トップページ >> 技法体系 >> 西郷派大東流の呼吸法概論(六) >> | ||||||||||||||||||||||||||
その一方で、「俗人」という種族の人が居る。俗人は、「谷に落ちる人」の意味である。つまり、先祖や親から貰った性的エネルギーを使って、射精や排泄によって使い果たし、身を落としていく人のことをいう。だから、「谷に落ちる人」のことを、「俗人」という。 また一方、俗人は生殖器を通じて、因縁から起る子供を作るが、仙人は自己の体内の中に、「光の子供」を宿す。
この「光の子供」こそ、極めてよく練り上げられ、昇華されたエネルギーのことである。 仙人は食物の中から、裡側(うちがわ)に蓄える性的エネルギーを抽出するのである。この性的エネルギーは、四ツ足などの、人間と同じ性(さが)を同じとする共食いを避ける為に、動物の肉は摂らない。動物の肉は、血液を汚染し、短命する元凶であるからだ。 仙人は、食物から第二種の工程で、「精的エネルギー」を変換する方法を知っている。それは、一つは酸素であり、また、食物を酸素で分解するのである。こうして昇華された「精的エネルギー」が作られる。 酸素により、食物をよりよく分解する為には、空気の汚い俗人界では、目的が達せられない。だから仙人は、山頂の空気の綺麗な高山に棲(す)み、そこで植物が新鮮に繁茂(はんも)しているところでしか生きていけない。 更に、もう一つの仙人が長寿を全うする秘訣は、「心」である。心が綺麗で、清らかでないと、精的エネルギーを蓄積することが出来ない。 したがって、仙人は、性的な衝動が起ったとしても、これに安易に排泄はしない。更に仙人は、膨大で絶大な精的エネルギーを溜め込んでいるにもかかわらず、排泄という、射精の類(たぐい)の愚行は行わず、更に欲情すらも外に漏らさず、内に溜め込むのである。 この話は、勿論、寓話を交えての話であるから、その真相は定かでないが、仙人が仙人たる所以(ゆえん)は、独自に「陽気」を発生させて、これを体内に巡らす「周天法」にあるらしい。周天法で得たものが「光の子供」であるらしい。 仙人は陽気のエネルギーを丹田に蓄え、それを丹田から発気させて、会陰(えいん)、命門(めいもん)、夾脊(きょうせき/脊柱上の経穴)、玉枕(ぎょくちん)の上昇させて、やがて泥丸(でいがん)に至り、印堂(いんどう)を経由して人中(じんちゅう)、天突(てんとつ)を巡らせ、やがてこれを元の丹田に戻す術を編み出した。これを「小周天」という。正中線上にある、任脈(にんみゃく)と督脈(とくみゃく)のルートである。 更に、丹田に蓄えた「陽気」を全身に隈なく循環させて、再び戻す術を「大周天」という。躰全体が黄金に輝くという。 仙術などで、仙人の房中術を「接して漏らさず」などと、俗人は揶揄(やゆ)するが、仙人は安易に排出する「精」を決して漏らすことなく、遂に溜め込み、「陽気」として蓄えたのである。 また仙人は親を経由して、先祖から貰った「先天の気」を、食物から精的エネルギーに変換する方法を編み出し、更にこれを殖(ふ)やし、「陽気」としたのである。この陽気こそ、仙人が言う「光の子供」であったのである。光の子供を宿し、更に「精」を蓄えていく。これこそが、仙人行法の真髄であったのである。 今では、「精力絶倫」などと称して、精力の強いことを笑い話の一つに房中術を、でっち挙げているようであるが、これは生命の大事さが理解できない俗人が垂れ流す侮蔑俗語(ぶべつ‐ぞくご)であり、本来、仙人が意図した言葉ではない。 昨今では、「性」を対称にしている猥褻(わいせつ)サイトや、この手の講習会を開くと、どこも満員になり、儲け話の一つに挙げられているが、こうした卑猥(ひわい)なことを考える、中年男女は、その深層心理に「仙術の性を学べば、セックスが疲れないで出来、精力絶倫の状態で性交遊戯が出来るのではないか」という期待が、こうしたものへ興味を向けているようである。 また、仙術や房中術の「性」を、不倫の材料として、女漁(あさ)りや男漁りをするのが今日の、中年男女の行動パターンで、誰とでも寝て、疲れないセックスに目をぎらつかせているようだ。 古くから人間に、潜在的に先祖から伝わった「後天的性エネルギー」は、今や、その排泄口を求めて右往左往している。現代人に残された先祖からの先天的な性エネルギーが遺伝子情報の何処に残っていて、この記憶が時々暴れ出し、性衝動を起こしているのではないか。それが昨今の「性の氾濫(はんらん)」ではないか。 また、この性衝動が存在する限り、俗界での俗人の性エネルギーの膨張は止まることがないであろう。半永久的に、拡散・膨張し続けるだろう。この拡散・膨張の中に、現代人は生きているのであって、私たちが、「今、生きている」ということは、人類を生きるのと同義語になり、私たち人間が生きるということは、地球の中で、「地球を生きている」という意味ではなかったのか。 だから現代人は、既に忘れてしまったのであるが、「人間が生きる」ということは、地球と倶(とも)に生き、大宇宙と倶に存在し、あらゆる人々と倶にあり、「現世」という二つとない、このシナリオのないドラマを生きていることになりはしないか。 現象界で起ることは、「結果」に合った「原因」が派生している。原因こそ、結果の裏返しであり、結果が原因を派生させ、結果に則した形で、結果が原因を辿って居るのではないか。 したがって、いま起っている結果は、元を辿れば、やはり結果に則した原因が、過去に在(あ)ったということにもなる。
●山頂でする呼吸法「人間に磨きをかける」ということは、途方もない苦労を必要とする。気の遠くなるような路程を辿り、遂には、生まれた意義を検討し、あるいは生まれ直しを求めて、再び過去へと帰っていかなければならない。つまり、自分が生まれたということは、もう一度、過去に遡ることを再検討することである。 では、自分の過去に遡(さかのぼ)るとは、一体どういうことか。 しかし、呼吸法の歴史に中には、かなり古くから、意識と無意識を探求する為に、「修行」という形を用いて、「呼吸法」の研究に努力を傾けてきた痕跡(こんせき)がある。そして、この研究の行き着いた先は、呼吸は、意識下でもできるし、
無意識下でもできるという法則を発見したのであった。
『続日本紀(しょく‐にほんぎ)』 によれば、文武天皇3年(699)5月24日条に、次のように記している箇所がある。 これによれば、小角は7世紀後半に葛城山(現在の金剛山を主峰とする山系)を中心に活動していたことになり、呪術者として、また山岳修験者として、かなりの人望があったことになり、この人望が仇(あだ)となり、讒言により伊豆に流されたといえよう。 そして、役行者の登場は、日本においては神道、仏教、道教の三者が出合い、それが習合して、独自の山岳信仰を発展させ、山岳修験道になっていった歴史を持つと考えられる。つまり山岳信仰の対象は、やはり仙人と俗人の違いにあるようで、仙人である「山の人」は、高山に棲(す)み、俗人である「谷に落ちる人」は、下界の俗界に棲んでいたことが識別されている。 では、役行者は「何ゆえ高山を好み、山岳地帯を棲家(すみか)としたのか」ということになる。 一般に呼吸が浅いといわれる人は、胸式呼吸をしている人であり、この浅い呼吸をしている人に、どういう事態があこるかというと、それは自律神経を不安定にさせるなどの症状で、その最たるものが高血圧症であろう。これは外から入り込んだ病気ではなく、自らが、裡側(うちがわ)で、心を歪(ひず)ませて作り上げた病気である。 浅い呼吸をしている人は、「肚(はら)の鍛錬」が出来ていない為に、自律神経を安定させることが出来ず、怒りっぽく、何事かに苛(いら)ついて、不安に脅(おび)えている人である。そして、来てもいない明日のことにまで、思い悩む。 また、呼吸自体が肺を広げない為に、酸素と二酸化炭素の交換が悪くなるのである。つまり、呼吸が浅いということは、二酸化炭素が常に残った状態になって、血管末端部の毛細血管に酸素が送れないという状態になっているのである。また、こうした現象が、脳溢血や脳血栓、脳卒中という症状を惹(ひ)き起こすのである。 更に浅い呼吸は、肺内部の上部だけでして居る呼吸であり、こうした呼吸動作は、肺を充分に動かさないという運動不足が起る。 特に、呼吸器系の運動不足について、肺を充分に動かさないということは、実は横隔膜(おうかくまく)が充分に動かさないということであり、また、横隔膜の吐いたり膨らましたりして起る、生物電流が、横隔膜運動の運動不足で、容易に発生しないということになる。人間の体内に起る生物電流は、「陽気発生」の為の必要条件であり、この生物電流が発生しないことには、体内は益々陰圧の高い「陰気」で汚染され、陰気は邪気や邪霊を呼び寄せるという恐ろしいものである。 その為に、身体的にも大きな不都合が起り、その結果、酸素と二酸化炭素の交換が悪くなり、酸素の少ない状態になって、血液が循環すれば、当然の如く生理代謝が、うまく行かないのである。このうまく行かなくなった状態の最たるものが、高血圧症である。高血圧症になれば、種々の異常事態が発生し、極めて免疫力が低下するのである。 浅い呼吸が、酸素の二酸化炭素の交換率を悪くし、この悪さが、酸素の少ない血液を体内に流しているということになる。したがって、末端の細胞や毛細血管も目詰まりを起して酸欠状態となり、生理代謝がうまく行かなくなってしまうのである。 高血圧症は、普段の呼吸の浅さから来る、呼吸法そのものの間違いであり、一般に呼吸など習わなくても出来ると考えている人が多いようだが、これが年齢を重ね、歳をとると、これまで自分のやっていた呼吸の間違いに思い当たってくるのであるが、多くの人は此処までのことに気付かず、高血圧になるのは塩分を取り過ぎで、それが原因で高血圧症になってしまったと考えるのである。まさか、自分の呼吸が浅いことにまでは思い当たらないようである。 こうした人生の元凶から逃れるには、まず、呼吸法を正しく知ることであろう。その為には、呼吸を深くして、長い息をし、躰全体を充分に使い、特に肺臓を動かすことである。肺に充分に酸素を送り込むことが出来れば、血液中に取り込む酸素も多くなり、代謝機能の効率が格段によくなってくる。 多くの人は、自分の躰には血液が巡らなければ生きていけないということは知っている。ところが、血液の中には、酸素が必要であるということには、あまり気付いていないようである。更に、血を動かしているのは、東洋医学では「気」であるとし、「気」があるから血液が動いていることまでは、余り知られていないようである。 一方、現代医学は、十六世紀に組み立てられた、イギリス皇帝の宮廷医であったウィリアム・ハーヴェーの『心臓原動力説』が血液循環理論の基礎を成しており、東洋医学でいう「気の血行力学」は殆ど認めていないようだ。 血液循環の原動力が、現代医学が言うように「心臓のポンプ作用」にあるのか、東洋医学のいう、「飢えた細胞の血液の吸引力」にあるのか、両者は大変な隔たりを持っている。 つまり、血液循環の原動力は心臓のポンプ作用であるとする現代医学では、断食によって、例えば中耳炎や蓄膿症が血液循環の不全がなくなることで、これが感知するという臨床例を説明できないからである。 また、「西医学」の西勝造先生は、「血液の原動力は全身の細胞が飢えることによって生じる血液の吸引力にある」と論じている。これは、血の運行は「気」であるということになる。そして、循環する運行に関わっているのは「血気」である。 気によって、人は生命(いのち)の流れを順調にし、気によって、生命の顕(あらわ)れを表現するのである。そして、人が本来するべき呼吸は、胸式呼吸ではなく、「腹式呼吸」であり、腹式呼吸の方が生理的には合っているのである。したがって、胸式呼吸だけでいいとか、胸式呼吸の方が正しいという考え方が、「腹式呼吸の大事」を知るこで、これまでの呼吸法に対する考え方が一変するのである。 現代人が、多忙に追われて日常生活をしているので、その多くは腹式呼吸の大事さまで思い至らず、胸式呼吸の、「意識下」の浅い呼吸をしている。この意識下の呼吸が、高血圧症などの弊害を招くのである。そして強い意識下では、往々にして胸式呼吸のみが主体となり、この浅い呼吸が「緊張の息」という元凶を作り出すのである。 また、「緊張の息」は、単に高血圧症や動脈硬化だけを招くのではなく、ストレスを作り出し、このストレスは、種々の成人病を合併症に落とし入れ、ストレスから発症する慢性病が、実はガン発症だったのである。 病気の根源になる「トラウマ」というものは、ストレスの中に隠れ潜んでいて、これが血液中の酸素不足を招き、まず、血圧を上げるという「悪さ」をする。その上、病気になる根源であるトラウマを、多くの人は、臓器などの中に溜め込み、そこが胃であったり、大腸であったり、あるいは肺であったりするのである。このようにして、いろいろな五臓六腑に溜め込む為、その一番弱い部分にトラウマが取り憑(つ)くのである。 要するに人間という生き物は、知らず知らずのうちに、無意識のまま、そのトラウマを呼吸器系の胸に溜め込んだり、消化器系の胃や腸に溜め込んで、感情を蓄積する傾向があるのである。その上で、これらが漏れてしまわないようにと、筋肉でしっかりと押さえ込み、閉じ込めてしまっているのである。 一方、「肚(はら)を割って話す」という俚諺(りげん)がある。 東洋では、「肚」は古来より、「感情を表す箇所」として言い伝えられてきたが、よく考えると、「腹の固さ」については、子供と大人とでは医学的に見ても違うようだ。子供の腹は実に柔らかく、これに比べて大人の腹は、かなり固いものである。この、「大人の固い腹」こそ、頑固で頑迷な「我」であり、その正体はトラウマである。固いから、しこりもあり、この「しこり」が種々の病因を招くのである。 また、眼を見た場合、子供の眼は、まず最初に気付くことが、「非常に瞳が大きい」ということである。これは純粋さを顕している証拠であり、その純粋な感情が、そのまま眼に顕れているのが、「子供の眼」である。更に子供の眼の特徴は、光を取り入れたら、光をそのまま素直な感情として、放出できる優れた感性を持っている。 一方大人の眼となると、太陽の光を取り入れないように制限してしまっている。こうした人の眼は、瞳が小さく、これこそが「我」の象徴というべきものである。こうした「我」の強い人は、 腹の固さも相当で、ここでも感情を、自分なりに制限している元凶が顕れている。 こうした眼は、純粋さや素直さが欠け、疑い深く、心と躰を鎧(よろい)で覆った状態になって、とても深い呼吸は出来ないような状態になっている。大きく息を吸い込もうとしても、鎧で固めた心の躰は、胸いっぱい、腹いっぱい息を吸い込んで膨らませることが出来ない。 大人の眼と子供の眼を比較した場合、それは「瞳の大きさ」に違いが顕れるわけであるが、同時の感情の豊かさや、心のおおらかさ、純真で素直な気質が、大いに失われているのが大人の眼であり、これは子供以上に小さな瞳をしているのである。 一方、大人の眼も、都会育ちの人と、山国育ちの人と比較しても、その瞳の大きさは異なっている。山国育ちの人は、いつも山岳地帯の大自然に囲まれて育った為、その瞳は都会人に比べて大きいのである。喩(たと)え、瞼(まぶた)が一重瞼であっても、瞳だけを観察すると、都会人の二重瞼の人に比べて、瞳の大きさは断然大きいのである。 この瞳が大きいということは、太陽光線もありのまま、自然のままに受け入れ、素直で純真であることを顕している。 神話によれば、彦火火出見尊(ひこほほでみ‐の‐みこと)である山幸彦が、兄の火照命(ほでり‐の‐みこと)の海幸彦と、猟具をとりかえて魚を釣りに出たが、釣針を失い、探し求める為、塩椎神(しおつち‐の‐かみ)の教えにより海宮に赴き、海神の綿津見神(わたつみ‐の‐かみ)の女(むすめ)豐玉毘売(とよたまびめ)と結婚し、釣針と潮盈珠(しおみち‐の‐たま)と潮乾珠(しおひ‐の‐たま)を得て、兄を降伏させたという話に由来し、日本人のルーツは山岳民族であるようだ。この象徴が、眼の瞳の大きさだった。 高山に登り、そこで深呼吸をするという行動は、まず、吐気(とき)を吐き出し、次に呼気を行う際に、胸いっぱいに息を吸い込むということである。山頂の、澄んだ綺麗な空気を腹いっぱい吸い込み、酸素と二酸化炭素を交換するのである。 これまでのトラウマという「しこり」を超えて、自分で高山の山頂で深呼吸してみれば、自分が如何に浅い呼吸をしていて、呼吸法自体が間違っていたか、容易に気付くであろう。脈が速くなったり、血圧が高くなっていたのは、とにかく呼吸が弱く、せわしなく、浅い呼吸で、生きる為の生命力が欠乏状態になっていたということである。 これを回避し、挽回するには、まず、大きく、最初の吐息を吐いて、次に腹いっぱい深呼吸することである。まず、大きく吐けば、次に自然と深い吸気が出来るはずである。更に、自然を腹いっぱい吸うことである。ただ、これだけのことを、やれば勝手に吐いて、勝手に吸っている自分に気付くはずである。 また、そのことを知れば、これまでの間違った呼吸パターンが廃止されて、正しい呼吸法が出来るようになり、高血圧症の人はそれだけで、最高血圧値は40は下がるのである。これを実行するのに何の難しいことはない。山に登り、山頂で深呼吸をし、これまでの間違った、浅い呼吸を止めればよいのである。これまで溜め込んでいた、古い気と倶に、酸欠状態の息を持てる力を使って口から吐き出し、充分に吐き出した後、今度は静かに鼻から吸い込めばよいのである。 疾患というのは、過去の病変の映像が、「今」に具現されたことで、総ての間違いは、過去の依存していたものであり、結局その出所を辿れば、疾患者は、これまでの自己の生活習慣の誤りから起ったことが、「今」という次元に具現されたことが分かるであろう。
●現代文明が齎すストレスというトラウマ 昔は、ストレスの原因になるものといえば、天地大自然から起る旱魃(かんばつ)や大洪水なのであった。これを昔の人は、勝手に神の怒りと思い込み、悩んでいたのである。シャーマニズムが起ったのも、こうした理由からであった。つまり、多くは内因性の、僅かなものであった。 ところが、現代は科学万能主義の時代だというが、これにより得た、快適さや便利さに引き換え、不快さも増加している。 人間は文明という名の贅肉と引き換えに、それ以上のものを失っているのである。 電磁波やプラス・イオンは自然界の中にも存在するが、人間が人工的に作り出すものに比べれば、そんなに大したものではない。むしろ人間が人工的に作り出すパワーの方がより大きいのである。 そして、現代社会の空間には、人間が呼吸法などをしようと思っても、それを行える場所が極めて少なくなってきているのである。つまり、「修行環境が失われている」ということだ。 その上、幹線道路が通っていたり、高架線の上を電車が通るところでは、自動車や電車がカーブを切るところでは、それが緩やかであっても、強い抵抗が起き、少なからず電磁波が発生し、また、プラス・イオンが発生しているのである。そして、そこに発生するプラスイオンの発生の影響は、一軒二軒単位ではなく、数百メートル、数キロメートルの広範囲に及んでいる。こうしたところでは、修行どころではないだろう。 それに輪を掛けて、家電製品が常に作動しているのであるから、悪影響を及ぼすプラス・イオンは相当なもので、更にもう一つが現代社会の特徴である、高層マンションからの悪影響である。 高層マンションは大気中のイオン、つまり大気電界は空気の汚れたところでは、プラスになり易い。特に、都心部の平野地の、海抜の低いところに建てられた高層マンションほど、この傾向が強い。 理由は、大気電界の強さによる。プラスイオンが、マンション上階では強力なのである。したがって、平野部で、市街地の地域に建てられた高層マンションでは、不安定な大気電界が充満していて、そこでは常にプラス・イオンが発生しているのである。 植物か直ぐに枯れることからして、こうした高層住宅での修行環境では、却(かえ)って不健康を増進するようなものである。これも近代の物質文明が生んだ、紛れもないストレスである。そして、ある研究筋の「ガン発症率のデータ」によると、山地の高山地域に棲(す)んでいる人よりも、かつて海などを埋め立てて作った海岸に近い平野部に住んでいる人の方が、ガン発症率は高く、また高血圧などの発症率も、圧倒的に高いといわれている。 これは、まず住んでいる人の場所が海岸に近いか、内陸部の山地であるかであり、その地域のナトロン塩とカリ塩の格差があると思われる。次に、プラス・イオンの発生量である。もし、ナトロン塩が勝っていて、プラス・イオンの発生量が多ければ、当然、内陸部の山地の人に比べて、不健康にはなり易いだろう。また、四ツ足などの食肉を好んで常食すれば、健康状態は更に悪化するのである。これこそが、ストレスの正体である。 こうしたストレスから抜け出す為には、定期的に都心から抜け出し、山に入る必要があろう。
●俗人と仙人を繋ぐ調息呼吸俗人と仙人の接点を見出すとするならば、それは呼吸法であろう。呼吸法こそ、両者を結ぶ接点であり、それは「調息呼吸」である 調息呼吸を行う環境は、まず森閑(しんかん)とした静寂の中である。静かであることが、調息呼吸を行う上では、最も大事なことで、その空間は騒音で満たされたり、空気が綺麗でない処は不適格である。静寂の中に身を置いてこそ、呼吸法の条件が達せられる。 こうした静寂の中に身を置き、いま暫(しばら)く静かに、自分のしている呼吸に気付くと、胸部のところが、まず上下運動をしていることが分かるであろう。つまり、横隔膜(おうかくまく)は横に膨らむのではなく、縦に上下するということである。この縦の上下が、実は生物電流を発生させる源なのである。 凡息では、胸の広がりや、横隔膜の上下運動は極めて小さく、僅かな空気しか吸い込めないのである。呼吸回数も多く、せわしなく、吐いたかと思えば、直ぐに吸い込む短い呼吸で、極めて浅い呼吸である。この呼吸の連続が、実は現代病という病気を招く元凶になっている。呼吸が浅くては酸欠状態になり、血管内に酸素が送れないからである。 一般に信じられている、喫煙者には「肺ガンが多い」とか、こうした喫煙者の家族や、周りに喫煙者の多い仕事場では、肺ガンになる人が多いと信じられているが、肺ガンの直接的な原因は、タバコの煙そのものにあるのではない。 周囲の人が喫煙をしなくても、その人自体が、呼吸が浅ければ、やはり酸素と二酸化炭素の交換は充分に行われて居らず、浅い呼吸に、これまでの胸部に残る二酸化炭素と、大気中の有害物質が取り込まれるからである。肺ガン発生率を検(み)ると、実は喫煙者でも肺ガンに罹(かか)らない人が居るからである。このことは、タバコ自体が肺ガンを発症させる直接的な原因でないことを物語っている。 その一方で、生まれてこの方、喫煙の習慣は皆無で、それで肺ガンになる人が居る。その人は、周囲に全くこうした喫煙をする人が、一人も居ないのに関わらず、肺ガンになるのである。 こうした場合の問題点は、「喫煙の習慣がないのに、肺ガンになった」という、この点であり、この点をよく吟味すると、喫煙の習慣がないのに肺ガンになったという人の、生活習慣に問題があったのではないかと考えられる。 その第一は、普段から深呼吸や腹式呼吸を殆どした事がなく、呼吸法も知らず、こうしたことが禍(わざわい)している点である。 人間は体内に、無意識に知覚する「24時間時計」が入っている。この時計の知覚で、人間は生活のリズムを維持しているのであるが、「太陽と倶に寝て、太陽と倶に起きる習慣」のない人は、「24時間時計」が狂っているのである。 現代は昔と異なり、職業も多種多様である。夜間に働く人も多い。したがって職業上、現代という世の中は午後10時までに床に就くということは、甚だ難しい時代になったが、この難しさが現代病を招いているといえる。しかし、一週間のうち、あるいは一ヶ月のうち、やはり何日かは、午後10時までに寝て、朝は5時以前に眼を覚まして、太陽を拝むという行動があってもいいのではないだろうか。 そこでお奨めしたいのが、「調息呼吸」である。 しかし、防衛本能を露(あらわ)にしつつ、いつまでも浅く、短い、せわしない呼吸では、そのうちに健康を害することは明白だろう。必然的に、病気環境の中に居るということになる。したがって、病気環境から抜け出す配慮と努力を怠ってはならないだろう。 そこでお奨めしたいのが、調息呼吸であるが、まさか都会のど真ん中の、高速道路横の、汚染だらけの大気の下で、調息呼吸は出来ないだろう。その為に、やはり都会人の場合は、普段の凡息と、調息を組み合わせて、併用することが大事であろう。 つまり、「24時間時計」の中で、普段の凡息は23時間していて、そのうちの1時間だけ、調息をするのである。こうすれば下腹を殆ど動かさない、浅い呼吸の運動不足も、解消されよう。運動不足とは、スポーツをしないことや、トレーニングジムに通っていないことを運動不足というのではない。 さて、調息呼吸を行うと、下腹の運動に伴って、横隔膜が下がり、肺が凡息とは比べ物にならないくらい大きく広がるのである。そして、呼吸の速度もゆったりしてきて、浅く、短い、せわしない呼吸から解放されるのである。その上、酸素摂取量は、凡息の約3倍以上であり、二酸化炭素の酸素の新旧を入れ替えることが出来る。沢山酸素を吸い込むことが出来れば、呼吸回数も自然と少なくなり、ゆったりとした寛ぎのひと時が訪れるのである。但し、やる場所や環境には配慮が要るであろう。 調息呼吸をすると、酸素を大量に吸収するばかりでなく、下腹を動かす運動量が増えてくる。これはスポーツなどの力む運動とは異なり、心臓にも負担がかからないので、新陳代謝をよくする運動も兼ねるのである。 下腹を殆ど動かさず、 運動といえば、スポーツをしたり、アスレチックジムに行ってその建物のランニングコーナーを走ったり、筋肉トレーニングマシンなどを遣ったり、室内テニスをしたり、プールで水泳をしたりと、やたらに「力む」ことばかりをするのが運動と考えている人が多いようであるが、こうした人に限って、心筋梗塞などで斃(たお)れて、突然死し易いものだ。 こうした心臓障害で斃れやすい人は、西洋スポーツ的な、スポーツ体育理論に偏っていて、物事を「科学的」と称する弁証法的三次元思考をする人である。また、肉の眼で観察できるもの以外信じないという人である。 筆者は、こうした人をスポーツジム見学などで、よく見かけるのである。何とも皮肉なことであり、健康になる為にスポーツジムに通いながら、「運動」と称して、筋力運動はしているものの、みな「力む」ものばかりで、肝心な、「下腹を動かす」という、呼吸法で一番大事な、呼吸運動は疎(おろそ)かにしているのである。実に何とも、皮肉なことではないか。 運動不足とは、「力むスポーツをしないこと」を運動不足というのではない。下腹を一日に、1時間程度、動かさないことを、本当の運動不足というのである。単に、体脂肪率ばかりの測定では、運動不足は見抜けないのである。 下腹は、非常に血流の滞り易いところである。ここに血が留まり、鬱血(うっけつ)を起す。現に、都会人の腹を触ると、この部分が非常に固いのである。下腹の固い人は、鳩尾(みぞおち)から膀胱までの正中線上を左右四本の指で少し強めに押していくと、痛みを感じるという人は、間違いなく下腹に血が滞っている人で、既に腹部に鬱血を起している。 こうした人は、心臓障害や血流障害を持っている。したがって、力むスポーツをやれば、当然心臓に大きな負担が懸かり、運が悪ければそのまま突然死して帰らぬ人になるのである。 性的エネルギーを膨張させては、早死の人生プロセスを辿る以外ないだろう。膨張する、性的エネルギーを押さえ、性器に逃げ込む「気」を抑止し、心臓に負担を懸けない為には、どうしても調息呼吸を行うことが好ましい。 これを抑止しない限り、長寿は全うできないであろう。その為に、調息呼吸が必要である。これを行えば、心臓障害や血流障害を解消し、充実した基礎体力が維持できると倶(とも)に、体質改善に繋がるのである。そして、此処にこそ、俗人と仙人を結ぶ接点があるのである。
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