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槍術を含み独特の体捌きを錬成する


会津藩の上級武士子弟が、イメージトレーニングの為に基本稽古を行った木馬 。


■ 西郷派大東流馬術
(さいごうはだいとうりゅうばじゅつ)

軽騎武装束での駈歩(かけあし)走行。この馬の御し方は、「やわらかく馬に乗る」という条件下において、はじめて可能になる。馬の動きに反して、速歩(はやあし)のように「イチ、ニ。イチ、ニ」と跳ねるのではなく、馬の背に張り付くというのが駈歩に課せられた乗り方である。

●馬を馭(ぎょ)すとは

 日本馬術と西洋馬術の異なるところは、その騎馬戦において、日本馬は本来、疾走中、目前にあるものは、総(すべ)て踏み潰して走ることが出来た。
 ところが、サラブレッドやアラブなどの西南アジア馬や西洋馬はこれができない。ウエスタン用に開発された、クオーター・ホース(アメリカで改良された馬)も同じである。
 西洋馬は足元に、異物が転がっていると、避けて飛ぶ習性がある。したがって、倒れている武者を、踏み潰して疾走することができないのである。そして、直進できないことが騎馬戦では、大きなハンディーとなる。騎馬戦は、直進する突進戦法が大きくものをいい、直進することで一気に、錐(きり)をもみ込むような凄まじさがなければならない。敵中を突破するにも、突進戦法が肝心となる。

 騎馬戦において、馬の習性は、即、勝敗を二分し、またこの欠点は、騎馬武者にも大きな影響を与えた。古来より、日本では、馬の、あの大きな巨体の中に、地上に倒れている敵の武者を蹂躙(じゅうりん)していくような強靭(きょうじん)な心を持った馬こそ、戦場においては「名馬」だとされてきた。
 だからこそ、「戦術」においては、戦う目的が明確にされたといえる。

 また、馬上武芸の兵戦で、最も大きな役割を果たしたのは、馬上から弓を射る「弓矢の術」であった。日本兵法史において、弓矢こそ、神代の兵戦として唯一存在し、弓矢こそ、武器の本質であり、一番古い武具であった。したがって、この時代においては、矛(ほこ)でも弯刀(わんとう)でもなかったのである。こうした武器に、武芸という職能者が出たのは、鎌倉期になってからのことである。
 それ以前の武士は、「弓取」といわれた。あるいは「弓矢取」とか、「弓取の家」と言われ、この時代の士道は、「弓矢の道」とも称されたのである。【註】士道武士道は異なるので注意。武士道の発祥は江戸中期以降である)

 時代が古ければ古いほど、高級儀法は存在しなくなる。原始人以来の戦闘は、必ず弓矢から始まっている。弓矢に象徴されるように、行動線は「直線」を辿るからだ。螺旋を描いて、それが新たなる行動線を示すのは、時代が下ってからのことである。

 戦場では弓矢をもって、これを「矢合せ」といい、「矢合せ開戦」から始まるのが、日本国内での戦争の最大の特徴であった。大和民族という日本固有の民族は、まず弓矢をもって、これを先祖伝来の武器とし、これを崇拝してきた民族である。

 しかし、時代が下るに随(したが)い、武器の象徴は、刀へと移行していく。 これが「打ち物」といわれる叩き合いの武器へと変わっていく。直刀から弯刀(わんとう)が発明され、源平時代には、打ち物は「白い武器」とか、「抜き身の武器」などといわれ、当時は「ウチモノ」としての役割だけしかしなかったようであるが、これがやがて鎌倉幕府の成立とともに、「斬る」と「突く」という要素が加わり、日本刀による馬上武術が発達するのである。これが馬上での太刀合となる。

乗馬に大切な股割・尻割の鍛練図(クリックで拡大)

 さて、西郷派大東流馬術では、太刀と槍、薙刀などを用いて重武装で戦闘を展開する馬術と、脇差と柔術を組み合わせた軽武装で戦う武術がある。
 軽武装は軽騎武装束で、武装し、馬を疾走させながら、敵に接近し、敵の馬を(ぎょ)す手綱や手頸(てくび)を捉えて、倒しこみ、あるいは落馬させて、討ち取る儀法である。また、こうした時に、遣う儀法が、「抜き手」であった。そして、「抜き手」の起りは、やがて柔術の「抜き手」へと変化することになる。また、「抜き手の術」こそ、「耶和良之術(やわらのじゅつ)である。

 「耶和良之術」に関しての参考文献は、www.daitouryu.netを参照のこと。

 では、「抜き手」は、誰に対しての掛け技であったのか。
 馬術は、本来騎馬侍だけが鍛錬するのでなく、徒侍(かちざむらい)も馬術を盛んに鍛錬した。これは騎士を馬から落とすためである。馬から落ちた騎士は、その時点で騎士ではなくなる。馬上しているときだけが、騎士なのである。落とされればその資格を失い、敵方の徒侍から首を討ち取られてしまう。

 徒侍が騎馬武者を襲う場合は、馬の背後から飛び乗り、騎士を落とすか、あるいは槍で下から騎士を突き刺すなどの方法で、騎士を襲う。【註】歩兵が騎馬兵に対して、下から上へ銃剣で突き上げる術は、まさに大東流槍術の「槍の突き」である)
 また、騎士の太腿を斬り付けたり、騎士の手綱(たづな)を逆に捕らえたり、様々な動きに出て、激しく襲うのである。
 一方、騎士は、そうはさせじと、返り討ちを試みる。その返り討ちの儀法(ぎほう)が、握られた手などを抜き取る「抜き手」であった。だからこそ、徒侍が、騎馬侍を追い落とし、自らが騎士になるその姿は、まさに「下克上」の見本であった。つまり、「抜き手」は上級武士に向けて指導された柔術の戦法といえた。

 柔術などの「抜き手」の儀法を馬上格闘で用いる場合は、まず、「いざり状態」にある下肢を安定させなければならない。上肢だけで馬上柔術を闘うと、躰全体のバランスを崩してしまい、直ぐに落馬する。
 こうした状態を防ぐためには、まず、「鞍っぱまり」を十分に稽古し、股割(またわり)あるいは尻割(しりわり)を鍛錬しておかなければならない。そして、「鞍っぱまり」の大事は、脚で馬の胴体を挟み、丹田の重心を下に落として、柔軟性を保つということである。これが十分にできるようになると、騎乗し、様々な歩様を行って、両手を離しても落馬することはない。

 わが西郷派大東流では、初段補以上の有段者に対しては、馬術も合せて指導しており、馬を馭(ぎょ)すことが、則ち、合気の抑えに通じ、「合気八人捕り」などの丹田で抑える儀法は、馬に騎乗し、丹田から発する意識と、脚の、馬を挟む儀法によって、徐々に合気に近づけると教えている。

西郷派大東流軽騎馬装の図(クリックで拡大)

 人間が行う行動原理は、力んだ状態では、やがて自らの力(りき)みに敗れるということである。特に、馬術においては、力みは禁物であり、柔軟性に心がけねばならない。更に、こうした「やわらかさ」が、馬を馭す時機の正しい歩様に現れてくる。歩様には、幾つかの注意点があり、銜受(はみうけ)、真直性、平衡、推進、リズムなどである。

 銜受は、馬を馭す場合は「手綱(たずな)の重み」で乗れと教え、真直性は騎士の脚が直接馬体に接し、この接触に応じて、馬は前進するのである。平衡は騎士のバランス感覚であり、このバランスをもって、騎士は推進と速度を自分の意のままに調節するのである。
 そして、推進には、推進力を加えるという騎士の意志を伝え、リズムは正しい歩様を馬に伝え、一定のテンポによって、均等な運動を行わせることである。

 また、馬の発進や停止、歩様(常歩・速歩・駈歩)変更や、方向転換ならびに速度増減については、人と馬の約束事である「扶助」(コントロールであり、騎座・脚・手綱を握る拳)による。これらの三種類を組み合わせて、馬を自在に馭すのである。
 馬は扶助に直ぐ随(したが)う動物であり、特に手綱による扶助は重要である。手綱は車で言えば、ハンドルとブレーキに当たり、うまに速度を加える、速度を落とす、停止させる、方向転換させる役割をする。

 馬術において「人馬一体」というのは使い古された言葉であるが、人馬一体こそ、最も理想的な馬上のフォームといえる。人馬一体になったとき、その動きは、騎士にとっても、馬にとっても最高の快調のフォームである。この動きこそ、柔軟性が齎(もたら)すもので、この柔軟性は、馬上体操などにより修得するものである。
 馬上体操は、やわらかさを目的とした、騎乗でバランスを保つことを目的にし、初めの内は停止した状態で行い、騎乗に慣れるに随い、常歩や速歩で行うのである。この常歩や速歩で行う馬上体操は、各流派で独特の秘伝を持ち、高級な柔軟性養成法として、それぞれに伝わっている。

 馬上体操の注意点は、手綱を引っ張ったりせずに、また、続けざまに行わないことが要点であり、自分の柔軟性の弱い箇所は念入りに行い、養成することである。馬上体操が、十分に行え、柔軟な姿勢が確保できたら、両手を開いての駈歩疾走があるが、これはそれぞれの流派で高級儀法となっており、「秘伝」となっている。

 さて、わが流では、馬術を一種の教養とみなしている。馬を馭すという自分の意志の働きは、単に「馬に乗れる」というだけではなしに、馬術を通じて、古人の「活人剣」にかけてきた、人の生かす道を模索することでもある。
 稽古事は、無心の状態から起り、この状態をもって、自らの心のキャンバスに人生の設計図を描いていく。だが、教養なくして、左右の道の選択や決断をするときの判断材料には使えない。正しい判断材料がなければ、人生の選択肢は誤ることになる。

 一方「無学」という言葉がある。
 今日では、無学というと、十分な教育を受けていない、教養のない者を指すようであるが、かつては学問や知識というのは、今日とは正反対の意味で使われてきた。本来の無学というのは、仏道の言葉を用いれば、「もう、これ以上、何も学ぶことがない」ということを、無学といった。則(すなわ)ち、これを仏道では「仏の状態」といったのである。

 今日では無学と称すると、是非善悪も判断しかね、滅茶苦茶で、知識の欠けた乱暴者などに無学という言葉を投げかけるが、本来はそれと正反対の、「仏の智慧(ちえ)を有した人間」を無学といったのである。
 そして、今日使われている無学とは対照的に、物事の理が分かり、知識を持っている者を、分別のある人間という。これを仏道では分別知というが、経験を積み、物事が理解できるにつれ、分別心が起きてくる。

 この分別心は、人のあるべき姿を作り、目指す姿を位置づけ、いつのまにかそれを固定観念で眺める状態を作り上げていて、結局こうした分別知は、手かせ、足かせとなって、分別心だけで判断するものの考え方が生まれた。
 しかし、分別心や分別知だけで、物事の真相が見えるだろうか。

 わが流は、分別心や分別知だけで物事を観察する「分別」を出来るだけ排してきた。何故ならば、分別は分裂をきたすからである。
 古人の培った日本武術を正しく後世に伝えていくためには、過去からの伝承を時代に合せて吟味し、取るべきところと、捨てるべきところを明確にし、取捨選択していかなければならない。あれも、これもでは混乱をきたし、やがて進路を誤る。したがって、取捨選択はその結果において、伝承から進み出て、これが「伝統」となる。

 伝統と伝承の違いは、伝統は過去から受け継いだ伝承を、その時代に合せて変化させることであり、伝承は時代の変化とは無関係のまま、過去を過去として伝えていく方式である。つまり、ここに働くのは分別心であり、分別知である。しかし、分別では物事の真相が見えなくなる。

 人間として、人類として、倫理の規範に照らし合わせ、これは正しい、これは間違っていると判定するのは、紛(まぎ)れもなく分別である。そして、判定を下す場合、判定が厳格に行われ、厳格度が厳密になれば、その判定も高度となる。多くに人の思考には、分別の概念が潜在している。これが先入観だ。
 また、敵意を感じて、こうした敵愾心(てきがいしん)が盛り上がれば、敵味方の色分けが濃厚になり、あいつは敵か、こいつは味方か、といった区別が生まれる。こうした区別も、分別から派生している。自他離別の行為である。

 そして、このように区別した先には、本来ひとまとまりであった筈の、人間集団が、大袈裟(おおげさ)に言えば、人類同士が、敵と味方に別れ、二分されて殺し合いを演ずることになる。
 正義のためとか、平和のためとかの分別は、結局戦いを生みやすい。これこそ、大きな「自己矛盾」である。多くの争いは、結局自己矛盾から起る。

 しかし、今日の武道界を見回してみると、分別を命と考え、曖昧(あいまい)さや分別のなさばかりを否定して、自らが、分別知の落とし穴に陥っていることも知らない指導者が多くなった。また、この世界では、他流や他派を、一種のあざけりに似た軽蔑心で見据え、他を揶揄(やゆ)し、こうした心を掠(かす)めつつも、自分だけが第一人者のような顔をしている。この「やけに冴(さ)えた自惚れの秀才面」は、しかし、何とも奇妙である。マイナーな武道雑誌には、こうした手合いが多く記載され、いっぱしの理論が記事にされている。
 こうした類(たぐい)は、真理に即する無分別を知らず、単に謙虚さを忘れ、分別知一点張りの欠点をさらけ出して居るといえよう。

 世間には、武道に託する何某(なにがし)かの期待がある。世人は、武道の「礼」に期待し、武道界もまた、何某かの自信を持っているように思える。しかし、武道界を広く見渡してみた場合、これは期待外れであることに気付く。
 武術界や武道界の、一部の本格的な少数派を除き、その殆どは例外なく、世人が期待する「礼」は、幻想であることに気付かされる。要するに、今日の武術界や武道界は、 世の良識者といわれる人たちを納得させる良識を持ち合わせず、「活人剣」を強弱論に置き換えて、「殺人剣」に変え、低級な技術的なレベルのみで、弱肉強食の競い合いをしているに過ぎない。

 「礼儀正しい」と自称する流派であっても、その集団や、組織の中だけしか通用しない、恣意的(しいてき)な習慣である「お辞儀」を礼儀と勘違いし、極めて狭義の意味での「お行儀」に成り下がっている。そして、集団ごとに、区別がはっきりと色分けされ、その実態は、組織内での規律であったり、規則であったり、単に、人の行動の自由を制限するための道具に使われているのが、今日のスポーツや格闘技の立場をとる武道集団の実態である。

 そこに、かつて古人が求めた「求道」とか、「精進」というものは完全に姿を消している。
 また、現代人の物質文明に汚染されて、根底に流れる価値観も、商い行為の、それが臭い続けている。
 現世は時代の移り変わりと共に変化し、物質的な欲望のみに振り回され、古人の培った武士道精神は、無用の長物となって消えていく運命にあるようだ。

 だが、後世の人間の為(な)すことは、それぞれの分野で、古人の遺産を正しく受け継ぎ、これを時代に即応したものへと洗練させていくことではあるまいか。
 わが流の馬術も、古人の遺した「柔術の妙技」を顧みて、共通点を模索し、馬を馭し、その中に臨機に変化させる、即応の儀法が宿っていると感得するのである。そして、これこそが「伝統武術」なのである。

  馬術は、旧会津藩においては上級武士が嗜(たしな)む武芸であった。また、騎士は上級武士に限られ、身分によって許された武芸であった。
 日本人が身分によって、それぞれに固有の、独自の生活圏をもって、生活している間は、あまり大きな混乱はなかった。そして、それぞれに独自の文化を持ち、その中で、身分に応じた生活態度は、それぞれが正しく機能していた。

 ところが、明治維新という革命が起り、佐幕と倒幕とが二分して、「維新」【註】フリーメーソン革命)と称した内戦状態が起ると、同時に西洋の考え方も、なだれ込み、日本固有の文化が崩壊していく。そして更には、太平洋戦争敗北などで、完全に身分制度が崩壊すると、かつての武家文化も、町人文化も、また、芸能界という、かつては河原者(かわらもの)などと蔑(さげす)まれていた芸能人たちの文化も、見事に入り乱れて、いわば型を見失った現状が、現代日本の姿になったのである。
 また、こうした入り乱れが、自他の境界認識であった、正しい接点の「礼」を崩壊させ、人の礼は、益々欠如しているのである。


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