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誇りの裏付けとなる数々の技法
飛礫術に用いられる丸い平面な飛礫石種(つぶて‐いしだね)。西郷派では、石種の形状と大きさをあらかじめ選別し、出来るだけ平面のものを選び、これに手を加えて、円形とし、更には中央部に、多少の窪みを付け、飛礫を投げた時機に、風を切るような感じに仕上げる。

 飛礫石種は、もともとが「石」であり、石そのものに武器としての要素は持たないが、これに投げ方を工夫して、投擲武器(とうてきぶき)として用いる。
 西郷派の「飛礫打ち」には、上から飛礫石種が縦方向・垂直に回転して飛ばす「上手打ち」と、飛礫石種を、横にして水平に横回転で飛ばす、「横手打ち」がある。そして、わが流では「飛礫を投げる行為」を「打つ」という。


飛礫術
(つぶてじゅつ)

●西郷派大東流の飛礫之術の概要

飛礫術は、古くは飛礫之術(つぶてのじゅつ)と謂(い)われた。その歴史は古く、既に上古代(じょうこだい)において傭兵(ようへい)達の立派な武器となっていた。
 「石を投げる」という行為は、戦場においての常套(じょうとう)手段で、飛び道具から始まる戦場では、弓矢の術の次に重く採用され、屡々(しばしば)石の投げ合いによって、開戦の火蓋(ひぶた)を切って落とすことも珍しくなかった。

 その後、弓矢の発明により、開戦の火蓋を切る場合は、矢の応酬(おうしゅう)による飛び道具から始まるようになった。
 また、これが鎌倉期に入ると、飛礫術の原型となる武技が、「石合戦(いしがっせん)という形で、出現することになる。そして、「石合戦」は、十六世紀の戦国時代、武士階級の最下位の足軽の子弟を中心にして、石の投げ合いによる遊びが流行することになる。

 石合戦において、銅鑼(どら)や太鼓や法螺貝(ほらがい)が、一斉に鳴り響くけたたましい鬩ぎ合いはないが、それでも集団戦法の、石での殺戮(さつりく)方法を習得する点では、それなりの効果があった。それは人間の頭部に命中したとき、大きな効果があり、しばしば即死するという状態が起った。

 「石合戦」は、下級武士の「下賎(げせん)な遊び」と称されたが、この石合戦に、少年期、悪童と言われた、後の織田信長こと吉法師(きちほうし)は少年時代、この石合戦を好んで行い、戦陣での多勢に無勢の戦い方を学んだと、『信長公記』には記されている。
 石合戦の戦いにおける戦術は、戦国武将の不可欠な要素と看做(みな)されていたらしい。

 この当時の石合戦は、河原で行われた子供の遊びであったのである。しかし、石を投げ合うことから、遊びであっても、当たり所が悪ければ、度々死者がでたといわれる。
 子供同士であっても、石を投げ合う行為は「残酷な遊び」である。これはある意味で、投石の威力が証明されたことでもあった。裏を返せば、「残酷」が威力の証明で得あり、つまり、この時代の「石投げ」は、武芸として洗練されていなかったことになる。
 スマートではなく、「礼の世界」が欠如していたといえよう。

 これまでの野蛮な石合戦が、武芸としての品位を帯び、礼法と礼儀としての「道」を見出すまでには、その後の、長らくの時間を待たなければならない。

 さて、「石合戦」は、残酷な遊びといえば、残酷な遊びといえようが、戦国武士というものは、現代人が見るテレビ他映画、あるいは戦国の戦記物の読本から想像するような、恰好いいものではなかった。また、甘いものでもなく、当然そこには、国取り物語を夢想するロマンスなど一切ない。残忍である。ただ残忍だけがあるのである。残忍こそ時の英雄であった。

 例えば、年端(としは)もいかぬに子供でも、犬の首切りを見たくらいで目を背けるならば、これ事態で、戦国武士の資格を喪失した。本来、武士はそうした風土に育ち、現実に剋され、血を見て怯えるような子供は、武士の気質を失った。斬首などの場に遭遇し、首を掻(か)き切られる光景を見ただけで、震え上がるようでは、その将来が危ぶまれた。
 こうした子供が、成長した暁(あかつき)には、どの程度の人間になるか、容易に予測できたのである。武士と名の付くものは、足軽も同様であった。

 この時代の足軽は、一種の傭兵(ようへい)であった。虫けら同様で、一匹や二匹、死のうが生きようが、大勢には影響がなく、したがって足軽自身、その武芸の腕前の程は高が知れていた。その為に、下級の傭兵らは、命を投げ出して、自分の主君の為に戦おうという気は起らないものである。
 戦場における足軽の役割は、集団突撃の際の前衛として、矢戦部隊や長槍部隊での捨駒的な役目を担当するが、更にもう一つは、掃討作戦による落ち武者狩りであった。つまり掃討作戦は、戦いに敗れて落ち延びる敵兵を追っての討伐である。

 その落ち武者の中に、身分の高い騎馬武者たちも混じっている。こうした、敵の身分の高い騎馬武者を、数人懸りで倒すのである。一人の名のある騎馬武者に対し、寄ってたかって、まるで追い込んだ獣を、狩をするような形で倒すのである。

 騎馬武者を倒す道具として、まず、石が用いられた。傷ついた騎馬武者に対し、寄ってたかって、徹底的にあるだけの石を投げつけ、騎馬武者が馬から堕(お)ちら隙(すき)に、槍などで突き、あるいは太刀で斬りかかった。
 馬から堕(お)ちた騎馬武者は、それだけで急に弱くなる。馬で蹴散らすことも出来ない。そして遂に捕らえられるか、首を掻き斬られるのであるが、そこまでの過程に石が用いられた。こうした場合の投石は、大きな効果があるものである。

 しかし、「石合戦」に遣(つか)われた石は、これを戦場に携帯するには大き過ぎる為、後に、掌(てのひら)の中に隠れてしまう、平面の丸石などが遣われるようになり、これは「飛礫袋」という袋に入れられた。普段は携帯に便利な「腰巾着」のように、腰に付けて置いて、必要な場合に取り出し、それを敵に向かって投げるという武技が発達した。

 この意味で飛礫術は、単なる投石とは異なる、武芸的な要素を帯びてくる。飛礫袋に納められる石は、あからじめ大きさを限定して、その基準に基づいて大きさ別に選(よ)り分けられた。こうして選り分けられた石を、「飛礫種(つぶてだね)」とか、「石種(いしだね)」といった。
 石種はその大きさにより、飛んでいく距離と威力が異なってくる。大きいものは長距離に適応し、小さいものは近距離に適応させ、その都度、使い分けた。

 長距離で用いられる石種は、掌に隠れる中でも最も大きく、遠くにいる敵に対し、こちらは姿を現さずに、隠れた場所から敵を倒す場合に遣われた。
 また、近距離戦で遣う石種は、比較的間合は遠いが、しかし、数歩で敵に飛び込める間合にある時機(とき)に、拇指(おやゆび)と人差し指を丸い輪にして、ほぼその大きさになる石種が用いられた。この場合、石種を投げつけて、これを「飛礫」として用い、それだけで敵を倒すというものではなかった。つまり、一種の露払い的な戦術の駆け引きとして「飛礫石種」を用い、その後、直ちに抜刀して、敵に斬りつけるというものであった。一瞬、怯(ひる)ませる為の手段として用いられたのである。

 ここに、戦いは「飛び道具」からという原則がある。戦いでは、自分の得意する武技は、一番最後に登場するものである。得意技は、一種の「切り札」であり、最初からこれを披露する馬鹿は居ない。
 したがって、最初は長距離の間合から様子を見る為に、投擲武器(とうてきぶき)が使われる。手頃な投擲武器になりうるものは、その場に落ちている「石」である。その他、自分持っている投げつけることの出来る物は、総(すべ)て投げつけ、敵が怯(ひる)んだ隙(すき)に斬りかかるというものであった。一種の不意打ちであり、フェイント的な戦術の駆け引きである。
 「飛礫石種」は、手裏剣とともに、実戦ではよく遣われた投擲武器(とうてきぶき)であった。

 さて、多くに日本人の時代劇感覚として、映画やテレビに見る時代劇では、飛礫術なるものは殆ど登場しない。一般的のよくある投擲武器のシナリオは、何者かが拳銃や短筒、あるいは弓矢などの飛び道具に対し、それを阻止する為に、遠くから飛礫を投げたり、手裏剣を打ったりなどの、極めてフェアーな感覚で用いられるものだけしか見ないようであるが、実は、武人が斬り合いを始める前は、様々な、ありったけのものを手当たり次第、投げつけ、その怯んだ隙を狙って打って出るものである。

 要するに、斬り合いの始まりは、刃(やいば)を合わせるのではなく、飛び道具の応酬(おうしゅう)から始まるのである。命を張って戦う以上、命を張った分だけ、命は安易に失ってはならない。失わない為には必死になる。
 剣術修行をしている武士でも、飛び道具、特に投擲武器の道理を知らなかった武士は、安易に命を落とすことが多かった。ここにルールに則した「フェアーな戦い」などというものは、実際には存在しないのである。
 また、それなるが故に、当時の武芸者は投擲武器をよく研究したものである。
 負けるということは、命を失うことであり、命を失えば、卑(ひきょう)も綺麗(きれい)もないのである。卑怯や綺麗などの、こうした評価は、大将同士の一騎打ちか、武芸者の決闘に限られていたのである。

 実戦の現場に居た武士達は、この事をよく知っていた。だからこそ、あらゆる方法を遣って身を護ったのである。
 また、「掛け砂」という隠武器もあり、あらかじめ砂袋に砂を用意しておき、間合が縮まった頃、これを敵の眼に投げつけ、目晦(めくら)ましをかけて初太刀を浴びせ、斬りつけたものである。
 考えれば、戦い方からすれば正攻法で、ここがテレビや映画の時代劇の「殺陣」とは大いに違っているのである。

 

●兵は詭道なり

 「手投げ武器」といえば、まず最初に思い出されるのが「投石」である。
 「投石」といえば、その構造は極めてシンプルであり、複雑な作りもなく、単に何処にでも落ちていた石を拾って、それを投げつけるだけである。しかし、投石は、極めて効果が高く、更には攻撃的で、石の原形を止めたまま、殆ど細工をすることもなしに遣える、手頃な攻撃武器であった。

 また、手投げ武器は構造が簡単であるばかりでなく、その効果も非常に大きい。手投げ武器には、投石の他に、「投げ棍棒(こんぼう)」といわれる棒切れを投げたり、あるいは投げ棍棒を多少高度に改良した、ブーメランを投げて、手元に戻すという巧妙な技術もあった。

 ブーメランの場合、もともとのオーストラリア原住民達が身に付けた、高度な技術を身に付けることのより、一旦自分の身に、この技を付けてしまえば、戦術的なメリットも大きくなるものもある。
 また、手投げ武器は、その威力を増す為に、射程距離を延ばし、その補助具として、「投石紐(とうせきひも)」や「投槍具」などが工夫・開発された。

 この種の武器は、火薬を使う飛び道具や、弓の蔓(つる)の張力を利用した弓矢などと異なり、威力がそれ自体に蓄積されていないので、投げる場合の威力は、投げる者の腕力に懸(か)かるという事である。

 そして、手投げ武器は、日本においては、それが手裏剣と投擲武器になったり、あるいは飛礫石種が投擲武器となり、そこに日本独特の礼法が持ち込まれ、これに「道」の修得的な要素が加えられた。
 飛礫術の場合は単に、それを人間に向けて投げ、投石した石で殺戮(さつりく)するという人殺しから、人を活かす、修練の「道」の要素を持ち始める。つまり、飛礫石種を投げることにより、それだけで敵に対し、敵の動きを制する役割が備わってくるのである。一種の警告のようなものであり、「これ以上深入りすると、ただでは済まないぞ」というような警告であり、戦いが殺し合いにまで発展する以前に、勝負を決めてしまう威嚇(いかく)である。

 また、飛礫石種の種類が吟味(ぎんみ)され、大きさや、その大きさに応じて飛距離が計算され、その飛距離、つまり敵との間合いにおいて、如何にすれば有効に、敵を制することができるか、こうしたものが更に研究されていった。

 武術の戦術として、いきなり組み付いたり投げに出るのは、「愚」である。また、戦闘開始となって、いきなり拳を構えて殴り合うのは、これも「愚」である。あるいは剣の斬り合いにおいて、敵の虚を突いた居掛による「抜き打ち」ならばともかく、刀をおもむろに抜いて、それで刃を交えるのも、やはり「愚」である。ここには「間合」の存在があり、間合の中での「駆け引き」であるからだ。
 つまり、術者と被術者の間には、その想定として「制空圏」なるものがあり、射程距離外では手合わせが出来ないからである。

 現代人は、喧嘩一つにしても、拳で殴り合うことが、その最もよき正攻法と信じ、ボクシング風、空手風、柔道風、その他の格闘技風の「様々な構えのポーズ」で構えるが、この「構えのポーズ」こそ、無用の長物である。構える前に、確実に相手の急所に飛礫を投げることが出来れば、殴り合いになる前に、これだけで相手の行動を制することが出来、これだけで決着が着く。

 制空圏外から、例えばプロ野球のピッチャーのような剛速球で、拳大の石を投げつけられたとしたらどうだろうか。
 頭部に受ければ即死であろうし、胸部や脇腹などの胴体の何(いず)れかに受けても重傷は免れないだろう。それでも果たして、その後、受けた傷を庇(かば)いながら、投げた相手に接近し、この相手を「殴る」「蹴る」「投げる」「倒す」「抑える」「絞める」などの技もって制することが出来るだろうか。

 実戦を知っている経験者は、決して構えることはない。「無構え」であるばかりでなく、まず、自分の体躯を半身にしておいて、闘わねばならなくなったと知覚するだけで、敵に物を投げつけ、怯ませ、怯んだ隙に、直ちに有無も言わさず勝負を決めてしまう。こうした状況では、大東流柔術の複雑な高級儀法も、へったくれも、何もないのである。ただ一瞬のことで、ケリが付くのである。「早き凄まじさ」だけが問題になるのである。これが「実戦」というものだ。
 こうした「詭道(きどう)」を甘く見るべきではない。

 実戦では、敵対する相手との「お辞儀」もなければ、「挨拶」もない。フェアーも、穢(きたな)いもない。闘わねばならぬと感じた瞬間に、即座に攻撃し、相手が吾(われ)の攻撃に気付いた時機(とき)には制している。
 戦いとは、かくあるべきもので、即座に襲い、即座に勝負を決めるとういうのが、実戦での「礼法」であり、これを長引かせない。「即決」である。この礼法に躊躇(ちゅうちょ)をする余裕はない。それだけ、戦いとは「非情なもの」なのである。これが「詭道(きどう)」といわれる所以(ゆえん)だ。躊躇すれば敗北するのだ。

 この「非情さ」を知らない者は、寝ぼけたことを言って、やれルールだとか、やれ物を投げつけるのは卑怯だのという言うが、これは畳の上や、板張りの上や、リングの上での闘い方しか知らない敗者の戯言(たわごと)に過ぎない。実戦の場合、死ぬか生きるかであり、ルールも、卑怯な振る舞いもない。敵を殺して生きる者と、殺されて死ぬ者の関係でしかない。
 その為には、「騙(だ)まし討ち」もあり、戦国期の武将・明智光秀(あけち‐みつひで)は、「武門のウソ」を「武略」と呼んでいる。
 「武略」は、生き残ってこそ、価値が生ずるもので、殺されては実も蓋もない。生き残ることが出来れば、局面においては負けていても、大局で勝つことができる。問題なのは、「大局で勝つ」ことだ。

 かつて桐野利秋(きりの‐としあき)こと、中村半次郎は、「人斬り半次郎」の異名を持ち、明治維新成就の為に奔走した、示現流の達人であった。そして「人斬り半次郎」の異名で懼(おそ)れられながらも、敵を斬る場合は、いきなり刀で刃(やいば)を交えるのではなく、周囲の物を手当たり次第投げつけ、それにより相手が怯んだ隙に斬り倒したのである。此処にこそ、人生を知り抜いた、「兵は詭道なり」の妙技がある。

 また、肥後熊本藩士で伯耆流の達人・川上(河上とも、あるいは高田源兵衛とも)彦斎(げんさい)は、佐久間象山(さくま‐しょうざん)を斬った刺客(しかく)として知られた凄腕の武士であった。

 川上彦斎の事を、哲学者・森信三(もり‐しんぞう)先生は、「稀代の暗殺の名人」と高く評価している。
 森信三先生といえば、京都大学哲学科で、かの有名な「西田哲学」の西田幾多郎(にしだ‐きたろう)先生から教えを受け、哲学者として著名な方であったが、その森先生が川上彦斎を「稀代まれなる達人」と絶賛しているのである。

 では、この暗殺者の絶賛の要素は、いったい何処にあるのか。
 それは、まず、森先生が竹刀剣道と真剣勝負の違いを上げ、「果し合い」での「命の遣り取りは、一体どちらが強いのか」という課題を持ち出し、竹刀剣道と真剣勝負の違いを挙げている。
 川上彦斎は、中村半次郎と並んで、「人斬り彦斎(げんさい)の異名を持っていた。

 川上は、道場内の竹刀剣術ではさっぱりだった。しかし、一度(ひとたび)抜刀して、白刃をひっさげた段になると、恐るべき威力を発揮したという。
 人が人と斬り合う幕末において、やはりこの時代でも、人は誰でも命が惜しいわけであるから、一旦、白刃を抜いて対峙(たいじ)すれば、蒼白(そうはく)になるのは誰しも同じことであろう。真剣で構える先の敵のみならず、それに応じた自らも脂汗が滲(にじ)み出て、互いが窮地(きゅうち)に追いつめられ、切羽詰った心境になるのである。

 こうした心境下、現代人がテレビや映画の時代劇で見る、大根を切るようなチャンバラとは大いに異なっている。チャンバラのような、ああした馬鹿な真似は、真剣勝負では絶対に遣らないものである。

 対峙(たいじ)した吾(われ)と敵の間には、激しい緊張が疾(はし)り、腕が同格ならば尚更(なおさら)のことである。対峙した互いは、ちょっとでも動こうものなら、もう、それだけでどちらかが血を吹いて斃(たお)れるのである。
 一度、白刃を抜けば、タダでは済まず、動いて、ほんの僅かに隙(すき)が出来ただけで、勝負が決まってしまうのである。

 人間は誰でも命の惜しいのは人情だろう。
 その為に、間合の取り方が問題となる。互いが充分に間合を取り、睨(にら)み合って動かない。何事かに吸いつけられたように、睨みあったままである。
 したがって真剣勝負の「果し合い」では、ボクシングで言う、ジャブのような軽い誘いはなく、ただ動かずに対峙しただけである。

 しかし、この「動かない」という姿勢は、大変に肉体を剋(こく)するもので、「剋」は「弱める」に通じるから、いつまでも動かずに居ると、剋されて、肉体酷使の状態になり、そこそこ精神力を鍛えた者でも、段々弱っていくのである。これがやがて「気力戦」に変わる。

 「気力戦」は、肉体を超越した心と心の戦いとなる。その為に精神的疲労は甚だしい。
 したがって、肉体ばかりでなく、精神力の弱い方は、段々弱ってきて、更に脂汗が噴出し、顔面は蒼白になり、弱った状態が克明になるのである。こうした状態は、道場内での竹刀剣道では絶対に見られない現象である。

 こうした状況下、川上彦斎が、一般の並みの剣士なら、絶対にこれくらい離れていては斬り付けられないという位置から、突然、大地を蹴るように間合の中に飛び込んで、地面と躰(からだ)がほぼ平行になるように、わが身を投げ出し、手を充分に伸ばしきり、敵を一気に切り倒したというのである。
 つまり、これは無駄なチャンバラをせず、ただ、間隙(かんげき)を窺(うかが)い、一瞬の隙を狙って一太刀で敵を倒してしまう、絶対に「やり直しが効かない秘策」であった。この川上彦斎の秘策を、森信三先生は、「稀代まれなる」という表現で絶賛しているのである。

 ここには、斬り合いはともかく、一つの人間の「人生に向かう考え方」としての暗示がある。命の遣(や)り取りをするには、人生を中途半端に生きていては叶えられるものではない。人生を真摯(しんし)に生き、塞(ふさ)がれた死の淵(ふち)から生還できる打開策を打ち出さねば、「九死に一生は得られない」のである。
 川上彦斎は、真剣勝負の中で、これを見事に果たしているというのである。これは、川上の人生が中途半端な生き方ではなかったということを物語っているのである。

 一方、川上に斬られた佐久間象山はどうであったか。
 西洋文明の物質面に魅(み)せられた佐久間象山は、西洋の優れている事を啓蒙(けいもう)した、当時の文化人であったが、彼は武術の腕前も、また、馬術の腕前も、彼自身、自負するほど、そんなに優れたものではなかった。それなのに、馬に乗るにも、これまでの和鞍をやめて洋鞍に換え、西洋かぶれに趨(はし)る甘さがあったのである。この「甘さ」が川上彦斎から斬られる隙を作った。ここに佐久間象山の暗殺される要因があったといえるであろう。

 「兵は詭道(きどう)なり」という。何度繰り返しても、言い足りない言葉である。
 この「詭道」という言葉を、武術家が忘れたとき、無慙(むざん)に敗北するのである。つまり、秘策を凝(こ)らして「必死に生きる」という姿こそ、人生には求められるものであって、普段から不摂生をやらかして、酒やタバコに趨(はし)り、美食を喰らい、その因縁で病(やまい)に斃(たお)れ、事故死することではないのである。あるいは安定した日々に安堵(あんど)し、ボケ老人として、アルツハイマー型痴呆症に斃れることではないのである。

 人生はやり直しが効かない。一度、この人生で命を失えば、再生することはない。それっきりである。この事に気付かせるのが、森信三先生は川上彦斎の「人斬り」の「刹那(せつな)という。この「刹那」にこそ、人間の「今」がある。「今」この一瞬を、懸命に生きなければならないのである。森信三先生が、幕末期の刺客・川上彦斎を高く評価するのは、「今」を生きた人間だったからである。

 実は、「飛礫之術」も、回帰すれば、この点に求められ、人生を生き抜く為の、形を変えた秘策であったといえるであろう。これこそ、まさに「兵は詭道なり」の諌言に回帰する。

 現代の時代に命の遣(や)り取りをすることは、「決闘罪」などの法律で禁じられているが、やはり「緊張し、切羽詰った極限」に、自分自身を置くことも必要であり、人生は緩急のあるメリハリで生きていく決意が必要なのではないだろうか。人生は、退屈であってはならないのである。

 馴(な)れ合いは、必ず身を滅ぼす元凶になる。常に、有事に対して備えておく緊急の態度が必要であり、そうした場合、単に「試合慣(な)れした考え方」や、「演武慣れした考え方」は排除する必要があり、人間はシナリオ通りに芝居を演じているのでないから、やはり芝居という感覚を超越し、「兵は詭道なり」という言葉の如く、常に、咄嗟(とっさ)に襲う異変に備えなければならないのである。

 兵法(ひょうほう)が「詭道」である以上、この「道」では、馴れ合いは成立しない筈だ。演武の、約束通りに、実戦では事が運ばないのである。「相手の力を利用する」あるいは「相手の虚を突く」などと言っても、力は利用されるものでなく、また虚はそう簡単に転がっていない。緊張した気力戦において、「触れる合気」など、夢のまた夢である。
 実戦では、そんなに簡単に、人間はポンポン投げられないのである。簡単に転げないのである。実戦に即し、馴れ合いから解放されなければならない。

 人間は、人生に間延びした退屈を感じたとき、そこで墓穴を掘り、事故死として、わが人生を終えることになる。わが人生に、息抜きの場面を作ったり、間延びした場面を作ってはならないのである。

 「兵は詭道なり」の、この言葉を地で行くのが「飛礫之術」であり、咄嗟(とっさ)に起こる異変を感知するには、異変が生ずる状態を、自らで体験しておかねばならないのである。この異変体験を感得する側として、制空圏外あるいは間合外から、不測の投擲武器で襲われた場合の善後策を打ち出しておかねばならない。不意打ちで襲われたときのことに備えて、備えていなければならない。

 「敵は襲ってこないだろう」という希望的観測こそ、墓穴堀の第一歩である。背後にも目をつけておかねば殺される時代に、現代人は生きているのである。これを怠り、殺される被害者は年々増加しているのである。ゆめゆめ、自分が犯罪とは無関係と、決して思わないことだ。

 一億総被害者になりうる現代において、不慮の事故に対処する善後策を講じた上で、万一犯罪に巻き込まれても、それに対抗できる「術」を身に付けておくことは、決して無駄ではないだろう。

 ちなみに西郷派の飛礫術は、飛礫石種だけにこだわらず、これは十円玉などの貨幣に応用できたり、碁石に応用できたり、ビール瓶の栓蓋(せんぶた)、あるいはその他の投擲可能なものに応用でき、例えば、相手とテーブルを挟んで対峙していて、諍(いさか)いが生じ、無理難題を吹きかけられて、闘わねばならなくなったとき、自分の前に置いてある湯飲みでも、グラスでも即座に叩き割り、その欠片で相手の眼に向けて切りつけ、それが躱(かわ)されれば、次に顔面に向けてそれを投げつける「術」も、一種の飛礫之術であり、普段はこうした「術」は使うことがない状態が好ましいが、昨今は世情不安に付き、こうした「術」を「切り札」として覚えておいても無駄ではないであろう。無慙(むざん)に命を失わない為に。

 西郷派の飛礫之術で用いる飛礫石種は、直径が5〜6cmで、5〜60gくらいの鉄分を含んだ平石が適当であり、平面の円形で、真ん中が少し窪んだ物が最適である。これだと飛距離もあり、単にソフトボール大の石を投げるより、標的に当たる命中率も高く、投げて「伸び」があるのである。
 「打ち方」の理想からすると、直径が5cm程度、厚みが7m前後で、中央部が多少へこんだように細工し、重さが60gの物がいいようだ。

 あるいは、こうした大きさの瓶(びん)の蓋(ふた)にセメントを詰めて乾かした物も適当であろう。あるいは粘土の乾かした物でも応用が利くが、重さを考えた場合、粘土では乾燥に伴う質量の減少で、やや大きめの物となり、些(いささ)か携帯に不便な面もある。そこで別途に鉄板片を加えて重量を増やすなどの手を加える。また、飛礫石種の形としては、中央部がややへこんだ物が打ち易く、風を切って飛んでいくイメージのあるものがよい。
 これらの重量については、「打ち方」を研究していく上で、徐々に、自分に適合した物が見つかる筈(はず)で、打ち方とともに研究していく必要がある。

 西郷派の飛礫之術は、その打ち方として、上から飛礫石種が縦方向かつ垂直に回転して飛ばす「上手打ち」と、飛礫石種を横にして、水面を駈けるように水平に、横回転で飛ばす、「横手打ち」がある。
 「上手打ち」は垂直に標的を切り割く場合打ち、
「横手打ち」は標的を真一文字に切り割く場合に用いる打ち方である。特に、風上から風下に投げる場合は追い風に乗って「上手打ち」を行い、逆に、自分の方が風下に居て、風上の敵に投げる場合には「横手打ち」の方が有効である。
 何故ならば、風の吹き付ける波動に乗って、下から「浮いたようになって飛んでいくから」である。こうした特別の動きをする、飛礫石種はこれ自体が殺傷の武器でないのにも拘(かかわ)らず、その動きの変改において、敵を撹乱させるのに十分な効果があり、威嚇(いかく)の武器としては効果が大きいものである。

 飛礫は、敵の攻撃の機先を制し、「深入りすれば、タダでは済まない」と言う威嚇(いかく)において有効であり、敵への警告としての抑止にもなるのである。そして、飛距離と命中率を上げる為には、とことん研究し、手裏剣の稽古と同じ、「万打自得」の心構えが必要であろう。


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