トップページ >> 技法体系 >> 西郷派の小太刀術(二) >> | ||||||||||||||||||||||||||||||||
●時と場においては、長物が不便なときもある長ければ有利と考えるのは、三次元顕界においての物質的論理である。前後・左右・上下を表す三次元空間において、長短の優劣は勝敗を決するキーワードのように思えるが、これは必ずしも的を得ているとはいえない。 それは長剣を持ち、有利に振舞っていた者が、時として、短刀や匕首(あいくち)や、また小太刀の術者に敗れるからである。更には、長剣で斬り込んで来る者が、無手の者にさえ、敗れることがある。これは如何なる理由からであろうか。 武儀の極意に「漆膠(しつこう)」なる、躰(たい)捌きがある。 剣先に「小心」が顕れた場合、業(わざ)も小さくなり、早い業、軽い業、小手先の業に偏(かたよ)り、小心の「心」がそのまま、剣を形作る。 一般に、敵に乗ぜられることなく、動かぬ心を「不動心」という。しかし、この不動心こそ、一人歩きをし、勝手に解釈されている言葉はない。不動の心を「不動心」という。極めて当たり前でありながら、実は不動心という言葉ほど抽象的で、掴みにくい言葉はない。 ところが、人間はある機会を境として、突然、豹変(ひょうへん)することがある。それは、「背水の陣」を敷き、後がないと知るときである。これまで平凡に、地味に、小市民と生きてきたものが、ある機会を境に、忽然(こつぜん)として豹変するのだ。 こうした勇者が持つ剣は、小太刀や短刀と雖(いえど)も侮(あなど)り難いものがある。 また、一方で、敵の三尺の剣を、吾が方に近寄らさなければ、敵が如何に長剣を握っていても、吾は打たれることはない。つまり、わが流のこの教えは、「剣術修行は、小太刀術を含み、位置と動きの修練である」と説く所以(ゆえん)である。
●重い物を軽く遣い、軽い物を重く遣うの理 剣術を修練する者にとって、軽い物を遣(つか)うと言うのは、日頃、それ以上の重い物を遣(つか)うのに比べて、容易(たやす)いことと、誰もが簡単に思うようである。 ことろが、普段の物より軽い物を使用した場合、精神が軽佻浮薄(けいちょうふはく)になり、心は安易さに傾き、この安易さから起る自惚(うのぼ)れと、ある意味での動揺は、直ちに剣先に顕れる。尖先は大いに揺れ、軽佻となり、軽々しく浮薄となって、浮き足立つからだ。 そして、これらの「動揺」が齎(もたら)すものは、例えば業(わざ)も小さくなり、早い業、軽い業に偏(かたよ)ることである。 一方、重い物を持てば、重さゆえに、沈着冷静となり、打ち出す業も確かなものであるといわれている。更に、重い物を軽く遣えるようになれば、心に余裕が生まれ、物事を冷徹に見据える見識が養えるとしている。同時に、心身が養え、一石二鳥としている点である。 それは、軽い物を重く遣う業において、一歩遅れを取っているからである。 ところが、軽い物を重く遣い、重いものと同じ効果を齎す業は、その業自体が、技術的な肉体鍛錬で解決できないからである。何故ならば、軽い物を重いものと同じ効果を導き出し、それと同等にすることは、単に三次元的な技術でないからだ。これを三次元技術で解決しようとすれば、忽(たちま)ちのうちに、姿勢や態度の乱れが生じるからである。 この世という顕界(げんかい)での行為は、常に肉体を関与して行われる。特に、物理的な法則に負うところが多い。したがって、重い物を軽く遣う事は肉体の鍛練で解決するが、軽い物を重く遣う行為は、肉体の鍛錬では如何ともし難い。 「重い物を軽く遣い、軽い物を重く遣う」という、相反する行為を実現させる為には、それに用いる長短軽重を超越しなければならない。何(いず)れかに偏(かたよ)らず、自(おの)ずから変化を齎して遣うことこそ、長短軽重が超越できるのである。
●能動と被動 人生には「繋(つな)がれた生活」や「束縛された生活」あるいは「奴隷に落ちだ生活」というのが、現世には渦巻いている。 現代人は、捨てるものを本当に捨てず、捨てなければならないものを、いつまでも後生意大事に持っている生き物である。 しかし、その現実の裏は、働き盛りの男どもが、家庭という檻(おり)に繋がれ、動物のような束縛された生活を強要されているのである。誰もが、こうした現実に薄々気付きながらも、それを思い出すまいとしているだけなのである。そして、それはそれで、「よし」とする生活をしているだけなのである。何かに妥協して生きる社会が現代でもある。 その一方で、真の「解放」とことが叫ばれている。しかし、「解放」というからには、何かに寄り掛かり、凭(もた)れ掛る生き方から解放されなければならない。この寄り掛かり、凭れ掛りの生活の中では、自己が、自己ならざるものから使役される生活が延長線上にある。その生活の多くは、外の物に動かされている生活である。 その多くは、社会や俗世の仕来(しきた)りであったり、世襲であったり、打算的な利害から、多忙と徒労を招き、自己矛盾に、エネルギーの効率の悪化から益々拍車を掛けるという境遇に置かれやすくなっている。その元凶は、他と比較する、他と競争するという競争原理に中で、客観という理知の概念により、みな外に向かう眼で、己自身をコントロールしようとしているからである。 では、何故こうした他律的かつ奴隷的生活が余儀なくされるのか。 一方で、外に縛られずに生きる生き方がある。 しかし、一つの事実を二つに分離し、それぞれに隔離してしまえば、離れ離れに置かれた二つの独立したそれぞれは一見無関係な、独立した個体のように映る。 さて、ここで例え話を持ち出すとするならば、いま一隻の舟が、船頭の竿(さお)に押されて動いているとする。押す竿と、押される水とは、眼で見たところでは、二個の存在のように映る。それぞれは独立した個体が関係し合っているように映る。 物体が動く。人が何者かを動かすという行為の中には、能動を意味する押すものと、被動を意味する押されるものが一体となったとき、一つの「動く」という事実が出現するのである。したがって、竿と水の関係は、その現実の二つの要素、二つの項目に過ぎないのである。つまり、物は二個だが、動きは一つなのである。動きにおいての現実は、「一体」ということが分かるであろう。 現世を、いま生きている現代人は、生きて行動をするという事実は、常に「一体を経験している」ことになるのである。この一体という「交点」が、そもそも真の現実なのである。しかし、目で見るときには、これが二個になってしまう。独立した二個のものとして眼に映る。つまり、此処にこそ、道元禅師(どうげんぜんじ)が言った、「汝、眼に誑(たぶら)かされる」という虚構が存在するのだ。 そこに横たわるものは、世の中の処世術、人と人との交際、あるいは役職での上下関係、日常の暮らし方、家族との接し方、苦労や疲労の打開策。こうした諸々が、活機を失わしめ、生きた働きを阻害しているのである。 かつて、武術哲理に基づいた古人たちは、「敵の攻撃の真正面に立つべからず。常に斜めに向かえ」と教えた。また、ある古人は、「大敵に向かって真正面に立つべからず。吾より攻めるべからず。敵の来るのを迎え撃て」と教えた。この教えを吟味すれば、やはり「位置」と「動き」を読むことを教えているのである。 これは応用篇として、現代社会に当て嵌(は)めるならば、喩え、大勢や多数の意見が誤っていても、大勢に抗(あらが)って、真正面に立つのはよくない。これでは不利になる。むしろ斜めに構えてそれに立ち向かい、大勢に乗りつつ、側面から撃破するのがよいといっているのである。また、こちらから攻めては、多勢に無勢の場合は不利である。先方の攻めてくるのを待って、充分に誘い込んだ後に刺殺するのがよいと教えているのである。
●無分別智への開眼 固定観念を誘発する元凶は、「分別知」である。この分別知の「知」で、物事を見る限り、これは「肉の眼で見ている」ということになり、眼で見る立場の延長を、私たちは肉の眼で確認しているのである。つまり肉の眼の確認は、「目で見る立場の延長」であり、単なる整理・整頓に過ぎないのである。 一方「生」は、常に一つの事実に向かおうとする。しかし、もともと一つの事実を、「知」によって分裂させ、二つに引き裂くが分別知であり、知識である。つまり、分別知が知識を作り上げ、その知識から非道なる無理が出てきて、いつも「生」を縛り、「生」を蒼白(そうはく)に追い込み、痩せ衰えさせるのである。 しかし、「生」の観点から云えば、上下にランク別の階級はなく、貧富の差もなく、総(すべ)てが無分別である。この無分別の最たるものが、「大自然」であろう。大自然には、分別知など何処にも見当たらない。一切が無分別智(むふんべつち)で覆(おお)われている。大自然の前には、いかなる生き物も無力である。それに逆らうことは出来ない。 そして、本来人間というものは、無分別智の懐(ふところ)に抱かれて、日夜これを大自然から生々しい現実として教え込まれ、現実的には、我と物、我と彼とは、常に一体であるという働きの中で、それを感得しているのである。それは有意識であろうが、無意識であろうが。 こうした一体なる事実は、実際には眼で見ただけでは分からない。また、「心で見る」というものも、実際には眼で見えたものを、心の中に置き換えただけのことである。 これでは、「心眼」などと称して、得意がっていても、結局、分別知の「知」の延長に過ぎないのである。しかし「知」は心に残るという悪しき唸(ねん)を引き摺(ず)る。唸が曳(ひ)けば、「残念」がのこる。残念は、寂(さび)しさを引き摺る。寂寥(せきりょう)を齎(もたら)す。本来、寂しさは忘れるのがよいが、忘れようとして忘れられるものではない。忘れよう、忘れようとすれば、益々残念が残る。この残念は心に一杯に充満する。したがって、「忘れよう」と働いた唸は、いつまでも残念となって残る。 本来、「忘れる」とは、心を空(から)にすることである。空になることにより、人間はあらゆる残念を忘れることが出来る。心がそれられ満たされ、恨みや憎さが充満しているときは、忘れたと自分で思っていても、忘れたことにならない。深層部で残念が燻(くすぶ)っているのである。これは心から残念が消去していないのである。 「忘」とは、無心になる心であり、忘れようと力んでいては心は中々空にはならない。「忘れよう」と念ずる心が、つまり「有心」であり、無心とは正反対の心である。この正反対の心が、有心を招き、残念な気持ちを逆撫(さかな)でしてしまうのである。 何事かに捉われる心を「有心」という。思いを巡らす心を「有心」という。無心になりたい、無心になりたい、無心になってただ一つのことに打ち込みたいという心は、有心から発した心で、無心とは無関係である。 そしてこの妄心が、「無」という、行(ぎょう)らしい概念を植え付け、人はこの概念に振り回されて、愚かしい意念や作為をもちい、この「念」に振り回されているという実情がある。それは分別知から出た、「無」という言葉の意味であり、この意味は、本来無とは無関係なのである。
●開眼へ至る道 一般に武術や武道の世界で言う、「開眼」などという行らしい言葉を使うと、それは何か遠い先の、ある特異な境地を指しているように映る。 そこで、わが西郷派では、自覚せずに遣(や)っていることを、「他力一乗(たりきいちじょう)」といい、自覚的に気付くことを、「悟り」という名で呼んでいるのである。これが「開眼(かいげん)」である。開眼への自覚は、もともと自分自身の裡側(うちがわ)にある。自分の裡側に、気付けばよいのである。 人間が日々精進として遣(や)っていることは、基本の集積であり、この「日々遣っている」ことが、実は自己の本質であり、本然(ほんねん)なのである。 主体的真理というものは、現実の真相の中に存在し、「生の秘密」に直入することが、つまり武術では「道」というのである。武術の修行目的は、「生の秘密」を解き明かすことであり、この解明が、「悟り」なのである。 それは、「知」の方向が分別知に委ねられ、それに二分化の追加が加わり、発展を目指して行動するから、そこには益々細分化されたものばかりが出現されることになる。これは、「生」の方向や、「生」の真理とは逆方向なので、永遠に悟りに到達することは出来ないであろう。 方向も逆方向で、益々真理から離れているのであるから、分別知の「知」ではどうしても捉えることが出来ないのである。 つまり、悟って「わかる」ということは、「知」の立場とは似ても似つかぬものであり、何処まで追求しても、「わかる」ということでは、所詮(しょせん)解明できないのである。
●悟りには、「無心」というものすら存在しないよく、武道では「無心になれ」などといい、これを激励の言葉として遣うことが少なくない。しかし、声を大にして、「無心、無心」を連発しても、それは単に重大な過失の一つであり、また、重要な誤謬(ごびゅ)を、口走る人間が、犯している過(あやま)ちである。 往々にして、競技武道やスポーツ選手養成の指導者は、この「無心」という言葉が好きである。そして、こうした指導者達が、共通して、犯している愚行は、自分なりに整頓した「主観」と「客観」を見事に使い分けていることである。ここに、多くの指導者の間違いである、表向きは善人ぶっていて、その裏側は、「他人に厳しく、自分に甘い現実」がある。つまり、自他分離の意識である。 「稽古は厳しいものだ」という。それは理解できよう。しかし、人の生命を奪うような稽古は「猛稽古」ではなく、明らかに「しごき」である。その上、「無心」や「木鶏」が引き合いに出されれば、これに従っている後進者は立つ瀬がないであろう。 例えば、「無心」と「一心」の例を挙げ、幾つかの問題を提起をしてみよう。 いろいろなことに捉われて、雑念妄慮(ざつねんもうりょ)している。これも無心なるものが起因している。然(しか)も、無心に雑念妄慮しているのであって、所謂(いわゆる)事実上の無心である。 一般に、武術や武道で、「無心」というと、何か、「無心」という特別な境地があるように勘違いし易く、また、そう思い込んでいるのであるから、間違いを犯し易い。これは無心に、「無心だ」と意識しているだけなのである。「無心」と意識する「無心」の中に、無心が存在していないことは明白であろう。 もし、こうした意識の中に、「無心」があったら、それはまやかしの無心である。そんなものは、一つの意識状態であって、一種の「無心」を意識している、「有心」ということになる。したがって、「無心」と「有心」はイコールではない。明らかに、異質のものである。 小太刀術に限らず、その他の武術や武道でも、例えば、敵との間合を口うるさくいい、また、間合は、敵との駆け引きも含まれるので、この駆け引きの行為において、間合は存在するものだという固定観念が出来上がっている。そして、こうした固定観念が、「威圧」という意識を作る。 敵との駆け引きが起こる心は、無心からではない。明らかに「有心」である。有心であるから、「無心」になろうと、もがく心と同義である。敵の進退に従って、有心に心を動かし、作為によって敵を追い詰めようと懸(か)かる。至る所に「有心」が存在する。だが、これは、作為からなる敗北の暗示がある。「既に敗れたり」という、元凶が此処には存在している。 勝負師は、先を競って、自分の間合を確保しようと画策する。また、自身では、「この間合からだったら、敵を仕留(しと)める事が出来る」と安易に自負をする。これこそ、「既に敗れた心」ではないか。 人間が「自負」したり、「自称」という言葉を用い始めたら、それはそこで「進歩の止まり」を意味する。 意識により、間合を「どのくらいに取ればよいか」とか、何「処から打ち出せばよいか」などの、意識は有心であるから、こうした有心で動く有意識は、咄嗟(とっさ)の応用が利かず、また、変化に応じることが出来ない。作為で動いているのであるから、「有心」の域から抜け出すことが出来ず、また解脱できない態勢にあるのであるから、臨機応変の動きが儘ならない。此処に、墓穴を掘る要素が存在し、敗北の暗示がある。これま「無心」になろうと、「足掻いた心」の報いである。
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