくれる修行法を行っている。
 したがって、高血圧の血圧一つ下げるにしても、心臓の機能を正常に働かせること一つにしても、血圧降下剤【註】この薬は還元力が働かない酸化力一方通行の薬なので、長年の常習者は更年期に入ってボケる。この薬剤を服用している人は、高齢期に至って必ずボケる人が多いようだ。また、著名な武道家が、晩年ボケて惨めな死に方をするのは、血圧降下剤に合わせて、食肉や乳製品などの酸化力一方通行の食品を摂取しているからである。アルツハイマー型痴呆症に罹(かか)って死んでいく武道家は、こうした愚を犯しているからである。「気合」や「息を止めて力む競技武道や格闘技」にはこうした人が多い)などの苦するは一切使わないのである。

 例えば、高血圧で悩む苦しんでいるとしたら、高血圧そのものをコンとルールするとともに、高血圧を齎しているストレスの元凶を為す、イライラや緊張を取り除く策を講じるのである。その他にも、食肉常食などで起る頑固な便秘や、下痢、喘息(ぜんそく)、不眠症や不感症、勃起不能、イボ、乗り物酔い、頚椎の斜頸、背骨の歪(ひず)みなどといった心因性の症状や病気も、正しい呼吸法を繰り返すことにより改善が見られるのである。

 自律神経を基本的の休め、順調に働くようにするには、普段からの陽気さ、明朗さ、気楽さ、他人の眼を気にしない、マイペースで物事を処理していく、他人を中傷誹謗(ちゅうしょう‐ひぼう)しない、あるいは嘲笑誹謗を受けてもそれを一切気にしない、悪口を言う人間は一切無視する、批判があるから人生はまた面白いなどの発想の転換を行い、ここは陽明学の示す通りに、「事上磨錬(じじょう‐まれん)によって、自らの精神を鍛え、蛮人の理解者や支持者を求めるよりも、僅か一人でも心から分かってくれる理解者や支持者を求めるという毅然(きぜん)とした態度が必要であろう。

 周りが中傷誹謗(ちゅうしょう‐ひぼう)するからといって、それに引き摺(ず)られて八方美人的な態度をとってはならない。また、こうした処理をすると、却(かえ)ってストレスを溜め込む結果となる。現世という世の中には、万人が納得でき、万人が幸せになるなどの、夢物語の現実は、人類の頭上に永遠に遣(や)ってこない。善いことが何処かに突出すれば、その一方で悪い現象が起こるのが、現象人間界の掟であり、何事も善い事尽くめにはならない。

 そして、人間が机上の空論で描く「理想郷など絶対に存在しない」という現実的な思考を持ち、確固たる自己を確立して、まず、自分を見失わないことである。この思考において、自分が周りの評判や世間の風評を気にし出すと、そこには捉われた自己が出現し、ストレスを益々溜め込む結果を作りかねないのである。

 現世という、世の中に現実的構造は、他人を妬んだり、恨んだり、蹴落とそうとする悪習が集積された社会構造を持っており、この構造の中ではどう転んでも、絶対に理想郷に辿り着けないようになっている。
 理想を失ってはならないが、その一方で、万人が納得し、100%の人民が満足するような社会は永遠に遣ってこないのである。大半が満足しても、少数の一部に批判的な者が存在すれば、そのシステムは不完全であるということになる。人類の頭上から戦争がなくならないのは、もともと人間が不完全であり、今なお、現代人は進化の途上にあるということだ。それを克明に顕すものが、人間の頭上に降り懸る病気である。進化した人間ならば、病気にも罹らないはずである。

 また、不完全で矛盾に満ちているから、ある意味で現世は人間界であり、現象界なのである。誰かが出れば、それを妬んで引き摺(ず)り下ろそうとするのが、人間の実態ではないか。こうした妬みや恨みの塊の人間を相手にしているのであるから、一方が善ければ、もう一方は悪いのである。これを気にしても仕方がないことで、世間の風評ばかりに振り回されていては、完全に自己を見失ってしまうのである。

 こうした世間の雑音からは離れて、のんびりと生活を楽しみ、「確固たる自己」を確立して、自分自身を見失わないことである。これを忘れると、もともと現代人は前頭葉未発達環境の中で、教育を受けてきた人が殆どなので、前頭葉未発達の人は、怒りっぽく、ちょっとしたことでも激怒し、おおらかさに欠け、余裕に欠けている。

人体情報伝達システム。人間の病気は、前頭葉の発達度で決定され、病気とは、知性未熟な各々の段階で種々の病気として顕われる。前頭葉未発達の最たるものが、自律神経失調症(心身症)で、この中には高血圧症や動脈硬化症が挙げられる。
 また、この元凶は、爬虫類脳のR領域の支配力が強い為に起こる。直ぐ腹を立てる人は、前頭葉が未発達でR領域の活動が旺盛である。したがって血圧の最高血圧値が、どうしても135mmHgを超えてしまうのである。

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 また前頭葉未発達の人は、高血圧症や動脈硬化に罹(かか)り易く、前頭葉の発達速度を示す知性に問題がると思われる。そして、こうした血流に障害を起す人は、大脳の構造からいうと、爬虫類(はちゅうるい)脳のR領域が活発に作動し、この意識が突出している為に、時として自律神経失調症絡みの高血圧に陥るのである。

 更に、こうした元凶に陥った過去を辿(たど)ると、乳幼児から6歳未満の幼児期に、人間の情緒を支配する哺乳類脳が爬虫類脳の攻撃性などで、これを支配して、攻撃力旺盛のままで成人した人に多く見られるようだ。つまり、家庭内での幼児教育が失敗している場合に、動脈硬化や高血圧症になる確率が高いといわれている。

 幼児期の家庭内で行われる学習に怠りがあったまま大人になると、前頭葉も未発達のままで、この時期の、正しく教育をされず、母親から甘やかされて育った大人は、もともと前頭葉未発達のまま成人を向かえ、その後、動脈硬化や高血圧症に悩まされることになる。これは前頭葉の発達が阻害され、哺乳類脳の辺縁系やR領域のコントロールがうまく出来ないのである。また、幼児期に獲得するべく能力が獲得できなかったということである。

 こうした人は、「何ものにも懼(おそ)れる意識」が強いのである。また、失うことを懼(おそ)れ、煩(わずら)わされることを懼れるのである。世間体(せけんてい)を気にする八方美人であるからだ。総て精神力に起因する。したがって、自律神経調整法が不可欠となる。

 孔子は、論語の中で、「天を怨(うら)まず、人を咎(とが)めず、身近なことから高遠なことまで、あらゆることを探求する」といっているが、この意味が本当に理解できれば、名誉欲や世間の名利などは、どうでもいいことであり、また、これを求めて振り回される暇などはないはずである。人生は意外に短いのである。この短い人生を、こうしたことで煩(わずら)わされる必要なないはずだ。

 また、ストレスの元凶である世間の風評や、中傷誹謗をどれだけ気にする必要があろうか。あるいはそんな声に、なにゆえ病む必要があろうか。
 わが身の痛みが、これほどまでに切迫している時に、人の非難嘲笑に耳を貸している暇はないのである。
 況(ま)して、狂人だの何だのと非難されようが、また、人に信じてもらえようが、もらえまいが、そんなことを気にしている暇はないのである。暇がない。人生は意外にも短い。これだけ解れば、人の中傷や誹謗に耳を傾ける暇はないのである。

 

●陽明学の良知に学ぶ

 陽明学の論理に基づけば、「天下の心は、総て自分の心」である。天下に狂人がいる限り、また自分も狂人にならざるを得ないのである。更に、精神喪失者がいる限り、また自分も精神喪失者にならざるを得ないのである。

 時代が下がるに随(したが)い、主守護神が封じ込められ、文明や科学万能を持て囃(はや)す副守護神が旺盛な世が出現した。陽明学で謂(い)う、「良知の学」を学ばず、良知は等閑(なおざり)にされてしまったのである。

 世の中がこうした状況下にあって、天下の人々は、それぞれに私智を働かせ、我を露(あらわ)にして争うようになった。この争いの中には、どちらが強いか、どちがら優れているかの弱肉強食論や、力は正義なりの傲慢(ごうまん)が起こり、その論理に従って物事を考えるようになった。

 その結果、人々の心はバラバラになり、低俗な意見や危険な術数の類(たぐい)が姿を現し、幅を利かせるようになった。縄張り意識も出来、その縄張りで考える処世術が優勢を帯びてくるのである。今日の世の中の社会構造の行動原理は、総て縄張りに縛られるとことが多く、その背景に弱肉強食論が働いていることは否めない事実である。総て「爬虫類脳の攻撃的性情」に由来する。前頭葉未発達から起っているものである。

 こうした論理で世の中が動かされるようになると、仁義を隠れ蓑(みの)にしながら、実際は私利私欲の追求であったり、我田引水(がでん‐いんすい)には知る人間の醜さが浮上してくる。誰もが醜さと背中合わせに生きながら、その醜さに気付かないのである。
 尤(もっと)もらしい意見を並べ立て、世俗におもねり、わざとらしいことを行って、評判を高めようとしたり、他人の正義においては、その善行を覆(おお)い隠して陥れ、あたかもそれが自分の善行のように見せ掛け、自己宣伝をして吹聴したり、他人に私事を暴き立てて、それを逆手に取り、自分を売り込む材料に使おうとする。

 あるいは恨みや妬みから、私憤をもって相手を汚らしく罵(ののし)って攻撃し、自分は正義の味方のような貌(かお)をして、危険な手段を使って相手を倒そうとする。そのくせに、注釈として、自分は「悪を憎んで全を愛する」などと強弁する。
 また、有能な人間を排斥しておきながら、自分の非に対しては世間並みの、人様と同じようなことをしていると弁解する。

 こうして人々は互いに傷つけ合い、骨肉の間柄でさえも、白を黒だと言い張り、勝ち負けを競って対立し合うのである。
 こうした「蝸牛(かくぎゅう)の争い」を展開して、どうしてこれで広大な天下に存在する万物を、一体感あるものとして観察することが出来ようか。小さな自我(じが)の横行に過ぎないではないか。
 これでは当然のことながら、世の中は乱れて、愈々(いよいよ)甚だしくなり、いつ果てるともなく争いが続くのである。

 こうした阿修羅(あしゅら)の如き、好戦的な世の中では、まず、陽明学の良知に学び、「非難中傷は気にならない境地」をつくることが大事である。

 図らずも良知を知れば、これに基づいて平安が訪れ、天下が太平なる正安定が自己の裡(うち)に確信できるのである。また、心に余裕が出来、「おおらかさ」が養えるのである。嫌なことは忘れれば済むことである。これをいつまでも根に持ったり、くよくよすることはないのである。
 こうした心境に至って、自律神経は安定してくるのである。次第に調整されて、正常を取り戻すのである。

 古人は、他人の善を見ては吾(わ)がことのように喜び、他人の悪を見ては吾がことのように悲しみ、深く懺悔(ざんげ)したのである。また、人民が飢えているのを見れば、吾がことのように苦しみ、一人でも所を得ない者がいれば、自分がその人を深い溝に突き落としたかのように責任を感じたものである。それは天下の信を得ようとして、わざとそうした行動をとったのではない。良知を発現し、心の充実を求めようとした結果において、そうなったに過ぎなかった。
 良知に至れば、一茶yに非難中傷は気にならず、多くのストレスか解決できるばかりでなく、良知を発現すれば、心までが崇高になり、大きな善に繋(つな)がることになるのである。

 そして、この心境に至れば、「心即理(しんそくり)「知行合一(ちこう‐ごういつ)の本当の意味が解ってくる。
 陽明学の祖・王陽明(おう‐ようめい)自身、社会有用の人間としてその形成を成し遂(と)げる為には、何よりもまず、「自己の裡(うち)に良知を発現しなければならない」といっている。良知の発現は、自分一人に止まらず、直ちに社会に応用実践して、必然性を以て「知ることは行うことの合一」を図らなければならないとしている。つまり、これが「仁」である。

 何故ならば、「仁」は「良知」とイコールであり、「仁の心」を持つ限り、自分一人でよしとする態度や、自己満足に終わってはならない。人民への還元を図らねばならないのである。また、人民の苦しみを傍観(ぼうかん)する冷ややかな態度は赦(ゆる)されないからである。

 「仁の心」が息づいている限り、人の風評は一切気にならないのである。
 一方を立てれば、もう一方が立たなくなる世の中において、立たぬもう一方の不平不満の輩(やから)や中傷誹謗する輩の言に、気を病むことはないのである。毅然(きぜん)としていればよいのである。自己を見失わなければよいのである。暴力に屈しなければよいのである。

 また、天下に人の総てから信じられるよりは、一人でもよいから、自分を心から信じてくれる「信ずるに値する人」に巡り遭(あ)う方がよいのである。八方美人になって、誰にでもいい貌(かお)をする必要はないのである。

 「道」は元々、何ものにも捉われないというのが「求道者の心構え」であり、無能な物分りの輩(やから)に振り回される必要はないのである。
 したがって、天下の総(すべ)ての人に信じられても多過ぎるとはいえないし、逆に、たった一人の信ずる人に巡り遭って、これで少ないとはいえないのである。

 人から認められなくても不満に思わない。人に批判されても自信を失わない。人に揶揄(やゆ)されても毅然(きぜん)とした態度を崩さないというのが求道者の真なる境地であって、道の理解は、浅薄な人には到底理解できないのである。

 「人を見て法を説く」という俚諺(りげん)があるが、浅薄な人に幾ら高尚(こうしょう)なことを説いても、結局理解してもらえないのであるから、それが人から信じられようが、信じられまいが、そんなことは全く問題外のことなのである。
 そもそも人間の心は、則(すなわ)「天地の心」であって、「天地の万物は一体だ」と理解できれば、何も愚かしい雑音に耳を貸す暇はないのである。

 良知の心境を得れば、自律神経は緊張やイライラから解放されて、自由自在を得るのである。また、この心境に至れば、これまで吾(わ)が身を悩まし続けた病魔は、自然と消滅するのである。

 

●気界で鍛える武術の能力

 一般に「鍛錬」というものは肉体を酷使し、その結果として強靭(きょうじん)な体躯(たいく)と、何者にも負けない技術が身に付くと信じられている。また、この信仰が「肉体」即「人間の運動原理」と理解されているようである。
 しかし、肉体はやがて衰え、老化していく存在であり、最後は消滅する。この事実を無視して、肉体即人間の行動原理という一次元的な発想が生まれた。今日の競技武道や西洋スポーツの論理はこの観点に立っている。つまり、「物質的一次元」の観点である。

 この観点に立てば、体力があり、体格に恵まれ、あるいはスピードとパワーの肉体的才能に優れた者だけが、この世界の独占者のように思えてくる。

 ところが、人間は肉体的な行動原理の他に、気としてそれをエネルギーに変換して生きている生き物でもある。つまり、人間は肉体力ばかりでなく、気としても生きている生き物なのだ。
 この生き物の謎解きを遣(や)ると、固体と環境との間には、皮膚ではなく、「衛気」の表層として、外部との接点を持っていることが分かる。

 衛気(えいき)は表層部に、自他の接点を持ち、例えば掌(てのひら)の「労宮(ろうきゅう)」から衛気を発気させれば、その20〜30cm前の蝋燭(ろうそく)の火を消すことも出来る。これが上達すれば、1m先の蝋燭に火も消すことが出来る。
 このことは、人間が肉体だけでなく、気体としても生き、霊体としても生きているという証明でもある。ここで遣われる衛気を武術に応用すれば、「合気」となる。

 かの有名な、日本屈指の整体治療家であった、野口整体術の野口晴哉(のぐち‐はるちか)先生は、2〜3m先の蝋燭の炎に向かって気を発すると、猛烈な気を発して、忽(たちま)ちのうちに炎を消してしまったという。こうした能力も衛気が練られたものであった。

 また合気道の創始者植芝盛平先生は、多数に取り囲んだ弟子達を、まるで雑巾でも投げ捨てるように投げ捨て、あるいは忽(たちま)ちのうちに重ね捕ってしまったという。これを見た人は、それがまるで優雅な踊りを踊っていたようであった形容している。弟子は次々に投げ飛ばされ、触れることさえ出来なかったという。

 こうした現象は、何も神秘的なものでないように思われる。「気界」で鍛えていけば、肉体を酷使して鍛えなくても、出来ないことではない。したがって、これらを宣伝材料に遣い、派手に宣伝すべきものではないのである。此処で課題として残されることは、「衛気」を、どのように発気するかである。

 さて、衛気の発気に加えて、人間の各箇所に存在する急所を解剖学的に見ていくと、運動や行動の中に見られる上肢の運動筋肉は、その第一が上腕二頭筋(じょうわん‐にとうきん)であり、その第二が上腕三頭筋(じょうわん‐さんとうきん)であり、第三が胸鎖乳突筋(きょうさ‐にゅうとつきん)であり、その第四が口輪筋である。

 例えば、上腕二頭筋と上腕三頭筋について考えてみると、上腕二頭筋は手や腕部を曲げる為に筋肉であり、上腕三頭筋は手や腕を伸ばす為の筋肉である。つまり、屈筋と伸筋の作用により、腕の曲げ伸ばしをしていることになる。

 上腕二頭筋が収縮すると、前腕(ぜんわん)と上腕骨(じょうわんこつ)が近付くことになる。また上腕三頭筋は、収縮する場合、別の方法で骨に近付くので、この両者は相反する働きを持っている。
 次に頸部(けいぶ)を検(み)ると、これを武術の動きとして捉(とら)えた場合、上腕二頭筋と上腕三頭筋に力が加えられると、胸鎖乳突筋や口輪筋が頸筋にも働きかけて、これが動くのである。この場合、これに対峙(たいじ)した相手は、躰の動きを通して、心の動きまで読み取られる状況を招く。もはや、こうなっては読み取られた方は術者に制せられるしかないのである。

 武術では、二言目には「呼吸、呼吸」というが、その肝心な呼吸は、この場合、単に吸うたり吐いたりする呼吸のことばかりではない。呼吸の吐納(とのう)は、心の裡(うち)にも顕れるのである。したがって、武術や武道では、ただ体力や体格に恵まれ、肉体力が強いというだけでは真剣勝負に勝てないのである。真剣勝負は、平面盤上で行う二次元の戦闘ステージと違うからである。

 真剣勝負は野外での野戦であり、此処は三次元の戦闘ステージであり、山あり、谷ありの山岳戦と同等のもので、三次元行動が課せられる戦場である。戦場と試合場が異なることは、誰にでも分かるであろう。

 三次元の戦闘ステージでは、体力や体格の優だけで、それが勝者になるとは限らない。また室内の道場稽古で試合形式の勝負に優れた者が、実戦で勝つとは限らない。実戦である戦場で勝ちを納める為には、心をコントロールする方法を知らねばならないし、大自然を読み解いていく読解能力がなければならない。そこで必要になるのが心を律する精神修養や、山上踏破(さんじょう‐とうは)や武者修行に出て、心身を律し、食の大事を学ぶ智慧(ちえ)が必要になるのである。智慧者としての気質が要求され、強弱論にこだわる必要がなくなるのである。あらゆる状況に敵をうする智慧のみが、勝敗を決するのである。

 その一つが、心法とともに急所図解を頭に叩き込んで人体の表層を探求する努力である。人体の表層にはあらゆる敗北に繋がる急所が点在している。また表層は筋肉や骨の他に、内臓を含めた内部の外筋部分や内筋部分に大きく関与していることも知らねばならない。

 例を挙げると、人間の一丸弱い急所は、「四タマ」「六穴」である。
 「四タマ」とは、アタマ(頭)、咽喉タマ(咽喉仏)、目玉(眼球)、キンタマ(睾丸)の四箇所であり、 「六穴」とは耳の穴の2箇所、鼻の穴の2箇所、口の1箇所、肛門の1箇所である。これらは単に表層の働きを持つ急所というより、内臓や内部に関与した内在的弱点といえる。そして、この内在的弱点は、神経系に繋(つな)がり、特に自律神経と深い関係を持っている。

自律神経の模型図。交感神経と副交感神経の連絡関係。
(画像クリックで拡大) イラスト/曽川 彩

 武術で謂(い)う、「敵を制する」とは、自律神経の作用を利用することであり、神経が平衡感覚や「倒し」や「崩し」の技術において、大きく関与しているのである。同時に、丹田に繋(つな)がっているのであり、人間の神経系は電線に似ていて、例えば、腹から脳へと通じているのである。丹田の感覚を狂わされれば、たちどころに動けなくなり、あるいは制せられて、宙吊り状態になるのである。また、神経系における「倒し」や「崩し」は当身などによっても、打撃を与えることが出来、急所を打たれれば、顛倒(てんとう)したり動きを制せられて動けなくなる。

 神経系は東洋医学で謂(い)う、経絡説と非常に似通った医学上の学説を持ち、ある部位の特定の刺激は打撃を加えると、その経絡上の部位が損傷する「殺法的な働き」を持っているのである。つまり、急所を圧せられ、行動不能になるなどが、これである。

 東洋医学では、活法を行う場合、経絡上では、リンパ系も含めて「経絡」と称しているが、経穴(つぼ)を制することで、不随を動かす処置がとられ、武術においては不随を制することで、行動不能とし、半身不随などを起こさせる動きを含めている。何(いず)れも経絡論理に成り立ったもので、人間にとって、その行動原理とそれに関与する神経系は密接な関係を持っていることが分かるであろう。その総称したものが、自律神経に働きかけて、内臓なのに異常を与え、一時的に半身不随にしたり、動けなくする儀法(ぎほう)である。

 例えば、呼吸とともに、敵の心を読み、脊柱(せきちゅう)の一箇所を指で刺激すると、動けなくなるばかりか、呼吸までが出来なくなるもので、術者の抑えられた敵は、これにより「息が止まって死ぬかと思うほどの苦痛」を感じるのである。何れも、自律神経に何らかの影響を与え、制する方法である。自律神経中、呼吸を停止状態に追い込むのは脊柱中の胸椎(きょうつい)であり、このある箇所を抑えられると、呼吸が出来なくなり、死ぬかと思うほどの苦痛を感じるのである。

 同時に、自律神経は、わが流の呼吸法と密接化関係を持ち、呼吸法を会得(えとく)することは、則(すなわ)ち、自律神経のコントロール法を学ぶとともに、これを会得すれば、活殺自在の「術」を体得することが出来るのである。


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