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敵を斬らず、敵に斬らせない境地

居掛之術
(いかけのじゅつ)

敵を呑み、意表を衝く事こそ、居掛之術の本義とする。

●五行の所法

 「ごとごとしさ」は、武術的に検(み)ても、大いに隙(すき)のある動きといえよう。流れが、滞っているいからだ。「ごとごとしさ」の中に、敵の意表を衝く奇手(きて)は出現しない。ただ、形式ばった、時代遅れの骨董品を感じさせるばかりである。
 さて、悟道歌には、次なる教えがある。

   足も手も みな身につけてつかぶべし はなせば人の目にやたちなん

 これは手足が躰幹(たいかん)を離れた動きをすることを戒めた言葉で、隙のない動きを行動律とする為には、単にスピードや筋力を頼るのではなく、最短距離の行動線を通って、敵の機先を制することであると示唆している。

 形式ばった時代遅れの骨董品が最短距離の行動線を軌跡に描くことが出来ないのは、未熟から来るものであるが、未熟から来るところの、「目に立ち居振る舞い」は止むを得ないものとしても、昨今は、これみよがしに人目に付くことを望んでで行う者が多くなった。こうした立ち居振る舞いは、かつては「前きらめき」として蔑(さげす)まれたものである。
 これはつまり、スタンドプレーをやらかす者を揶揄(やゆ)した言葉である。派手で、目立ちたがり屋で、自分のことしか考えない性格の持ち主に多く見られる。これは、未熟さというより、その性根のいやらしさを卑下されたのであり、こうした者の晩年は惨めであろう。

 武術の本義は第一に「目立たない」ことで、一般俗人に紛(まぎ)れて、その中に溶け込むことであった。目立てば、それだけ命を狙われ、若年層から名を挙げる為の必殺媒体とされてしまうからだ。
 任侠の世界でも、名のある親分が、名もないチンピラに刺されて絶命するのは、こうした「目立たない」ということを無視した為である。したがって、武術というのは「目立たない」ことこそ、その第一義でなければならない。

 第二に、「控えめにする」ことである。控えめにする態度は、「目立たない」ことと同じように受け取られがちだが、言動を標準とする場合には、例えば席に控える着座の時機(とき)などに、自分相当の位置より、少し下位に座して、一等低く下がることである。これは居掛之術を行う上で、重要な意味を持つことになる。
 つまり、自分の着座の位置が、万一の場合、居掛けることが出来るか、否かの分かれ目になり、勝敗の明暗を分けるからである。したがって、居掛之術の教えは、相手を上席に立て、自分は一等下がって控えめにすることなのである。

 これに対し、薦(すす)められるままに上席に進み、此処に着座するのは智慧(ちえ)のない者のすることである。況(ま)して、周りから「何であんな奴が」と嫉妬を買うこともある。これは武術の世界では「一人上臈(じょうろう)といって、身の程知らずの者がやらかす愚考とされた。
 同時に自分の自慢話をしたり、あるいは知識や才能ををひけらかす態度は、実に隙を作りやすいもので、相手から妬(ねた)まれる原因にもなり、「前きらめき」にも通じ、これを知者からは、「利根(りこん)だて」といって卑(いや)しまれた。

 第三に「機転」である。つまり、創造性から作り出さねばならぬ、「応用力」である。武術の根幹を成すものは、応用力といっても過言ではないだろう。基本に忠実なのは結構なことであるが、基本ばかりで、「奇手」の生じないのは、何とも情けない限りである。
 単に見識に支えられるだけではなく、イザという場合の基点の働きが欠けていては、結局敗北することになる。
 一方、教条化し過ぎてもならない。

 一般に、手順を造り、それに沿って教条化すれば、覚え易いと錯覚しがちである。しかし、此処にも落とし穴があり、教条化された動きは「ごとごとしさ」を作り出して、最後にはそれが読まれ、墓穴を掘る事になる。
 具体的な細かな取り決めは必要であるが、それに捉われると、教条化することになり、そこに敗北という落とし穴が口を開けているのである。

 第四に、「構えない」ということである。居掛之術には、「構え」が存在しない。それは心法に云う、「心は鞘の裡(うち)」 というものであり、心の表出がないからこそ、構える必要がないのである。心より、「型」が優先してはならない。優先されるべきは「心」であり、型はその後に準ずるものである。

 型が「さま」になるのは、人生の辛酸を舐(な)め続けた苦労の後に来るもので、辛酸を舐めた者でなければ、第一、風格は備わるものではない。したがって、構えは、居掛之術では無用となる。
 わが西郷派の説かんとする戦闘思想は、その場、その時の、出会い頭の臨機応変性である。その為に、「構えは無用」としているのである。特に身構える必要はない。
 「構え」があれば、敵と対峙(たいじ)したとき、一見強いように見える。ところが、この強さは、武張ったところから出たもので、一歩尖先(きっさき)を突きこまれれば、それだけで機先を制せられてしまう。これでは身動きできまい。

 したがって、「構えは無用」なのである。
 本来武術の奥儀は、天地一体を本源としているところにある。天地一体がなされれば、その中の人間(じんかん)は、天地そのものとなり、天地からの神気(しんき)を受けて、滞りなくこれが流れる。この流れには、裏もなく、表もない。あるのは、ただ神気を素直に感じ、それに身を任せるだけである。これこそ、平常の型として、すらすらと流れるように表出するものである。取り決めた型ではなく、また、身構えた型でもない。

 この境地に達して、はじめて打太刀の仕掛に随(ずい)して、変幻自在となり、勝つことが出来、また、仕掛ざるも勝ちを得るのである。したがって、形体、手足、太刀の所法は作らなくて済み、無敵の境地が得られるのである。
 則(すなわ)ち「無敵」とは、敵対する敵が居ないほど強いというのではなく、自己に対する存在としての敵が居ないということを意味するのである。

 これこそ、武術では最高の教えとされ、「二次元相対世界からの解脱(げだつ)を説いているのである。
 此処に至れば、構えも、型も、技術も何一つ存在せず、また、こうした次元に心を捉われないことを云う。二次元相対の世界に、「心」を置かないことなのである。

 ここに「心」を置かなければ、二次元相対の蝸牛(かくぎゅう)世界から解脱(げだつ)でき、太刀の働きを幾通りかに自在選別し、これを封ずる稽古こそ、かつて古人が唱えた「地稽古」の妙であり、手足に癖をつけないことを云うのである。

 第五に、「諂(へつら)わない」ことを云う。
 つまり、「お追従をするな」ということであるが、これを武術的に云うと、「上意討ち」であり、一般に言う「下克上とは異なる。
 これは非常に大事なことで、「諂わない」ことによって、人間としての対等の尊厳と確立することが出来るからである。
 上意討ちとは、「対等の尊厳」の確立であり、例えば自分に課せられた処分などについて、不服を申し立てることであり、此処には毅然(きぜん)とした態度が必要とされた。世の中には、理不尽なことが多い。これに忍従して、何も泣き寝入りすることはないのである。

 昨今は同族と、同族が生き残る為に、不必要な人間に対し、「トカゲの尻尾きり」のようなことが平気で行われている。現代社会では理不尽なことが、実に傲慢(ごうまん)に、平気で罷(まか)り通っているのである。その代表格が、リストラという理不尽である。
 資本主義社会は競争原理により、利潤追求が第一と考えられているので、利益に満たない働きをしない者は、不必要と看做(みな)され、直ぐにクビにされてしまう。また、クビにされた方もされた方で、これについて一切の抗議をしないし、抗議を出来ない状態になっている。

 これはクビにする方もする方だが、また、クビにされる方も、ただそれだけの人間であったということになる。現代は、こうした小人(しょうじん)こそ、犠牲になりやすい時代である。

 しかし、かつての武家社会ではそうではなかった。自分に課せられた処分が不服ならば、その理由を堂々と問い質(ただ)し、それが間違っていれば、歯向かう事が許されたのである。
 武士階級にあっては、身分の上下なく、何処の場所に上がるにしても、「脇差の帯刀」が許されていた。

 この「脇差の帯刀」の意味は、今日ではあまり語られることがないし、この意味を正しく知る者は居ないようだが、武士が上下の身分に関係なく「脇差が帯刀」できる意味は、実は、間違いがあったり、不正があったりすれば、その当事者に対して、歯向かう事が許されていたからである。
 例えば、重役が居並ぶ中で、処分の言い渡しと、同時に切腹を命ぜられたり、討ち果たされるような場合でも、処分を受ける者は、脇差を帯刀が許され、また、歯向かう事が許されていた。脇差の帯刀をもって、抗弁できたのである。

 この場合、喩(たと)え相手が主君であっても、あえて歯向かう事ができた。また、歯向かい位の意地を見せた方が、良い態度として大きな評価を受けていたのである。この根底にこそ、身分の上下なく、諂(へつら)う事の「愚」を戒めているのである。

 ところが、今日の現代社会では、長いものには巻かれろ主義で、何事においても諂い、上役にベタベタして、お追従の一つや二つも飛び出し、負け犬的な日常を送っている者が少なくない。これは妻子などの柵(しがらみ)があり、また世間体(せけんてい)があり、捨てるものが多くあり過ぎるからだと思われる。恐らく捨てるものがなければ、諂いも、お追従も生じない筈(はず)なのだが、人間は世間体に振り回されると、つい、こうした愚行に趨(はし)るものである。

 この意味から考えれば、遥か数百年ほど前の古人の方が現代人より、より健全で、解放された自由な世界に生きていたということがいえよう。
 現代社会は、金・物・色が最優先される為に、人間関係が複雑になり、また、人格や品格は後回しにされて、会社に利益を齎す、強引なやり方で営業成績を上げる者を、「出来る人間」あるいは「切れる人間」と評価している。しかし、この裏には、諂いや、お追従のあることは明白な事実である。そして、不健全極まることは云うまでもない。

 しかし、こうした「諂い人間」の末路がどうなるか、諂い人間自身が分かっていないのである。
 それは上司に気に入られようとして、これに奔走することが、いかに見苦しいか分かっていないからである。
 かつての武士達は、主君に気に入られようとして奔走する態度を、「見苦しく、卑屈な態度」として軽蔑した。武士の風上にも置けないと、こうした態度は、たちどころに見透かされたものである。

 話は少し飛躍するが、労使交渉に関する労働組合運動において、この運動の形式が必ずしも、左翼思想でなければならないという謂(い)われはない。ところが、昨今の労働運動は、左翼思想で理論武装し、その実、内容は左翼思想の「さの字」すら見当たらない。所謂(いわゆる)これが、労働貴族の偽りの姿である。その典型がかつての日本社会党であった。
 こうした労働貴族の、走狗として動かされるのが、底辺の一般労働者であり、使途不明な組合費を取られ、その挙句に、無慙(むざん)にもリストラされてしまうのであるから、これと比較して、数百年前の武士の態度は、現代とは大違いであったわけだ。
 往時の武士達の生き態(ざま)は、遥かに今より清々しく、優れたものであり、一部の左翼作家が、階級闘争の舞台の場として標榜(ひょうぼう)するように、過酷な「武士道残酷物語」は存在しなかったのである。

 むしろ、現代こそ、宮使いする「サラリーマン残酷物語」の開催真っ只中で、現代人は、上司の理不尽に何ら反抗することなく、自らで自滅の方向に導かれている。喩え、自殺に追いやられたとしても、理不尽な上司に対してその遺族は抗弁することなく、会社相手に「労災だの」、あるいは逆に「自殺した人間の勝手だ」などといって、醜く裁判で言い争っている。これこそ不健全の限りではないか。

 本来ならば、「主従の関係」であるといっても、彼も人なら、吾(われ)も人であり、基本的には「対等」であるということが分かるであろう。この対等を否定したのは、近代資本主義においてであった。
 したがって、武門の日常もそうであるが、武術においても、「諂うな」ということは肝に銘じておかねばならない。武術修行において、忠義面(づら)などの「諂う行為」は以ての外なのである。更に、諂えば、それだけ敵と比べて出遅れることになり、こうした面にも迷いが生じるというものである。

 

●居掛の極意・居掛十儀

居掛による、「逆手(さかて)斬り」。敵の刃を流すことを大事とする。

 わが流の居掛で教える「術」を大別すると、次のように分類される。

第一儀
躰当
躰当(たいあたり)とは、敵の際に入り込み、躰で敵の心に当てる術である。左前一歩で吾が肩を敵の胸に押し当て、行き合う拍子にて心で懐(ふところ)に入ることを謂(い)う。二間、あるいは三間跳ね飛ばし、その隙に乗じて居掛けるのであるが、居掛ける前に敵を制することが肝心である。
第二儀
流水
居掛を躱(か)わされ、剣技の競(せ)り合いになった場合、この格闘にこだわらず、転進して敵の後ろを取り、流れるような速さで背後を襲う。これを流水(りゅうすい)という。
第三儀
電光石火
敵の太刀と、自分の太刀が烈(はげ)しく打ち合う刹那(せつな)、石火の打ちを行って、足・躰・手の「三つ処」をもって、先に切り抜けることを謂う。その烈しさは、電光石火(でんこうせっか)の如し。
第四儀
紅葉討
敵の太刀を打ち落とし、太刀を離すことを謂う。敵の心の迷いがあるとき、自分の太刀を烈しく打ち込み、尖先(きっさき)にて、討ち取る儀法である。紅葉が散るさまに例えた、これが紅葉討(こうよううち)である。
第五儀
秋猴身
秋猴身(しゅうこうのみ)というのは、機先を制して、敵に手出しをせぬことを謂う。敵に入身で機先を制し、敵が動く以前に先を読み、手を出す起勢を制するのである。
第六儀
多数之位

(わ)が身一身が、多数の敵に取り囲まれ、こうした敵と戦うことを「多数之位(たすうのくらい)」という。心は四方八方に配るが、躰(からだ)として敵と対峙(たいじ)するのは常に一人であり、一方に追い回す心を謂う。一方に多くを寄せ付け、それでいて追い回せば、一人を倒す事によって、全体が総崩れするものである。また、吾の後ろを負わせつつ、敵が充分に追いついたところで、振り向きざまに転身して、後ろを薙(な)ぎ払うことを言う。この薙ぎ払いは、「兵は詭道(きどう)なり」に準じるもので、「多数之位」では極意とされるものである。この多数之位を、「振り向き態(ざま)ともいう。

 この「振り向き態」というのは、居掛之術(いかけのじゅつ)でいう「蔭(かげ)を打つ」という儀法(ぎほう)に匹敵するものである。
  敵の吾(わ)が後を負わせ、敵は吾を影とも知らず、追い掛けて来る。つまり、敵は吾が影が「虚」と知らずに追い掛けているのである。そして充分に追い付き、「虚」に迫らんとした時、吾は「実」の正体を現し、振り向き態に恐怖を浴びせ掛けるのである。「虚」に深入りをさせ、深入りして来たところに「実」を浴びせ掛けるのである。

第七儀
三つの先
三つの先(せん)とは、第一が吾(わ)が敵に懸(か)かる「先」、第二が敵から吾に懸からせる「先」、第三が吾(われ)も懸かり、敵も懸かる「先」である。「先」は使い分けて、勝ちを得る。
第八儀
影を押さえる
敵の思惑が不明な場合、吾は強く出ると見せかけて後ろに引き、誘い入れては吾が方から打つと見せかけて、先に打たせ、吾が残像に打たせて、拍子を外し、「先」を取ることである。
第九儀
五つの先
五つの先とは、五法剣ごほうのけん/五行の剣)に持ちいる剣のことで、その第一は一刀両断、その大には右袈裟斬り、その第三は左袈裟斬り、その第四は半開による右切り上げ、その第五は半開による左切り上げである。
第十儀
浮舟
五法剣の最終段階をいい、これを浮舟(うきぶね)という。戦闘の場を延々と広がる大海に喩(たと)え、波が逆巻き、打てば返す、波が揉(も)み合うさまから、一旦逆巻いた波が、跳ね上がった瞬間に左から右へ真一文字を斬り、その刹那に剣を返して、上段から真下に斬りこむ真っ向唐竹割(まっこうからたけわり)を行う、二段構えの「術」を言う。

 以上の「十儀(じゅうぎ)」をもって、居掛の極意としている。居掛十儀は、防具に身を固めた道場稽古とは大いに異なるところである。防具を使っての、道場での打ち合いが上手でも、防具なしで、真剣での勝負となれば、道場稽古とは分けが違うものである。
 むしろ、野稽古であり、山岳戦での実戦を意識したものが「居掛十儀」というものである。

 道場稽古の多くは、「変わり身」と「機転の早さ」より、体力と運動神経のいい者が、上位を占めるようになっている。ところが、これが山岳ともなると、途端に勝手が違ってくる。滅びるときには滅びるものである。
 未来ばかりを夢見て、先を追う人間は、やがて滅びるべきして滅ぶものである。また多少、小知恵が利(き)いて、目先に聡(さと)くとも、「今」に生きていない者は、やがて滅ぼう。したがって、「今に生きる」ことが大事である。

 則(すなわ)ち、「今に生きる」とは、一瞬の刹那(せつな)を「今、この一瞬」に傾け、過去も未来もない、「今」だけに生きることを謂(い)う。捨身懸命であり、必死であり、死を超越していることである。これこそが、「必死」であり、必ず死ぬことであり、死ぬることによって、実は生きることを意味するのである。

 真の意味で「必死」を会得すれば、万事に至り、その修行は役に立つ。これこそが兵法の「実の道」である。
 しかし、世の中には、兵法など学んでも、実際には何も役に立たないのではないかと思っている人が多い。それは奥儀を極めず、中途半端に終わっているからだ。

 例えば、自国の国力が敵国の国力より、遥かに劣る場合、こうした状況下での開戦は、まず勝ち目がない。強弱を見極めずに、戦端を開いたのでは、自分の方に正義があり、その正義が敵国の不義を上回っていたとしても、これでは志を遂げることが出来ない。したがって、この意味からしても、「感情論」では勝てないということだ。
 しかし、正義論をぶてば、往々にして、これは感情論になりやすい。国防力の根底を成すものは、「大分の兵法」であり、感情論ではない。全体の生き死にが懸(か)かっている。状況把握して、力が同等でなければ、戦争をしても駄目であり、拮抗(きっこう)を保った状態においてのみ、戦いは、勝つ見込みが出てくる。所詮(しょせん)正義の戦いなど、感情論が先走った負け戦(いくさ)である。

 では、実際に「役に立つ兵法」とは何か。
 それは技術もさることながら、「心法」そのものに懸かった、心の世界のものである。この次元に至った場合、最終的には「必死」である為、心が左右することになる。
 何故ならば、如何なる武器を使っても、武力を行使するのは人間であるからだ。人間である以上、心の動きが見逃せなくなる。つまり、技術の上に、心を積み上げておかねばならないということである。

 イザという時に、見掛け倒しの大軍団を誇っていても、これが「烏合の衆」で、機能しなければ何もならない。心が伴わねば、見掛け倒しになりやすく、水鳥の音を聞いても逃げ出すような兵法者が、何万に居ても実際には使い物にならない。つまり、「役に立つ」とは、実戦経験があるということを指すのだ。この実戦経験者の拮抗が保たれているとき、初めて大分の兵法は役に立つ。

 これは「一分」も「大分」も同じであり、実戦に際して、○○道何段の猛者が、実弾の音で腰を抜かすということがよくあるのである。現世という、善悪渦巻く人間界を渡り歩く為には、机上の空論を労しても、何も役に立たない。技術の他に、「胆力」がいる。この胆力こそ、「心法」で培われた心である。胆力がなければ、イザというときには、何も役に立たないものである。

 「胆力」がものをいう場合は、「多数之位」においてである。多数之位こそ、道場稽古の上手を否定し、道場での技術が、実は実戦では何一つ役に立たないという、確たる証拠となる。
 兵法の道において、わが太刀を自在に使いこなせるものを「兵法者」という。決して、「剣術遣」とか、「飯縄遣(いづなつかい)」などとは謂わなかった。かつて、兵法者は「剣術遣」とか、「飯縄遣」と同等に扱われ、幻術(げんっじゅつ)を遣う「妖術使い」と称され時代があった。それは、剣術の流派が起る前のことである。
 しかし、剣術の流派が確立された十五世紀から十六世紀にかけて、剣の道に生きる者は、等しく「兵法者」といわれた。

 これは太刀による「徳」から来たもので、太刀によって自分の身を修めた尊敬から来たものである。更に剣を修めた者は、世の中をも治めることが出来ると看做(みな)された為である。
 また、この修得者は、「太刀遣い」だけではなく、武士の心得る「法」を知っているということで、これを「兵法」といったのである。

 例えば多数之位において、一人が多数を相手にする場合は、後ろに廻られないようにすることが大事で、敵に対して、常に動いているというのが、吾が態勢の大事である。一人で多数を相手にすることは容易でない。したがって、包囲されないことが肝心である。
 乱戦の場合、ものを言うのは太刀遣いから学んだ「胆力」である。胆力がなければ、道場での稽古上手と雖(いえども)も、あまり役に立たないのである。実戦から掴み取った体験と、剣技と、それに胆力がものをいうのである。居掛十儀の真髄は、此処にあるのである。

 

●こんこんと湧き出る泉

 陽明学の祖・王陽明(おう‐ようめい)の言葉に、「数町歩の水源のない池の水になるより、僅か数尺に過ぎなくても、こんこんと湧き出て、尽きない井戸の水になったほうがましである」というのがある。
 これは、「修行には終わりがない」ということを顕した言葉である。

 これは江戸期の陽明学者・佐藤一齋(さとう‐いっさい)も同じ事を言っている。
 「壮ニシテ学ベバ、老イテ衰エズ、老イテ学ベバ、死シテ朽チズ」
 これは精神の営為(えいい)であり、躍動する精神を顕している。実践してやまないことを指す。修行とは、実にこうありたいものだ。

 ところが、求道者は時として、中途半端に自惚(うのぼ)れて、その時点で自己練磨をしなくなる者が居る。
 人間は、誰でも自分を鍛えることをしなくなると、もう、充分に会得したような気になって、今までの遣り方でやっていれば、それでいいと思うようになる。そこにマンネリ化が起る。しかし、いま自分がしていることが、マンネリであることにも気付かない。
 これは日々の日常の中で、実際には毎日、私欲が生じ、机や棚(たな)に降り積もる塵(ちり)のような物で、一日、こまめに掃き取らないと、益々降り積もっているのに気付かないのと同じである。

 これは自己練磨を怠り、自分を鍛えることを放棄したからである。
 世に、指導者と呼ばれる者は多い。しかし、この指導者が、既にこうした自己練磨の怠りを遣っている者が少なくないのである。自分では、完成したと思って高を括(くく)っているのである。こうした、指導者こそ、率先して後進者の手本になるように、日々の稽古を怠ってはなるまい。

 自分自身を、しっかりと鍛えておれば、「道」に終わりがないということに気付く筈(はず)である。探求すればするほど、その奥深さに気付く筈である。故に、探求すればするほど疑問が湧き、「もう、これでいい」というところはない筈である。疑問は徹底解明されなければならない。こうした「求道(ぐどう)」こそ、指導者に課せられた課題である。

 求道の精神こそ、実戦を促して止まない原動力なのである。特に、指導者にあっては、こうした探求の原動力を失うべきでない。指導者として、「人に教える」ということは、自らが、改めて「習う」ということなのである。
 武術修行は、教えることで、学ぶという再疑問が、回帰・循環するようになっているのである。是非とも、こんこんと湧き出る泉の如き、求道の心を忘れたくないものである。

 居掛之術とは、単なる剣儀ではない。剣儀(けんぎ)をもって、小手先を競う術ではない。汲めども汲めども、汲みきれない、泉の如き、人間の心の裡側から発した「術」である。まさに、枯れない泉なのである。枯れない泉を前にして、ゆめゆめ汲み尽したと自惚れないことである。
 心が無限の広がりを持っているように、居掛に付随される「心法」も、また、無限の広がりを持っているのである。

 そもそも、「修行」というものは、非常に時間が懸かるものである。したがって、焦らずじっくりと時間をかけて取り組む必要がある。もともと、とびきり優れた人間というのは、極めて少ないものであり、一足飛びに達人や名人になれる者は居ない。
 志に燃え、発心(はっしん)し、それからが苦難の道が続く。躓(つまず)いたり、転んだり、立ち上がったり、また転んだりと、一進一退を繰り返しながら、進んでいくというのが修行の自然の有様であり、「重い荷物を背負って、遠き道を歩く」が如く、その足取りは遅々として進まない筈である。

 昨日出来たことが、今日出来なくなって効果が上がらないからといって、さも、効果があったように取り繕(つくろ)ってはならない。こうした無理を押し通すと、昨日までの修行は台無しになってしまうであろう。有りの儘(まま)が一番なのだ。

 一心に修行に励み、転んだとしても、それは恥にならない。また、起き上がればいいことである。転んだら、立ち上がればいいことであり、元気を取り戻して歩き出せばいいことである。恥なのは、人の目を欺いて転ばなかったふりをすることだ。

 武芸は、世間に注目され、世に出て、マスコミなどに騒がれ、有名になる為にするのではない。芸で有名になるのは、芸者のすることである。
 大事なのは、世に埋もれても悩まず、世に受け容れられなくても、決して悩まないことだ。確固たる信念で臨めば、修行の前途に立ち塞がる道は開けてくるものである。

 信念を失うことなく、粘り強く実践し、それが嘲笑されようと、非難されようと、侮蔑されようと、誹謗中傷されようと、あるいは賞賛されようと、そんなことには一切捉われてはならない。「こだわり」こそ、愚の骨頂なのだ。
 また、修行が進歩しようが、あるいは後退しようが、こうしたことは一切気にせず、ひたすら道を求めてやまないことだ。

 長い時間を掛けて、「わが道」を実践すれば、自然のうちに効果が出てくるし、また、外部や外野の罵声は気にならなく、心の動揺はなくなってくるだろう。この実践こそ、「心法」の妙儀(みょうぎ)なのである。
 着実に一歩一歩積み重ね、それに邁進することに自信が持てれば、人から誹謗中傷されたり、侮辱されても、その一つ一つが逆に自分の栄養になり、自分の「徳」を高める助けになろう。
 しかし、こうした修行を怠るなら、それは総て魔物と化し、自分を滅ぼす元凶になろう。

 泉が、溜池と異なって、枯れないのは、湧き出る「絶え間ない心」の働きがあるからである。この心が働いている以上、命は輝き、そう簡単に潰えることはない。どんなに窮地に陥っても、心が泉のように枯れなければ、決して無慙(むざん)に潰えるということはないのである。

 「心法」の詳細については、こちらをご覧ください。


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